2010年3月31日水曜日

To Brooklyn Bridge (7); (1/2)

And obscure as that heaven of the Jews,
Thy guerdon . . . Accolade thou dost bestow
Of anonymity time cannot raise:
Vibrant reprieve and pardon thou dost show.


だから、お前、聖なるブルックリン橋よ、お前が僕に、僕の日々の労苦の代償として与えてくれる報酬は、(毎日苦労に満ちた仕事に耐え、天上の至福の機会を奪われ、地上に堕ちて参り、また翌日は、勇気を以て、持てる力のすべてを尽くし、すべての罪が赦されるかと、地下鉄の、また、地中のあの煉獄から飛び出して、騎士として獅子奮迅の活躍をし、たとえ人に嘲笑われようとも、橋の上から身を投げ、自らの死を以て神との契約を履行して蘇る、勇気ある行いに日々身を委ねて来たのだから)、だから、ユダヤ人達の天国、その天空と同様に、薄明にあるように、明るく暗く、暗く明るいのだ

そう、どうか、お前、聖なるブルックリン橋よ、騎士の名誉を叙勲することを、僕になし給え

そうやって海に身を投じて名前がない、無名の存在であるということから、時間は何かを実際に現実に生起させ、勃起させることはできない。つまり、

このドクドクと音の聞こえるような生きた心臓の脈拍の、その血脈の流れ打つ男根の、しかしまたその分だけ、まだ自然と調和をしている分だけ、延期され、猶予されている死刑執行に、刑罰を受けること無く、罪が赦されることを、人為の文字で書かれた法律ではなく、お前、聖なるブルックリン橋よ、神の御名において、僕に示し給え


僕は、そうやって、一途に、ただただ日々無名な存在に徹して来たのだから。


[註釈]
(1)第5連から第7連は、これまでとは別の意味で特別な連の集合です。この3つの連では、詩人は時間を濃縮する、第9連に詠っているように、condense eternityを実際に行い、この詩全体の時間を捨象し、詩化することを行っています。

(2)第5連、第6連、第7連と、これで一つの環を成して、因果の連鎖ではない循環を醸成しているのです。これらの連が、Brooklyn Bridgeの礎石、橋桁で、あるいは、海とその海底、または土地とその地下なのであって、これらの地下の循環が0階であり、その上に4階立てのwhite buildingが立っているのです。ですから、この第7連は、必ず、第5連に関係し、第5連の夜明けの時間と、そこにある文字、概念、形象に戻って行く筈です。そう考えて、この連を読んでみましょう。

(3)最初のobscureが、dawnの暗さを、真っ暗ではないけれども、薄明の暗さを表しています。それと、ユダヤ人の運命とが、その天国のobscureという状態と合わせて言われ、つまり、ユダヤ人達の願いを神は、叶えないと嘆くのではなく、そうではなくて、むしろそのような状態のときにこそ、神は願いを叶えてくれるといっているのです。それゆえに、the Heaven of the Jewsではなく、that heaven of the Jewsと、heavenが、極普通の小文字の綴りになっているのだと思います。普通の天国と、日々の朝の夜明けの空の色を。

(4)形式的にみると、第2行目に[. . . ]とあることに着目して下さい。これは、この詩の中では、いつも沈黙、深い沈黙として使われる。その沈黙の意味を、それぞれ構造的に関係する連から再び採って、しつこいようだけれども、関係がよくわかり、今までの経緯がよく解るようにと、( )の中に訳し入れました。

つまり、[. . .]の後に、必ず、第2連のならば、天上の至福の機会を奪われ、地上に堕ちてくるか、第2連と対になっている第10連にあるように、すべての罪が赦されるか、第5連のように、ドンキホーテのような中世の騎士として、ひとに笑われながらも(実はこの笑う人の中には、第6連で解釈したように男色者の仲間の笑いも隠されているのですが)、地中の煉獄から飛び出して、橋の上から身を投げ、自らの死を以て神との契約を履行して蘇る、勇気ある行為に出るか、そのような変換を、[. . . ]は、意味しています。

(5)上記(1)であらかじめ述べたように、やはり、Craneは、この第7連で、第5連の騎士の道に戻り、その時間、早朝の仕事に出掛ける、朝の薄明の時間、地下鉄で通勤をしている形象を更に抽象化した形象に戻って、橋を掛けていました。

(6)第5連から第7連は、これでひとつの小宇宙をなし、時間が濃縮されて、そのあとで、Brooklyn Bridgeは、第8連から第11連まで、一気に高層のbuildingとなるのです。この詩的小宇宙は、上の(2)に述べたように、同時に地下の煉獄でもあり、その男色の行為は、アセチレンガスの炎の白い歯がその一物を焼くのですが、またそれは、詩人の避難場所、港でもあるのです。そして、一時的な待避所である限り、ひとがそこで救われることはない。

(7)その中心にあるのが、この一行、

Of anomymity time cannnot raise

です。

これは、Craneの、詩人の、少年の純潔です。無名性に徹すること、小文字の世俗の聖杯探究などせずに(Chaplinesque)、sidestepを踏むこと、a long stepは、Brooklyn Bridge、神に任せること、そうでは、ないでしょうか。

(同時に、こうして今までのところを読んで来ると,Brooklyn Bridgeの stride、すなわちa long stepは、a long mast、即ち、a long penisであり、そうすると、これに対比して、僕達のsidestepは、その動き、すなわちそのそそり立つマストのmotionに合わせたsidestepを踏むside-penisだということを、隠しながら、しかし、そっと露わに言っているのです。また、何故raiseに目的語が無いのか、the dessert white, the fury fused!、敢えて視界の境界線を明確にしなかったのです、実に明確な理由によって、すなわち、男根を勃起することも暗に、明に含意させむがために。)

これにより、またこの一行によって、Craneは、この詩から、時間という因果の連鎖、the chained bay watersを解き放つこと、僕達を自由にせむと、毎朝自らの勇を鼓して、橋から身を翻し[毎朝実際にブルックリン橋を渡ってマンハッタン側へ行き(貧しい側からお金のある場所へ)、日中は死んだ人間として、死者として働き、夜は船の避難所、港、すなわち男色に耽ったのです(ああ、いづれも地獄の苦しみ!)]、聖なるブルックリン橋という帆船の上から、海の中へ。自らの命と引き換えにしても護るべきもの、それが、この一行であったと僕は思います。少年の柔らかな心臓の音。What blame to us if the heart live on!(Chaplinesque)あなたには、聴こえますか?

さて、また、そうすると、第1連のthe chained bay watersのchainedも、何故chainedなのかが、これまでの読解でよく解るようになりました。それは、鎖に繋がれた牢獄にある囚人の形象でもあり、地下鉄のscuttle, cell or loftで、夜毎夜毎に男色に耽り、そこから脱出することのできない(なぜならば、それは避難所であり、港だから)もの達の形容であり、そうして、こうなると、このchainedには、煉獄の炎に焼かれる灼熱の肛門性交をする男色者達の複数の人間がそれを繋がって行う性交のchain(連鎖)でもあるのだと思います。

この最後の僕の解釈は、最後に残る第8連の翻訳と、その後で、もういちど第1連に戻って、訳し直すときに、説明を施しますので、それを読むと納得して貰えると思います。何故ならば、第11連には、aという男色の形容詞と不定冠詞があるからには、第11連に対応する第1連は、同様に、同じ形象を含んでいる、あるいは隠されている筈だからです。そのひとつが、ここにいうthe chained bay watersなのです。それ以外の形象についても、そこで説明をします。驚くばかりのCraneです。

実は、aのみならず、someも男色を表す言葉として、その根拠も、曖昧なところなく、実に明瞭に使っているのですが、これについても、第8連のところで詳述します。つまり、2、3、4、5という連、すなわち、白い鴎の翼の群れの、神の形象を眺めることのできる天上から地下(煉獄)へと、エレベータによって堕ちて行く、この一連の連に、すべてCraneは、someという形容詞を、何食わぬ顔で忍ばせたのです。そうやって、男色の煉国へと、死者として毎日辛苦する、ウオール街の仕事の、ビジネスの世界へと堕ちて行くのです。

そうして、何故第11連にsomeをおいて、第1連に措かなかったのか、それは、この第11連から第1連へは、大きな循環が戻る、回帰する接続関係にあるからです。つまり、堕ちて行くのでは無く、そこから連続の悲連続、非連続の連続をなして、上昇する連であるからです。その切っ掛けをなす第11連にsomeを措き、第1連では、この大きな回帰を、"Shedding white rings of tumult"と詠い、shedの意味に掛けて、肛門を貫く(penetratingする)ことなく、一本の白い歯の炎に焼かれて傷つけられて血を出したりすることなく、流れるように橋を旋回する鴎の翼の群れの純白の色の神聖な形象を詠んだのです。詳細は、次回以降にします。

今まで、こうして、言わば表の訳をして来たのですが、ことここに至ると、もう、裏の訳も十分にすることが、僕はできます。第8連を論じ、これで第1連から第11連までのすべての連を見ることになりますから、その後で、第1連にまた大循環に沿って、Craneの描く鴎の白い翼の群れに倣い、旋回をして、第1連に戻り、そこからまた、すべての11連を表と裏で訳出してみせましょう。驚きの連続です。

(8)前置詞のofに触れることにします。
Craneは、To Brooklyn BridgeのToど同様に、ofに明瞭な価値を、表現の上で、割り当てていると僕は思います。これは、ソフトウエアの技術者ならば、allocationというでしょう。意味の価値を割り当てる。

Toについては、ある程度、今までのところで既に触れましたので、ここでは、ofを論じます。しかし、ここに生きている感覚、sense、実感は、toとほとんど変わりません。
それは、全体があり、それはよく眼に彷佛としているが、詩人は、敢えてその一部としての自己を、これらの前置詞に措いているということなのです。

これは、第2連の "as apprational as"に対応しているのだと思います。神の神聖なる空間の領域を、詩人が見るかどうか、いや見ているけれども、その境界線は、揺れるのです。固定していない。このような実感が、これらの前置詞に現れていると思うのです。

その典型的な例は、この第7連の

Of anomymity time cannot raise:

この1行のOfです。

それから、続く、第8連の

O harp and altar, of the fury fused,

そうでなければ、普通には、こうかく筈です。

O harp and altar of the fury fused

それに、the fused furyではなく、やはり同じ意識の連続で、形容詞をここでは後に措き、the fury fusedとしていますので、なおさらです。

普通は、ofという前置詞の前には、ofの後に来る名詞の部分が、ofの後には、そのofの前に来る名詞の全体を表す名詞が来ます。しかし、そうではないので、そうではないがゆえに、ofなのです。ofの後には、全体を示す名詞がいつも来るとは、Craneの場合には限らない。なぜならば、of the fury fusedというように。the fused furyならば、それは確定し、固定された全体ですが、ここでは、そうは、ならないのです。"our eyes as apparitional as sails that cross some page of figures to be filed away"を思い出して下さい。

やはり言葉の基本に戻って、辞書をひきましょう。下記の(12)にWebsterを引用しました。御覧下さい。これをみると、こうなります。

Of anonymity time cannot raise:の訳は、

(1万文字を超えました。以下明日に続く。明日論ずることは、Craneの、言語に対する本質的な理解と、それ故に、何故このように多次元的なcontextをひとつにまとめることができているかということを説明します。あるいは、解釈でしょうか。註釈で本質を説くというのは、いかにもCraneらしい。)

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