2010年3月31日水曜日

To Brooklyn Bridge (2) version 2.0

今日は、To Brooklyn Bridgeの第2連です(version2.0)。


Then, with inviolate curve, forsake our eyes
As apparitional as sails that cross
Some page of figures to be filed away
------Till elevators drop us from our day . . .

と、鴎の群れなす翼は、無垢の曲線を描いて
僕達の視界から身を翻し、視野の外へと向かい
カリの立派な,鰓(えら)の帆掛けた一物が幾つも
オフィスで立ち働く人影の、成年前のお稚児さんの給仕職と交わり
数字の記入されたあるページを帆船の帆が、これも幾つも、その紙の上を横切り走り
前者ならば法的に訴訟となって簡単に整理整頓され、後者ならば事務的にファイルされてこれも簡単に整理整頓されて
これをしも夢幻とやいはむ
これらの夢幻の起こるに任せ、幻視の見えるにまかせて、鴎の群れなす翼は、無垢の曲線を描いて僕達の視界から身を翻し、視界の外に出たり入ったりする
それも、一日の仕事が終わり、エレベータがついには僕らを地上へとよくも堕(お)としてくれるまで

[註釈]
Craneは、縁語と連想の達人です。
ここでも、つぎのような言葉遊びをしています。
(sails, cross, some page)
(sails, cross, some page of figures)
(sails, page, file away)
(sails, figures, file away)

それから、後の連の縁語として、やはり、fileがあるのです。Websterによれば、
fileとは、string documentという意味ですから、

(1)第8連目のモHow could mere toil align thy choiring strings!モの"strings"
(2)第9連目のモBeading thy path -----condense eternity:"の"Beading"

それから既に訳した
(3)第1連の"the chained bay"と第4連の"across the harbor"の"the harbor"



そうして、更に、この(2)第9連の"eternity"は、第10連の"an iron year"の"iron"の形容の根拠となっている、何故1年が鉄の1年か、そのironの比較の規準であるという連鎖があるのです。大したものだ。

それから、第3連の"disclosed"と第6連の"leaks"も縁語です。

まだ、第2連目しか読んでいませんから、まだまだ、これから、Crane流の、実に精緻な、そうしてeroticな着想の連鎖、高級な、概念の言葉遊びが幾つもあることでしょう。

この第2連の上に述べた言葉遊びは、次のようなものです。

これは、多分船乗り、水夫の世界での性的な比喩、隠語であり、皆よく知っているものなのだとわたしは想像していますが、帆船が風を孕み(ほら日本語だって、もうそうだ)、帆を高く掲げるのを、男根が大きく膨張する様に見立てているのです。この比喩は、ETA Hoffmannというドイツの作家が書いた高級なポルノ小説の冒頭に出て来るので(ホフマンは、昼の本職は裁判官、夜の正業は小説家という人でしたから、船員の訴状があれば、そのようなことを知ったのかも知れません)、それがドイツ語で書かれていても見事なもの(という意味は嫌らしくないもの)でしたから、今だに覚えているのです。しかし、Craneは、それを表には出さず、むしろ隠して、オフィスで昼間働くメッセンジャーボーイの類いのまだ10代の子供のpage(パージュ)と、オフィスの台帳の数字のpage(ページ)との言葉を掛け合せて(と来ると、このような連想そのもの、言葉の掛け合せそのものが精神的に性的な意味を帯びてくるのがわかります)、figuresも、そのようなオフィスで立ち働く人の姿と数字のふたつの意味を持たせて、幻想なのかどうか、男色と、書類と、それぞれ、法的にファイリングされることと(法的な訴状をファイリングする)、事務的にファイリングされることとの、掛け言葉を遊んでいるのです。awayには、少し,恐怖心も、わたしは感じます。

また、"to be filed away"という、この受動態の不定句の形式を借りて、商業的な、つまりビジネスの、そうしてまた契約書の文体そのものを模して、使って、このように言葉遊びをし、そのような文体そのものをからかいながら、同時に性的な意味も十分過ぎる位に含意させながら、大切な意味を2重にして伝えると言うことを、Craneはしているのです。これを、Craneは、"dally"といっているのですね。そのCrane用語の意味が、ここで、よく解ります。

そうすると、Chaplinesqueという詩で,何故次のように詩人は詠ったか、それは、こうしてこの詩と併せて全体を眺めはじめると、実によく解ります。まったく、"Dally the doom of that inevitable thumb"です。

We will sidestep, and to the final smirk
Dally the doom of that inevitble thumb
That slowly chafes its puckered index toward us,
Facing the dull squint with what innocence
And what surprise!

Dallyには、"to act playfully; especially : to play amorous"(Webster)というように、性的な含意があります。Amorousとは、同じ辞書で"strongly moved by love and especially sexual love"とあります。これは、また米国の詩の歴史の中では、Whitmanというアメリカの詩人が詩の世界で概念化した用語でもあるそうですから(これは、わたしが今読んでいるCraneの詩集の序文の解説者、Harold Bloomの説明によります)、Craneはそのような文芸の歴史にも、こころの安定を求め、その上で、この複雑精妙、しかし実に単純で美しい世界を現出せしめているわけです。

さて、この第2連で、如上のことを可能にしているのが、"as apparational as"とある、この言葉、特にその中心にある"apparational"という形容詞です。この形容詞でなければ、上記の2つの意味を重ねあわせることが難しかったことでしょう。それに、これが副詞ではなく、形容詞だということに、この品詞の選択に、Craneのsenseが宿っています。形容詞であるために、この意味上の主語が、"our eyes"であるように読めるからです。僕達の目に見える夢幻、しかし、その幻視の境界線は、鴎の白い色の群れの流れ、分ち分たずブルックリン橋を巡って旋回しているその指環に左右され、その女神の姿に影響されているのです。

この同じ形容詞の使い方を、全く同じ構造で、Craneは、ある詩の題名にしています。それは、Garden Abstractという詩です。この詩の題名が、Abstract Gardenでは、境界線が固定していて、動きません。しかし、この語順を逆にすると、Garden? What kind of garden?ええ、今は、この瞬間、現在はabstractという性質をもつgardenなのですと答えることができる、そのような庭なのです。同様に、apparationalという形容詞も、形容詞であるがゆえに、今目にしているその人たちの("our eyes")の眼前にある、ある状態の形容なのです。さて、その形容詞は何と言う名詞に掛かるのでしょうか(思わず、架かるのでしょうかと書くところでした)。それが、"our eyes"、そして、"our eyes"は、純潔無垢の鴎の翼の群れなす自由の女神が、その"our eyes"の行いに応じて、窓から眺める視野の内と外を出入りするのです。僕達の視界の境界線は、揺れ動くのです。

一日の労苦が終わり、エレベータに乗るわけですが、"drop us"の"drop"には、いかにも一日の仕事に疲れたという脱力感と、それから、それまで、Brooklyn Bridgeの鴎の白い神の姿が窓から眺められたのに、それを喪失するという感覚、堕落して落ちて行くという感覚、そうしてまた同時に、物理的に地上に戻るために落ちて行くという、このような複雑精妙な含意があると思います。言葉の表現を味わうというのは、このような表現を味わうということなのでしょう。

最初の日の説明に、Craneによる箴言の引用をしましたが、善と悪との境目を縫い、地下で行き来をし、昇り降りをする、そのような、サタンと同様の苦行の一日の仕事が終わって、そうして、地上から天上へとエレベーターで落ちてくる、Brooklyn Bridgeの幻視の世界、高見の高層の白い構築物のあり得る世界から、まっさかさまに上から下へとエレベーターに落とされる。

See you , then, TO Brooklyn Bridge next time!

追伸:こんなに、何も知らないのに、ただただ辞書を引き読むだけで、つまり、言葉の側からだけその詩の中に入っていって(僕は礼儀作法に反して、Craneに不躾な態度をとってはいないだろうな、要注意だ)、Hart Craneと言う詩人の詩のことが、その感情とともによく解るのは、僕も精神的には確かにheterosexualではなく、homosexualだからなのだろうな。確かに女性と一緒にいるよりも、男性と一緒の方が安心感がある。つまり、このような言葉が通じるのです。それは、そうだ。となれば、男はみなホモセクシュアルだ。精神的な男は。

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