さて、昨日に引き続き、今日は、Chaplinesqueのタクランケによる、散文訳の全訳です。今日のページの最後の追伸2にあるように(そうして、わたしはこの解釈の方が正しいように、訳し終えた今思いますが、それでもなお見直して、このブログの上で手を言えることにします。
Chapinesque
チャップリン様式(自分一人の様式ではなく)
Chaplinesqueのタクランケによる、散文訳の全訳(version1.2)です。
We will make our meek adjustments,
Contented with such random consolations
As the wind deposits
In slithered and too ample pockets.
僕らは、決してほめられたことではないが、しかし、景気の風や人の機嫌の風の吹き廻しで、ブヨブヨ、ヌルヌルの金持ちの財布、今だって唸るほどありあまっているのに、それでもまだ入る、そんな財布やポケットに、お金が溜まるにあわせて生まれるその場凌ぎの慰めの言葉と戦いながら、そんなことばに魂を売るまいと、僕らのような人種に特有の、優しい、そして人を恨むわけでもなく忍耐強い、誰のためでもなく、しかし規則正しい解決を図ろうとする。
For we can still love the world, who find
A famished kitten on the step, and know
Recesses for it from the fury of the street,
Or warm torn elbow coverts.
僕らは、世界をまだ愛することができるのだから、階段の途中に、
昇ろうとしたのか降りようとしたのか解らないが、しかし、その途中でもう腹を空かして飢え死に寸前になって動かない子猫を、誰か見つけてくれないか、見つけないことはないだろう、そして、こいつのために、お金儲けの事業で喧(やかま)しい表通りのビジネス街の怒りから、幾らでも避難場所のあることを、誰か知っているだろう、その筈だ。そうでなければ、暖かな、ボロボロの服を身にまとい、それでもいいから(”襤褸(ぼろ)は着ててもこころは錦”)、その肘と肘を組んで(弱いものを護るための)環をつくる密やかな同盟のあることを、誰か知っているだろう。知らないわけがない。
We will sidestep, and to the final smirk
Dally the doom of that inevitable thumb
That slowly chafes its puckered index toward us,
Facing the dull squint with what innocence
And what surprise!
僕達は、正面から当たらずに、身をかわそうとし(あるいは、身をかわして、サイドステップを踏み)、いよいよとなったら作り笑いの最後の奥の手は、僕達がどうしても逃げようのない、あの権力者、そいつが古臭て黴のはえたような(愛情も無くなってしまったように)カサカサに乾いて皺のよった(法律書の)見出し、社会の絶対分類指標(”お前達が幾らどうなっても、こいつは変わらないのさ”といわんばかりに)、その皺を何度も何度も、僕達に向けて、ゆっくりと(嫌みたっぷりに)、これ見よがしに延ばして見せるあの権力者の制定した法令という奴(”ほら、ここには、そう書いてあるだろう!”)、こいつを、性的な比喩も交えて言葉遊びで洒落のめし、解釈に時間を掛けさせて、軽くいなして取り引きすることだが、しかし、鈍感で、反応も遅くて、精神的な斜視に、今度は直面するのは、僕らの方だ。それも何という無知蒙昧、何ってこった、ここまで酷いのか(僕らの冗談が通じないのだ)。
And yet these fine collapses are not lies
More than the pirouettes of any pliant cane;
Our obsequies are, in a way, no enterprise.
We can evade you, and all else but the heart:
What blame to us if the heart live on.
しかし、こういった、強権的にやられての、繊細な意気消沈、意志阻喪、これらは、どれひとつとっても、決して嘘ではない(”ここには嘘がない。”)。それは、どんなに幾ら曲げられても折れることない、(あのパスカルのいった)蘆、その蘆(すなわち、人間)が、バレーのピルエットをやって、一本脚でクルクル独楽のように激しく素早く回転するその踊りの(訓練されて獲得する表現)様式以上のものだ。
僕らの刑死、その死刑の儀式は、ある意味では、事業ではない。
(法令書には、そうしろと書いてあるのだからな。しかし、だからこそ、また、それにもかかわらず、別の意味では、僕らが死刑になり、法律に則った儀式に従うというのは、これは、立派な一個の社会的な事業なのさ。)
僕達は、戦略的に、お前達を正面から攻めること、正面衝突を避けて、サイドステップを踏むことができるし、それは、その他にも何だって、やろうとおもえば、そうやって身をかわすことができる、しかし、心臓だけは別だ(”それは、お前達にもできないことなのだ。ここが、僕達とお前達の共通の場所だ”)。つまり、心臓が脈拍を打っているのに、だれが、こうすることが悪いといって、僕達を責める奴がいるか、いるわけがない。お前達にできるか?できるわけがない。
The game enforces smirks; but we have seen
The moon in lonely alleys make
A grail of laughter of an empty ash can,
And through all sound of gaiety and quest
Have heard a kitten in the wilderness.
ゲームをするならば、ゲームの規則があるから、いやでもその最高法規の執行命令を受け容れて、相手に点を取らせまいとし、相手のミスを誘い、嫌やでも応でも、(僕らの願う本来の規則正しい解決を図ろうとしながらも、やはり)作り笑いを作るが、しかし、僕達が実際にみて来たのは何かといえば、賑やかな笑い声の(小文字で書いた、世俗の)聖杯を、灰皿代わりに使われてそこに打ち捨てられていた(空虚な、空しい)空き缶から作ったのは、ビジネス街の表通りから一本裏に入った寂しい通りに映る月であり、そして、陽気なドンチャン騒ぎと世俗の騎士道の聖杯探求の賑やかな音や響きを通じて、その音響のどこからでも絶えず聞こえて来たのは、人間がまだ脚を踏み入れたことのない未開拓の領域、即ち荒野にあって、今にも飢え死に寸前の、一匹の子猫の鳴き声なのだ。
追伸1:
そうか、このスタンザの第4連、だから、お前は、自分の死場所を、陸の上ではなく、つまり法律の適用され、死刑の儀式の執り行われる社会ではなく、海の上、まだ脚をだれも踏み入れたことのない海の領域で、船から身を投げて、更に生きようとしたのだな。お前の詩を読んで、それが、よく解った。お前のいう「僕達」は、Japonesiaを創造するから、お前もまた、やって来てくれないか、Hart Craneよ。お前の名前はいい名前だ、本来、硬い鶴さんだ。硬鶴。コウカク。今度は、風がどっちを吹こうが関係ない、コウカク泡を飛ばして議論をしよう。
追伸2:
詩人が言葉を曖昧に使うわけがない。それは、散文人と同じだ。とならば、"Our obliquies are, in a way, no enterprise."の訳も、もうひとつの訳は、こうなる。
僕達が自分で自分の死刑執行をしても、それは、ある意味では、事業などではない、ビジネスではない。(だから、別の意味では、全く一個の独立した事業、ビジネスではなく、社会やひとの為になる仕事なのだ)。
もし追伸1にあるように、お前が海で投身自殺したことを、言葉と行為を1:1で対応させようとした、青春の名誉、規則、enterprise、企図を、このような一本の考える蘆の真実として、言葉の訓練に訓練を重ねて、バレーのピルエット以上に、もしお前がそのように表現しようとしたのであれば、
それは、この第4連にある通りに、最後のサイドステップっだったのだね。
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