今日は、何故、Craneが、The Bridgeと題した詩集の最初に措いたTo Brooklyn Bridgeを、proemと題したのかについて論じます。
僕は、最初The Bridgeという総合題の、最初の詩、To Brooklyn Bridgeの
頭についている(もくじのことです)、Proemとpoemと読み間違えたのです(実際にこのブログの最初のところでは、そうなっています)が、rがあるとないとでは大違いなのでR。
Merrian-Webster Onlineから、いつものように、述べると、次のようになります。Proemとは、
(1)prelude:序曲であり(Craneは音楽を勿論明瞭に意識している。Brooklyn Bridgeは鉄の竪琴。ですから、To Brooklyn Bridgeとは、11連を通して読んだ今、ブルックリン橋の音楽に合わせて、と訳すことができるのです。これは、単に場所を示すばかりではなく、そのような意味のtoでもあります。そうして、詩篇の一部を構成していて、そのまま第1連に連なっている。いつの間にか。)
(2)印刷用語のpreface(本の序文)であり。そうして、これはpre-faceであるように、Crane好みの社会的な位置と、詩化の秘密の端緒でもあり、それは、また本ですから、言語の構造に従って、階層化している何ものか(すべての比喩に耐え得るといってよいような比喩の一つ。僕のウエッブサイトもそうでした。インターネットを一冊の書物として読もう!:http://www.CashYourWords.com)
(3)また、帆船のマストのひとつであるmainstay(綱がはってある。これも、第4連に出て来ますし、同じfloorの第8連では、stringとして出て来ます)、つまりこれもCrane好みの形象であり
(4)これが、powerという、権力という意味でもあり、と同時に、powerということから、つまり数学でいう累乗ということから、2nというときの数字の右上、右肩に小さく書かれる、そのような位置を占めるnという数字であり、つまり、To Brooklyn BridgeのToをそのような詩人の位置と解釈した僕の解釈の通りに、それは、権力(眞の権力、世俗のではなく、小文字の聖杯ではなく、大文字の聖杯、宗教的な)の源泉、すべての組み合わせを可能にする権力、力という意味です。すべての組み合わせとは、勿論概念と言葉の組み合わせ、実際にこのTo Brooklyn Bridgeという詩が、実に見事に、縁語をふんだんに使って、そうであったように)
(5)さらに、これはnerve、神経であるように、もう剥き出しの、nakedな(これも8篇の詩のどこかで見かけたような気がしますけれど)、そのような位置にあるもの、それがproemだというのです。
(6)さらに、もうひとつ、これは、sinewと同義であり、sinewとはthread、cordという意味なのである以上、これは、その後の8篇のthreadであるのです。それゆでに、総合題をThe Bridgeと題することができたのですし、そうしたのです。
なぜ、prefaceではなく、proemと題したのか、これが僕の解釈です。このproemが、後の8篇の糸を縫い、textile, texture, text, contextを織っているのだと思います。そうすると、やはり、この多次元的な詩は、僕があなたにお伝えした構造を持っているということになります。
今までの僕のpoemの解釈は方向と方針は間違ってはいませんでしたが(まだ8篇を読んでもいないのになんという暴言か)、しかし、言葉というものは、素晴らしい、このように豊かな歴史、変な言い方ですが、無時間の歴史を持っている。概念をどのように人に伝えるか、既に訳してこのブログに掲載してあるW.H.Audenの詩は、あるところで、主文の時間を従属文において、メビウスの環を形成していましたが、Craneは、これを第5連、6連から来て、第7連までの3連の間でやっているのです。
こうしてみると、詩人という存在は、時間、つまり社会の時間の力を無化する仕事なのではないでしょうか。Crane流にいえば、condense eternityということ、これが詩人の仕事ではないのでしょうか。他方、王様は、時間を支配したいと願う。そうして、東海の島まで、除福を派遣したのは、秦の始皇帝でした。
王様は王冠を、詩人は桂冠を、これは、どこかで、やはり一対の絵になっているのではないでしょうか。僕が、上のウエッブサイトで、貨幣と言語の関係に論述したように。
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