2010年3月31日水曜日

Hart Crane余語2【隠れたる時間と比喩】

Hart CraneのTo Brooklyn Bridgeの大旋回、あの11連の大循環をもういちど、このブログでと思いましたが、これは、ブログの限界なのでしょう、1日単位で書いてきたものを、今度は、その全体をまとめようとすると、隠れたる時間が必要だということに思い至りました。それにまた、このブログの1回1万字では、これだけでも限界があります。

というわけで、英語圏にある文学専門の僕のwebsiteとblogを通じてご案内します。後日までまたれよ。

Craneの詩を訳している間に様々なことを思い、考えましたが、これは、そのうちのひとつです。言語とは何か、人間とは何か、考えるとは何か、一緒に考えてみてください。

それは、この詩人の形容詞の使い方、僕が「揺れる形容詞」と呼んだ、独特の形容詞の使い方についてのことです。もちろん、独特と書いたのは、何もCraneが好き勝手にそう使ったのではないことは、もちろんです。そのことの値打ちをよく知った上で、敢えて勘所で使っているという意味です。

(1)snow-white
(2)snow white
(3)Snow White
(4)the snow white
(5)Snow, the White

(1)は、英和辞典にある、雪のように白いという形容詞、ハイフンで2語を繋いである。(2)は、さあ、どうしようか、これはその人が決めるべき語順とその意味の配列。まだ意味が確定していない。(3)、これは、有名なグリム童話のお話の主人公、白雪姫。(4)は、これは一体なんだという向きもあるかもしれません。何しろ雪は白いのが自明。しかし、もっと精細に述べると、the snow that is whiteとなって、これはどのような含意がある句かというと、there is that snow that is not whiteという意を含み得るのです。
(5)は、コナン・ザ・グレートというときの語順と表記と表示。

Craneが17歳のときに発表した詩、C33のthe dessert whiteの精妙なることは、ここにあるのです。この論理、この造形上のlogicは、このような最小単位の組み合わせにおいて適用されているばかりではなく、その連、その詩篇、詩篇の集合(たとえば、The Bridge)、そうして生きている間に書いたすべての詩を通じて一貫している糸、threadだと僕は思います。他方、今手元において今回の連載のために使ったThe Complete Poems of Hart Crane (Liverright;ISBN 0-87140-178-9 pbk.)の序文を書いているHarold Bloomによれば、時系列でCraneの詩を並べることの困難を事実として書いていますので、これはCraneが、このように自分の詩を、自分の人生の価値と等価に交換して、構造化したことを、深く、間接に、証明していると思います。

The snow white or the white snowならば、日常的に過ぎて、なあんだということになり、それで終わりますが(つまり、語と語の関係を考えない)、the dessert whiteでは、the white dessertではないということが、明瞭になります。

どのように明瞭になるか。

(1)dessert-white
(2)dessert white
(3)Dessert White
(4)the dessert white
(5)Desert, the White

お判りでしょうか。

何故Craneの詩の言葉、詩化され構造化された言葉が、(昨日書いたように)比喩であることを止め、本質的に(本質とは何か?)、存在するか、存在とは、他の英語で言い換えると、entityというのですが(詩人達はみなこのすばらしい言葉を知っているのだろうか?知らないわけがない!)、この独立した存在になり、擬人化されたものではなく、聖なるブルックリン橋と思わず呼んでしまうような、そうしてその通りで一向差し支えないものになるのか、その秘密が、ここにあるのです。

11連の連載のどこかで、Craneの詩の副詞の極端に少ない数と、その副詞には因果関係に関する副詞がないという事実を指摘しましたが、それは、ここで僕がいいたいことを、副詞という品詞の視点から、同じ事実として述べたものです。

上記の(4)の語順の意味するところは、この言葉を発声する個人が、ああわたしのこの言葉は、相手には、100%1回では到達しないな、幾度も同じ言葉の配列で発信をし、送信をし、着信を確認して、それからまた同じ言葉を同じ配列で送らなければならないのだな、ということを明瞭に意識した人間の語順だからなのです。

これは、今こうして僕の日本語の文章を読んでくださっているあなたの目の前にあるpersonal computerの画面、その画面にこのような文字であれ画像であれ、情報と呼ばれるものが到達するにいたるまでの、このインターネットの世界の通信の基盤技術のものの考え方であり(このような考え方で基盤技術が出来ているのです)、その根底に、従って、こうしてある意識に他ならないのです。実は、通信ソフトウエアの技術者達は、Craneのこの語順で、英語でその技術の叙述をしているのです。それは、Frame Relayという基盤技術やATMという基盤技術が国際的に議論され始めた当初からでした。この失われた10年とビジネスマン達の嘆いている10年前からです。同じこの意識を、技術者も、そうして営業マンも、edgeと言っています。これは従来の用語ならば、顧客、customerと呼ぶべきところですが、これでは、駄目なのです。なぜならば、customerは、一定の、周期的に、ある量を発注してくれる顧客であるからです。インターネットの顧客は、そうではありません。よりよい廉価なサービスにいつでも移ることができる。そして、売り手から、配達者から見れば、その顔は見えないのです。不特定多数の公衆?これは公衆でしょうか。大衆でしょうか。しかし、法律は、これは、the publicだといっている。そのくせ、安全保障のない世界なのです。

この荒野、Craneならば、the wildernessと呼び、sodと呼んだ人跡未踏の未開拓の領域で、websiteを開設すると、それは一個のdomainであるが故に、その開設者は、publisherという社会的地位を獲得することが、自動的に、できます。

Craneのwebsiteを開設したときに、どのようなthe public(の、そうしてその何が、誰)が僕の眼前に現れるのか、以上のような現代の通信のこの世界にあって、Craneの詩の現代性、今日性を思えば(きっと、詩人はみなこうなのだ)、今から楽しみなものが大いにあるのです。

上記(1)から(4)の説明は明日以降といたします。

と、ここまで書いてきて、一体何故、この比喩のことと隠れたる時間と題したのか、その契機のひとつとなったある記事(朝日新聞205年1月6日朝刊;日々の非常口と題した、アーサー・ビナードさんという日本語の達者な英語圏人の文章)を、翻訳の間に、目にしたからです。このひとが、日本語の魅力についてよく問われたときに、好きな日本語はとも問われて、いつも答えるのは、それは、残雪という日本語だというものでした。その訳として、次の訳を挙げ、何故残雪に劣るかを述べています。

(1)the remaining snow
(2)leftover snow
(3)lingering snow

(1)は、説明的で語呂も良くない。(2)は食べ残しの語感あり、そぐわない。(3)風流なるも、柔(やわ)過ぎる、というものです。

この文章を読んで、Craneならば、一体残雪という日本語の名詞をどのように訳したのかと考えたのです。

The snow left

というのが、僕の答えでした。

第8連の

of the fury fused

を思ってみましょう。

そうすると、更に、Crane好みのofを入れて、

of the snow left

ということになるでしょう。

残雪という日本語は、この英語圏人の故郷、アメリカのデトロイトの春の雪、道端にあって、春先に「除雪車が雪を積み上げたところへ、さらに吹きだまりができて、おまけに日当たりがよくない位置だと、春風に抗して最後までその雪はねばる。すぐに灰色に染まり、だんだんと黒に近づく。あまりきれいな眺めではないが、子どもの頃、町の残雪と睨めっこしていたものだ」とあります。

of the snow left

このofの全体を、Craneのブルックリン橋のように、harp and altarと書けば、of the snow leftもまた生きてくるのでしょう。このビナードさんの場合には、それはデトロイトなのでしょう。つまり、Craneならば、次の詩の1行を書いたことでしょう。如何でしょうか。

O Detroit, of the snow left,

それでは、また。

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