2010年3月16日火曜日

話法について

tab21号が届く。その中に秋川さんの散文あり。

その最後のところにある「過去の無償性」、「現在の有償性」という言葉に感ずるものがあったので、敷衍して考えてみたいと思った。

現在の有償性とは、現在という時間は、または現在という時間の中にあるものが、交換関係にあるということを言っている。これは正しいのではないか。

現金を手にしているとは、いつも現在という時間を手にしているということだ。この場合、現在という時間は、交換可能性ということである。貯蓄ということも、お金を貯めるということであるから、それはいつでも現金として引き出して、何かと交換できるという可能性の備蓄であるということになる。つまり、現在という時間を備蓄しているのだ。違うだろうか。

お金が増大すればするほど、人間は、自分の現在が増えると、実はこころのどこかで、考えているのではないだろうか。つまり、永遠の命を手に入れることができると考えているのではないだろうか。そうして、ついには、命よりもお金の方が大切だと思い違いをする。または、無限の富に憧れる。(あるいは、永遠の生命に憧れ、それを手に入れたいと古来思ってきた。)

しかし、この考えは、無限大に拡散し、放散するので、まとまりを欠いている。まとまりを欠いているとは、全体がないということである。(確かに、やはり、ソクラテスのいうように、お金をただ多く持っていてもだめで、お金の使い方を知らなければならないということは真理だと思われる。)

現在とは、常に、時間と空間によって表わされる、あるいは示される、交換可能性をいうのではないだろうか。だから、可能性であるので、現在は、実際には、存在しない。だから、直ぐ過ぎてしまうように思う。そうして、直ぐ忘れる。わたしたちは、毎日可能性に生きているということになる。可能性が現実、現実は可能性だということになる。

これに対して、過去の無償性はどうであろうか。

すべて現在の有償性と反対だと考えてみると、それは、時間と空間の現在的な交換可能性から無縁の性質だということになる。

過去が時間だとして(現在と同じように)、過去とは、時間と空間に規定されない、交換可能性のない、だから、交換不可能性の何かである。ということになる。その何かの性質を無償性ということになる。

確かに過去は戻って来ない。戻って来ないという感覚は、何かと交換が不可能だということである。

そうして、無償の時制である過去形から、人間は時間を欠いた接続法II式、仮定法、非現実話法を創造する。これは何度考えても不思議なことである。それは、非現実の世界であり、時間は過ぎないのであるが、厳然としてあるのだ。交換不可能の過去から、過去ですらない交換不可能の世界を創造する。そのような世界は忘れない、忘れられない。ときには、永遠にあるように思われる。

これは、わたしたち人間の発話行為、言語活動、思考行為は、無償性を基礎にしているということなのだろう。大切なのは、論旨ではなく、スタイル、様式、形式なのだ。わたしたちは何に触れているのだろう。

わたしは何を書いているのだろうか。

わたしが上に書いてきた考えは、モード、モーデ、話法という考えなのである。

この考えでゆくと、何故わたしたちが時間と空間の一点を互いに決めて会うことができているかというと、わたしたちのこの会っている今の上の階層のもうひとつの時間に、この今会っている時間が時計を合わせている、支配されているからであり、つまりわたしたちの支配者がいるのであり、またその支配者が会っているわたしたちを従属文に入れて被支配文を作っているからなのだ、という考えになるのだ。被支配文とは、この現実(と見える)の世界のことである。

わたしたちはその支配者に永遠に会うことができない。

しかし、実はその永遠の支配者とは、わたしたち自身ひとりひとり、私という一人称のことなのである。(私とは何か。)だから、現実には、可能性を現実たらしめようとして、わたしたち人間は言語を使ってひとを動かそうとするし、実際に動かしているし、そうしてこのようなことはほとんど誰も考えようとしていない。ただ動かすことを考えているだけだ。

詩を書くということは、そういうこととは全く無縁のことである。

わたくしの中にいる王が詩人を必要とするのだ。言葉の鎮静作用。

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