安部公房は、19歳のときに「僕は今こうやって」を、20歳の時に「詩と詩人(意識と無意識)」というエッセイを書いている。
「僕は今こうやって」というエッセイは、一言でいうと、18歳のときに書いた「問題下降に依る肯定の批判」で論じた内と外の問題に加えて、それ以外に「転身」または「変容」と呼ぶ個人の意識の次元変位的なありかたの重要性に言及したものである。
「詩と詩人(意識と無意識)」(20歳)は、「問題下降に依る肯定の批判」(18歳)を、「僕は今こうやって」(19歳)で言及した転身または変容の問題を、存在論の観点から論じ、まとめたエッセイである。安部公房の思考する問題は18歳のときのエッセイを離れることがない。継続的に、意識して、問題下降と概念から生への没落を自分の頭で考え抜いたのだ。その到達点が「詩と詩人(意識と無意識)」である。これは、人間とその意識のあるべき姿を論じた存在論であるが(安部公房は認識論的に論ずることがない)、これと表裏一体となって、無名詩集ができている筈である。その吟味は後日にしようと思う。少なくとも、特に哲学用語のよく出て来る初期の小説は、そのイメージも、比喩も、言わんとするところも、「詩と詩人(意識と無意識)」を読むことで理解することができる。また哲学用語を使わない小説であれ、このエッセイを読むことで、晩年に到るまで、その小説が何故そのようなイメージや比喩や、従ってそのような文体で書かれているかを理解することができる。このエッセイを読むと、安部公房は、10代から晩年に到るまで、終始一貫、首尾一貫していることが解る。
本題を少しはずれるが、1947年6月17日付(安部公房23歳)の中の肇宛て書簡の中で、無名詩集について「此の詩集で僕は一応是迄の自分に解答を与へ、今後の問題を定立し得た様に思っております。」と書いている。中の肇は、成城高等学校の時代から、安部公房の哲学的な思索について議論をしてきた友人達のうち、特に重要な友達である。その成果が無名詩集であるといっている。他方、そうやって議論もし、その間思索してきたことの成果は、「詩と詩人(意識と無意識)」(20歳)にまとめられていると考えてよいと私は思う。
その事を証明するのは、1947年7月5日付中の肇宛て書簡の中の、次の文章である:「僕が最初に実存哲学なるものを発見したのは、キエルケゴールやハイデッガーに於いてよりもむしろ、リルケとニーチェに於いてだつた。しかし是は勿論実存哲学とは名付け得ないかも知れない。とにかく僕は其處から出発した。そして四年間.......僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存主義とは一寸異つた実存だつた。僕の哲学(?)を無理に名づければ新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴の創造的解釈、それが僕の意志する所だ。」
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿