2015年7月31日金曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く4:三島由紀夫の蔵書目録の語ること

三島由紀夫の十代の詩を読み解く4:三島由紀夫の蔵書目録の語ること


「三島由紀夫書誌」という瑤子夫人が編んだ三島由紀夫の蔵書目録から、以下の抜粋を卑見する機会を得たので、以下に其の抜粋を転記し、わたくしの感想を付して、読者にお届けします。

以下引用です:

ハイデッガー
「ハイデッガー選集」3ヘルダーリンの詩の解明 
手塚富雄・上田貞夫・斉藤信治・竹内豊治訳 理想社 S37・6・30(改訂版) 

「存在と時間 中」
桑木務訳(岩波文庫)岩波書店 S38・8・10重

ハイネ
「ハイネ・浪漫派」
石中象治訳(春陽堂世界文庫)春陽堂 S22・8・15

ヘルダーリン
「ヘルダーリン全集」全4巻
手塚富雄・生野幸吉訳 河出書房新社 S28・3・15~S44・2・20

「ヘルダーリン詩集」
吹田順助訳(集英社コンパクト・ブックス)」 集英社 S39・9・30

「ヒューペリオン」
吹田順助訳(独逸ロマンチック叢書) 青木書店 S18・3.10

リルケ
「神様の話」
谷友幸訳 白水社 S15・10・25

「神について」
大山定一訳 養徳社 S24・10・25

「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」
塩谷太郎訳 昭森社 S16・4・30

「最後の人々」
高安国世訳 甲文社 S21/7/15

「ドイノの悲歌」
芳賀檀訳 ぐろりあ・そさえて S15・3・10

「薔薇ーリルケ詩集」
堀辰雄・富士川英郎・山崎栄治暇由紀夫訳 人文書院 S28・11・15

「マルテの手記」
大山定一訳 白水社 S15・2・10

「マルテの手記」
大山定一訳 養徳社 S25・4・5

「リルケ書簡集」
全5巻 矢内原伊作・高安国世・谷友幸・富士川英郎訳 養徳社 S24・12・30~S26・2・1

「若き詩人への手紙」
佐藤晃一訳 地平社 S21/3/25

トーマス・マン
「ベニスに死す」S24
「恋人ロッテ」S26
「トオマス・マン短編集」S25
「トニオ・クレーゲル」高橋義孝訳 S24
「非政治的人間の考察」 S43、44
「ブッデンブロオク一家」成瀬無極訳 S24
「魔の山」全3巻揃 S24
「ヨゼフとその兄弟たち」2若いヨゼフ S33

以上が、詩とドイツ語ドイツ文学に深く関係する三島由紀夫の蔵書です。

奥方が、このような目録を作成するということが、素晴らしい。安部公房の真知夫人はその時間なく、安部公房の死後6カ月後に、一緒に死ぬようにして死んでしまった。死因は癌とのことですが、わたしにはそれほど愛した夫であったと思います。

さて、教えて戴いた、蔵書目録は、実に多弁です。以下思うままに。

1。ハイネ
22歳のときに出たハイネの本を持っているということ。これは、やはりこの時期は、詩人から小説家に変身しようという時期ですから、やはり十代で読み、書き写して、自分で日本語の雅文に翻訳するほどに好きであったハイネの詩をもう一度、今度は外から眺めてみたかったのでありませう。即ち、他人の言葉で、散文的に。

2。ヘルダーリン
28歳から39歳までの間の発刊のものを持っているということ。これは古典主義の時代から、ぎりぎり晩年の初年にかかっています。いづれにせよ、このヘルダーリンの詩への欲求が強かったのです。貴重な事実です。

もっとも、書籍の発行年と、三島由紀夫が購入した歳とのづれはありませうが、しかし、この作家のエッセイを読みますと、刊行されたら、やはりすぐ買って読んだのではないかな。と、そう思います。

3。リルケ
意外であったのは、リルケをこれだけ所有し、読んでいたということです。これは、安部公房の側からみますと、三島由紀夫が安部公房と対等にリルケについての議論ができ、自説を主張できたという、実に有力な資料です。その議論も、わたしには想像することができるように思います。
これも、いづれ書くことにします。いや、さうなります。

4。トーマス・マン
高橋義孝訳の『トニオ・クレーゲル』がある。これをお読みになると、古典主義時代の三島由紀夫の考えがよくわかります。

これらの発行年をみますと、23歳から44歳までということであり、従い、やはり古典主義の時代、即ち詩人を脱して小説家になろう、散文家になろうという時期の始まりから、死の前年、前々年までの間、三島由紀夫はマンを読んだということになります。

ゾルレンの時代にマンを読み、森鴎外を読んで、これらの作家に倣った。いづれもドイツ文学の世界の文豪たちです。

これも、誠に偶然の一致(と、ここまでなると誠に必然であるかと思われますが)であることに、わたしは最近ドイツの本屋から『ヨゼフとその兄弟たち』の第1巻を引いた所です。全4巻なので、毎月1冊づつ買って行く楽しみとしているのです。一冊一冊は本当に小さい本ですが、長編小説です。これも何かの暗合かとおもはれる。

かうしてこれらの発行された年代をみますと、やはり三島由紀夫は、勿論十代でマンの名前は知っていたことは間違いがありませんが、実際に読むことを深くしたのが、古典主義の時代であること、しかも死の直前の歳まで続いていることが、大変興味深いのです。

何故ならば、『非政治的な人間の考察』とは、第一次世界大戦にあたって、その戦争を経験しながら、マンが言語の人間としてある其の世界の側から戦争と世界と人間を眺めて書いた長大なエッセイであるからです。思考記録といっても勿論構いません。
実は、この本も、上のヨゼフの本と一緒に、ドイツから買ったマンの本のもうひとつなのです。これも何かの暗合かとおもはれる。

マンも三島由紀夫と一緒で、静謐なるvisionを求め、静寂の空間を生涯求めた作家ですから、この考察の書は、三島由紀夫に言語による表現の世界の本質を(本人は既にして十代で知っていたものを)更に一層晩年の最後に知ることを得て、こころの支えとした作品であらうと、わたしには思はれます。

しかし同時に、このことは、その言語藝術家にある欠陥を露わにすることに成ります。わたしはこれを以前書いたことがあります。題して、『トーマス・マンの闇について』:



三島由紀夫は非政治的な人間であり、文化の人であった。マンも同様の考察をしている筈です。読んでから、またあなたにお話いたしませう。

三島由紀夫の『文化防衛論』に通ずる考察が、そこには展開されていることでせう。

『文化防衛論』の核心にある3つの鍵語(キーワード)、すなはち再帰性、全体性、主体性といふ分類は、マンらしいと思えばマンらしいのです。

もうひとつの対概念のキーワード、すなはち、見るものと見られるもの、これはもマンに通じています。

さて、それはそれとして、上記の蔵書目録のこれらのことを、三島由紀夫の3つの時代に合わせて並べて、年表を作成し、後日詩文楽に上梓します。これで、この作家の何かが、相当なことが伝わることでありませう。

わたしのできることは、かうして書いてまいりますと、次のことになりませう。

1。言語の本質論(言語機能論)の観点から、三島由紀夫の世界を論じること
2。安部公房の側からみた三島由紀夫の姿を語ること、また、
3。二人が共有したドイツ語とドイツ文学の世界を、三島由紀夫の読者に紹介し、解説すること

この3つのことでありませう。そのやうに思います。これらのことを念頭に置いて、この連載を続けます。

いや、更に、

4。先の戦争のあとの呆けた此の日本人の眼を覚まさせるために、痛棒を喰らわせ、あの禅道場の座禅の場の素人たちに、言語の警策でもって音立てて肩を打ち、生に対する覚悟をさせるという、そのやうな闇の人間の役割を演ずることだと思っております。

この警策の音は、三島由紀の辞世の歌の一つ目にある通りに、鞘走る凛乎たる音、時差を伝えて当人を覚醒させる音でありたいものです。三島由紀夫の文学のやうに。



2015年7月29日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く3:詩文と散文の関係


三島由紀夫の十代の詩を読み解く3:詩文と散文の関係

先ほど『文化防衛論』を読みました。1968年、昭和43年。三島由紀夫43歳のときの論考です。

巻末の解説を書いている西尾幹二さんは、「国民文化の再帰性と全体性と主体性」が論じられるくだりから、にわかに読みにくくなり、と書いていて、悪文であって学生の作文のようだと酷評ですが、わたしには、この、文化の再帰性、全体性、主体性が論じられることによって、三島由紀夫の文化防衛論がとてもよくわかりました。

この再帰性という概念は、安部公房も共有しています。三島由紀夫は肯定的に国家と文化との関係で主張し、他方、安部公房は否定的に個人と文化との関係で主張するのですが。これはまた後日触れることがあるでしょう。

また、西尾さんのこの発言の前に、この著名な論者は、伊勢神宮の遷宮のオリジナルとコピーの関係を論じた三島由紀夫の文化の再帰性に関するこの発想をさして、オリジナルとコピーという発想は別にめづらしい見方ではないと断じていますが、この同じ論法といますか発想を、この方のお訳しになったショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』の序文として書かれたショーペンハウアー論の中にもみて、当時二十歳のわたしはおかしいなと思ったことがあり、ずっとこころに引っかかっているのでしたが、今三島由紀夫の『文化防衛論』の解説で同じ言葉をみて、この発想は、この西尾さんという方の何か理解できな論理が、この再帰性という概念ではないかと思いました。そうであれば、『意志と表象としての世界』の序文の論文の、当時からもう既に40余年も記憶に残り続けているその一行二行も納得です。

西尾幹二さんのその言はんとする論理は、このような本物と偽物という関係は、いつもほかにもよく言われていて、特別な発想ではではないという言い方ですから、何かそこにはこの方の心理的な複雑があるように思います。どんなに特殊特別でなくても同じ言葉同じ語彙であっても、その人間がその語彙その言葉に持たせる意味は全く独特のものがある筈であるからです。

ショーペンハウアーの説であれば、まさしく三島由紀夫が『文化防衛論』にいう再帰性をこのドイツの哲学者がいうところで、同じ発言、同じ感想を書いているのです。即ち、この再帰性からいかに自己否定をして、そしてそれが矛盾しないかという論理、この論理を西尾幹二さんは理解できないのです。ということが、この三島由紀夫のエッセイの巻末の解説を読んで、40余年ぶりに理解することができました。勿論、言うまでもなく、この方の『意志と表象としての世界』の序文として書かれたショーペンハウアー論は素晴らしいものです。

さて、『文化防衛論』ですが、この天皇像を論じる論理は正しく、そしてその論理はそのまま三島由紀夫の論理であれば、全く天皇という存在(歴代のダーザイン(Dasein)としての歴史的な現在の連続の時間の中の天皇も含み、天照大神に連綿と連らなる天皇なるザイン(Sein))と一体になった、「断絃の時」の無い、古代からの文化的連続の中に存在し(これが全体性ということ、立体的な形式、formのこと)、今此処に生きる(これが主体性という)ことを体現した三島由紀夫の姿です。

この『文化防衛論』は、まだまだ論ずべきことがたくさんありますが、それは後日を期し、掲題に戻って先を急ぎます。

さて、また、この『文化防衛論』は、『裸体と衣装』という 日記体のエッセイ集(新潮文庫)に収められていて、後者の11月25日(火)の記述を読みましたところ(P112~P113)、何故このエッセイの題名があるのか、何故そのような命名にしたのかという理由が自分の言葉で書いてありましたので、この33歳、1958年、既に古典主義の時代に入っていた三島由紀夫の詩と散文(小説)に対する考えがよくわかりました。ここのところは一読に値します。

何故ならば、ここは、三島由紀夫が詩と小説の関係を述べているところだからです。もっと正確にいうと、詩の言葉と小説の言葉の違いを、更にもっといいますと、先だってこの連載の第1回目の詩論に書いた通りに、『花ざかりの森』と『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」のこの二つの小説の、前者から後者への(戦時中の少年であった三島由紀夫が自分の命を救済するために展開した)論理の極端な飛躍の理由と消息が明瞭に書かれているからです(P112)。一度お読みください。

この箇所を読みますと、古典主義の時代の三島由紀夫が20歳までの抒情詩人としての自分を何故贋の詩人と呼んだのかがよくわかります。

これは、ひとつは、小説家としてそのような抒情的な人間である自分、即ち裸形裸体の自分を否定(というよりは、肯定するために否定)したということがわかり、やはりこの贋という形容詞を冠して、そのような裸形の自分自身を護ったということなのです。他方、しかし、小説家とは、その精神が抽象概念という衣装をまとって言葉に直すものである。

これが、この『裸体と衣装』と題したエッセイとエッセイ集の、裸体と衣装の意味なのです。

何故『絹と明察』に岡野という登場人物が出てきて、ハイデッガーやヘルダーリンを論理的に、散文的に表現されてゐて論じるのか、それはやはり、精神が抽象概念という衣装をまとった登場人物の姿、即ち作家の分身の一人なのです。

さて、贋の詩人と自分の十代の抒情詩人を呼んだ三島由紀夫が、更に後年、詩は認識であると知ったと書いたのは何歳の時でありませうか。この時には、当然のことながら、三島由紀夫は二十代の抒情詩人を贋の詩人とは呼ばず、そうではないその後の小説家、散文家としての自分を本物の詩人と、文字にはそう書いてはありませんが、行間にあって、呼んだのだということが、こうして考えて来るとよく解ります。即ち、

「今の私は、二十六歳の私があれほど熱情を持った古典主義などという理念を、もう心の底から信じてはいない。
 自分の感受性をすりへらして揚棄した、などというと威勢がいいが、それはただ、干からびたのだと思っている。そして早くも、若さとか青春とかいうものはばかばかしいものだ、と考えだしている。それなら「老い」がたのしみか、これもいただけない。
 そこで生まれてくるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。これこそ私にとって真になまなましく、真にエロティックな唯一の観念かもしれない。その意味で、私は生来、どうしても根治しがたいところの、ロマンチックの病いを病んでいるのかもしれない。二十六歳の私、古典主義者の私、もっとも生の近くにいると感じた私、あれはひょっとするとニセモノだったかもしれない。
 してみると、こうして縷々書いてきた私の「遍歴時代」なるものも、いいささか眉唾物めいて来るのである。」(『私の遍歴時代』の最後の文章。新潮文庫、196〜197ページ)傍線筆者。

これは、晩年の時代、現存在へのハイムケール(帰郷)の時代から、その前の古典主義の時代をみて、小説家としての自分のあり方を贋物だという三島由紀夫の言葉です。

やはり、この最後の時代では、最初の幼年期と抒情詩人の時代をロマンチックの時代と呼び、あまつさへ病いとまで隠喩を使って呼んでいる。隠喩をつかうということは、三島由紀夫にとっては決定的なことであることを意味しています。三島由紀夫は、核心を、ここは若い時代の安部公房と全く同じですが、詩人でありますから、非常にpoeticになって、隠喩をつかう以外にはなく、論理では表現することが否応なく出来ないのです。

この「自分の感受性をすりへらして揚棄した、などというと威勢がいいが、それはただ、干からびた」のだと言っている古典主義の時代を、ダーザインへの回帰の時代、即ち晩年の1969年、昭和44年、44歳のときに、『日本文学小史』では、大伴家持が「「防人の情(こころ)と為(な)りて思を陳(の)べて作る歌一首」、いわば優雅な宮廷の抒情詩人がフィクションとして作った一首を、対照の面白さのためにあげておこう。」と言って、家持の長歌と反歌を引用した後で、次のように言っています。

「 家持のこの歌を手前に置いて、彼方に防人の歌を置くと、濾過された文学的言語というものが、切実な感情をいかに模し、それをいかに別なものに変えるかという典型的な実例が透かし見られる。実はここに、のちの古今集の発想の源があり、歌からは「切実な感情」の粗野が避けられて、むしろ歌は、切実な感情を表現するには自ら切実な感情を味わってはならない、という古典主義のテーゼへ導かれてゆくのである。」(『小説家の休暇』所収『日本文学小史』新潮文庫、254〜255ページ)太文字原文は傍点。傍線は筆者。

このことは、この通りのことを、古典主義の時代、ゾルレンの時代に、三島由紀夫はトーマス・マンから教わったということを言っているのであり、しかし、自分は日本人であって、やはりドイツ人ではなく、その酷薄な論理と認識には、とても堪えられないと言っているのです。マンの『トニオ・クレーガー』のご一読をお勧めします。三島由紀夫の世界とそつくりで、驚くことでしょう。しかし、その世界は、三島由紀夫の区分でいう古典主義の時代の三島由紀夫なのです。

この家持を引いて日本文学史を古代の記紀万葉から論じる三島由紀夫は、専ら日本文学史を論じる関心の中心は、詩文の日本文学史であって、散文の日本文学史ではないと言っているのです。

それほどに、晩年の三島由紀夫は、十代の抒情詩人に戻りたかったし、戻ろうと考え、そうして死という言葉に、16歳で書いた『花ざかりの森』の最後では一重の鍵括弧を付して「死」と書く以外にはない未経験の死であったものを、この年齢の晩年には既にその死は鍵括弧を取り払われて十分に自己の肉体に親しく、実際の死として書くことができるほどに、それを病とまで隠喩を使っていうほどになっているのです。

こうしてみますと、20歳までの抒情詩人の自分を贋の詩人と呼んだ時期の三島由紀夫は、間違いなく古典主義の時代の三島由紀夫に違いありません。

そうして、ダーザインの時代の三島由紀夫は、過去であるゾルレンの時代の小説家たる自分を振り返って、それを今度は贋の小説家だというのです。

これが、三島由紀夫の贋という言葉の使い方です。

対して、安部公房は、その人間なり有機物なり無機物が存在になったときに、即ちリルケの純粋空間と同じ時間の無い空間(差異)の中の上位接続に至ったものになったときに、そのものを贋という形容詞を冠して呼ぶことは、わたしが安部公房論の諸処に書いた通りです。

安部公房は、空間的に、存在論的に、そのように贋という言葉を用いるのに対して、このように三島由紀夫は、時間的に、今いる場所(ダーザイン)から過去を追想して、振り返ってみたときに、今いる場所(ダーザイン)にある自分の意識と異なる過去の時期の自分のあり方を贋と呼ぶのです。

そのように起伏に富んだ三島由紀夫の心底に流れて止まない川(バッハ)又は河(シュトローム)である20歳までの抒情詩人としての三島由紀夫の詩を論ずることは、こうして考えてみますと、自然に、古典主義の時代も含み、小説や戯曲という散文領域の作品に通じており、それらの作品を論ずるときに、三島由紀夫の詩群は、その重要なる根拠になることを、読者に示しております。


(続く)




三島由紀夫の十代の詩を読み解く2:三島由紀夫の人生の見取り図



三島由紀夫の十代の詩を読み解く2:三島由紀夫の人生の見取り図

最初に、やはり、三島由紀夫のこの世での時間、その人生の全体を眺めることに致します。

三島由紀夫の『小説家の休暇』や『太陽と鉄』などのエッセイ群を読んで知った、三島由紀夫自身にの言葉よるその文学的活動活躍の時期の分類は次のようになります。

この場合、『裸体と衣装』に所収の『空白の役割』(1955年)というエッセイの中で三島由紀夫が言っている言葉、即ち「今かえりみると、私も一人の青年の役割を果たしていたことにおどろくのだが、青年期が空白な役割にすぎぬという思いは、私から去らない。芸術家にとって本当に重要な時期は、少年期、それよりもさらに、幼年期であろう。」という重要な言葉を考慮に入れて、幼年期を立てることをすると、次のような年表、年譜を得ることができます。[註1]

[註1]
このエッセイを書いた三島由紀夫の年齢は、1955年、30歳。従い次の年表でゆくと、(4)の古典主義の時代14年間の半ば、中間地点に差し掛かりつつあるところだということになる。


幼年期とは、強く言えば、文字になっていない、文字に残っていない自分の人生という意味である。即ち、自分の記憶の中にだけ存在する時代のことである。従い、三島由紀夫全集にも載っていないことになります。

(1)1925年~1930年:幼年時代~最初の詩『ウンドウカイ』(6歳)を書く前までの時代:0~5歳:6年間:『ウンドウカイ』(6歳)は、既に抒情詩である。

(2)1931年~1945年:6歳~20歳:15年間:最初の詩『ウンドウカイ』(6歳)を書いてから20歳までの抒情詩人の時代:15年間:古典主義の時代の三島由紀夫が贋の詩人だったとよんだ時代。即ち漢字で書く浪漫主義の時代。

(3)1931年から1949年:6歳~24歳まで:19年間:遍歴時代:上記(2)を含み、『仮面の告白』を書くまでの時代。(2)と(3)の差分の4年が、詩人から小説家に変貌しようとして集中的に努力をした時期ということになる。

(4)1950年~1963年:25歳~38歳まで:14年間:古典主義の時代:上記(3)のあとギリシャに旅をして、太陽と鉄を思い論じる古典主義の時代。この時代の範型とした作家は二人、森鷗外とトーマス・マン。やはり、三島由紀夫は、その作中の文学的な引用を見ても、そのドイツ語とドイツ文学という十代の文学的教養を読者と39年1月2日夜、川端康成宅で行われた新年宴会して理解することは、重要であると思われる。

(5)1964年~1970年:39歳~45歳まで:7年間:十代にハイムケール(帰郷)する時代:晩年:死とロマン主義の時代

すなわち、簡潔に書けば、

(1)幼年時代:1925~1930:0歳~5歳:6年間
(2)遍歴時代(抒情詩人の時代を含む):1931~1949:6歳~24歳:19年間
(3)古典主義の時代:1950~1963:25歳~38歳:14年間
(4)Heimkehr(ハイムケール、帰郷)の時代:1964~1970:39歳~45歳:7年間

ということになります。

しかし、古典主義時代の名作『金閣寺』(1956年)について語る三島由紀夫のドイツ哲学用語を元に、ドイツ語を使って、更にもっと簡明に書けば、

(1)幼年時代+遍歴時代:存在の時代:Sein(ザイン)の時代
(2)古典主義の時代:当為の時代:Sollen(ゾルレン)の時代
(3)帰郷時代:現存在の時代:Dasein(ダーザイン)の時代

と、このようになります。[註2]

[註2]
以下Wikipediaから:

三島は『金閣寺』連載中、自身の文体の変遷について、森鴎外の「清澄な知的文体」、「感受性の一トかけらもなく、あるひはそれが完全に抑圧されて」いる文体を模写することで、「自分を改造しようと試みた」とし[11]、「感性的なものから知的なものへ、女性的なものから男性的なものへ」、「個性的であるよりも普遍的」なものを目指したと語り、「作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ」とし、自らが在るべきだと思う在り方(ゾルレン)を示すのが文体であり、その「知的努力」が主題と関わりを持てるとしている[11]

[11] 
『自己改造の試み - 重い文体と鴎外への傾倒』(「文學界」1956年8月号掲載) 『亀は兎に追ひつくか』(村山書店)


他方、敢えて安部公房の人生表を持って来て、付け合せれば、これは既に『安部公房と共産主義』、それから『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』で明らかにしたところですが、安部公房の人生も次のようになっていて、三島由紀夫に大変よく似ております。

(1)存在の時代:0~1947年:24年間:0歳~23歳:存在に隠棲している時代:詩人とリルケの時代
(2)存在から出発する時代:1948~1969年:22年間:24歳~45歳:存在から社会や国家に向かう時代
(3)存在へ回帰する時代:1970~1993年:24年間:46歳~68歳:三島由紀夫の切腹を契機に、リルケの詩と自分の十代の詩の世界に回帰する時代

これをこのまま、

(1)ザインの時代
(2)ゾルレンの時代
(3)ザインへの回帰の時代:ハイムケールの時代

と呼んで、一向に差し支えがありません。

二人の異なるのは、(3)のハイムケールの時代に、三島由紀夫はダーザイン(現存在)に、『花ざかりの森』に回帰するに対して、安部公房は、やはり、ザイン(存在)に、リルケとリルケに倣い、更にそれを陰画に変形させた自分の詩の世界に回帰するということ、ここが誠に、それぞれの独自の思考論理と感性とによる相違であるのです。

しかし、なぜ二人の人生のそれぞれの時期が、このようによく似ているのか、そっくりなのかということは、大変に興味ふかいことで、これは後日の考察と致します。

勿論、どのような人間であれ、このような3つの位相を経るのではないかと問われたら、それを否定することはできないからです。

さて、上のような三島由紀夫の年譜、年表を念頭に置きながら、十代の三島由紀夫の詩を、これから読むことにいたします。

この場合、勿論、上の年表に暗示されているように、三島由紀夫もまた、安部公房と同様に、生涯詩人(それも、安部公房と同様に反時代的な詩人)でありましたから、折に触れ、またわたしの知見を得るところに従って、小説や戯曲やエッセイへの言及をし、それらとの関係もまた論ずることに致します。

(続く)




2015年7月26日日曜日

Er wünscht sich die Tücher des Himmels(彼は天国の手巾(ハンカチ)が自分にあればよいと願ふ):第29週 by William Butler Yeats(1839~1922)



Er wünscht sich die Tücher des Himmels(彼は天国の手巾(ハンカチ)が自分にあればよいと願ふ):第29週 by William Butler Yeats1839~1922 




【原文】


Er wünscht sich die Tücher des Himmels
Hätte ich die reichgestickten Himmelstücher
Gewirkt aus goldenem und silbernem Licht.
Die blauen und die matten und die dunklen Tücher
Von Nacht und Licht und halbem Licht,
Ich breitete die Tücher dir zu Füssen:
Doch weil ich arm bin, hab ich nur die Träume;
Die Träume breit ich aus vor deinem Füssen:
Tritt leicht darauf, du trittst auf mein Träume.



【散文訳】

彼は、天国の手巾(ハンカチ)が自分にあればいいなと願ふ
もしわたしが、贅沢に刺繍された天国の手巾を持つてゐれば
金と銀との光から織られた天国の手巾を持つてゐればなあ。
青色の、鈍色の、そして暗い闇色の手巾を
夜と光と薄明かりの光から成る手巾を
わたしは、それらの手巾をお前の足元に広げるのだ
しかし、わたしは貧しいので、夢しか持つてゐるものはないのだ
幾つもの夢を、わたしは、お前の足元に広げ
その手巾を踏んでご覧、お前は、わたしの夢の上を踏んで来るのだ。


【解釈と鑑賞】


この詩人は、勿論名高いアイルランドの詩人です。1923年にノーベル文学賞を受賞。

この詩人のWikipedia:


日本語のWikipediaの記述は誠に貧しく、哀れであるので、英語のものを引きます:



Samuel BeckettもJames JoyceもYeatsもまだ他にもアイルランドの作家詩人がをりませうが、いづれもわたしの好みであり、実に親近感を覚える藝術家たちです。

音楽も、アイルランドの音楽は哀切な調子があって、わたしの好みであるのは、不思議です。

ケルト民族は、大陸のヨーロッパからキリスト教によって追いやられたわけですが、やはり唯一絶対のGott, Godといふ思想は、非常に攻撃的であるやうに思はれます。共存共栄といふことがない。


歴史の時間の針を元に戻すわけには参りませんけれども。

Um gut zu leben reicht es nicht(善く生きるだけでは足りない):第29週 by Jorge Eduardo Eielson(1924~2006)



Um gut zu leben reicht es nicht(善く生きるだけでは足りない):第29週 by Jorge Eduardo Eielson1924~2006




【原文】

Den Kühlschrank aufzumachen
Und Brathähnchen und  Marmelade
Vorzufinden. Es ist ferner nötig 
Hunger auf Licht zu haben
Und ohne Messer und Gabel
Einen Stern zu verschlingen
Auch wäre es gut
In dieser Situation
Ein gelbes Kleid anzuziehn
Und dem Nachbarn der nicht grüßt
Die Hand zu geben


【散文訳】


冷蔵庫を開けること
そして、鶏の焼いたのとマーマレードが
前の方にあるのを見ること。更にもつと必要なことは
空腹に光を当てること
そして、ナイフとフォークを使はずに
一つの星を飲み込むこと
また実際、この場面では
黄色の衣装を身にまとひ
そして、挨拶しない隣人に
手を差し伸べることことも、善きことかも知れない


【解釈と鑑賞】


この詩人は、ペルーの、従いスペイン語の詩人です。

この詩人のWikipedia:

https://es.wikipedia.org/wiki/Jorge_Eduardo_Eielson


これは、いい詩です。一読、さう思ひました。

難しい言葉はひとつもないけれども。

さうして、題名がいい。これは、日常に生きるわたしたちの実感ではないでせうか。

善をなして生きるだけは、足りない。

では、悪をなせばいいのでせうか?

4行目の、

空腹に光を当てること

と訳したドイツ語は、理屈を立てて他に訳をとりますと、

光に合わせて空腹であること
光の方を向いて空腹であること

と訳すこともできます。

肝心なことは、その次の行で、

そして、ナイフとフォークを使はずに
一つの星を飲み込むこと

とありますので、ここが眼目、ひとつの星を飲み込むことが、空腹に光を当てることであり、光の方を向いて空腹であることなのです。

冷蔵庫を開けて、さて何を食べようかということと、この星を飲み込むといふことまでの飛躍の素晴らしさ。それで、わたしは、いい詩だと思つたのでありませう。わたしがいい詩だと思ふ詩は、さうしてみると、飛躍のある詩だといふことになります。言葉と言葉、行と行との間に。

また実際、この場面では
黄色の衣装を見にまとひ

といふ此の黄色の衣装は、何か神聖なお祭り、それも宗教的な祭祀のときの色であるのでせう。何故ならば、

そして、挨拶しない隣人に
手を差し伸べることことも、善きことかも知れない

と最後にあるからです。

この2行を読みますと、やはり、ペルーはキリスト教であるのでせう。

ただ日常に善く生きるだけでは足りない、このように手をさしのべなければならない。腹の空いたときに、冷蔵庫を開けて、ナイフとフォークを使はずに、従ひ素手で、といふことは原始的に(それならば星も飲み込めるだらう)、ひとつの星を(咀嚼するのではなく)丸ごと飲み込むならば。

Schmerz(苦痛):第28週 by Else Lasker-Schüler(1869~1945)



Schmerz(苦痛):第28週 by Else Lasker-Schüler1869~1945



【原文】


Ich, der brennende Wüstenwind,
Erkaltete und nahm Gestalt an.

Wo ist die Sonne, die mich auflösen kann,
Oder der Blitz, der mich zerschmettern kann!

Blick nun, ein steinernes Sphinxhaupt,
Zürnend zu allen Himmeln auf.

Hab an meine Glutkraft geglaubt.



【散文訳】


わたしは、燃える荒野の風だ
冷たくなり、そして姿が現れた

太陽はどこにある、わたしの結び目を解き、謎を解き明かす太陽は
或ひはまた、稲妻はどこにある、わたしを稲妻する閃光は!

さて今や、石の冷たいスフィンクスの首よ
怒り心頭に発して、すべての天を見上げよ

わたしの炎熱の力を信ぜよ


【解釈と鑑賞】


この詩人は、ドイツの詩人です。ユダヤ人の詩人です。

この詩人のWikipedia:


ドイツ語のWikipedia:


ナチス政権樹立の後は、イスラエルに帰還、そおに永住とあります。

奇行な振る舞ひもあつた女性のやうで、それも此の詩から伺ふことができます。




Landnahme(不法占拠):第27週 by Hans-Juergen Heise(1930~2013)


Landnahme(不法占拠):第27週 by Hans-Juergen Heise1930~2013



【原文】


Landnahme

Unter dieser Ulme
würde niemand rasten
Mücken schwirren - der Tümpel
ist bis an die Oberfläche verschlickt

Komm also
leg deine Last ins Gras
wir bleiben hier



【散文訳】

不法占拠

この楡(にれ)の木の下ならば
誰も憩ふことはないだらう
蚊たちがぶんぶんと音を立ててー沼が
表面にまで、泥が来ているから

だから、来いよ
お前の荷物を草むらに置いて
わたしたちは、ここに留まらう。


【解釈と鑑賞】


この詩人は、ドイツの詩人です。

この詩人のWikipedia:


これによれば、第二次世界大戦のドイツで、ドイツ劣勢のために一度ベルリンを離れ、戦後にまた戻つてきてベルリンに住みますが、東西の冷戦のためにベルリンの壁のできるときに、東ベルリンに住むことを選んだ作家です。

その後、政治的な理由で、といふことは、東ドイツの共産党に反旗を翻へしたのでゐられなくなり、当時の西ドイツに亡命したといふことです。

詩と短い散文で著名とあります。

詩の題名のLandnahmeといふドイツ語の意味は、所有権がどうあれ何があれ、勝手に他人の土地に住み着いて、所有を主張することといふ意味です。辞書には載つてゐませんでしたが、Wikipeidaには載つてゐました。


この題とこの詩を読みますと、何か東ドイツという共産主義社会にゐた此の詩人の気持ちがわかるやうに思ひます。

仮令(たとへ)藪蚊がぶんぶん飛んでいようとも、そのやうな楡の木陰の土地を必要としたのです。


2015年7月5日日曜日

【Eichendorfの詩123】 Zorn(怒り)1810


Eichendorfの詩123 Zorn(怒り)1810
  

【原文】
Zorn(怒り)1810

Seh ich im verfallnen, dunkeln
Haus die alten Waffen hangen,
Zornig aus dem roste funkeln,
Wenn der Morgen aufgegangen,

Und den letzten Klang verflogen,
Wo im wilden Zug der Wetter,
Aufs gekreuzte Schwert gebogen,
Einst gehaust des Landes Retter;

Und ein neu Geschlecht von Zwergen
Schwindend um die Felsen klettern,
Frech, wenn’s sonnig auf den Bergen,
Feige krümmend ich in Wettern,

Ihres Heilands Blut und Tränen
Spottend noch einmal verkaufen,
Ohne Klage, Wunsch und Sehnen
In der Zeiten Strom ersaufen;

Denk ich dann, wie du gestanden
Treu, da niemand treu geblieben:
Möcht ich, über unsere Schande
Teifentbrannt in zorn’gem Lieben,

Wurzeln in der Felsen Marke,
Und empor zu Himmelslichten
Stumm anstrebend, wie die starke
Riesentanne, mich aufrichte.




【散文訳】
怒り 1810

わたしは、荒廃し、暗い
家の中で、数々の古い武器が壁にかかつてゐるのをみる
それらの武器が錆(さび)の中から怒つて火花が散つてゐるのをみる
朝が明ける度に

そして、最後の響きが飛んで飛び去つて行くのをみる
天候といふ天候の野生の荒々しい行列の中で
十字型の剣に向かつて身を屈めて
其の国の救世主が嘗(かつ)て住ふてゐた場所で

そして、小人たちの新しい種族が
小さくなりながら岩という岩を巡つて登つて行くのをみる
卑怯にも、山々の上に太陽が射せば其のたびに
臆病にも、わたしは天候といふ天候                    の中で背を曲げ、身を屈して

その小人たちの救世主の血と涙を
軽蔑しながらもう一度売るのを見るのだ
嘆かず、願はず、そして憧れず
その血と涙が、数々の時代の河の流れの中で溺れ死ぬのをみるのだ

次に私が思ふのは、お前がさうでゐたやうに
忠実で、といふのは誰も忠実のままではゐなかつたからであるが
わたしは、わたしたちの恥辱を超えて
怒りの愛の中で深く燃えて

岩岩の標(しるし)の中に根を降ろして
さうして、天の光といふ光に向かつて高く
黙々と昇る努力を重ねながら、強い力の
巨大な松や樅の大森林のやうに、わたし自身を垂直に立てたいものだ、とさう思ふのだ。


【解釈と鑑賞】

前回の詩と同様に、題字の横にある1810といふ数字は、やはり1810年に書かれた詩といふ意味でありませう。

この年には何があつたものか。いづれにせよ、この詩にあるやうに、夜の祝祭とともに、続けて、この怒りの詩を歌はねばならなかつた。

あるいは、この詩人が子供の頃より住み慣れた城を手放したときであるのかも知れません。




【Eichendorfの詩124】 Symmetrie (対称)1810


【Eichendorfの詩124】 Symmetrie (対称)1810 
  

【原文】
Symmetrie (対称)  

O Gegenwart, wie bist du schnelle,
Zukunft, wie bist du morgenhelle,
Vergangenheit so abendrot!
Das Abendrot soll ewig stehen,
Die Morgenhelle frisch dreinwehen,
So ist die Gegenwart nicht tot.

Der Tor, der lahmt auf einem Bein,
Das ist gar nicht zu leiden,
Schlagt ihm das andre Bein entzwei,
So hinkt er doch auf beiden!


【散文訳】

対称 1810

おお、現在よ、お前はなんと素早い
未来であるのか、お前はなんと朝の明るい
過去であるのか、そのやうに夕暮れの赤色をしたままで!
夕暮れの赤い色は、永遠に立つ定めであり
朝の明るさは、新鮮に、その赤い色の中に吹き込む定めなのだ
さういふわけで、現在は死なずにゐるのだ。

馬鹿者は、片方の脚が麻痺してゐるのだが
それは、少しも我慢できないことではない
馬鹿者のもう一つの脚をまつ二つに打ち砕いてやるがいい
すると、馬鹿者はびつこひきひき両脚で歩くのだ!


【解釈と鑑賞】
この第2連目の馬鹿者とは、みづからの戯画化した自画像でありませうか。

この対称といふ詩の題名からいつて、最初の連は、現在を中心にして、朝と夕方の対称を歌つてゐる。

第2連は、何の対称を歌つてゐるのだらうか。

一つは、片方の脚ともう一方の脚と。その間に跛行して歩く自分がゐる。

何か、前の二つの詩といひ、この詩といひ、1810年といふ年は、この詩人にとつては辛いことのみ多い年であつたやうに、これらの詩を読むと、思はれます。