2010年3月18日木曜日

革命について

今日も閑暇ありとて、あれこれと先日来あたまを去来することを考え続けている。

昨日のつれづれ草にて、言語機能論が存在論をその内に含んでこれを統合して全体をなしているという話をしましたが、今日はその続きです。

あるひとの影響で、カントについての文章を最近あれこれと眼にすることが多いのであるが、その中にカントの著作中の言葉として、自分の起こした哲学上の革命は、コペルニクスの革命に匹敵するという言葉があるということを読みました。

コペルニクスは、天が動いているのではなく、実は大地が動いているのだということを発見し、天体の運動の法則を導いた。あるいは、順序は逆かもしれません。(いつも革命的な発見は、時間の順序を前後する。あるいは、もっと言えば、時間的な順序に無縁である。)

カントは、自分の考え、即ち、絶対的な空間と時間があるのではなく、それは認識によって生まれる、従い、相対的な空間と空間であるということ、時間や空間が存在するのではなく、認識がそれらを存在せしめているのだと考えを逆転させ、回転させたことを、そのように自負を以って述べています。

昨日も述べた言語機能論というのは、西洋の哲学史の上で、回天の革命的な考え方がその根底に隠れています。(今調べてみると、ヴィトゲンシュタインは、アインシュタインやリルケやトーマス・マンとまったく同じ時代の人間であり、哲学者です。同じ意識、同じ思想を密かに共有しているとわたしは考えております。)

さて、その隠れている考え方とは何かと言えば、近代の西洋の哲学者たちが、理性が概念をつくると考えてきた考えをひっくり返して、概念が実は理性を創造しているのだという考え方です。(概念とは何か、です。)

アリストテレス以来の内包と外延の論理学は、言語の働き、即ち機能の結果生まれた意義と意味の分類です。その意義と意味がなぜ生まれたのかということを考えると言語は機能だという考えに至る。それは、言語とは何かと問うことの回答です。

この問い自体は、ソクラテス以来変わらないものです。そうして概念を定義する。すなわち、そうして主語と述語で表すということが、既に言語を機能として考えている成果であり、証左なのです。

今日、Wikipediaでヴィトゲンシュタインの生涯の著作の簡単なる記述を読みましたが(わたしも実際に著作のほんの一部を日本語で読んだことがありますが)、それによれば、既に哲学論理的論考(Logisch-philosophische Abhandlung)の附番(番号のつけ方)が示しているものは、晩年に至ったと世上言われているSprachespiel(言語遊戯、言葉は遊びだ、言葉が遊戯しているという考え方)という思想と全く同じであることを知りました。

それは、この哲学者が上に名前を挙げた論文で7つの命題を挙げ、それを階層構造で附番をつけたというこの表現形式そのものが、そのことを示しているのです。それは、1, 1.1, 1.2, 1.3....., 7, 7.1, 7.2, 7.3.....という附番のつけ方のことです。この附番の構造こそがこの哲学者の主張したかったこと、これが宇宙だといいたかったことなのだとわたしは思います。実は、命題の中身などどうでもよい。この形式だけが大切なのだと。そう、ヴィトゲンシュタインは思っていたのではないでしょうか。

何故ならば、このような階層化することそのことが、何かを機能化することに他ならないからです。この機能化するときの思考プロセスが(以前も言及しました)論理積、掛け算なのです。時間と無縁の思考プロセス。垂直の旅。

(この階層化、この機能化は、語のレベルでは内包と外延、論理積と論理和になり、文のレベルでは話法の問題となります。これは後日また。)

こうしてみると、ヴィトゲンシュタインの思想は若いときから晩年まで、変化することなく、首尾一貫していると思います。最初に、若年に、思想の萌芽があったのでしょう。

概念が理性を、認識を生み出すというこの考えは、西洋哲学においてのみならず、密かに広くこの世界に革命を起こしていることをわたくしに念じ、思わせしめる。(社会現象をこれによって説明してみよう。)

言語機能論(意味形態論)とは、言葉の意味は使い方によって決まるという考えです。

この単純な、概念の関係に関する考えが、どれほど豊かな思想であるか。

今思うに、そのひとつの素晴らしい例として、ドイツ語の世界では意味形態論といって関口存男さんという語学の天才がその成果をわたしたちに伝えてくれておりますが、その話はまた別のところで。今日は、これまで。

So weit fuer heute. ゾー・ヴァイト・フュア・ホイテ。

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