2012年8月29日水曜日

釧路湿原


釧路湿原
                       岩田英哉


天空の一点から
不意に
青銅の鷲が一羽、糸をひくように落下して
春の湿原に消えた
そこに巣があるのだ
わたしの右手では
川が龍のように陶然とうねっている
足元では、エゾリスの糞がちりちりと燃えている
夕暮れが近づき
無窮の空を丹頂鶴がねぐらを求めて帰って行く
だれに挨拶することもなく
わたしは人生を蕩尽してしまった

                        March 13, 2010

追記:
この詩は、James Wrightというアメリカの詩人の「ミネソタ、パインアイランド、ウィリアム•ダフィーの農場で、ハンモックに寝そべって」という詩に触発されて書いたものです。

奇しくもJames Wrightとわたしの誕生日が同じ12月13日であることが、とてもうれしい。

本歌の力を借りて、やっとこの歳になって、わが故郷、道東のあの圧倒的な量の空間を歌うことができました。James Wrightに感謝です。

また、この詩は当初、釧路湿原にてと題していたのですが、今は亡くなった森下さんが、詩の会の帰り際、一緒に立った夜の国立のプラットフォームで、横にいて、この詩を褒めてくれて、釧路湿原にてではなく、釧路湿原という題の方がよいと強くいったので、森下さんとの思い出の記念のためにも、そのように題を改めました。

わたしの当初の題は、その空間の中にいる人間を歌うことに焦点があったのですが、森下さんの思いは、これぞ釧路湿原ぞ、というところにあったと思っています。

【Eichendorfの詩 8-4】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 4


【Eichendorfの詩 8-4】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 4

【原文】

Bist du manchmal auch verstimmt,
Drück dich zärtlich an mein Herze,
Dass mir's fast den Atem nimmt,
Streich und kneif in suessem Scherze,
Wie ein rechter Liebestor
Lehn ich sanft an dich die Wange
Und du singst mir fein ins Ohr.
Wohl im Hofe bei dem Klange
Katze miaut, Hund heult und bellt,
Nachbar schimpft mit wilder Miene -
Doch was kümmert uns die Welt,
Suessse, traute Violine!


【散文訳】

お前は、時折、実際機嫌の悪いことがある
お前をやさしく、わが心臓に押し付けよう
そうすると、それが、わたしの息をほとんど止め
甘い冗談の中で、お前の肌をさすり、またその肌をつまむことよ
丁度、本当の愛の門のように
わたしは、そっとお前に、頬を寄せる
そうすると、お前はわたしの耳の中に素敵な声で歌うのだ。
そうさ、庭では、あの響きがすると
猫が一緒に庭に飛び出て来て、犬は吠えて、唸るは
隣人は、乱暴な顔をして、文句をいうが、
しかし、世間が一体わたしたちにとって何であろう
はばかることはない
甘い、親しいヴァイオリンよ!


【解釈と鑑賞】

甘い恋の歌ということになるだろう。

これは、註釈も要らないことである。

丁度、本当の愛の門のように
わたしは、そっとお前に、頬を寄せる

とある、本当の愛の門が実際に恋人にほほを寄せるものなのか。

こういうことに詳しい方いたら、お教え下さい。

2012年8月26日日曜日

【西東詩集11】Liebliches(愛らしいもの)


【西東詩集11】Liebliches(愛らしいもの)

【原文】

Liebliches

Was doch Buntes dort verbindet
Mir den Himmel mit der Höhe?
Morgennebelung verblindet
Mir der Blickes scharfe Sehe.

Sind es Zelte des Vesires
Die er lieben Frauen baute?
Sind es Teppiche des Festes
Weil er sich der Liebsten traute?

Rot und weiss, gemischt, gesprenkelt
Wuesst ich Schönres nicht zu schauen;
Doch wie, hafis, kommt dein Schiras
Auf des Nordens trübe Gauen?

Ja es sind die bunten Mohne,
Die sich nachbarlich erstrecken,
Und, dem Kriegesgott zum Hohne,
Felder streifweis' fremdlich decken.

Möge stets so der Gescheute
Nutzend Blumenzierde pflegen
Und ein Sonnenschein, wie heute,
Klären sie auf meinen Wegen!


【散文訳】

愛らしいもの

あそこにある多彩なものは
わたしの天を高みと結びつけるのだろうか?
朝の霧が出ると、それは目を眩(くら)ませて
わたしから視線の鋭い視力を見えなくするのだ。

大臣(おおおみ)のテントだろうか
彼が愛するご婦人方のために建てるのは?
それは(大臣が愛する女性に与えるのは)、祝宴の絨毯だろうか
最も愛する女性を信用するものだからという理由で?

赤と白の色が、混在して、斑点になっていて
それ以上美しいというものを、わたしは見る事ができない
しかし、ハーフィスよ、お前のシラス(ハーフィスの生誕居住の地)が、どうやって
北の濁った色の地方に来るというのだ?(そんなことは、あり得ないことだろう。)

そう、隣りに延びて来ているのは
多彩な罌粟(けし)の花であり
そして、その花が、戦(いくさ)の神が軽蔑することには
野原(戦場)を帯状に仲良く覆っているのだ。

嫌われ者の男は、常にこのように
花飾りを大切にして、それを利用するがよい
そして、今日のような太陽の輝きは、
わたしの前途に、その花飾りを清めるがよい


【解釈と鑑賞】

最後までこの詩を読んでみると、ここでいう愛らしいものとは、罌粟の花の花飾りのことです。

しかし、ゲーテがなぜこの詩を書いたのか、訳そうとして読みながら考えましたが、この詩は理解するのに難しい詩でした。

前に老年と性のことを歌い、次の詩では、これからZwiespaltと題して、恋情を前提に、ふたつに分かれている(多分)男女の感情をうたいます。そうして、その次にやっと、静謐な、人生の青春を回顧するIm gegenwaertigen Vergangnes(現在する過去の中で)という詩がおかれています。

この詩の順序をみると、この詩と次の詩のゲーテは、一寸おかしい。というか、相当おかしいという感じがします。

何か、苦しい、狂気めいた感情がゲーテを支配していて、それにゲーテを抗して言葉を紡いでいるという感触があります。

この詩も表面は一見なんということもない詩ではあるのです。

この詩を読んでわかることは、戦場のような場所から離れて、いやそのような戦場(野原と戦場はドイツ語では同じ言葉です)の中にいても、戦の神には軽蔑されるだろうが、そこに咲いている多彩な罌粟の花で花飾りをつくり、それを大切に養生して、そのことから利益、便益を引き出すことをするのだといっているのです。

それは、豪壮なテントを愛する女性のためにつくって贈ることでもなく、祝宴のための高価な絨毯をつくらせることでもありません。大切なことは、全然、そういうことではないのだ。

そうして、ハーフィスに呼びかけている。このハーフィスに呼びかける連、第3連では、赤と白という色彩が出て来ます。この色彩の組み合わせも、多彩なもののひとつなのだと思います。

この色は、あるいはアラビアの世界で何か深い意味を持つのかも知れません。日本ならば源平合戦以来の紅白の色と同じように。勿論、アラビアの世界で持つ意味を。

第4連を読むと、ゲーテは自分自身をder Gescheute、嫌われる男といっていて、この言い方は相当強烈なものがあります。

それだけ、一層何故かは知りませんが、この詩を書いているときのゲーテの孤独が思われます。自分自身をそのように呼ぶことで、狂気のような苦しみの感情を乗り越えたのではないでしょうか。

そうしてみると、花飾りとは、このような詩のこと、野原(戦場)で花飾りをつくるとは、詩作をすることを言っているのだと理解することもできるでしょう。

こうしてみると、題は愛らしいもの、ですが、その中身は、実に苦しいものだと思います。

やはり、ハーフィスに呼びかけて、その力を借りることが、ゲーテには必要だったのだと思います。

2012年8月24日金曜日

第36週: An die Parzen (運命の女神達に) by Friedrich Hoelderlin (1784 - 1834)



第36週: An die Parzen (運命の女神達に) by Friedrich Hoelderlin  (1784 - 1834)  

【原文】

An die Parzen

Nur Einen Sommer gönnt, ihr Gewaltigen!
Und einen Herbst zu reifem Gesange mir,
Dass williger mein Herz, vom süßen
Spiele gesaettiget, dann mir sterbe.

Die Seele, der im Leben ihr göttlich Recht
Nicht ward, sie ruht auch drunten im Orkus nicht;
Doch ist mir einst das Heil'ge, das am
Herzen mir liegt, das Gedicht, gelungen;

Willkommen dann, o Stille der Schattenwelt!
Zufrieden bin ich, wenn auch mein Saitenspiel
Mich nicht hinabgeleitet; Einmal
Leb' ich, wie Götter, und mehr Bedarfs nicht.


【散文訳】

運命の女神達に

ただ一つの夏だけを恵むのだ、お前達権力者は!
そして、ひとつの秋を熟した歌にして、わたしに恵む
より従順に、わたしのこころは、甘い遊戯に
満足させられていて、そうなれば、わたしのこころは、わたしのために死ぬがいいのだ。

生においては、お前達の神聖な正義は、本当に
魂には与えられなかったので、魂は、実際地下の冥府でも休むことがない
しかし、わたしにはかつて、神聖なるものが、わたしの
こころにある神聖なるものが、即ち詩が、成功したのだ。

とあれば、ようこそ、ああ、影の世界の静けさよ!
わたしは満足しているのだ、たとえわたしの弦の手遊(てすさ)びが
わたしを地下の冥府へと導かぬとしても、一度だけ
わたしは生きるのだ、神々のように、そして、それ以上は何も不足がなかったのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩人の 英語のWikipediaです。


あるいは、日本語のWikipediaです。


この日本語のWikipediaによれば、「30代で狂気に陥りその後人生の半分を塔の中で過ごした。」とあります。このWikipediaにその塔の実物の写真が掲載されています。

第1連を読むと、巡る季節が運命の女神達が恵まれていることがわかります。

この運命の女神達は、詩の歌い手に夏と秋という季節を恵み、秋の収穫も歌または詩として恵むのであるが、そうなると、わたしのこころはわたしのために死ぬ。

それも、甘美な遊戯に満足させられた状態で、死ぬのです。

季節が恵まれるということが、甘美な遊戯だと言っている。ここにこの詩人の意味の凝縮があって、解釈が難しい。

しかも、わたしのこころが死ぬということについては、わたしのこころはより従順に受け容れているということを歌っている。より従順にの「より」とは、他の場合よりもという意味でしょう。このような死であるならば、詩の歌い手は、より従順に自分の死を受け容れることができるのです。

これが第1連です。

第2連の

Doch ist mir einst das Heil'ge, das am
Herzen mir liegt, das Gedicht, gelungen;
しかし、わたしにはかつて、神聖なるものが、わたしの
こころにある神聖なるものが、即ち詩が、成功したのだ。

とある2行目の意味は、わたしは、神聖なる詩を書く事に成功したのだという意味です。

ドイツ語の言い方では、直訳した通りなのですが、ここに何か生硬な感じがします。上ではこの難しさ、違和感を、凝縮といいましたが、ここでも表現上の凝縮があります。

しかし、考えてみれば、ドイツ語のGedicht、詩という言葉の由来は、dichten、凝縮するという動詞から作られているのでした。確かに、これは詩なのだと思います。

この第2連で、大切なことは、詩が神聖なるものだということです。そうして、そのような詩は、自分ひとりの力で出来たのではない、運命の季節の女神の力で出来たのだといっている。詩が成功したのだ、という言い方は、そのことを含意していると思います。

第3連でわかることは、詩作することがこの生の中で神々のように生きることを意味しているということです。

こうして第3連までを読んで来て、第1連に戻って再度解釈をすると、この詩の歌い手は、四季を人生、生の四季として歌っているということです。そうして、その四季の巡りは、運命の女神(4人いるのでしょう)が恵み賜うものであり、この一巡りの恵みは、生身の人間としては一度きりしかない。詩作は、その一度きりしかない人生を運命の女神達のように、神聖に神々しく生きることである。

そうして、それは甘美な遊び、遊戯、嬉遊であると、そう歌っていることになります。

この詩の制作年代は今不明ですが、その認識は本来老年のものです。しかし、もしその制作年代が若年であるのであれば、ふたつの生硬な表現上の圧縮が示している通りに、相当な負荷がこの詩人に掛かったことでしょう。それが狂気の一因をなしていたのかも知れません。

年相応に歳をとるという、この人間の一番幸せな事は、実はとても難しいことなのかも知れません。

しかし、そのように平々凡々と生き、無名に徹して、ものを考え、ものを書き、詩作をしたいものです。ヘルダーリンのように。しかし、狂気に陥ること無く。


2012年8月22日水曜日

【Eichendorfの詩 8-3】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 3


【Eichendorfの詩 8-3】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 3

【原文】

Ich reise übers grüne Land,
Der Winter ist vergangen,
Hab um den Hals ein guelden Band,
Daran die Laute hangen.

Der Morgen tut ein'n roten Schein,
Den recht mein Herze spüret,
Da greift ich in die Saiten ein,
Der liebe Gott mich führet.

So silbern geht der Ströme Lauf,
Fernueber schallt Gelaeute,
Die Seele ruft in sich: Glück auf!
Rings gruessen frohe Leute.

Mein Herz ist recht von Diamant,
Ein' Blum von Edelsteinen,
Die funkelt lustig uebers Land
In tausend schoenen Scheinen.

Vom Schlosse in die weite Welt
Schaut eine Jungfrau 'runter,
Der Liebste sie im Arme haelt,
Die sehn nach mir herunter.

Wie bist du schön! Hinaus, im Wald
Gehen Wasser auf und unter,
Im grünen Wald sing, dass es schallt,
Mein Herz, bleib frei und munter!

Die Sonne uns im Dunklen laesst,
Im Meere sich zu spülen,
Da ruh ich aus vom Tagesfest
Fromm in der roten Kuehle.

Hoch führet durch die stille Nacht
Der Mond die golden Schafe,
Den Kreis der Erden Gott bewacht,
Wo ich tief unten schlafe.

Wie liegt all falsche Pracht so weit!
Schlaf wohl auf stiller Erde,
Gott schützt dein Herz in Ewigkeit,
Dass es nie traurig werede!


【散文訳】

わたしは、緑なす国を旅する
冬は過ぎ去り
首の周りには、黄金の首環をして
それには、ラウテ(マンドリンに似た昔の弦楽器)がぶら下がっている

朝は、赤い輝きをなす
その輝きを、わたしのこころこそが感ずるのだ
そうすると、わたしは弦の中へ指を掻き入れ
わが神がわたしを導く

このように銀色に、数々の流れの道は行く
それを遥かに超えて、弦の音が響き渡る
魂は、自らの中に叫ぶのだ:うまく行けよかし!
周りでは、歓ぶ人々が挨拶をしている

わたしのこころは、まさしくダイヤモンドでできている
わたしのこころは、数々の宝石からなる一茎の花だ
それは、陽気に国中に火花を散らしている
幾千もの美しい輝きとなって

お城から広い世界の中へと
ひとりの乙女が下を見遣る
最愛の男性が、乙女を腕(かいな)に抱きしめる
乙女は、わたしの方へ、下の方へと見遣るのだ

お前は何と美しいのだろう!向こうへ出て、森の中で
川が上り下りして流れている
緑なす森の中で、歌えよ、わたしのこころが響いていると
わたしのこころよ、自由に、そして陽気であれ!

太陽が、わたしたちを暗闇の中に置き去りにし
海の中で、その身を洗う
そうすると、わたしは、一日の祝祭から、憩い、心身を休めるのだ
敬虔に、赤い冷たさの中で

静かな夜の中を、月は
黄金の羊を導くのだ
地上の円環を、神が見張り
そこで、わたしは、深く、下のところで、眠っている

すべての偽善の壮麗が、何と遠くにあることか!
静かな地上で、よく眠れよかし
神は、お前のこころを永遠の中で守護している
決して悲しくなることがないようにと!


【解釈と鑑賞】

この詩は、今まで訳して来た詩の中で、昨年の2011年のクリスマスに訳したWeihnachten(クリスマス。http://shibunraku.blogspot.jp/2011/12/weihnachten52.html)という詩を除くと、一番好きな詩です。

素晴らしい詩篇だと思います。

アイヒェンドルフの詩を訳していると、ロマン主義(仮にアイヒェンドルフがロマン主義の詩人だとして、もしそうならば、この文藝思潮)は、シュールレアリスムを既に一部として含んでいるし、それ以上だと思うことがあります。

それ以上とは、何か非常に要素に還元された物事に対する根源的な感情、即ち、恐怖と歓喜を歌うことによって、それ以上になっているということです。

要素に還元された物事とは、言い換えれば、十分に概念化された言葉の意義(sense, intensive)と意味(meaning, extensive)、ということです。

第1連、第2連の後を受けた、第3連は素晴らしい。これは、何か言葉の額面以上のものがあります。様々な流れが一本になって、それも銀色に流れて行く。この銀色という色彩も、単に色の名前を言ったという以上の深い意味があると思われる。人間にとって、この銀色という色は何を意味するのでしょうか。と、そう思わしめるのです。金、銀、銅の銀の色です。何故人間は、金、銀、銅をあしらうのだろうか。(例えば、オリンピックのような場合にも)

第5連も不思議な連です。この女性に対する思い、思慕が、何か全く隔絶した場所からの思慕だという風にとることができる。即ち、成就しない恋であり(もしこの思慕が恋ならば)、最初からあり得ぬことを前提とした、女性に対する思いである。これは、色々な解釈を惹起することだろう。わたしは安部公房という小説家に登場する主人公と女性の関係を思い出しました。男には、このような思いがあると、わたしは思います。

第6連は、第5連の女性を受けて、お前は美しいといっているように見えながら、その感動が、そのまま自然の中を流れる川の流れ、森の中を延々と流れる川の流れに転化されている。森といい、川の流れといい、これらは、感情の面でも、そうして何か得たいの知れない論理の面でも、このアイヒェンドルフという詩人、この人間の奥底から出て来る形象を言い当てた言葉なのだと思います。

第7連の太陽も、そうしてみると何も擬人化しているという解釈にはならず、これはこのままの太陽の行為を歌っていると読むことができます。

Da ruh ich aus vom Tagesfest
Fromm in der roten Kuehle.
そうすると、わたしは、一日の祝祭から、憩い、心身を休めるのだ
敬虔に、赤い冷たさの中で

とある、この2行の素晴らしさ。赤い冷たさの中で敬虔に、一日の祝祭を離れて、心身を休めるというこの2行。これ以上に言いようがないように思われます。

そうして、第8連と第9連の、これも素晴らしい詩行。これらの詩行を味わって欲しいと思います。

[追記]
アイヒェンドルフのこの詩を読んで、わたしはトーマス•マンの言葉を思い出しました。

トーマス・マンという作家が素晴らしいのは、小説家のも詩人のも、その創造能力をふたつの側面から喝破していることです。

曰く、Vergeistigung und Beseelung。

即ち、概念化とコンテクストの創造。

後者はイメージ(形象)の創造でもあります。イメージはあるコンテクストにおかなければ、その生命を発動しない。

アイヒェンドルフのこの詩は、十分なコンテクストを持っている、創造しているということになります。さて、それはどのようなコンテクストでしょうか。

概念化というのは、その最たる者は、詩人やマンのような小説家を除けば、哲学者に必要とされる能力で、ジャック・デリダなどはその能力の極北だと思います。

例を挙げると、ジャック・デリダは、あるセッションでブックエンドとは何かを論じ、論じ来たり、論じつくして、とうとう最後にブックエンドがブックエンドではなく全く別のものに変容、変貌、変化、変形するというところまで概念化したという典型的な例を挙げることができます。

これは、芸術家の能力です。勿論、芸術家、art, artistと同じ位相、同じ階層にいる哲学者においてもある同様の能力です。この能力については、機会があれば、また何度でも論じたいと思っています。

[追記2]
文学史について書いた散文楽の文章をお読み戴けると有り難く、嬉しく思います。:文学史について;http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_3065.html

2012年8月19日日曜日

【Eichendorfの詩 8-2】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 2


【Eichendorfの詩 8-2】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 2

【原文】

Wenn die Sonne lieblich schiene
Wie in Welschland lau und blau,
Ging' ich mit der Mandoline
Durch die ueberglaenzte Au.

In der Nacht dann Liebchen lauschte
An dem Fenster Süß verwacht,
Wünschte mir und ihr, uns beiden,
Heimlich eine schöne Nacht.

Wenn die Sonne lieblich schiene
Wie in Welschland lau und blau,
Ging' ich mit der Mandoline
Durch die ueberglaenzte Au.


【散文訳】

もし太陽が愛らしく、心地よく輝いているならば
太陽が、イタリアで、心地よく、気怠(けだる)く、また青くあるように
そうならば、わたしはマンドリンを抱えて
一面輝く沃野(よくや)を行くだろう

夜には、そうすれば、愛する恋人が隠れて耳そばだてて
窓辺で、甘く不寝番をしていて
わたしと自分の両方に
密(ひそ)やかに、お休みなさいと、美しい夜を願う

もし太陽が愛らしく、心地よく輝いているならば
太陽が、イタリアで、心地よく、気怠(けだる)く、また青くあるように
そうならば、わたしはマンドリンを抱えて
一面輝く沃野(よくや)を行くだろう


【解釈と鑑賞】

この題、旅する音楽家の名前の元に、アイヒェンドルフは、全部で6つの詩篇をまとめています。

今回は、そのうちの第2篇目です。これら6つの詩篇の繋がりは、一つ一つ読みながら、観て行く事に致しましょう。

前の詩が、着の身着のままの、Taugenichtsとしての所有しない、厳しい詩人のこころを歌った詩であるのに対して、それを償うように、この二つ目の詩は、一転して優しい感情の溢れる詩になっています。

第1連と第3連は全く同じ連となっていて、この繰り返しが、この詩の鑑賞の眼目のひとつだと思います。

この詩は、全体が接続法II式、英語でいう非現実話法という話法で歌われていますので、これは現実のことを歌った詩ではありません。

現実の詩人の前に、このようなイタリアの太陽や青い空があるわけでも、沃野があるわけでもないということになるでしょう。

しかし、言葉の力で、そうしてやはり夜ということから、夜という言葉の力を借りて、このような幻想的な一篇が成り立っている。

読者は、この情調を味わえばよいのではないでしょうか。






【西東詩集10】Phaenomen(現象)


【西東詩集10】Phaenomen(現象)

【原文】

Phaenomen

WENN zu der Regenwand
Phoebus sich gattet,
Gleich steht ein Bogenrand
Farbig beschattet.

Im Nebel gleichen Kreis
Seh ich gezogen,
Zwar ist der Bogen weiss,
Doch Himmelsbogen.

So sollst du, muntrer Greis
Dich nicht betrüben,
Sind gleich die Haare weiss,
Doch wirst du lieben.


【散文訳】

Phaenomen
現象

雨の壁のところで
フェーブス(日の神。Apolloの異名)がまぐわう度に
直ぐに、虹の弓の縁(へり)が立つ
色彩豊かな陰影を以て

霧の中に、同じ円環が
引かれているのを、わたしは見る
なるほど、虹の弓は白いが
しかし、それは、天の弓だ

このように、お前、陽気な、白髪の老人よ
お前自身を曇らせ、悲しませてはならない
髪の毛が白くなろうとも
お前は、愛する事をやめないのだ


【解釈と鑑賞】

前の詩では、詩の創造と生命の息吹を歌ったゲーテが、この詩では、現象と題して、生身の現実の自分を歌います。

第2連の

Zwar ist der Bogen weiss,
Doch Himmelsbogen.
なるほど、虹の弓は白いが
しかし、それは、天の弓だ

とある、白は、ゲーテの白髪を連想させて、第3連に続きます。

しかし、他方、霧に現れる虹の弓は、色が白くとも、天の弓だといって、その白の否定的な意味に対して、均衡をとっている。

第1連第2行の、雨の壁のところで、

Phoebus sich gattet,
フェーブス(日の神。Apolloの異名)がまぐわう

というgattenという言葉は、かなり露骨な表現ですが、ゲーテの年齢がこの言葉を選択させ、それが均衡を持つ表現になっているのでしょう。

もし敢えて主題を建てれば、この詩は、老年とセックス、老年と性を歌った詩ということになるでしょう。

自分自身の生に対して、正直で、率直で、貴重な詩だと思います。








第35週: Hyme (頌歌) by Fuad Rifka (1930 - 2011)



第35週: Hyme (頌歌) by Fuad Rifka  (1930 - 2011)  

【原文】

Hymne

Die Sehnsucht der Oliven nach der Oelpresse,
die Sehnsucht der Oelpresse nach den Krügen,
die Sehnsucht der Krüge nach dem Oel,
die Sehnsucht des Oels nach dem Brot,
die Sehnsucht des Brots nach den Händen,
Die Sehnsucht der Erde nach dem Himmel,
die Sehnsucht des Himmels nach der Erde.



【散文訳】

頌歌

オリーヴの、オリーヴの油を圧搾してとることへの憧れ
オリーブの油の圧搾の、壷への憧れ
壷の、オリーヴの油に対する憧れ
オリーヴの油の、パンに対する憧れ
パンの、両手に対する憧れ
土の、地上の、天上に対する憧れ
天上の、地上に、土に対する憧れ

【解釈と鑑賞】

この詩人の ドイツ語のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Fuad_Rifka

これによれば、この詩人はシリアーレバノン生まれの哲学の教授とのことです。ドイツ語の詩をアラビア語に翻訳することに努めたとあります。リルケとヘルダーリンに傾倒。このふたりの詩人に影響を受け、独自の、清澄で形象豊かな詩を書いたとあります。

この、それぞれの物の憧れについての一行を、一行づつ訳して来て、5行目のパンの、両手に対する憧れのところから、神聖な感情の湧いて来るのを覚えました。

やはり、パンというものも、普段食している食べ物ですが、こうしてみると、聖餐と呼ぶに値する地位にある食物なのでしょう。

この神聖な感じは、やはり、両手でパンをつくるということ、両手はまた土を捏(こ)ねるということ。リルケならば、両手は土を捏ねて、壷をつくると歌ったでしょう。そのような創造する手という形象が、ここにはあると思います。このようなところに、影響と言えば、リルケの影響があるのでしょう。

そうして土という同じドイツ語が、同時に地上を意味することから、天上を対比させて、お互いの憧憬について歌っています。

憧憬の連鎖を歌った簡単素朴な詩ですが、何か非常に意味が濃縮された詩だと思います。

これらの憧憬の連鎖よ、褒め称えられてあれ、という意味で、頌歌という題名がつけられたのでしょう。




2012年8月10日金曜日

【ルイス•キャロルの詩2】A Game of Five(5人のゲーム)


【ルイス•キャロルの詩2】A Game of Five(5人のゲーム)

【原文】

A Game of Fives

Five little girls, of Five, Four, three, Two, One:
Rolling on the hearthrug, full of tricks and fun.

Five rosy girls, in years from Ten to Six:
Sitting down to lessons - no more time for tricks.

Five growing girls, from Fifteen to Eleven:
Music, Drawing, Languages, and food enough for seven!

Five winsome girls, from Twenty to Sixteen:
Each young man that calls, I say "Now tell me which you mean!"

Five dashing girls, the youngest Twenty-one:
But, if nobody proposes, what is there to be done?

Five showy girls - but Thirty is an age
When girls may be engaging, but they somehow don't engage.

Five dressy girls, of Thirty-one or more:
So gracious to the shy young men they snubbed so much before!

****

Five passé girls - Their age? Well, never mind!


【散文訳】

5人のゲーム

5人の小さな娘たち、5歳、4歳、3歳、2歳、2歳の
暖炉の前の絨毯の上で転がっている、悪戯(いたずら)と愉快な気持ちで一杯になりながら

5人の薔薇のような娘たち、10歳から6歳の
レッスンで座っている、もう悪戯(いたずら)の時間はない

5人の成長している娘たち、15歳から11歳の
音楽、絵画、言語、そして、7人に十分な食物!

5人の陽気な娘たち、20歳から16歳の
つまり、「さあ、どっちの意味なのかを言ってごらん」と言って、呼んでいるそれぞれの若い男

5人の突撃する娘たち、最も若い21歳の
しかし、だれもプロポーズしなければ、どうしたらいいの?

5人の目立ちたがり屋の娘たち、しかし30歳は曲がり角
娘達は、その魅力でもって男たちを結婚の約束をさせようとしているかも知れないが、しかし、何かこう、そうではない。

5人のめかした娘たち、31歳以上の
内気な若い男たちには、かくも優雅で礼儀正しい、若者たちは
以前は、それほど(同じ程度に)冷淡な態度をとっていた

****

5人の盛りを過ぎた娘たち ー 5人の年齢は?まあ、そうだね、気にしないことだ!


【解釈と鑑賞】

題名の5人のゲームという意味は、5人で行うひとつのゲームという意味です。A game of fivesです。

さて、5人という、何故この数字なのでしょうという疑問がひとつ。

二つ目には、何故年齢を上から下へと数えるのかという疑問です。これはこのようなときの、イギリス人の年齢の数えかたなのでしょうか。

一連一連、年齢が段々と5歳づつ上がっていって、最後は30歳以上という5人の娘たちの歌になる。

その年齢ごとの、キャロルのみた、女性達の特徴を歌っていることは間違いがないでしょう。

そして、3連目の

food enough for seven!
7人に十分な食物!

というのが、また解らないのが面白い。5人の娘のほかに2人いるということを考えると、この2人は両親なのでしょうか。

4連目の

I say "Now tell me which you mean!"

とあるこのI sayのIを、わたしはルイス•キャロルまたは話者ととりましたが、若い男がそういったという解釈もあり得ると思います。

さて、こうして来て、題名の意味に戻ると、5人の娘達が結婚するという目標に至る間に各年齢ごとの、各段階ごとの姿をみて、その全体をひとつのゲームに譬えたと理解することができます。

ゲームという意味は、ある一定の規則に従い、互いに得点をさせないように相手の邪魔をしながら、自分の得点を稼ぐという遊びのことです。

となると、やはり結婚を目標とした5人の娘のゲームという理解も成立ちます。

お互いに牽制し合いながらの、結婚を目標においた、女性磨きゲーム。

男が5人いたとして、ひとつのこんなゲームが成り立つでしょうか。多分、詩にはならないなと思います。

最初の連の、小さい女の子の姿は、本当に可愛らしい。それから、2連目も。これは教える立ち場にいる人間の視線だと思います。

ルイス•キャロルは、これらの年齢の女の子が好きだったのでしょう。あらゆる偏見を抜きにして。その気持ちは、よく解りませす。確かに、そうです。







【西東詩集9】Erschaffen und Beleben(創造と生命を吹き込むこと)


【西東詩集9】Erschaffen und Beleben(創造と生命を吹き込むこと)


【原文】

Erschaffen und Beleben

Hans Adam war ein Erdenkloss,
Den Gott zum Menschen machte,
Doch bracht er aus der Mutter Schoss
Noch vieles Ungeschlachte.

Die Elohim zur Nas' hinein
Den besten Geist: ihm bliesen,
Nun schien er schon was mehr zu sein,
Denn er fing an zu niesen.

Doch mit Gebein und Glied und Kopf
Blieb er ein halber Klumpen,
Bis endlich Noah für den Tropf
Das Wahre fand, den Humpen.

Der Klumpe fuehlt sogleich den Schwung,
Sobald er sich benetzet,
So wie der Teig durch Säuerung
Sich in Bewegung setzet.

So, Hafis, mag dein holder Sang,
Dein heiliges Exempel
Uns führen, bei der Gläser Klang,
Zu unsres Schoepfers Tempel.


【散文訳】

創造と生命を吹き込むこと

ハンス•アダムは、土塊(つちくれ)であった
神が土塊を人間につくったのだが
しかし神は母の胎内から
まだまだ多くの、殺されざるものを運び出した。

神(エロヒム。強いものの意)が鼻の中へと入り
最良の精神をアダムに吹き込んだ
こうして、今や、アダムは既にして何かこうそれ以上のものになったようである
というのも、アダムがくしゃみをし始めたからだ。

しかし、骨格と四肢と頭とを以て
アダムは、半分塊のままであった。
ついに、ノアがその滴(しずく)のために
真実のもの、即ち取っ手のついた大杯を見つけるまでは。

土塊は、直ちに振動、飛躍を感じる
滴(しずく)で体が網の目に濡れるや直ちに
パンの種が酵母の発酵によって動き始めるように

お前の神聖なる模範(亀鑑)は
わたしたちを導くのだ、グラスの杯の響く中
わたしたちの創造主の寺院へと

【解釈と鑑賞】

前のElemente(要素)という詩で、詩人の制作する詩の4つの要素を歌ったゲーテは、この詩では、詩作と、創造という神の行為について、ハーフィスの力を借りて、歌っています。

詩作もまた、神の創造の行為と同じだと言っているのです。

詩人は人間であるが、神と同じように、命の無い土塊のような素材から、生命に溢れた生き物を創造する。それが歌である。その最たる歌い手が、ハーフィスである。

人間には精神が賦与されている。詩にも詩人は精神の力によって、生命を吹き込み、詩を創造する。

精神と生命の無い詩は、形だけのものであり、形式は整っているが半分はまだ生命の無い土塊だったアダムと同じである。

しかし、命の滴の一滴を入れるための、大きな杯を探すことだ。何故ならば、その一滴は、小さいものではなく、大きいものなのであり、それには大杯を用意する必要があるのだ。それが、詩人のなすべきことだ。詩の言葉を、そのように考えることだ。

そうすれば、直ちに詩作品は、自然の法則と自然の力によって、躍動する。パン種が酵母によって発酵するように。

それが、ハーフィスよ、お前の歌であり、お前の詩作品なのだ。

ゲーテは、そのように歌っています。

トーマス•マンならば、Vergeistigung und Beseelung、即ち、概念化とコンテクストの創造と直ちに答えたでありませう。前者が創造であり、後者が生命を吹き込むことに相当します。

それだけに、一層、第1連の

Doch bracht er aus der Mutter Schoss
Noch vieles Ungeschlachte.
しかし神は母の胎内から
まだまだ多くの、殺されざるものを運び出した。

という2行のvieles Ungeschlachte、「殺されざるもの」という言葉の選択には、ゲーテの詩に対する強烈な思い、そうやって詩作をし生き抜いて来たゲーテの強い意志を感じます。

Schlachtenとは、動物を屠殺すること、殺戮することであり、相当に血腥(ちなま)ぐさい、残虐、残酷な言葉です。

詩を創造するということは、こういった人間の行為に対しても揺るぎのないものを創造することだ。

それは、女性の胎内から生まれる。

この詩は、現代の愚かな詩人達、愚かな女性達、また愚かな男性達に是非読んでもらいたい詩のひとです。












第34週: Als sie nach einer Sommerreise ihren Garten wiedersah (彼女がある夏の旅行の後自分の庭を再び見たとき) by Peter Horst Neumann (1936 - 2009)


第34週: Als sie nach einer Sommerreise ihren Garten wiedersah (彼女がある夏の旅行の後自分の庭を再び見たとき) by Peter Horst Neumann  (1936 - 2009)

【原文】

Als sie nach einer Sommerreise ihren Garten wiedersah

Die unter Wunden
aufgesteckte Brombeerhecke
wuchs über sich hinaus,
mit Stachelschlangen
sind die Wege ueberschossen,
dein Fleiss vergessen,
deine Ordnung ueberlebt.

Verbruedert wuchert Kresse
zwischen Bohnen, die Zwiebeln
haben sich mit Wicken
ueberworfen, der kleine Kuerbis
stieg den Baum hinauf,
lässt seine Kugeln bei den Äpfeln
leuchten.

Sich zu verwüsten -
Lust der Gärten. Wenn
du dich freuen könntest,
Gaertnerin. Die Bombe
vom Tomatenstrauch
faellt weich.



【散文訳】

彼女がある夏の旅行の後自分の庭を再び見たとき

傷の下に掛けられている黄苺の繁みが
繁み自身を超えて、その外へと成長していた
棘の列が
道々に氾濫している
お前の勤勉は忘却され
お前の秩序は保(も)たなかった。

絡み合い、一致団結し合って、金蓮花が増殖し放題であり
豆の間には、玉葱が
やはず豌豆(えんどう)と仲違いをしていたし、小さな南瓜(かぼちゃ)が
木の幹を登っていて
その南瓜の玉を、林檎たちの間から輝かせている。

荒廃する
荒れ放題になりたいという庭の快楽。もし
そう言ってあなたが喜ぶことができるとしたら、庭師(女性)のあなたよ。爆弾が
トマトの薮の爆弾が
柔らかく落ちるのだ。

【解釈と鑑賞】

この詩人のドイツ語のWikipediaです。残念ながら、写真がありません。

http://de.wikipedia.org/wiki/Peter_Horst_Neumann

夏の旅行から帰ってみると、折角丹精籠めて作って来た庭が荒れ放題になっていることを歌った詩です。

この詩を読んで、山本夏彦のエッセイで、ある日本画家の庭の荒れ放題の様子を描いた素晴らしいエッセイのことを思い出しました。

あなたが庭仕事をするのであれば、より豊かにこの詩の景色を想像することができるでしょう。

最後の連の庭という言葉は、ドイツ語では複数形になっていますので、この庭には、様々な植物を植えてある小さな庭が沢山あるという、その小さな部分的な庭が沢山あるのだということを複数形で示しています。この庭の様が想像され得ます。

Die unter Wunden
aufgesteckte Brombeerhecke
傷の下に掛けられている黄苺の繁みが

と詠んだ、傷の下にという言葉が何を意味しているのか。

文字通りにとるべきなのか、あるいは譬喩(ひゆ)なのか。

あるいは、庭という場所の中にこのWunde、傷という言葉を措くと、もう直ぐにあああの事だと解るという、そのような傷のことなのだと思います。

ここが一寸不明でした。ご教示下さい。

最後の2行。トマトの爆弾が柔らかく落下するという一文は素敵だ。



2012年8月8日水曜日

【Eichendorfの詩 8-1】Der wandernde Musikant (旅する音楽家)


【Eichendorfの詩 8-1】Der wandernde Musikant (旅する音楽家)

【原文】

Der wandernde Musikant

Wandern lieb ich fuer mein Leben,
Lebe eben wie ich kann,
Wollt ich mir auch Mühe geben,
Passt es mir doch gar nicht an.

Schöne alte Lieder weiss ich,
In der Kälte, ohne Schuh
Draussen in die Saiten reiss ich,
Weiss nicht, wo ich abends ruh.

Manch Schöne macht wohl Augen,
Meinet, ich gefiel' ihr sehr,
Wenn ich nur was wollte taugen,
So ein armer Lump nicht waer. -

Mag dir Gott ein'n Mann bescheren
Wohl mit Haus und Hof versehn!
Wenn wir zwei zusammen wären,
Moecht mein Singen mir vergehn.


【散文訳】

旅する音楽家

我が人生をかけて、わたしは旅することを好む
わたしは、まさにわたしが生きている通りに生きている
もしわたしが自分のことにかまけていたいと思うならば
(そう思うことは実際には、ないわけだが)
それは、わたしにはふさわしいことではない。

美しい、古い歌の数々を、わたしは歌う事ができる
寒さの中で、靴もはかずに
戸外で、わたしは、(竪琴の)弦の中に激しくつかみかかる
夜にはどこで憩うのか、その場所を、わたしは知らない

幾多の美しい女性は、確かに目を惹くであろうし
わたしが、そのような美しい女性のことが好きなのだというだろうが
わたしが一寸でも何かの役に立とうと思いさえすれば
(そう思うことは、実際にはないのだが)
わたしは、哀れな、襤褸(ぼろ)のような男であるだろう

神よ、ひとりの男をお前に与え賜え
間違いなく家と庭のある男を!
もしわたしたち二人が、一緒にいるとすれば
(実際には、そういうことはないのだが)
わが歌声も、わが身のことに煩えよかし


【解釈と鑑賞】

この題、旅する音楽家の名前の元に、アイヒェンドルフは、全部で6つの詩篇をまとめています。

今回は、そのうちの第1篇目です。これら6つの詩篇の繋がりは、一つ一つ読みながら、観て行く事に致しましょう。

アイヒェンドルフは、本当にこのwandern、放浪する、旅する、遍歴するという言葉が好きなのだなあ。わたしも感化されて、この言葉が好きになりました。

何しろ、やはり、詩人は旅人である。そうして、詩人という言語芸術の精華、即ち詩をものする人間として、そうではない普通に言葉を話す人々の人生を代表していると考えるとすると、普通の人生を送っているひとびとも、即ち旅人であり、旅人でない人など、どこにもいないのである。

みな、目の前のことに忙しく自分自身を忘れる毎日であるが、確実にこころの深いところで、もうひとりのわたくしが旅をしているのだ。

そうして、この詩の場合、旅をするのが、音楽家だということが主題にとって、大切なことなのでしょう。音楽家が旅をするということ。それは、一体どういうことなのでしょうか。音楽家もまた、詩人と同様に、旅人なのでしょうか。

第2連を読んで、わたしは、わたしの好きなジャズピアニスト、Bill Evansを思いました。このピアニストも、読んだ文章によれば、生活というものに無頓着で、路上で寝るような生活をした時期があるとのことでした。

わたしがアイヒェンドルフの詩に強く惹かれるのは、第3連にあるように、徹底的に無能な人間としての人間を歌うからです。

この音楽家も無能な人間である。

一寸でも、何かの役に立てば、わたしは襤褸屑であり、乞食である。という一箇の単純極まりない思想です。

これは、アイヒェンドルフの独創ではない。しかし、わたしはこの思想に惹かれるのです。

そうしてみると、この詩篇の第1連の第1行の

für mein Leben

という言葉の意味は、わが人生を賭けても、わが人生と引き換えにしても、命を賭けても、という意味になるでしょう。

第4連では、家と庭を所有している男が歌われます。これは、大人の、一人前の男だというふうにとれば、旅する音楽家は子供だということになるでしょう。

旅する音楽家は、一切のものを所有しないのです。

これこそ、真の芸術家だと、わたしは思います。

それ故に、各連の後半の2行は、どれも接続法II式、英語でいう非現実話法で歌われています。

最後の連の最後の一行、

Moecht mein Singen mir vergehn

この行は、かくもありなむと思って、訳をつけましたが、もし間違っているのであれば、ご教示下さい。






2012年8月5日日曜日

【ルイス•キャロルの詩1】A Baccanalian Ode(バッカス風の頌歌)


【ルイス•キャロルの詩1】A Bacchanalian Ode(バッカス風の頌歌)

【原文】

A Bacchanalian Ode

Here's to the Freshman of bashful eighteen!
Here's to the Senior of twenty!
Here's to the youth whose mustache can't be seen!
And here's to the man who has plenty!
Let the men Pass!
Out of the mass
I'll warrant we'll find you some fit for a Class!
Here's to the Censors, who symbolize Sense,
Just as Mitres incorporate Might, Sir!
To the Bursar, who never expands the expense!
And the Readers, who always do right, Sir!
Tutor and Don,
Let them jog on!
I warrant they'll rival the centuries gone!
Here's to the Chapter, melodious crew!
Whose harmony surely intends well:
For, though it commences with "harm", it is true,
Yet its motto is "All's well that ends well!"
"Tis love, I'll be bound,
That makes it go round!
For "In for a penny is in for a pound!"
Here's to the Governing Body, whose Art
(For they're Masters of Arts to a man, Sir!)
Seeks to beautify Christ Church in every part,
Though the method seems hardly to answer!
With three T's it is graced -
Which letters are placed
To stand for the names of Tact, Talent, and Taste!


【散文訳】

バッカス風の頌歌

こちらが、内気な18歳の新入生の諸君たちであります!
こちらが、20歳の先輩達であります!
こちらが、口髭もない若者達であります!
そして、こちらが、口髭を一杯生やしている男であります!
男どもは、あっちへ行ってしまえ!
この人ごみの中から外へ出て行け
君にぴったりの教室があること請け合いだぜ!
こちらが、検閲官(センサー)諸君だ、いいセンス(感覚)を象徴して表しているんだ
偉い僧侶の被る僧帽が権力を持っているのと同じさ、はい、閣下!
これが、会計管理の長、決して経費を大きくしない人!
そして、これが准教授、いつも正しい行いの人達、はい、閣下!
これが、講師陣
講師陣は、ゆっくりと走らせておけばいいさ!
以上のお歴々は何世紀にもわたって競争して行くこと請け合いだ!
こちらが、司教座聖堂参事会のお歴々で、美しい旋律豊かな一座だ!
その唱和の声は、間違いなく、よくその意図が届くよ:
というのも、その声は、確かに「それは害になる」と始まり、それは本当だが、
しかし、そのモットーは、「終わりよければ、すべてよし」だからだ。
「それは愛だ、わたしが縛られているのは」
という考えが、万事順調のもとさ!
というのも、「やりかけたことは、無理無体でも何がなんでもやり通せ!」という考えだからさ
こちらが、事務管理局のお歴々、その技芸は
(というのも、一個の人間として見ると、みな文芸学修士だからね、はい、閣下!)
その技芸は、このクリスト•チャーチをどの部分においても美しくすることを求めているのだ、
といっても、その方法は色々あって、ほとんど答えられないように見えるがね!
3つのTで、飾り立てるのさ
その文字がおかれて
意味するのは、世渡りの才覚(Tact)、才能(Talent)、そして、分別(Taste)さ!


【解釈と鑑賞】

何故か高校生の頃に、不思議の国と鏡の国のアリスの両方入ったペンギンブックスを買って以来、この作家のことがいつも気になり、気がつくと、ルイス•キャロルに関するドイツ語の本であったり、不思議のアリスに出て来る料理の本であったり、またハードカバーの立派な註釈本であったりと、大枚をはたいて、そういう本を買っても、全然惜しいという気持ちがないのである。

つまり、わたしはルイス•キャロルという作家が好きなのだ。ファンなのである。

このひとが、詩もものしたということを知って、今頃知るというのも相当怠惰なファンであるのだが、その詩集を買い、アルファベット順に詩を並べている詩集であるので、こちらもその順序でひとつひとつ訳してみることにした。

これは、専ら、一体このひとはどういう人なのかという興味と関心に発したことである。この面白い人間をもっと深く知りたいという欲求である。

詩についても、全く予備知識無しで、読むことになる。全く無知の状態で詩に向かいます。

ということで、今回は、その始めの詩、バッカス風の頌歌と題した詩です。

どうも、これは大学に新入生が入ってきたときの詩です。詩の中に出て来るChris Churchは、Wikipediaによれば、キャロルが研究をして、勤めていた学校の名前。次のURLアドレスへ行くと、この学校の写真が載っています。このような研究機関で、キャロルは仕事をしていたのです。

http://www.chch.ox.ac.uk

新入生に対して、ルイス•キャロルが、あるいはこの詩の歌い手が、学内のそれぞれの職域のひとたちを紹介して、それぞれ何をするひとなのかを説明するという詩です。

まあ、この詩は、風刺のこころもある、といっても徹底的にこき下ろしているわではない、ある品格を維持しながら、風刺している頌歌ということになるでしょう。

こうしてみると、バッカス風のという形容詞を冠したのは、新入生の歓迎を祝って、羽目を外して歌った歌という意味なのでしょう。





2012年8月4日土曜日

【西東詩集8】Elemente(要素)


【西東詩集8】Elemente(要素)

【原文】

Elemente

Aus wie vielen Elementen
Soll ein echtes Lied sich nähren,
Dass es Laien gern empfinden,
Meister es mit Freuden hoeren?

Liebe sei vor allen Dingen
Unser Thema wenn wir singen;
Kann sie gar das Lied durchdringen,
Wird's um desto besser klingen.

Dann muss Klang der Glaeser toenen,
Und Rubin des Weins erglaenzen:
Denn fuer Liebende, fuer Trinker
Winkt man mit den schoensten Kraenzen.

Waffenklang wird auch gefodert,
Dass auch die Drommete schmettre;
Dass, wenn Glück zu Flammen lodert,
Sich im Sieg der Held vergöttre.

Dann zuletzt ist unerlässlich,
Dass der Dichter manches hasse;
Was unleidlich ist und hässlich
Nicht wie Schönes leben lasse.

Weiss der Sänger, dieser Viere
Urgewaltgen Stoff zu mischen,
Hafis gleich wird er die Völker
Ewig freuen und erfrischen.


【散文訳】

要素

どれほど数多くの要素から
本物の歌は、その身を養い、構成しているのだろうか
世俗の人間達が、その本物の歌を好んで感受するということ
それを聞くという事を、その歌は喜んで自分自身のものとするだろうか?、歌よ、そうせよ。

愛は、何よりも先にあらまほしきものだ
わたしたちの主題を、わたしたちが歌うたびに
愛は、一層その歌を貫き通し
それだけ益々よりよく響く事だろう

次に、ガラスの杯の響きが響かねばならぬ
そして、葡萄酒の紅玉が輝かねばならぬ
というのも、愛する者たちのために、飲む者たちのために
最も美しい冠を以って、ひとは合図をするからである。

武器の響きもまた、求められることである。
戦場のトランペットが高らかに鳴り響くということ
幸福が炎となって(祭壇で)燃えているというならば
勝利の内に、英雄よ、自らを神として祭るがよい

次に、無くてはならぬものとして最後に来るのは
詩人は、幾多のものを憎むということ
それは、不快で堪え難きものであり、憎むべきことに、
美しきもののようには、生かしめないものである。

歌い手は、これら4つの要素の
根源的な力の素材を混ぜ合わせることができる
ハーフィスのように、歌い手は、諸国民を
永遠に歓ばしめ、そして蘇生せしめるのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩は、詩人が詩を書くための4つの要素について歌っている。

言葉は万人のものです。

この当たり前のことを忘れた現代の日本語の詩人達には、随分と耳の痛い詩だと思います。もし日本語の現代の詩人たちが、このゲーテの詩を理解することができたとして、ですが。

時代のせいにするようなこころは、詩人のこころではない。

そうゲーテは歌っているように聞こえるのです。また、戦いを忘れた詩人は、詩人ではない、とも。

そうして、現代の日本語の詩人の忘れたものの最たるものは、美、美しさである。

何故ならば、4つの要素とは、

1。まづ愛
2。グラスの杯の響き(酒)
3。戦いと英雄
4。美(美しさ)

これらのものであるからだ。

何も註釈を必要としない、ゲーテの質実で、剛健で、単純で率直な言葉を味わえば、それで、よいのではないでしょうか。

詩の構成要素と題して歌うこの構成要素、elementsという考えそのものが、そのまま光学や生物学でのゲーテの思想の根底にある考え方なのだと思います。

これは、ゲーテが、宇宙は、あるいは生命は機能の集合だと考えた人間であることを意味しています。

できれば、ゲーテの散文についても論じてみたいものです。

第2連で、

愛する者たちのために、飲む者たちのために
最も美しい冠を以って、合図をするからである。

とある合図とは、ひとは、愛する者たち、酒を飲む者たちを大切にし、褒め称えるということを言っているのでしょう。

日本風にいうならば、酒もまた雅事に属することなのです。往々にして、二日酔いを招来するにせよ。

最後の

ハーフィスのように、歌い手は、諸国民を
永遠に歓ばしめ、そして蘇生せしめるのだ。

という2行は、どの国、どの民族の詩人も、その国民、その民族のために、そのような優れた仕事をするものだということを歌っている。

確かに、ゲーテやハーフィスの詩はそのような詩であり、また日本の国の、日本民族の数々の詩の形式、即ち、万葉集の歌、連歌、俳諧は、そのような生命力を以て、わたしたちの生活を豊かにしてくれています。

日本語の現代の詩は、如何。






2012年8月1日水曜日

【Eichendorfの詩 7】Nachts (夜々に)


【Eichendorfの詩 7】Nachts (夜々に)

【原文】

Nachts

Ich wandre durch die stille Nacht,
Da schleicht der Mond so heimlich sacht
Oft aus der dunklen Wolkenhülle,
Und hin und her imi Tal
Erwacht die Nachtigall,
Dann wieder alles grau und stille.

O wunderbarer Nachtgesang:
Von fern im Land der Stroeme Gang,
Leis Schauern in den dunklen Baeumen -
Wirrst die Gedanken mir,
Mein irres Singen hier
Ist wie ein Rufen nur aus Träumen.


【散文訳】

夜々に

わたしは、静かな夜を通って遍歴する
すると、月が、かくも密やかに穏やかに忍び足で出て来る
しばしば、暗い雲の包みの中から
そして、谷のあちこちでは
夜啼き鴬が目覚め
と、すると、再び、全てが灰色に、そして静かになる。

おお、素晴らしい夜の歌よ
幾本もの河の流れる奥地の遠い所から来る事
暗い木々の中の微かに身震いする事
お前がわたしの思想を混乱させる
わたしの狂った歌が、ここでは
呼び声のように、ただ夢の中から出て来るのだ。

【解釈と鑑賞】

この舞台も、夜、月、雲、谷、夜啼き鴬、歌、森(木々)、奥、河、思想、夢という言葉で織られています。

第2連の2行目と3行目、あるいは更に4行目は、一寸そのドイツ語の言い表し方が異様なように思われます。

一寸、普通ではない感じがします。

これらは、実際にアイヒェンドルフが経験した現実なのでしょう。

これは単に一度きりの夜の経験ではなく、繰り返し夜に詩人が経験した夜であるが故に、夜々に、と題を訳しました。