2011年8月27日土曜日

Heimkehr(帰郷):第35週

Heimkehr(帰郷):第35週

by Albert Ehrenstein (1886 -1950)


【原文】

Wo sind deine alten Wellen, o Fluss,
Und wo sind eure runden Blaetter,
Ihr Akazienbaeume der Jugend,
Und wo der frische Schnee der verstorbenen Winter?

Heim kehre ich und finde nicht heim.
Es haben die Haeuser sich anders gekleidet,
Schamlos versammelt sind sie zu unkenntlichen Strassen.
Es haben die zopftragenden Maedchen meiner scheuesten Liebe
Kinder bekommen.


【散文訳】

お前の昔の波は、どこへ行ったのだ、ああ、河よ
そして、お前たちの丸い葉っぱは、どこへ行ったのだ
お前たち、青春のアカシアの木々よ
そして、死んだ冬の、新鮮な雪はどこに?

わたしは故郷に帰るが、家路をみつけることがない
家々は、別の衣装を身にまとっていた
恥知らずにも、それらは集まって、見分けのつかない通りになっていた
わたしの最も厭(いと)うべき恋の、お下げ髪した娘たちには、
子供がいた


【解釈】

この詩人のWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Albert_Ehrenstein

オーストリア生まれの、表現主義の詩人とあります。

ドイツ語のWikiは、こちらです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Albert_Ehrenstein

このひとの画像は、これです。若い時代から年老いた時代までの写真をみることができます。

http://goo.gl/Dg6aT


これは、叙情詩といってよいでしょう。

青春の思い出を美化しない叙情詩です。

2連目の第一行は、現在形で書かれていて、それが、動かしがたい事実、何度帰郷しても、いつも厳然としてそうだという感じがあります。

帰郷したくて帰るのだともとれるし、帰郷しなければならないので帰郷するともとることができます。

後者の場合でも、それが、好んでなのか、嫌々なのか。全く、それには触れていません。

含みの多い、一行だと思います。

若いときの恋愛に、厭うべきとか、唾棄すべきという形容を冠したところに、この詩人のアイロニーがあると思います。

第一次世界大戦、第二次世界大戦を経験し、それらの間に、また、ユダヤ人でもあるので、世界のあちこちに旅をしています。

この詩人の、そのような人生を思ってこの詩を読むと、また違った感興を覚えます。


2011年8月20日土曜日

Was dagegen hilft (♀), Gesammelte Ratschlaege befreundeter Damen(だからどうなる(♀)、親しい御婦人方の助言集):第34週

Was dagegen hilft (♀), Gesammelte Ratschlaege befreundeter Damen(だからどうなる(♀)、親しい御婦人方の助言集):第34週

by Matthias Politycki (1955年生まれ)


【原文】

Frueh aufstehen und raus,
aufs Wasser schauen,
an Kaffeebohnen riechen,
Naegel lackieren,
zum Friseur gehen
und ansonsten: Weinen, Waermflasche, Wiedergeburt.

Bedingt hilfreich:
viel drueber reden,
den Arzt wechseln,
Struempfe hochziehen,
Schokoladennikolaeuse vom Vorjahr wegessen,
wahlweis’ zum Abschied sagen: Und bitte
rufen Sie mich auch nie wieder an.

Ganz und gar nicht hilfreich:
aufmunternde Worte,
Power-Shopping,
Kamilentee, Fencheltee, gruener Tee,
am allerwenigsten: der feste Vorsatz,
mit fremden Maennern zu flirten.

Am Ende hilft womoeglich dennoch
irgendwie alles,
wenngleich wenig
und immer nur kurz.


【散文訳】

朝早く起きて、外に出ること
水面(みなも)を眺めること
コーヒー豆の匂いを嗅ぐこと
美容室へ行くこと
その他には、泣く、保温ビン、新しく生まれ変わること

条件付きで役に立つのは、
たくさん話すこと
医者を替えること
靴下を上まできちんとはくこと
去年のチョコレートのニコラウスを食べてしまうこと
人を選んで、こう言って、お別れをいうこと:どうか
もう2度と電話をしないで頂戴ね。

全然役に立たないのは、
励ましの言葉、
大量に買い物すること
カミレの花のお茶、茴香(ういきょう)茶、緑茶
一番役に立たないのは、知らない男どもといちゃつくという
お堅い決心

最後に、それでもまあ、役に立つところで役に立つのは、
どういうわけか、すべて、なんでも、ね、
少ししか役にたたないけれど
そして、いつもほんの一寸の間しか、ね。


【解釈】

この詩人のドイツ語のWikipediaです。写真も載っています。

http://www.google.co.jp/webhp?sourceid=navclient-ff&refresh=1#max55

題名の、だからどうなると訳したドイツ語は、Was dagegen hilftですが、これを直訳すると、それに対して役に立つもの、ということになります。

生物学のメスのマークがついているので、「それに対して役に立つもの(メス篇)」といったところでしょうか。

それに対してのそれとは、女性の、それもどうも中年以降の女性と思われる女性の悩みのことをいっているのでしょう。

カミレの花のお茶は発汗作用があるそうです。

チョコレートのニコラウスというのは、Schokoladenniklaeuseと、一語になっているので、チョコレートでできたニコラウスという意味です。それも、複数形です。

あるいは、ニクラウスというひとで、チョコレートが大好きで有名なニコラウスという意味にも、文脈によっては、なるかも知れません。

これは、ドイツ語圏のGoogle検索では、やはりクリスマスに飾られるか、食べられるお菓子のようです。画像検索に、確かに、チョコレートのサンタクラウスがありました。

最後の連は、何をいっているかというと、主語は「すべて」なのです。

なんだっていいんです、このようなご婦人方にとっては。

すべてが、一時の慰め、といってしまっては、身もふたもありませぬが。

まあ、こんな詩を書いた詩人が男性というところが、おかしい。

多分、女性の詩人には、このような女性についての詩は、書けないのかも知れません。

そうしてみると、題名のWas dagegen hilft (♀)も、だからどうだってんだ、どうなるものでもねえだろう、あったりめえよ(メス篇)と解すると、まあ、この詩人の女性に対する色々な経験がおもわれて、これはこれで、男性としては、楽しいかも知れません。

今日の筆は、ここまで。

2011年8月15日月曜日

Manche Nacht(幾多の夜):第33週

Manche Nacht(幾多の夜):第33週

by Richard Dehmel (1863 - 1920)


【原文】

Wenn die Felder sich verdunkeln,
fuehl ich, wird mein Auge heller;
schon versucht ein Stern zu funkeln,
und die Grillen wispern schneller.


【散文訳】

野原が暗くなると、いつも
感じるのは、わたしの目がより明るくなるということ
もう、ひとつの星が瞬こうとし
そして、蟋蟀(こおろぎ)が、より一層速くささやいている


【解釈】

このひとの英語のWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Dehmel

ドイツ語のWikipedia。こちらの方が写真がいろいろ載っている。

http://de.wikipedia.org/wiki/Richard_Dehmel

「蟋蟀(こおろぎ)が、より一層速くささやいている」というところの「速く」は、ドイツ語では、schnellerというschnell、速いという副詞の比較級ですが、しかし、日本語では、もっと頻(しき)りに、と訳すことができると思います。

この詩は、言葉からみると、ふたつの比較級の副詞が中心になってできている。

ひとつは、より明るくなるのであり、ひとつは、より頻りになるのだ。

前者の主語は、単数の眼であり、後者の主語は、複数の蟋蟀(こおろぎ)です。

それぞれに対するのは、暗くなってゆく複数の野原であり、またたく単数の星です。

こうして言葉の形式の上から考察してみると、どの行も、行と行の関係も、論理的に対比的に、できていることがわかります。

でも、だから、この詩人のこのように計算して書いたからといって、それで、この詩が何だというのでしょうか。

この詩の何がいいのでしょうか。

このように問うて、あらためて詩を読むと、この詩の中心にあるのは、わたしと星だということがわかります。

わたしと星のことが書いてあるのだ。

わたしと星という一行を、如何様にでも変奏させることができるのではないでせうか。

これが、この詩の奥深さだと思いますが、如何でせうか。

この詩人は、若き20代の短編作家であったトーマス・マンを発見した詩人です。この詩人の推挙を受けて、マンは文壇に登場したのです。

1894年11月4日付けのデーメルからマン宛の賞賛の手紙が残っております。

それから、最後の一行に、蟋蟀がないているというところは、トーマス・マンということであれば、
トーマス・マンの小男フリーデマン氏のさいごの一行を思い出させます。

小男フリーデマン氏の最後も、蟋蟀が鳴いている。

マンの場合の蟋蟀は、傴僂(せむし)で小男のフリーデマンの死と共に、またその背景として鳴いているのですが、この詩の場合は、死とは関係が直接はないと思います。

わたしは、この蟋蟀というものを注意してみているのですが、ドイツ文学では、この他にふたつほど、またドイツ系アメリカ人のある短編にひとつ、蟋蟀が出てくることを知っています。

他の国の文学ではどんなものでせうか。








2011年8月5日金曜日

Raetsel(謎々):第32週

Raetsel(謎々):第32週

by Gerhard Ruehm (1923年2月12日、ウイーン生まれ)


【原文】

ich schaue es an:
es ist kein mann:
ich schaue genau:
es ist keine frau.
es ist kein tier,
es ist kein stein.
fuer eine blume
ist es zu fein,
fuer etwas grosses
ist es zu klein
und ein geraet
kann es nicht sein.


【散文訳】

わたしはそれを見る。
それは男ではない。
わたしはよく見る。
それは女ではない。
それは動物ではない。
それは石ではない。
一輪の花にしては
それは繊細すぎる。
大きなものにとっては
それは小さすぎ、
そして、それは
(測定)器具ではない。


【解釈】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Gerhard_R%C3%BChm



一輪の花にしては
それは繊細すぎる。

と訳した箇所は、

一輪の花にとっては
それは繊細すぎる

と訳すことが可能で、そうすると、次の行との接続、流れが円滑になります。

しかし、そう訳すと、この「~にしては」とか「~のくせに」という感じがでなくなります。

それでは、

大きなものにとっては
それは小さすぎ、

とあるのを、

大きなものにしては
それは小さすぎる

となって、これも一寸変な日本語の訳になる。

謎々だから、それでもよいのかな。

今、この詩を改めて読んでいて、蜜蜂かなとか、冬の日の窓に生まれる霜の形象かなとか
いろいろ考えましたが、そうしてみると、この詩の論理は、否定論理和という論理で書かれている
詩だということに思い至りました。

同じ論理を、碧眼録の孫引きで読んだことがあります。

禅宗の坊さんも、このロジックを前にして、宇宙の本質を考えたのでしょう。

今思い出せば、碧眼録の文章は、眼前にあるものの名前をひとつひとつ挙げて、それを次々に否定してゆく文章でした。

例えば、それは、樹木ではない、窓ではない、机ではない、畳ではない、風ではない、空気ではない、といったようにです。

しかし、この論理では、ついには答えはでないことは、明らかです。

しかし、この問いに答えようとする努力は、何を意味することになるかというと、無限とは何かという問いに直面し、否定の形から、これに答えるに至るでしょう。

それから、やはり、同じく否定形を通じて、それは何かという問いに答えることになる。

と、このように考えて来ると、この詩の謎々の答えは、ここで否定されているもの以外のすべて、ということになるでしょう。

(すべてとは何か?ですが。)

Wikipediaをみると、この詩人は、詩文と音(聴覚芸術)を結びつけるこころみをした詩人だとあります。

それ以外にも、いろいろな芸術分野と言語表現との境界を活躍の場にしてきた詩人ということです。