2009年8月15日土曜日

リルケの空間論(個別論5):悲歌5番




1.ここでは、純粋な過少が、あの空虚な過多に、急激に変化する、転ずる。
2. ここでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に、行われる。

リルケは、一体何を言っているのか。

わたしは、ここでリルケが言っているのは、演算でいうならば、論理積という演算のこと、集合論的にいえば、ふたつものの共通集合を求めて名前をつける、人間の思考プロセスのことをいっているのだと思います。これが、わたしの結論です。

リルケは、このことを示す言葉を、悲歌のなかでは、この5番の第2連の「観ることの薔薇の花が咲いて散る」という箇所と、同じ5番の第9連と第10連でしか歌っておりません。
この限られた範囲の中から、詩の中に歌われている条件を満たす回答がひとつだけあって、それが、この答えです。

これをどうやって読者に伝えようとあれこれと考えましたが、余計な廻り道をせずに、率直にわたしの結論を伝えることが最短の道だと思いました。

詩を考え、詩を書くという行為が、文をつくるという、人間の本質的な行為のひとつである以上、詩の命であるその比喩の生成も含め、この思考プロセスに基づいていることは、様々な科学の分野の一致して教えるところですから、ここで詳細を述べることはいたしません。これは、これで、また別の機会にしたいと思います。

この論理積という、最低ふたつのものの共通集合を求めるという思考プロセスは、次のようなものです。

わたしたちは、林檎、蜜柑、柿、苺、桃、葡萄などと名前をつけているものの名前を知っていますが、これらを一言で果物といっています。また、胡瓜、人参、白菜、キャベツ、トマト、ジャガイモなどと名前をあげ、それらに共通した性質を抽象して、それに野菜という名前をつけて呼んでいます。こういった思考プロセスを、算術演算で掛け算、論理演算で論理積と呼んでいます。言語、言葉の世界でいうならば、このような説明になります。

アリストテレスの論理学ならば、果物や野菜という名前のあらわすもののことを類概念、それらの名前のあらわすものの下に帰属する個別のものの名前を種概念と呼ぶことでしょう。

実は、このように頭を働かせているときに、よくよくわたしたち自身のこの思考プロセスを観察すると、わたしたちは、種概念から類概念に(まったくリルケの第10連のいうように)飛躍(「umspringen」)するのです。そうして、類概念の名前をつけるのです。このときに、時間は無関係なのです。時間が存在していないのです。リルケは、umspringen、ウムシュプリンゲン、飛躍するという動詞によって、それを表現しています。時間とは無関係に、また、リルケの概念化した言葉を借りれば、rein、ライン、純粋に、この思考の形式があるだということに気づきます。芸術家は嘘をつかず、本当のことをいう者だとわたしは思います。リルケは、実際に詩人として経験したことを歌っているのです。言葉の通りに。

しかし、他方、上で述べた果物や野菜の例で明らかなように、この思考形式は、わたしたちが日常、普通に行っているものです。詩人の特権ではありません。たとえ、詩人が比喩を生み出すために、この形式に熟達した専門家であるにせよ。この形式は、万人の、普通のわたしたちのものです。

WikipeidaURLアドレスを貼付します。論理積とは、ここに説明してある通りです。

あるいは、こちらの方が、まだ少し親切な説明かも知れません。

しかし、これらの専門的な説明がどうあれ、いづれにせよ、大切なのは、上にアリストテレスの論理学用語で説明をした、果物や野菜というものの生まれるその思考プロセス、思考形式のことなのです。そう考えて間違いでは全然ありませんし、その方が、人工言語ではなく、自然言語を使っているわたしたちには、馴染みが深く、解りやすいと思います。
林檎と蜜柑というふたつのものを観る、そうして、わたしたちは、そのふたつから共通した性質を抽象して、飛躍し、跳躍して、時間とは無関係に、時間の存在しない場所で、それに果物という名前をつける。林檎と蜜柑が、不可解なことに、何故かは解らないが、果物という名前を発見した途端に、数多くの果物という果物が、一挙に激しい変化とともに、その名前の下に存在している。過少が、過多に変身する。そうして、そこに新しいものが、すなわち新しい空間が生まれる。

と、今こうしてわたしは空間と書いていて、この新しい空間を外から観ているのですが(書くということは、そういうことだと思います)、しかし、その空間の中に入ってみると、そこでは、1,2,3と数え始めると、あるいは桁数の多い計算をはじめてみると、どこまで行っても切りが無く、無限に数が、桁が上がっていって、開いてゆく(「aufgehen」)。

このような、わたしたちの意識が、計算、演算をする場所は、リルケのいう通りに、die unsaegliche Stelle、ウンゼークリッヒェ・シュテレ、名状し難き場所、言葉では言い表せない場所ではないでしょうか。わたしもまた、そう思います。Zuschauen、ツーシャオエン、観ることはできるが、言葉でいい表しがたい場所。

この場所のことを、リルケは、バランスの中心、宇宙の中心と呼び、悲歌5番第2連で、既に前のブログで触れたように、薔薇の花に譬えています。第5連では、これは旅の曲芸師の芸についての言葉となっていますから、薔薇が咲いて、散るという表現になっていますが、悲歌5番の最後の連がそうであるように、宇宙空間では、永遠に存在する薔薇の花という表象になることでしょう。

論理積という思考形式で生まれるもの、空間、場所に、この世に一体どのようなものがあるかをお伝えしたいと思います。それは、リルケの天使ではありませんが、わたしたちの日常生活の中に隠れて存在している。姿かたちは全く異なって見えるようですが、実はその構造は、この思考形式で、時間のない場所で生まれたものなのです。

この構造を、ソフトウエアのエンジニアたちは、入れ籠構造(いれここうぞう)と呼んでいます。別にソフトウエアのエンジニアたちばかりではないと思いますが、わたしがはじめて、それまで探究してきた言語の構造と同じ構造を人工言語の世界でそう呼んでいることを知りましたので、そのようにいってみるのです。

この同じ構造についての概念を、英語では、nest、ネスト構造といっております。ネストは、鳥の巣ですね。入れ籠も、鳥の巣も形が似ている。構造も同じだと英語圏のひとは考えているとういことなのでしょう。

試しに、Googleの画像の検索機能を使って、nest of tablesという名前を検索してみてください。そこに、リルケが思い描いたのと同じ空間、同じものの姿が、ある種のテーブルを見ることができることでしょう。

これは、どういうテーブルかというと、全体としてはひとつのテーブルであって、引き出すと次々とその下の階層の同じ形のテーブルが引き出されて出てくる。そうして、使い終わった後には、また押し戻してやると、もとの全体、すなわち1になる。そのようなテーブルです。外国暮らしの長かったひとに訊いた所、これは、パーティーなど、食べ物などを並べておくために使うのだということでした。これも、薔薇の一種です。

もうひとつ、今度は、nest of spoonsという画像検索をしてみてください。これは一体なんでしょうか。今、わたしが検索してみると、まるで薔薇の花のような姿のnest of spoonsが、同様の姿のnest of bowlsと一緒に出てきました。最後にはすべてが収納されて、全体、すなわち1になります。恰も、リルケの天使たちが、美を己の顔の中に汲み戻して、天上の最高位の空間へと、隊列を組んで、渦巻状になって帰還し、その空間で、全体性を備えたひとりの天使、大天使に戻るかのように。

これらは、収納空間を節約するキャンピング用品でよく見かけることがあると思います。それから、台所の計量スプーンでも同様のものがあるかと思います。同じ形のものがたくさん、ある規則に従って(論理積なのですが)、入れ籠になっているスプーンです。台所のボウルもそうですね。

それから、ロシアの人形のマトリューシュカも、同じ思考形式でできた、つまり同じ構造を備えた人形です。

まだまだ身の廻りにたくさんあると思います。

曰く、本の目次で、章、節、段落、文、単語、文字、とか。こうなると、そう、図書館の書架と書物の分類も。

さて、リルケの薔薇の話でした。最後に、リルケの墓碑銘を引いて、ひとまづ、わたしのリルケ論は、空間論としては、ひとまとまりといたしましょう。後残っているのは、登場人物関係論ですが、これはまた後日といたしましょう。

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
soviel Lidern.
薔薇よ、ああ、純粋な矛盾、
かくも数多くのまぶたの下で
誰のものでもない眠りであるという喜びよ

今までわたしのリルケ論で述べてきた要素が、皆入っているのではないでしょうか。薔薇が、宇宙空間の中心に、純粋に、矛盾のふたつがそのままの状態で均衡して、否定のことばであるniemand(だれでもないもの)の眠りとして、そのよろこびとして、かくも数々の、階層化された入れ籠構造、ネスト構造の中で。

2009年8月14日金曜日

リルケの空間論(個別論4):悲歌5番


悲歌10篇を通して、rein、ライン、純粋なという形容詞や、純粋にという副詞の使い方をみると、リルケが、どのような思い、すなわち意義と意味をこの言葉に籠めたか、観ているかが、よくわかります。
純粋な行為をするものたちがいて、それは、死者であり、愛する者たちであり、愛する男女であり、植物であり、噴水であり、動物なのです。これらの行為は、純粋なものだといわれています。死者の場合は、悲歌1番第5 連に、愛する者たちや、愛する男女の場合は、それぞれ悲歌2番第5連と悲歌3番第1連に、植物と噴水の場合は、悲歌6番第1連に、そうして動物のうち鳥については、悲歌7番第1連に、動物と一般名称で呼ばれる動物一般については、悲歌8番第1連に、植物である花々が無心に咲く様子とともに。同じ動物を、さらに悲歌8番第2連では、動物の眺めやる空間が、純粋だといっている。また、悲歌9番第4連には、植物のリンドウの花が純粋なものとしてあげられています。悲歌9番第6連では、苦しみには純粋への浄化作用があるのでしょうか、嘆きの苦しみが、形をとることに対する決心を、純粋に行うとあります。
また、上に挙げたもの以外に、リルケは、手というものに特別の考えを抱いていて(これをここではこれ以上論じませんが、また別の機会に)、悲歌10番第8 連では、次のように歌っています。散文訳とともにかかげます。

Aber im südlichen Himmel, rein wie im Innern einer gesegneten Hand, das klar erglänzende >M<, das die Mütter bedeutet ...... –
しかし、ある祝福された手の内側、内部に存在するかのように純粋に、南の天には、はっきりと明るく輝いているMという文字があって、これは、母たちのMという意味なのだ。

さらに、春という循環する季節の一日も、ein reiner bejahender Tag、アイン・ライナー・ベヤエンダー・ターク、純粋な、肯定する一日と呼ばれています(悲歌7番第2連)。
リルケが悲歌10篇で、しばしば春という季節を歌うのは、このような文脈もあるということなのでしょう。
またそのひとの運命が、無償と奉仕の生涯であれば、それは、das reine Verhängnis、ダス・ライネ・フェアフェングニス、純粋な運命と、リルケは呼んでいます(悲歌3番第4連)。
また、順序が前後しましたが、悲歌4番第6 連には、次のような箇所があります。散文訳とともに。

Und waren doch, in unserem Alleingehn, mit Dauerndem vergnügt und standen da im Zwischenraume zwischen Welt und Spielzeug, an einer Stelle, die seit Anbeginn gegründet war für einen reinen Vorgang.
(わたしたちは)、そうはいっても、一人で道を行くことにおいては、持続するものに満足していたのだし、あそこ、すなわち世界と玩具の間の場所、つまり、最初から純粋ななり行き(または優越)のために基礎付けられた場所に、立っていたのだ。
さらに、また、悲歌8番第2連には、次のような表現があります。散文訳とともに。

Immer ist es Welt und niemals Nirgends ohne Nicht: das Reine, Unüberwachte, das man atmet und unendlich weiß und nicht begehrt.
いつも、世界ということになるのだ、そして、決して一度も、どこの場所にも、否定辞のnichtがなくしては、ひとが呼吸をし、果てしなく知っていて、そして求めるものではないその純粋なもの、見張られてはいないものは、存在しないのだ。

例示の最後にもうひとつだけ。次の用例があります。悲歌2番の最後の連に。

Fänden auch wir ein reines, verhaltenes, schmales
Menschliches, einen unseren Streifen Fruchtlands
zwischen Strom und Gestein.

もし、わたしたちが、純粋な、隠されている、狭い、人間のすまいできる土地を、流れ(流行)と巌(いわおー不易)の間に、果実のたわわになる豊かな土地の一筆でもみつけていればいいのだが(現実には、そのような場所はない)。

ここでいう場所は、時間の無い場所をいっています。不易と流行の間にある純粋な場所。
ですから、時間がないということも、純粋なという言葉には、籠められています。

さて、以上が、悲歌10篇の中にでてくるrein、ライン、純粋なという言葉のすべての使い方の例です。
最後から2番目に挙げた悲歌8番第1連の例は、そのdas Reine、ダス・ライネ、純粋なものを提示するその論理的な提示の仕方が、悲歌5番の、宇宙の中心であるどこにもない場所の中に、名状しがたき場所があらわれるという表現のしかたに、よく似ていることにご注意ください。これがリルケの持つ論理のひとつなのだと思います。純粋なるものは、そのような否定辞なくしては、否定的にいわなければ、表現し得ないのです。否定しても否定しても、残っている、否定できない、過剰な、残余の純粋なるものの存在。
このように考えてくると、何故リルケが、過少と過大という言葉を選択したかがわかるのではないでしょうか。それは、いづれにせよ、余っている、過剰であるものたちなのです。バランスの中心、宇宙の中心から眺めれば。
わたしは、詩、die Posie、ポエジーとは、ここにあり、ここから生まれてくると考えていますが、いかがなものでしょうか。感情、感覚としては、そうしてみると、余っているという感情、感覚ということになるでしょう。それでもなお余るもの。
閑話休題。さて、上の列挙したこれらの例をみると、リルケは、ひとことでいうと、時間に左右されない、つまり時間がたっても変わらない、無償の行為、対価を求めない行為を純粋であると考えていることがわかります。これは、人類学の用語で、聞き覚えたところによれば、絶対贈与といってもよいかも知れません。それは、上に挙げた例のなかの、それぞれの文脈においては、無目的のという意味も含んでいますし、(性的な行為も含めて)行為それ自体の行為という解釈にもなりますし、もっと強く言えば、遊び、遊戯の行為のことを、そのように形容したのだということができます。しかし、遊びといっても、リルケのrein、ラインの使い方は、もっと倫理的な色彩が濃いと思いますので、この方向で極端に解釈することはいましめなければなりません。
おもしろいことは、上に挙げた例のうち、噴水の管の中を水が循環して高くあがるように、草や木の内部の液体が高く上がる例のところで、リルケは、その汁液、樹液が、眠りの中から直接外へでてきて(リルケの好きな前置詞、aus、アウスが使われています)飛び出すと歌われていることです。純粋なこのような行為は、眠りの中にあるのだ、そこから出てくるのだ、出てきても、ほとんど目覚めない、眠ったままなのだということが歌われているのです。
わたしたちは、後で、リルケの墓碑銘の詩の中に、同じ思想をみることができるでしょう。すなわち、宇宙の中心には薔薇が咲いており、それは眠りの中にあるという表象です。なんだか、一挙に空間論の結論に行ってしまったようですが、まだリルケの薔薇がどのような姿をしているのかについては、論じておりません。これは、もっと後の楽しみとしたいと思います。
あともうひとつ付け加えると、rein、ラインという言葉を使うときには、どうもリルケの念頭には、静寂と死という言葉が縁語のように周囲にあるということなのです。眠りという言葉も、その縁語のひとつではないかと思います。
さて、これまで、rein、ライン、純粋なという形容詞または副詞について考察してきたことをもとにして、最初の問題、すなわち、das reine Zuwenig、ダス・ライネ・ツーヴェーニッヒ、純粋の過少とは何かという話に戻りましょう。
純粋な過少とは、そうすると、無償の過少、対価を要求しない過少、掛け値なしの、自らを失って悔いない過少、そのようなものとしての過剰な少なさということになります。
そうして、わたしは、それは、リルケの悲歌5番の歌い方からいって、自然数でいうならば、2という数だといいました。最小、2という数なのだと思います。秤を想像してください。秤のバランスの中心からみたら、それは過少というならば、過多を前提に、ふたつ均衡している過少ということができます。
そうして、このふたつのものは、時間とは無関係に、無償を、また無償に与える存在として、そこにあるのです。
こうして考えてみると、リルケの思想は、悲歌1番の最後の連にあるように、自分自身の死を以って、何かより高次の尊きものへと報われようとするその強い願いが、悲歌5番にも鳴り響いていることがわかります。
さて、こうして、ここに至った結論をもとにして、もう一度リルケの言葉に耳を傾けることにしましょう。再掲します。

wo sich das reine Zuwenig unbegreiflich verwandelt -, umspringt in jenes leere Zuviel
. Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.
そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。
ここでリルケは、次の2つのことを言っています。
1.ここでは、純粋な過少が、あの空虚な過多に、急激に変化する、転ずる。
2. ここでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に、行われる。
そうです、ふたつあることによって、それらふたつのこと、すなわち純粋な過少から、あの空虚な過多に、急激に変化する。
一体リルケは、何をいっているのでしょうか。次回、「リルケの空間論(一般論)」(2009718日)に戻って、考えることにしましょう。

2009年8月13日木曜日

リルケの空間論(個別論3):悲歌5番

この悲歌の第8連の後半、次々と姿態を変えていってもバランスの崩れない女性の曲芸師のことを、そのように歌った後に、第9連の冒頭が、その場所はどこにあるのだろうかと始まるのですが、この場所とは、この文脈からいって、バランスの中心のある場所、そうして、第1連の歌い方から、それが単に曲芸の展開される絨毯の話が、宇宙空間の中にある、様々の変化のある場所の話に変位していますので、宇宙のバランスの中心のある場所を指していると読むことができます。このように、像を二重に写して、想像してみましょう。

第2連の冒頭で、リルケは、次のように歌っています。これは、やはり第1連の後半部で、屈強な男たちの激しい技を歌った後に、続くものです。

Ach und um diese Mitte, die Rose des Zuschauns: blüht und entblättert.

ああ、そうして、この中心、真ん中に、
観ることの薔薇が、咲いては、散るのだ。


ここでわかることは、リルケは、宇宙の中心には、薔薇があるといい、この中心を薔薇にたとえていること。それから、この中心は、観ることによって在る薔薇だということ。さらに、曲芸の展開を、花、その薔薇が咲いてから散るまでのことに比しているということ。
これら3つのことです。

何故リルケは、千変万化する技の連続に、すなわち森羅万象の変化する宇宙の中心に、薔薇という花の名前をあげたのでしょうか。この問いに答えることは、もう少し後にして、第9連の冒頭の場所の話に戻りましょう。

この場所は、バランスの中心のある場所でした。第10連で、その場所が別の表現をとって、少し詳しく歌われます。再度引用します。

Und plötzlich in diesem mühsamen Nirgends, plötzlichdie unsägliche Stelle, wo sich das reine Zuwenigunbegreiflich verwandelt -, umspringtin jenes leere Zuviel.Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.

そうして、そこに突然、不意に、この疲れたどこにもない場所の中に、突然、不意に、言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所が、現れ、そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

Plötzlich、プレッツリッヒ、突然に、不意に、脈絡なくという副詞が使われるところでは、悲歌の中では、なにかあるものが、ある空間から別の空間へと時間とは無関係に移動して、後者の空間の中へと姿をあらわすことを意味するのでした。これは、天使論(2009年7月4日)で書いた通りです。この場合も同様です。

バランスの中心である、「この疲れたどこにもない場所の中に」、Plötzlich、プレッツリッヒ、突然に、不意に、脈絡なく、「言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所」が現れるのです。この場所は、第10連の歌うところによれば、愛する者たちと呼ばれる人間たちが、示すことはできても、その場所で、実際に彼ら、彼女らの、無償のこころ、犠牲や奉仕の精神や忍耐のこころを以ってしても、愛の力だけでは、その成果をものにすることができなかった、そのような場所と歌われています。愛する者たちは、死者たちが観ているということの力を借りて、その極限の姿を、みせることができるかも知れないと歌われています。

したがって、それは、想像を絶する極限の場所とも考えられますし、そこはまた、死者たちのいる空間とも考えられます。確かに、どこにもない場所の中にある名状しがたき場所、言葉でいえない場所です。しかし、そこでは一体何が起こるのかということをリルケは歌っていますので、これを頼りに、この場所がどういう場所なにかを考えてみることにしましょう。

wo sich das reine Zuwenigunbegreiflich verwandelt -, umspringtin jenes leere Zuviel.Wo die vielstellige Rechnungzahlenlos aufgeht.

そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。

ここでリルケは、次の2つのことを言っています。

1.ここでは、純粋な過少が、あの空虚な過多に、急激に変化する、転ずる。
2. ここでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に、行われる。

既に「天使論」で論じたことですが、Plötzlich、プレッツリッヒ、突然に、不意に、脈絡なくという副詞が使われることによって、わたしたちは、リルケの空間には、少なくともひとつの時間が存在するということを知っています。このことを思い出すと、上記の2は、まったくその通りです。

リルケのこの空間では、いくら桁数の多い数を計算していっても、終わることがありません。この演算は、無限に続くのです。これは、時間が無限に延々と続くのです。決して収束することがありません。しかし、空間というものは、どの空間もそのようにできているのではないでしょうか。今わたしたちがいるこの空間の中のことを思っていても、永遠に時間があるように見えます。1,2,3と数を勘定すると、無限に続いて果てがないように見えます。リルケの空間は、一般的なわたしたちの空間と同じではないでしょうか。

このことから、上記1の後半が何を意味しているかが、わかります。

あの空虚な過多に、急激に変化する、転ずる。

あの、とリルケはいってます。これは、読者も既に知っていることを前提にしているものの言い方です。あなたも知っている、あの過多、なのです。わたしたちは、既に知っているのではないでしょうか。いかに過多なものが、このわたしたちの空間を満たしているかを。しかし、これは実際に過多なのでしょうか、そう見えるだけなのではないでしょうか。リルケは、そう考えているのだと思います。ですから、空虚な過多、といっているのだと思います。

あの空虚な過多というときの「あの」を、わたしたちの住むこの空間との関係でこのように理解すれば、詩の理解を容易にするということから、一種の方便として、わたしは、「あの」をそのように言い換えてみましたが、それによって理解をしたことを基にして、さらにもう一度詩の「あの」に着目すると、これは、そのような意味での「この」過多の話だけではなく、だれでもが一度は経験して知っている「あの」過多の話だということがわかります。あなたも、わたしも、そのほかのだれもかれもが、一度は経験して知っている「あの空虚な過多」なのです。「あの空虚な過多」とは一体なんでしょうか。それも、やはり、あるひとつの空間の中で数限りがなく、ものが存在しているように見えているということ、なのだと思います。しかも、絶妙なバランスの中心の存在があって、はじめて。

それとも、リルケは、この「あの」という言葉を、自分自身に向かって言ったのでしょうか。そのようにとることも可能だと思います。そうだとしても、上の解釈は、通用すると思います。

何故、その空間の中に数限りないものが存在し、すなわち無限が存在しているように見えているのかというと、それはそもそも、das reine Zuwenig、ダス・ライネ・ツーヴェーニッヒ、純粋な過少から始まったことだというのです。これが、jenes leere Zuviel、イェーネス・レーレ・ツーフィール、あの空虚な過多に変化した。純粋な過少とは、一体なんでしょうか。

話が少し横道に入るようですが、リルケが使っているふたつの言葉、純粋な過少の過少、Zuwenig、ツーヴェーニッヒとあの空虚な過多、Zuviel、ツーフィールについて考えてみます。前者は、少ないこと(wenig、ヴェーニッヒ)が過剰なのであり、後者は、多いこと(viel、フィール)が過剰なのである。ともに共通する言葉は、Zu、ツー、過剰という言葉です。この場合、リルケは、どんな基準に照らして、それぞれが過剰か、その基準を特に示してはいませんが、極端から極端へと秤の針が大きく振れるようです。秤がそうであるように、こうして考えてくると、バランスの中心、宇宙の中心に照らして、それぞれ、過少過多といっているのだということがわかります。これは、悲歌5番の最後の連で、曲芸師の一組のカップルを考えて、その永遠の釣り合いのことを歌っていたり、また第3連で年老いた曲芸師の皮膚の中にはふたりの男がいるのだと歌っていることに通じているのだと思います。こうして考えると、何故リルケがそれらをそのように表現したかが、よくわかります。

さて、純粋な過少とは、一体何でしょうか。秤の比喩で考えみると、それは、バランスの中心が現れるには、少なくとも2つのものがなければ、現れない、すなわち秤が平衡(バランス)にならないことから、わたしは、この純粋な過少とは、自然数でいうならば2という数字、2という数、これがリルケの言っている純粋な過少だと考えます。

それでは、何故2という少から多が生まれるのでしょうか。

それに答える前に、純粋な過少の純粋なとは、何をいっているのかを考えてみたいと思います。

2009年8月9日日曜日

リルケの空間論(個別論2):悲歌5番




悲歌5番をとりあげることにします。

悲歌5番は、旅芸人、旅の曲芸師たちのことを歌っています。第1連のことばから考えると、毎年繰り返しその時期になると、どこからか、多分、当時のことですから、馬車に乗ってやってきて、町の城門の外に広く大きな絨毯を敷いて曲芸を見せるものとみえます。

この第1連の歌い方によって、この詩は、そのまま、単なる城門の外に敷かれた絨毯の話ではなく、宇宙空間の中の、ある場所の話に変位しています。この悲歌は、彼ら旅の曲芸師の演技する抽象的な絨毯というもの、絨毯という空間、絨毯という場所についての悲歌なのです。

これまで時間をかけて、あれこれと考えたことは、ひとことでいうと、登場人物相関論に行かずに、そのようなリルケの空間を論ずるには、一体どうしたらよいかということでした。それは、この悲歌の最後の連に、愛する者たちという人間の集合があらわれているからです。そうして、この愛する者たちは、その空間との関係で、死者と対比的に歌われているからです。

それゆえ悲歌10篇を通して、愛する者たちが、どのように歌われているか調べたのですが、リルケという詩人は、この愛するという人間の行為に余程興味と関心を惹かれていると見えて、(そうして、悲歌5番の最後の連をみると、それは何故かがよくわかるのですが)、単数形の形も含めると、全部で14回出てくるのです。これは、悲歌の中で同じ言葉が繰り返し歌われるという回数としては、一番多い数字だと思います。

さて、わたしは、空間と死者たちとの関係において、愛する者たちを論ずるということに限定をすれば、登場人物相関論に陥る弊を避けることができると思いました。もちろん、これは登場人物相関論そのものを回避するということではなく、リルケ自身の書き方からしても、必ず、何かに関して、誰かと誰かの関係を対比的に歌うということを必ずしていますので、登場人物同士を、それぞれの物事との関係において、対比的に理解し、説明することは、そんなにむつかしいことではないのです。しかし、一挙にそこへ行ってしまうと、空間論から逸脱してしまうということ、これをどう回避するかということが、わたしの苦心でありました。

この悲歌の第9連、第10連と最後の連、これらの連は、ある同じひとつの空間について、リルケは歌っているのですが、それでは、リルケは一体何を歌っているのでしょうか。この問いに答えることが、この個別論の目的ということになります。しかし、個別の悲歌を論ずるということでは個別論ですが、そのために空間を一般論で論ずるということもまた、しなければならないことでしょう。まづ第9連と第10連を訳し、この2つの連について、悲歌5番の中で、考えてみましょう。

結局、わたしの流儀らしく、結論を最初に述べるということに致しましょう。

これらの連でリルケが歌っているのは、一言でいうと実に単純なことで、宇宙には中心があるということを歌っているのです。その中心、バランスの中心のことと、それが存在する場所のことを歌っているのです。このことはまた、第9連、第10連で空間の無限とは何かということを歌い、最後の連では、そのことを納める空間、場所があるのだという、最後の連に歌われているリルケの思想ともなっています。第9連と第10連は、その前の連の最後のところに関連して、その文脈の中から生まれていますので、前の連の後半から、散文訳して、論を始めることにします。

リルケは、文字通りに老若男女という順番で、旅の曲芸師を、その人間としての全体の姿として、またその全体の姿を提示するために、歌っていますが、第9連の前の連(第8連)とは、その最後の、若い女性の曲芸師についての連なのです。

Du,
immerfort anders auf alle des Gleichgewichts schwankende Waagen
hingelegte Marktfrucht des Gleichmuts,
öffentlich unter den Schultern.

Wo, o wo ist der Ort - ich trag ihn im Herzen -,
wo sie noch lange nicht konnten, noch von einander
abfieln, wie sich bespringende, nicht recht
paarige Tiere; -
wo die Gewichte noch schwer sind;
wo noch von ihren vergeblich
wirbelnden Stäben die Teller
torkeln.....

Und plötzlich in diesem mühsamen Nirgends, plötzlich
die unsägliche Stelle, wo sich das reine Zuwenig
unbegreiflich verwandelt -, umspringt
in jenes leere Zuviel.
Wo die vielstellige Rechnung
zahlenlos aufgeht.

(愛すべき女性である)お前よ、
いつも絶え間なく次々と様々な格好にその姿態を変えている、バランスの揺れ動く、すべての秤の上に置かれている、冷静の、市場の果物よ、そうやって、両肩の下で、公然と、秘密でもなんでもなく、市場の秤にかけられてで売られている果物よ。

どこに、ああ、その場所はどこにあるのだ―わたしならば、その場所は、心臓に、こころの中に持っているのだが―、彼らがもっと長くそうしていることが出来なかった場所は、丁度飛び跳ねながら正しく一組としての動きができない動物たちのように、やはり互いにバラバラになって落ちてしまった場所は、どこにあるのだろうか。
重さが、まだ、やはり重いものとして存在している場所は、
まだ芸人たちのむなしく(いつかは失敗するのだが)渦巻いて回転している棒によって、数多くの皿が落ちそうになりながら廻っている、その場所は、どこにあるのだろうか。

そうして、そこに突然、不意に、この疲れたどこにもない場所の中に、突然、不意に、言いがたき場所、名状しがたい場所、言葉では言い表すことのできない場所が、現れ、そこでは、純粋な過少が、何故かは解らないが、不思議なことに、変身し、跳躍して、あの空虚な過多に、急激に変化する。そこでは、桁数の多い計算が、数限りなく、無限に開いて行く。


さて、上に歌った空間、場所は、抽象的な、天上とまではいいませんが高位の場所ですが、これに対して、次の第11連では、リルケは対比的に、また第10連で歌った無限、果てしの無さという言葉の連想から、世俗の場所ではありますが、同じように無限に、数限りない歓楽の場所を擁しているパリという都会の流行のことを歌っています。そこに流行するいわばモードは、芸術の果実、すべて様々な美しい色彩にいろどられて、運命という過酷な現実から都会のひとたちが仮初めに、その寒さから身をまもるための安っぽい冬の帽子のためのモードだといっています。

こうして、リルケは、ある種の天上、宇宙空間、宇宙の場所と地上の場所のことを歌いましたので、このふたつを接続する働きをする天使を呼び出し、天使に呼びかけて、最後の連をはじめるのです。そしてまた、曲芸という、常に死と隣り合わせの生ということから、生と死を接続するものとして、天使を呼び出してもいます。そのことによって、最後の連を、リルケは書くことができたのだと思います。ですから、死者が出てまいります。最後の連を引用して、また散文訳をいたし、論を続けることにしましょう。

Engel!: Es wäre ein Platz, den wir nicht wissen, dorten,
auf unsäglichem Teppich, zeigten die Liebenden, die's hier
bis zum Können nie bringen, ihre kühnen
hohen Figuren des Herzschwungs,
ihre Türme aus Lust, ihre
längst, wo Boden nie war, nur an einander
lehnenden Leitern, bebend, - und könntens,
vor den Zuschauern rings, unzähligen lautlosen Toten:
Würfen die dann ihre letzten, immer ersparten,
immer verborgenen, die wir nicht kennen, ewig
gültigen Münzen des Glücks vor das endlich
wahrhaft lächelnde Paar auf gestilltem
Teppich?

天使よ。わたしたちが知らないある場所があるのだ、そこに、すなわち、名状しがたき場所、つまり言葉では言い表すことのできない絨毯の上に、その場所はあるのだという、そのことを、愛する者たちは示した。しかし、愛する者たちは、ここで、この場所で、こころの高揚の、気高い数々の、自分たちの勇敢な姿を、実現するところまでは決して持ってゆけなかった。快楽の中から生まれ出た数々の自分たちの塔も、そうである。また、床がそもそもなかった場所で、自分たち自身が互いにただ身を寄せ掛けあっているだけで成り立っている、振るえている梯子も、そうである。しかし、今この廻りにいる、数え切れない、物音ひとつ立てることのない死者たちの前では、愛する者たちは、それができるかも知れない。そうであれば、死者たちは、そのとっておきの、いつも節約してきた、そうやっていつも隠してきた、わたしたちの知らない、永遠に通用する幸福の硬貨の数々を、(曲芸をするという、空間的なバランスの実現を必要とする過酷な現実にもかかわらず、それに打ち勝って、作った微笑みではなく)とうとう本当の意味で微笑むことのできている一対の(旅の曲芸師の)カップルの前に、(宇宙のバランスの中心を捉え、安定して)静かになった、静謐の領する絨毯の上に立つそのカップルの前に、(その技を祝福するために、)投げ与えることだろう。

今日解釈した散文訳をもとに、次回は、そのリルケの空間の中へ、一歩脚を踏み入れることに致します。