今日も移動書斎にてレヴィナスおじさんの「全体性と無限」を読む。
読むと始原なるものが出てくる。これは有限と無限の区別に先立つものだという。とても、よくわかる。
結局、こうして今までレヴィナスを読んできて、おもしろいと思って読んでいる。この人は、わたしが考えてきたことの何か本質に触れている発言をしているのだということを思う。所有、家、始原なるもの、無限なるもの等々。
しかし、今日19:30分に知ったことは、結局、存在論という論は、古代ギリシャ以来の歴史をひっくるめて、わたしの言葉で一言で言えば、その論は、als obの論だということである。それは、「恰もそうである如くある」ことについての論であるということである。そうして、それは、すべての存在論は、言語機能論に収まるということを意味している。
存在論的に語るひとが、いつも認識をおろそかにするのは何故であろうか。
最近何かの文章で読んだが、西洋の哲学の主流は歴史的に存在論だということである。カントは違ったといっている。カントは認識論に舵を切った哲学者だと。これは本当であろうか。本当だとしても嘘だとしても、上に書いたことには間違いがないと思う。
ヴィトゲンシュタインを大切にする哲学者達がいるとしたら、それは存在論を離れる(否定するのではなく)論だということになる、というのが上のわたしの論なのであるが、どうであろうか。
何故ならば、ヴィトゲンシュタインも言語機能論だからです。
言語機能論とは、何も難しい論ではなく、その言葉の意味は使い方によって定まるという考え方です。
何をいいたいか、レヴィナスを読んで知る現象学や存在論は、ドイツ語でいうals obの論だということが言いたい。「恰もなになにの如く存在する」という論じ方、ものの見方の世界です。
その他共感するところが多々あり。こうして、何とか最後まで読むことができそうな予感がします。
今日もなにか大いに飛躍したような気がするが、わがうちなる世界にては首尾一貫しているのであります。これを乱すのは恋心と酒のみである。これらは、外部があるということを神聖にも示してくれるから。
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