さて、それでは、再び真理とは何だろうか。これが第3節の題である。しかし、安部公房は詩人であって、まづ冒頭にこのように書かねば、論理の展開ができないのだ。
「真理とは曠野に流れる蘆笛の音である。真理とは心理の仮面である。」と。
さて、真理とは何か。それはどのようなものであるのか。安部公房曰く、真理は次の2つの姿をとるといっている。
(1) 真理は真虚の尺度である(コンピュータが普及した今ならば、真偽というだろう)。
(2) 真理は開示性(段階的な次元的展開)を有する。
そうして,真理は、このようであるものであるにせよ、「真理は否定、肯定の圏外にあるものである。真理自体は存在でもなければ、非存在でもない。真理はその有要性、不要性に不拘、敵、味方に不拘、人間の関係者であるという性格を失わない。」何故ならば,真理は、主観を前提にし、主観的な体験を、次元展開することで存在するものだからだ。同じことをまた、「要するに真理は人間の在り方の一性格なのである。」といっている。
安部公房の立場は、次の第4節で人間の在り方を論じるために、真理を「人間の関係者」にすることにある。このことから、人間の持つべき態度として、転身という、次元展開の継続的な姿勢が第4節で言われることになる。
さて、「要するに真理は人間の在り方の一性格なのである。」ということを証明するために、安部公房は、次の文を持って来て説明しようとしている。
「真理は人間の憧憬である、と言う事の中には真理がある。」
最初の真理と後の真理が全く同じ意味ならば、循環、そうでないならば、次元展開だと安部公房はいう。それは、そうだろう。さて、そうして、前者の場合、すなわち循環という場合はあり得ないという。何故ならば、人間には意志があるから、憧憬とは「永遠に人間の手中には入るべからざるものである」からだ。ここで、安部公房は強引に、形式論理学的な解釈ではなく、あくまでもその意味に関する人間性格的な解釈に固執している。そして、真理と憧憬という言葉に。更に、この「~の中に真理がある。」という命題の形式に。
他方、この命題の形式に対応して、「A....は真理である」という文は、「一定の法則的なものとして理性の支配下に置かれて終う。」といっている。これは普通の命題の形式。
だから、安部公房があくまでいいたいのは、前者の「~の中に真理がある。」という命題の形式の方であって、この命題の中にあるふたつの真理は異なるということがいいたいのだ。「此の二つの真理は明らかに次元的相違を持つのである。」という。それは、そうだろう。だから、どうだというのか、一体安部公房は何がいいたいのか。
実は、無意識は(ニーチェの先生のショーペンハウアーならば一言で意志といったことだろう)、様々に展開して、単にこの前者の命題のような2次元の文の場合であっても、とどまることなく、この二つの真理の間に様々な解釈できる文を生成するのだといっている。安部公房は全部で5つの解釈の例を挙げている。(ここの論理展開はむつかしい。一応いいたいことはわかるが、この意味論的な―といっていいと思うけれども―解釈に強引にもってゆくところが、わたしも完全に理解はできていない。)
そうして、証明し得たことは、「真理は人間の在り方である。」ということだと主張している。これが、「第3の客観に到る上述の方法を踏襲して、終に」達した結論である。
しかし、この節の冒頭を詩的文で開始したように、この節の終わりにもまた、安部公房はこのように言わざるを得ない。これが安部公房の詩とは何か、詩人とは何かの解答なのである。詩(無意識の中、意識の下にあると思われる)というものを言語で定義することができないのだ。言語を使って、夜といったように象徴する以外にいいようがないのだ。さて、
「第三の客観とは、正しき主観の上昇的次元展開の極限であった。そして此処には一種の詩的体験が必要なのである。」
そうして、その詩的体験の例として、次に引用する母と子(父親ではない)の比喩は、いかにも安部公房らしいと私は思う。このような体験ができる人間が詩人なのだ。
「そして子が母に選択的に属すると同時に、それから分離して新しき世代の独立者になる如く、此の客観も、其処に収斂して行った主観の個別的性格から離れて、何時か宇宙的な詩的体験として、是も亦純粋な人間の在り方に昇華されて行くのである。」
そうして、この節の最後には、次節と次章の結論を既に先取りして次のように書いている。
「即ち、此の世界内―在と世界―内在との一致した諸々の次元展開の極限に於いては、客観と真理とは、単に人間の在り方の表現的相異として認識せられるのである。」
「世界内―在」と「世界―内在」は、動態的な入れ籠構造(次元変換)になって、詩人は、この構造の境界域を、外面を削りながら、消しゴムで消しながら、内面、できるだけ無意識に迫ったその境界面に達する努力を行い、それによってまた、この入れ籠構造は永遠に循環する。この構造を安部公房は18歳の「問題下降に依る肯定の批判―是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―」において「実を云えば現代社会はそれ自体一つの偉大なる蟻の社会に過ぎないのだ。無限に循環して居る巨大な蟻の巣。而も不思議に出口がないのだ。」と書いているのだと私は思う。
さてこの節の結論は、次のような文で締めくくられ、第4節へと繋がっている。
「かくて総ての現象表象は、唯一つの人間の在り方の次元的循環に回帰するのだ。そして此の事を更に明確ならしむる為、吾等は<<人間の在り方>>を、その表象並びに内容について更に批判展開せねばなるまい。」
安部公房のおもしろい特徴は、こうして書いて来てみると、「総ての現象表象」と書いておきながら、決して認識するという用語を使用しないことだ。そうではなく、存在論的にだけ考えて(勿論表象を存在論的に論じることはできるけれども)、人間の在り方に関係させて論ずることだ。
この第3節で到った結論は、いうまでもなく、安部公房の小説や作劇の抽象的・哲学的な説明になっている。これを実存主義というかどうかは、考えていることが、これほど自明であれば、どうでもいいことのように思われる。
第4節の概要を述べる。
さて、人間の在り方である。これは、これまで述べ来った通り、解説した通りである。安部公房がこの節で強調するのは、態度である。それは体験的態度、すなわち「考える事よりも見つめる事、学ぶ事、そして批判する事」である。また、この態度は、「問いかける者の態度」と呼ばれている。「問い掛けの在り方=態度の昇華こそ、人間の在り方を決するのである。」それは、どのような態度であるか。前節までは、言語の側から無意識を意識化し、次元転換を繰り返すひとを詩人と呼んでいたが、この節では、前節の第3の客観に到る方法を駆使して得られる無意識、すなわち夜による自己の自覚と、果てしない次元変換のすえに到達する純粋な意識的な客観の把握とを、自己承認という言葉で統一的に表している。この時、安部公房はハイデッガーというドイツの哲学者のいう「実存の日常性、即ち現存在の優位性」といういいかたで、自説の補強をしている。「その日常性が純粋に取り上げられて生存者の選択性をその本質に於いて展開した時、そこに在るのが自己承認なのである。」これは、上述の母と子の比喩を、自己承認という言葉を使って、いいかえたものである。言おうとするところは変わらない。
そうして、どうしても安部公房は、無意識というよりは、やはりただただ夜といいたい。このような象徴的な言い方以外には、できないといっているかのようだ。「夜は決して理性の作品ではない。又体験から割り出されたものでもない。体験自体なのである。夜はまねかれた客人ではない。夜は此の部屋に満ちる空気である。総てをかくあらしめるもの、それが夜である。」「夜はかくあらしめるものであった。」「此の<<かくあらしめる>>は意識され得るものでないことは明らかである。」
さて、このような夜と、人間の在り方の関係や如何に。このふたつはもともと、その本質において同じものだと、安部公房はいう。夜はものという「対象化的手法」に依ったというのに対して(恰も夜に意志があるかのようだ)、人間の在り方は、夜が「<<かくあらしめる>>」という(人間に及ぼす)行為的表現であるというだけだからだ。「つまり、人間の在り方は夜であり、夜は人間の在り方なのである。」
ここの所の安部公房の論理展開のむつかしさ、あるいは苦しさは、徹頭徹尾認識論を排除して議論を進めようとしているからだとわたしは思う。ショーペンハウアーならば、意志と表象としての世界といっただろう。そうして、認識論と存在論で、このふたつのことを論じただろう。
さて、「問いかける者の態度」をもって、「此の展開された日常性への没落の中にのみ此の此の人間は捉えられるのだ。」そこで、初めて、人間は、「存在者」になるのだ。そのとき「人間の在り方」が本来の意味で実現する。この実現を、安部公房は、「体験的象徴」といっている。この在り方は、夜と同じ「記号的象徴」である。
この第4節で安部公房のいいたかったことは、こうして読んで来ると、結局、夜のことであり、人間の在り方であり、存在者である詩人のことであり、そのような詩人の象徴的な在り方のことである。それを何故か、自己承認ということばを使用して、再度繰り返して、今までのことを纏めてみたと読むことができる。
第2章の世界内在に移る。
(続く)
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