2010年12月30日木曜日

日本語の詩は何故改行するのか、できるのか?

今日も歳末とて午前中大掃除。

その間、頭をよぎることあり。

それは、日本語の詩の改行の問題です。

文書を整理していたら、banさんから戴いた立教大学の詩の講座での教科書が出てきて、そこに秋山基夫さんの「詩行論」の引用があり、再度この問題について考えたい。

とはいえ、あるいは備忘のようなものになるかも知れない。

最新のtabの編集後記、confidenceに書いたわたしの文章をまづ引用します。

「リルケのオルフェウスへのソネットを訳していて思ったことで
あるが、ヨーロッパの詩は脚韻を踏むので、改行しなければ
ならない。改行するのは、脚韻を踏むためである。

これに対して、日本語の詩は何故改行するのであろうか。
ヨーロッパの詩の真似をして改行しなければならないから
改行しているのだろうか。改行する必然的な理由は
なんだろう。脚韻ではない。

今芭蕉七部集を読んでいるので、連句のことを思った。これは、改行の連なりである。付合という必然的な理由がある。

日本人の書く改行詩にある深層意識は、これではないのだろうか。

これは、視点を変えてみれば、モード(話法)の変換の連続ということである。これが連句、俳諧だと思い、日本語の詩の急所、エッセンスだと思う。

そうであれば、それを意識して書けば日本語の詩になるのではないかと思った。」

ここで言っていることは、

1. 日本語の詩は何故改行するのか?という問い。
2. モード(話法)の転換ということなら詩の改行はあり得るということ。

このふたつのことを言っている。

もっと言えば、西脇順三郎の詩の改行は、上の2に当たっているのではないかということです。

さて、秋山さんの詩行論から以下に孫引きします。

「朔太郎の文語詩から口語詩への移行は、文語の美意識の破壊、口語による詩の創造という二段階であった。」

「朔太郎が口語によって詩を書いたとき、文語の場合のように七五などの句を単位として行の長さを決めるわけにはいかなかったこと、にもかかわらず行わけの詩を書いたのだということ、この当然と見えるところに、実は、現在にいたるまで持ちこされた問題の核心があるのだ。連用形を多用すれば、当然そこに脚韻のようなものの、規則化されないその時限りの押韻の効果はあるだろう。また、一行が何によって終わるのか、それを決めることにもなるだろう。しかし、それがただちに、行の長さを決めるすべてにはならないのだ。」

詩と対極にある典型的な散文の文章を想像してみて、もし改行せよといわれて、詩のように改行するとしたら、その区切りの理由は、明確に次のようになるだろう。

1. 主文をひとつ提示する(提示して一行を終わる)
2. 主文と従属文を分けて改行する。
3. 更に、従属文の中の主語と述語で分けて改行する。

例を即興でつくってみると、

今日詩の教室へ行くと
先生が先に来ていたので
おはようございますと
挨拶をした。

というようにです。

同じbanさんの資料にある倉田比羽子さんの「脱落」という詩の、引用されている最初の二行は、次のようになっています。これは、散文でいう上の2の例です。

「わたしは 鏡のなかのその人に慎み深くわたしと呼びかけるだろうから
呼ぶ声は夜明けの航跡 光を導く愛の触媒となってふり返る」

ここでは、形式上、詩と散文の区別はつかない。

この一文(実際には二行の文。しかし、ひとつのセンテンス)が詩であるとしたら、それは何によっているのだろうか。

形式でなければ、実質によるのだという議論になるだろう。

そうして、詩とは何かを定義しなければならなくなり、詩といっても、その言葉の下で、詩の精神、Poesie、詩の制作、詩作品のいづれかを言っているという議論になるだろう。

(詩の定義については、我が詩文楽を御覧ください:

そうすると、ここで問題になるのは、詩の精神とポエジーである。

上の倉田比羽子さんの一行は、ポエジーを有するか?また詩の精神の発露があるか?ということが問われることになる。

わたしの詩文楽の詩の定義によれば、詩は典型的には隠喩(メタファー)によって現れるので、この詩の一行にそれがあれば詩だということになる。

確かにそうみれば、特に主文(2行目の行)は、隠喩の連鎖である。

(この稿続く。)

追伸:詩文楽の詩の定義を、備忘的に、そのままここに転記します。

「2009年10月28日水曜日
詩を、また詩について、書くことについて

リルケの詩について書きながら、あれこれ詩と詩について考えて得たもの、得たことがある。詩とは、ポエジーと詩作品または詩作という意味です。ひとによっては、詩精神という意味まで、詩という一語に籠めているひとがいるように見える。さて、ここで、中間地点で、小さなまとめを記しておきたい。それは、次のような定義です。

1.詩とは、連想の芸術である。

2.詩心とは、無媒介のこころである。

3.分類とは、概念を定義することである。


1の定義は、連想ということから、これは隠喩のありかを既に伝えている一行(センテンス)なり。この定義の中の詩とは、詩作品または詩作という意味です。

2の定義は、これはこの通り。直かなこころのことである。普通は、この世にはない。よほどのことがなければ。人は普通は、媒介、媒体を通じてまた共有して、意思疎通を図っているから。その形式が、ことばと文法ならば、主語と述語ということ。詩は、そうではない。

3の定義は、これは、隠喩の形式でもある。隠喩は、このように、これほど、詩人の宝なり。この定義から、隠喩はまた連想でもあるということが判る。1の定義と実は、同じことを言っている。かくも姿が異なるけれども。


(実は、ひとつのことを、敢て、三つに分けたものである。)」

0 件のコメント: