2012年12月29日土曜日

【Eichendorfの詩 17-5】Der verliebte Reisende (恋する旅人)


【Eichendorfの詩 17-5】Der verliebte Reisende (恋する旅人) 

【原文】

                       5

Gruen war die Weide,
Der Himmel blau,
Wir sassen beide
Auf glänzender Au.

Sind's Nachtigallen
Wieder, was ruft,
Lerchen, die schallen
Aus warmer Luft?

Ich hör die Lieder,
Fern, ohne dich,
Lenz ist's wohl wieder,
Doch nicht für mich.


【散文訳】

                     5

緑なのは、野原であった
天は青く
わたしたちは、ふたりとも坐っていた
輝く沃野に

夜啼き鴬だろうか
再び、何を呼んでいるのだろうか
雲雀は、響いて来るその声は
暖かい空気の中から

わたしは歌を聞く
遥かに、お前もいないまま
春は確かに再び来ているが
しかし、わたしのためではないのだ。

【解釈と鑑賞】

愛する女性と別れて旅をする旅人の心境が、今までの詩と同様に歌われています。

野原、夜啼き鴬と雲雀、そしてその声、天、歌、女性、その女性がここにいないということ、春なのに、自分はそこにいないこと。

これらのことの全体が、この詩人の詩情を形作っています。

【西東詩集27】 Wink(合図)


【西東詩集27】 Wink(合図)


【原文】

Wink

UND doch haben sie recht die ich schelte:
Denn dass ein Wort nicht einfach gelte
Das müsste sich wohl von selbst verstehen.
Das Wort ist ein Fächer! Zwischen den Stäben
Blicken ein Paar schöne Augen hervor.
Der Fächer ist nur ein lieblicher Flor,
Er verdeckt mir zwar Gesicht,
Aber das Mädchen verbirgt er nicht,
Weil das Schönste was sie besitzt,
Das Auge, mir ins Auge blitzt.


【散文訳】

合図

そう、しかし、わたしが非難する奴らは正しいのだ。
何故ならば、ひとつの言葉は簡単には通用しないということ
これは、確かに自明のことに違いないから。
言葉というものは、ひとつの扇なのだ!扇の骨の間から
ふたつの美しい眼が覗く。
扇は、愛らしい、満開の花であり
それは、わたしの顔を、成る程隠すが
しかし、娘を隠すことはしない。
何故ならば、娘の所有する最も美しいもの、即ち
眼が、わたしの眼の中へと煌めくからだ。


【解釈】

「それ(扇)は、わたしの顔を、成る程隠すが」と訳したところは、「それ(扇)は、わたしから、娘の顔を隠すが」と訳すことができます。その方がよいかも知れません。そうすると、

それ(扇)は、わたしから、娘の顔を隠すが
しかし、娘そのものを隠すことはない

という意味になります。

第1行目の「奴ら」は、前の数篇の詩の内容を承けていて、世間の法律家ども、詩を理解しない輩ということでしょう。

こうしてみますと、次の詩は、ハーフィスに寄すという題の詩ですが(これがこの巻最後の詩です)、この小さな詩は、次の詩へのはじまりと、更に次の巻、即ち愛の巻への橋渡しとなる詩という性格を持っています。





Sternenmelodie(星の旋律):第1週 by Christian Morgenstern(1871-1914)


Sternenmelodie(星の旋律):第1週 by Christian Morgenstern1871-1914



【原文】

Wie Süß ist alles erste Kennenlernen!
Du lebst so lange nur, als du entdeckst.
Doch sei getrost: unendlich ist der Text,
und seine Melodie gesetzt aus  Sternen.


【散文訳】


なんと、すべての最初に知遇を得るということは、かくも甘いのだろう!
お前は、お前が発見する限りにおいてのみ生きている。
しかし、安心せよ。テキストには限りがなく
そして、その旋律は、星々の中から配置され、布置されるのだから。



【解釈と鑑賞】

2013年最初の詩です。

最初の詩人は、Christian Morgenstern。この詩人の英語のWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Christian_Morgenstern

病弱で、療養のためにドイツ国内と、スイス、イタリアを転々としたとあります。肺炎で42歳で没しています。

その詩は、イギリスのナンセンス文学の影響を受けたものとのこと。


第3行の「しかし、安心せよ」とは、毎日が発見の連続でなければならないとしたら、言葉も足らなくなり、これは大変だということです。

しかし、大丈夫といって、次の言葉をつないでいます。








2012年12月23日日曜日

【西東詩集26】 Offenbar Geheimnis(公然の秘密)



【西東詩集26】 Offenbar Geheimnis(公然の秘密)


【原文】

Offenbar Geheimnis

SIE haben dich, heiliger Haffs,
Die mystische Zunge genannt,
Und haben, die Wortgelehrten,
Den Wert des Wortes nichts erkannt.

Mystisch heissest du ihnen,
Weil sie Närrisches bei dir denken,
Und ihren unlautern Wein
In deinem Namen verschenken.

Du aber bist mystisch rein,
Weil sie dich nicht verstehn,
Der du, ohne fromm zu sein, selig bist!
Das wollen sie dir nicht zugestehn.

   
【散文訳】

公然の秘密

あいつ等は、お前を、ハーフィスよ、
神秘的な舌と呼び、
そして、そのくせ、その言葉の学徒どもは、
言葉の価値を認識していなかったのだ。

神秘的だと、お前は、奴らの間では呼ばれる
何故ならば、奴らはお前を馬鹿だと思っているからであり
そして、奴らの不純な、全く純粋ではない酒を
お前の名前の中に注いで、小売りするからだ。

お前は、しかし、神秘的に純粋なのだ
何故ならば、奴らがお前を理解しないが故に
お前、敬虔であることなくして、神聖であるお前よ!
このことを、奴らは決してお前には認めようとしないのだ。



【解釈】

題名の訳は、公然の秘密としましたが、しかし、形容詞であるoffenbar、公然のという言葉が変化しておらず、原形のままですので、秘密は公然たり、とか、公然たるものこそ秘密なのだという訳の方が正しいかも知れません。このような事情を知った上で、簡潔な、説明的ではない言葉の方を敢えて選んだということです。

ハーフィスと、世俗、通俗の学者たちを対比させて、前者の優れていることを歌った詩です。

真に優れた者に、通り一遍の名前をレッテルとして貼って、自分の恐れの感情と、本来表すべき尊敬の念を隠して、それらをないものとし、また知らないものとなすのは、世の通俗のものたちの常です。たとえ、どんなにその社会的な地位が見かけ上高かろうとも。

ハーフィスが「神秘的に純粋なのだ」という形容に、ゲーテの心が宿っています。そうして、そのことを真に知る者が誠に少なく、公然の秘密であるということの、この題名の中に。



2012年12月20日木曜日

【Eichendorfの詩 17-4】Der verliebte Reisende (恋する旅人)


【Eichendorfの詩 17-4】Der verliebte Reisende (恋する旅人) 

【原文】

                       4

Ach Liebchen, dich liess ich zuruecke,
Mein liebes, herziges Kind,
Da lauern viel Menschen voll Tücke,
Die sind dir so feindlich gesinnt.

Die möchten so gerne zerstören
Auf Erden das schöne Fest
Ach, könnte das Lieben aufhören,
So mögen sie nehmen den Rest.

Und alle die gruenen Orte,
Wo wir gegangen im Wald,
Die sind nun wohl anders geworden,
Da ist's nun so still und kalt.

Da sind nun am kalten Himmel
Viel tausend Sterne gestellt,
Es scheint ihr goldnes Gewimmel
Weit uebers beschneite Feld.

Mein' Seele ist so bekommen,
Die Gassen sind leer und tot,
Da hab ich die Laute genommen
Und singe in meiner Not.

Ach, waer ich im stillen Hafen!
Kalte Winde am Fenster gehen,
Schlaf ruhig, mein Liebchen, schlafe,
Treu' Liebe wird ewig bestehn!

【散文訳】

                    4

ああ、愛する人よ、お前をわたしは後に残して来た
わたしの愛する、愛らしい子供よ
そこには、多くの人間たちが、たくさんの奸計を以て待ち伏せている
彼らは、お前にかくも敵意を持っているのだ

彼らは、かくもよろこんで破壊したいのだ
地上で最も美しい祭りを
ああ、愛することが止むなどということがあり得るのであれば
彼らは、その残りをとればいいのだ。

そして、わたしたちが森の中を歩いた
すべての緑の場所が
今や確かに別のものになった
そこは、今はかくも静かで、寒い。

そこには、今は、冷たい天に
幾千という星々が配置されていて
その黄金の群れは
遥か、雪の積もった野原の上を覆っているようだ。

わたしの魂は、このようにして得られた
小路は、空虚で、死んでいる
そこでは、わたしはラウテをとって
そして、わたしの苦難の中で歌った。

ああ、わたしが静かな港の中にいるならばいいのに!
窓辺を冷たい風が行く
静かに、そのまま眠れよ、わたしの愛する人よ、眠れよ
誠実な愛が永遠にありますように!


【解釈と鑑賞】

歌う旅人は、その途上で愛する女性とわかれ、その女性をおいてきたのです。

そうして、その女性の身の上を思い、案じている歌です。

Ach, könnte das Lieben aufhören,
So mögen sie nehmen den Rest.
ああ、愛することが止むなどということがあり得るのであれば
彼らは、その残りをとればいいのだ。

とある意味は、有り得ないが、もし愛するという人間の行為が止むことがあるのであれば、その後の愛する事のないところ、その残余、残り滓(かす)を、そういう奸知にたけた輩どもはとるがいいのだという意味です。お前達に、愛するなどという尊い行為をゆるすものか、という意味です。

ラウテは、古典的なマンドリンに似た形の弦楽器です。アイヒェンドルフの詩にはよく出て来る楽器です。

ことさらに難しい註釈を必要とする詩ではありません。この歌の情調を味わうことで、十分な鑑賞になると思います。

2012年12月16日日曜日

【西東詩集25】 Nachbildung(模倣)



【西東詩集25】 Nachbildung(模倣)


【原文】

Nachbildung

In DEINE Reimart hoff ich mich zu finden,
Das Wiederholen soll mir auch gefallen
Erst werd' ich Sinn, sodann auch Worte finden;
Zum zweitenmal soll mir kein Klang erschallen,
Er müsste denn besondern Sinn begründen,
Wie du's vermagst, Beguenstigter vor allen!

Denn wie ein Funke fähig zu entzünden
Die Kaiserstadt - wenn Flammen grimmig wallen,
Sich winderzeugend, gluehn von eignen Winden,
Er, schon erloschen, schwand zu Sternenhallen - :
So schlangs von dir sich fort mit ewgen Gluten
Ein deutsches Herz von frischem zu ermuten.

Zugemessene Rhythmen reizen freilich,
Das Talent erfreut sich wohl darin;
Doch wie schnelle widern sie abscheulich,
Hohle Masken ohne Blut und Sinn;
Selbst der Geist erscheint sich nicht erfreulich,
Wenn er nicht, auf neue Form bedacht,
Jener toten Form ein ende macht.

   
【散文訳】

模倣

お前の韻律の方法(風、種類)の中に入って、わたしは自分自身を見つけたいと願う
繰り返しが、わたしの気に入ることは必定だ
まづは、感覚と意義をみつけ、その次に言葉をみつけるのだ。というのは、
2度目になると、わたしには何も響かなくなること、これも必定であり
その響きは、感覚と意義について、次に特別な根拠を打ち立てなければならないからだ
お前がそうできるように、なによりも、もっと恩恵を享受して!

何故ならば、皇帝の町に火をつけるという能力がある一つの火花のように
もし炎が憤怒の情から沸騰し
風を起こしながら、自分の風で燃え盛るならば
響きは、既に消えて、星辰の大伽藍に消えていた
それほどに、永遠の灼熱を以て、お前を頼みにして、自らを貪り喰らい続けた
ドイツ人の心臓を、あらたに勇気づけるために

測りすました韻律は、もちろん、刺激的だ
才能のある人士は、それを間違いなく喜ぶ。
しかし、いかに素早く韻律が嫌厭することか
血も感覚もないただの空虚な仮面を
精神さへもが、歓んでいるようには見えないのだ
もし新しい様式を思って、
あの死んだ様式を終しまいにしてしまわないのであれば。



【解釈】

註釈には、これは1814年12月7日に書いた詩だとあります。12月の詩ということになるでしょう。

第1連の「2度目になると、わたしには何も響かなくなる」とは、それが自分自身のものにすっかりなってしまうという意味です。それ故に、響くものではなくなる。ハーフィスの技巧を自家薬籠中のものとしたということです。

その後の「感覚と意義について、次に特別な根拠を打ち立てなければならない」とは、詩人が自分の詩人としての生活の基礎を打ち立てることへの切望を述べています。

第2連の「皇帝の町に火をつけるという能力がある一つの火花」という表現は激越です。ゲーテの、ハーフィスへの思いが、それほどのものだということがわかります。自分をそのたった一つの火花に譬えています。ゲーテは自分の詩人としての蘇生、再生を、このペルシャの詩人とその詩に賭けていたのだと思われます。皇帝とは、今迄の数篇との関係でいえば、法律の頂点に立つ人間であり、また政治家であったゲーテの直属の人間です。ハーフィスに賭けるゲーテの気持ちの激しさと深さがわかります。

そうして第3連を読むと、今迄の様式とは全く異なった新しい詩の様式を生み出そうと、ゲーテが思っていることがわかります。

この詩の題名、Nachbildungを模倣と訳しましたが、死んだ様式のただ形式のみを真似る詩人であるならば模造と訳すべきであり、またこのゲーテのように全く新しい形式をその意義と感覚を以て創造しようとするのであれば、ハーフィスに倣(なら)ってという意味の模倣という訳になるでしょう。訳語は、後者を採りました。



2012年12月15日土曜日

第52週: Mein Jahr by Conrad Ferdinand Meyer (1829 - 1898)



第52週: Mein Jahr by Conrad Ferdinand Meyer (1829 - 1898)


【原文】

Mein Jahr

Nicht von letzten Schlittengleise
Bis zum neuen Flockentraum
Zähl ich auf der Lebensreise
Den erfüllten Jahresraum.

Nicht vom ersten frischen Singen,
Das im Wald geboren ist,
Bis die Zweige wieder klingen,
Dauert mir die Jahresfrist.

Von der Kelter nicht zur Kelter
Dreht sich mir des Jahres Schwung,
Nein, in Flammen werd ich aelter
Und in Flammen wieder jung.

Von dem ersten Blitze heuer,
Der aus dunkler Wolke sprang,
Bis zu neuem Himmelsfeuer
Rechn' ich meinen Jahresgang.


【散文訳】

わたしの歳

橇(そり)の最後の軌跡はいうまでもないことだが、その軌跡から
新しい雪片の夢にいたるまで
わたしは人生の旅の地上で
満たされた、人生の空間を数える。

森の中に生まれる
最初の新鮮な歌について、だけではないが、その歌から
枝枝が再び鳴り響くまで
わたしの歳の期間は続いている。

葡萄圧搾場からは葡萄圧搾場へとではなく
わたしの歳の飛躍が廻っている
否、炎の中で、わたしは歳をとり
そして、炎の中で、再び若くなる。

暗い雲の中から飛び出した
今年の最初の雷から
新しい天の火に至るまで
わたしはわたしの歳の成り行きを計算する。


【解釈と鑑賞】

この詩人が、今年最後の、カレンダーの中の詩人です。

この詩人のWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Conrad_Ferdinand_Meyer

この詩人は、スイスの詩人です。

歴史に造詣の深い詩人です。自分の才能を掴めるのに時間を要した遅咲きの詩人とあります。

そのような人生もまたよし。

題名のわたしの歳の歳は、英語でいうyear、年、歳という意味です。

最初の行の「橇(そり)の最後の軌跡」とは、子供のころからという意味です。また、そのことだばかりではなく、もっと他にも子供の頃の豊かな経験のあったことが「最後のではない」、nicht vom letzten XXという表現から思われます。

最後と最初にあるという状態のものを否定し、いつも今あること、また今あることの全体を、更に今あることが最初と最後のことであるということを、歌っています。それゆえに、最初と最後という言葉の前に否定詞を措いているのでしょう。

この詩を読むと、この詩人の、足が地に着いた人生というものを思います。

面白いのは、第3連で、「葡萄圧搾場からは葡萄圧搾場へとではなく」と歌っているところです。葡萄圧搾場からは同じ場所へではないということ。わたしなら喜んで葡萄酒の生まれる場所から同じ場所へと永劫回帰致しますが、この詩人はそうではない。酒を飲まない詩人だったのかも知れません。

歳末であり、年始であり、よい酒を酌(く)みつつ、歳を越したいものです。





2012年12月8日土曜日

カメレオン



カメレオン


カメレオンは小鳥のように軽い
枯れた、すがれた葉っぱの上に
とまるとも、とまらずとも言えないように
軽々ととまり、擬態する
その平たく、枯葉の平面よ
尻尾の末のひらりと返す表裏の線描よ
面の、薄さの、無の
平たい、空虚よ
我が愛する、お前の、小さな頭蓋骨の
口先と額と、瞼、眼(まなこ)の塊の
全く茶色の変色を
支える前脚、既に枯葉の
坐る後ろ脚、既に枯葉の
空気に浮く、すばしこさの
誰も、どこにも思わぬ
そのこと、そうであること、それ
カメレオンよ
緑なす膨大な夏を背景にして
対極に擬態する
凝結、凝視、凝体よ
だれにも真似する事のできない
永遠に滴り落ちる真似事の化石よ

                           08 December, 2012


秋川久紫の「戦禍舞踏論」を読む



戦禍舞踏論を読む


戦禍舞踏論とは何か?

戦争の後の焼け跡の戦禍の中で踊るという意味なのか
舞踏をすることが、そのまま戦争であり、戦禍を起こすものだという意味なのか
戦禍を主題として舞踏を踊るという意味なのか
それとも、戦禍が舞踏をするという意味なのか
戦禍がなにものかを舞踏せしめるという意味なのか

そうして、題名に論とつけていることから、上のこれらの事を理論的に論ずる詩であるということになるだろう。

こうしてみるとこの詩人は、詩作という行為を舞踏だと考えていることになり、舞踏は詩作の譬喩だということになる。

それは必然的に散文詩という形になることを、この題名は示している。詩の典型が叙情詩であるならば、詩の叙情と散文の叙事の間に立って、戦禍舞踏を論ずるように歌うというのが、この詩集の題名のこころだと思われる。

と、このように想像をたくましうして準備とこころづもりをしてから、詩集を開きました。

最初に詩集の題名である同じ題名の詩があります。

この詩を読むと、この詩集のテーマが題名の通り、戦場と舞踏であることがわかります。普通には戦場は譬喩ですが、しかし実際の実業の世界での過酷な仕事を個人的に知っているわたしとしては、それはやはり譬喩ではなく現実であるという以外にはありません。

後書きで、詩人は「強いて言えば、現実の過酷さが私自身にもたらした変化を起因としている」と、この詩の特質の原因を述べて、自註しています。

そうして、この場合の詩人自身による、詩人自身の詩の特質に関する分類は、わたしが抽出すると、次のようなものです。


0。多義性
1。鎮静作用
2。装飾性
(1)音楽性
(2)絵画性
3。映像性
4。演劇性


詩の一行は多義的です。これを、従い、0番とします。これは、大前提。

さて、その上で、1から4までが、この詩人がこの詩集において獲得した言葉の質(quality=意義と意味)の分類です。

こうしてこの分類を眺めますと、次のふたつのまとまりに分かれます。

1。鎮静作用と装飾性
2。映像性と演劇性

前者は静的な効果、詩人みづからが言及しているように、この詩集によって読者にもたらされる「快」や「楽」のことです。後者は、詩人が探究してやまない動的なシナリオ、言い換えれば詩人の詩作上の戦略のことです。

敢えて言うならば、前者は読者のために、後者は詩人のためにということになるでしょう。

この詩人が鎮静作用という言葉を、それもまだ括弧書きですから、半信半疑、あるいは遅疑逡巡するこころがあるのだと思いますが、しかし、この鎮静作用という言葉を使ったことは、この詩人のこれからの人生において、とても重要なことだと思います。

何故ならば、言語藝術に限りませんが、藝術という人間の行為の最たるもの、その精華は、古今東西、鎮静作用にあるからです。主義や主張や思想とは全く無関係に、遠く離れて、ひとのこころの騒ぎを鎮め、鎮静する働き。これが最高の藝術のもたらす恩恵であると、わたしは思います。

わたしは、この藝術観をドイツの作家トーマス•マンに教わりました。マンの小説の言葉はそのような、装飾性の高い、遊戯の、また嬉遊の言葉になっています。また、同じ鎮静効果を、わたしの好きな画家、マチスにも観るものです。

さて、そうだとして、この藝術観に至ったことは、この詩人にとっては何を意味するのでしょうか。わたしは前の詩集「麗人と莫連」で次のように書きました。:http://shibunraku.blogspot.jp/2009/10/blog-post_26.html


1.副題について
括弧の中に入っている副題を、詩集の表題にするという考えは、ある成熟を前提にした発想である。これを何歳で知るかによって、そのひとの人生が様々なことになるだろうと思う。

秋川さんは、間違いなく成熟という場所に至ったのであると、わたしは思います。


[註]
詩文楽に言葉の鎮静作用についてと題して、一文を草しておりました。お読み下さるとうれしい。:http://shibunraku.blogspot.jp/2010/02/blog-post.html


さて、そうである事実を前に、次に詩人とは何かと考えてみることにします。詩人の定義です。これは、文化人類学用語借りて言えば、詩人は絶対贈与者であるということです。

普通、社会の中に、従い法律の中に生きているわたしたちは、交換原理に従って生きています。何かをもらう代わりに何かを与える。何かを与える代わりに、何かをもらう。この原理に、法律も、即ち意義と意味の定義された言語の体系、システムである法律の体系も、この交換原理の上に成り立っています。

この原理を否定すると、大多数にとっての社会が成り立たない。

しかし、詩人は絶対贈与者であって、与えても見返りを求めないし、そもそも全然期待をしない人種なのです。そうして、この考えに基づいて、言葉を使います。

この詩集にある「贈与論」は、社会の中での贈与の関係を、時間の中での受け取りと受け渡しという形で言葉にし、もし絶対的な贈与関係が成立するとすれば、「贈与は恩寵に対する返礼形式もしくは抗議形式のひとつだ」と書いています。税務官は、このような関係に立ち入ることができない。何故ならば、「贈与の本質は等価交換に基づく価値観や生活様式の破壊である」から。これを「等価交換に収斂することを拒む力学」と秋川さんは呼んでいます。

この詩集のすべての詩は、この力学によって書かれた詩です。その力学に基づく精神の運動が舞踏であり、それがそのまま魂の軌跡になっています。

戦禍舞踏論という詩をみてみましょう。

最初のひと段落で、人間とその社会の本質であるスパイという行為、監視という行為、密告という行為に言及し、そこが戦場であることを示唆しています。この指摘は本質的です。この詩を最初に措いた詩人のこころがわかります。そうして、それを詩集の題名に採用したというこころが。ここが戦場である。

そうして、他方、奇瑞の生物というべき白象や獅子や麒麟や孔雀が対置されて、動態的な運動を生み出す最初の均衡を生み出します。

この詩に限らず、どの詩においても、言葉の、もっと言えば概念の対立による立体的な構造が生み出されています。これは、前の詩集「麗人と莫連」と全く変わりません。

上の「麗人と莫連」についての詩人の成熟への思いへの言及の後で、わたしは次のように続けていました。

このこととあわせて思うのは、この詩集は、詩人の人生と等価であるということです。詩人の、いうまでもなく凝縮が、これらの言葉であるということが、あらためて伝わってくる。

この言葉を再度引用して、各詩篇の立体的な構造を生み出すこころを想い出す事にしましょう。

社会の内と外の間にいる役割を担う者が、規則や紀律に違背するものであったり(「私見犯意」)、そのような境域にいる緑の鴉が、そこから境域の外へ飛び立ったり(「パラダイス」)、作者のこころは縦横無尽に遊びます。

ひとつひとつの詩篇を論じることよりも、わたしの好きな箇所を引用して、批評に代えたいと思います。それは、既に上述した鎮静作用を備えた言葉です。

「まさか麒麟の背中がこんなにも柔らかいなんて、想像すらしなかった。」(「超獣師篇」)

「マーマレードの海原を遊泳しているような陽だまりの季節は訪れない。驟雨は恋人たちの小さな軋轢の集積によって、満月は石畳に並べられた小魚の些細な願いによってもたらされる。僥倖だけが世界を創る。そして、多くを捨てた時、人は初めて花に囲まれる。」(「パラダイス」)

他にも論理的な骨格を備えた文に、遊びのこころの宿った文が幾つもあります。


結局、読者はこのような詩人の言葉を味わうだけでよいのです。解釈は無用です。

それから、最後に「童化」という独特の言葉について。この言葉は2カ所、ひとつは「超獣詩篇」に、もうひとつは、「アンリ•ルソーの森」に出て来ます。

童子とは、未分化の状態にある人間であり、法律の外にいる人間のことです。いや、まだ人間にすらなっていないのかも知れません。

この子供を想像するときに、話者は、快楽の弛緩を味わっているように思われます。勿論、その言葉を読む読者もまた。精神の力学に従った強靭な、荘厳し、聖性を奉る舞踏とは対照的に、魂の快楽を味わう弛緩した童化の未分化の状態(荘厳の放棄)に在ること、詩人の魂はこのふたつの間を往復して、すべての詩篇を書き上げたことが、よくわかります。

Contraction(収縮)とrelaxation(弛緩)。これは、このまま筋肉の運動の動きそのものであり、これが秋川さんの舞踏を可能ならしめている文字通りの運動能力、舞踏能力、言語能力です。

話者のこころも鎮まるのは、後者であり、読者もそのこころにある詩人の言葉を読んで、こころが一緒に鎮まるのを覚えます。

「聖性と獰猛さが混交した護神の温もりに長く触れていると、魂が鎮められて次第に童化してゆくのがわかる。」(「超獣詩篇」)

「僕は 畢竟
 童化の 意味一つ
 分かろうともしないで
 膂力によって それらを
 アンリ•ルソーの森の中に
 統御し 聖化する試みすら
 予め 放棄してしまっていたのだ」
(「アンリ•ルソーの森」)


どの言葉もつくりものではなく、全く話者が、詩人が感じた事実としての生きている感覚を言葉に変換していることが、こうして読んでみるとよく伝わって来ます。

そのような言葉は誠に貴重であると、わたしは思うのです。

他にも数多くの参照をいつもの通り、この詩集に書き込むことを致しましたが、上のような詩集の言葉の質(quality)とその骨組みを論じることで、細かな批評の言葉に代えたいと思います。

第51週: Der Weihnachtsstern by Joseph Brodsky (1940 - 1996)




第51週: Der Weihnachtsstern by Joseph Brodsky (1940 - 1996)


【原文】

Der Weihnachsstern

Im frostigen Winter war eine Gegend - gewöhnt an Glut
mehr als an Kälte, an Fläche mehr als an Berge - offenbar gut
für die Geburt des Kindes, das da kam zu retten die Welt.
Der Schnee fiel in solchen Mengen, wie er nur in der Wüste fällt.

Dem neugeborenen Kind kam alles gewaltig vor:
die Brust der Mutter, die Nüstern des Ochsen, Kaspar, Melchior,
Balthasar und deren Geschenke, die man hereintrug. Den Kern
bildetet aber das Kind selber. Und das war der Stern.

Aufmerksam, ohne zu zwinkern, durch Wolken, die dünn und vag,
hat von fern auf das Kind, das da in der Krippe lag,
vom anderen Ende des Kosmos, kaum wahrnehmbar,
der Stern in die Hoehle geschaut. Der das Auge des Vaters war.

24. Dezember 1987


【散文訳】

聖夜の星

霜降る冬に、ある土地があった ― それは、寒さよりも多く
白熱の土地であり、山よりも平野の土地だった。明らかに
世界を救うためにやって来た子供の生誕のためにはよい土地だった。
雪が荒野にのみ降るように、そういったあらゆるものたちの中に降っていた。

新たに誕生した子供には、すべてが暴力的に見えた。即ち、
母の胸、雄牛の鼻を鳴らす音、カスパール、メルキオール、
バルタザール、そして、これらの者が持って来る贈り物が。核心を
形成するのは、しかし、その子供自身なのだ。そして、それが星であった。

注意深く、瞬きすることなく、薄くぼんやりとした雲を通して
遠くから、風邪をひいいて横になっているその子供へと
宇宙の反対側から、ほとんどそれと知られないように
星が洞窟の中を見たのだ。父親の眼であるその星が。

1987年12月24日


【解釈と鑑賞】

この詩人は、わたしの大好きな詩人のひとりです。

ゲーテ、アイヒェンドルフ、リルケ、ブロツキー。

この詩人のWikipediaです。


冷戦時代のソヴィエト連邦の、いややはりロシアのというべきでしょう、ロシアの詩人です。

1972年に共産主義国家ソヴィエと連邦から国外追放の刑を受け、W.H. Audenの支援を受けてアメリカに移住しています。

1987年にノーベル文学賞を受賞。

ブロツキーの詩は政治的では全然ありません。政治と無縁です。その詩がソヴィエト連邦という共産主義国家で弾圧を受けたということは、誠に人間の愚かしさを証明して余り在るものがあります。共産党はブロツキーが自らを詩人と名乗ることに対して、これを全く否定します。裁判官との問答は圧巻です。Wikipediaから、英語でそのまま引用します。

The trial judge asked "Who has recognized you as a poet? Who has enrolled you in the ranks of poets?" — "No one," Brodsky replied, "Who enrolled me in the ranks of the human race? "Brodsky was not yet 24.

これと同じ位苛烈な、裁判官と詩人の問答を、わたしは詩人石原吉郎の知己であった鹿野武一という人間が、同じ共産党のロシアの収容所で尋問官と交わした問答にみます。お前が正しいならば、わたしが人間ではない。わたしが正しいならば、お前は人間ではない。と言う問答に。

ブロツキーの詩は、詩の最後に必ず書いた日付が書かれています。

これは、ノーベル文学賞を貰った歳のクリスマスに書かれた詩だということがわかります。

カスパール、メルキオール、バルタザールは、キリスト生誕のときに、東方から来た3博士の名前です。

宗教的な伝説を踏まえて、それを全く今風、今様に作り替えている詩だということがわかります。

最初にこの世に生を享け、接した物事に対する感受の仕方を歌い、それをはっきりと子供だといい、子供は星であり、星は父親の眼であるという、この三段論法でこの詩は成立しているようです。

わたしの好きなBrodkyの詩を、クリスマスの詩として訳すことのできることに感謝致します。






2012年12月5日水曜日

【Eichendorfの詩 17-3】Der verliebte Reisende (恋する旅人)


【Eichendorfの詩 17-3】Der verliebte Reisende (恋する旅人) 

【原文】

                       3

Lied, mit Traenen halb geschrieben,
Dorthin über Berg und Kluft,
Wo die Liebste mein geblieben,
Schwing dich durch die blaue Luft!

Ist sie rot und lustig, sage:
Ich sei kranke von Herzensgrund;
Weint sie nachts, sinnt still bei Tage,
Ja, dann sag: ich sei gesund!

Ist vorbei ihr trugst Lieben,
Nun, so end auch Lust und Not,
Und zu allen, die mich lieben,
Flieg und sage: ich sei tot!


【散文訳】

                    3

歌は、涙で半分は書かれる
その向こう、山と谷の向こうには
愛する者が、わたしのものとしてあった
歌よ、お前を青い空の中を貫いて打ち振れよ!

彼女は赤く、そして陽気ならば、次のように言え:
わたしは心の底から病気であると、何故ならば
彼女が夜ごとに泣くからであり、昼には静かに思うからであり
そう、だから、言え:わたしは、陽気なのだと!

彼女の誠実な愛は去ったのであれば
さて、そうしてみると、陽気と困難もまた終わったのだ
そして、わたしを愛するすべてのひとびとへと
飛んで行け、そして言え:わたしは死んだのだと!


【解釈と鑑賞】

前の2番目の詩もそうですが、何かアイヒェンドルフの詩には、距離に関するIronieがあると思われる。

歌は、と始まる第1連の歌は、本来陽気なものであるのに、やはり半分は悲しみの感情で歌われる。歌を歌う人間は悲しみの感情を持っているのだ。

愛する女性が陽気ならば、愛するわたしは病にある。というこの文は、何か普通の恋愛とは異質です。

愛する女性が泣けば、愛するわたしは陽気である。

何か、愛するという行為が、最初から困難であることになっている、そのこころの在り方が、異質です。

もし、この恋情がみなの恋情と同じならば、愛するわたしは死んでいるのだ。

それほど、わたしの恋情は特殊であり、特異であり、普通にはない恋情なのだ。

それが、Der verliebte Reisende、恋する旅人の恋情なのだ。

何故、恋する旅人と題したのか、ここまで来ると、とてもよく解ります。

普通の愛は、一カ所に留まるものだが、アイヒェンドルフの愛は、留まらないのです。それ故の、一見逆説に見える恋情なのです。しかし、それは、真説だと、わたしは思います。

2012年12月1日土曜日

【西東詩集24】 Unbegrenzt(無限の:限りなき)



【西東詩集24】 Unbegrenzt(無限の:限りなき)


【原文】

Unbegrenzt

DASS du nicht enden kannst das macht dich gross,
Und dass du nie beginnst das ist dein Los.
Dein Lied ist drehend wie das Sterngewölbe,
Anfang und Ende immerfort dasselbe,
Und was die Mitte bring ist offenbar
das was zu Ende bleibt und anfangs war.

Du bist der Freuden echte Dichterquelle,
Und ungezählt entfliesst dir Well auf Welle.
Zum Küssen stets bereiter Mund,
Ein Brustgesang der lieblich fliesset,
Zum Trinken stets gereizter Schlund,
Ein gutes Herz das sich ergiesset.

Und mag die ganze Welt versinken,
Haffs, mit dir, mit dir allein
Will ich wetteifern! Lust und Pein
Sei uns, den Zwillingen, gemein!
Wie du zu lieben und zu trinken
Das soll mein Stolz, mein Leben sein.

Nun toene, Lied, mit eignem Feuer!
Denn du bist älter, du bist neuer.


   
【散文訳】

無限の(限りなき)

お前が終わることのできないということ、それがお前を偉大にし、
そして、お前が決して始められないということ、それはお前の運命だ。
お前の歌は廻転している、星辰の天蓋のように
始めと終わりは、いつも同じで
そして、真ん中のもたらすものは、明らかであり
それは、終わりに留まるものであり、始めにあったものだ。

お前は、歓びの、詩人の本物の源泉であり
そして、お前から幾らでも限りなく波また波が溢れ出て来る
口づけをするため、絶えず広い唇であり
胸から湧く歌であり、それは愛らしく流れい出て
飲むために、絶えず刺戟される喉であり
自らを注ぐよき心臓である。

そして、全世界が沈むとも
ハーフィスよ、お前と共に、お前と共にだけ
わたしは競いたいのだ!歓びと苦しみは
われらにあれ、この双子のもとに、一緒に
お前のように愛し、そして酒を飲むこと
それは、わたしの誇りであり、わたしの人生であるべきものだ。

さて、鳴り響けよ、歌よ、独自の炎を以て
何故なら、お前はより古く、お前はより新しいからだ。


【解釈】

法律家達への非難の3つの詩から転じて、全く対蹠的な存在である詩人、ハーフィスをここでは歌い、褒め称えています。

このこころは、読むととてもよく解り、そのまま読者に伝わって参ります。

そして、全世界が沈むとも
ハーフィスよ、お前と共に、お前と共にだけ
わたしは競いたいのだ!

という連は、ゲーテがこの詩人を知った喜びが溢れています。

題名のunbegrenztとは、制限されないという意味です。詩人は何ものにも制限され、掣肘され、制約されることがない。

そのような詩人の典型としてハーフィスがいるのです。

今迄の詩を読んで来ても、ゲーテはハーフィスを知る事で、窒息しそうな現実の中で、あるいはそれから逃避をして、息を吹き返し、詩作に向かうことができたのだということが、よくわかります。


第50週: kie !dampfmasch! ne by Durs Gruenbein (1962 - )


第50週: kie !dampfmasch! ne by Durs Gruenbein (1962 -  )


【原文】

kie ! ne dampf masch! ne

Dieses Aechz-und-Grunz-Geraeusch,
Soll das meine Tochter sein?
Manchmal weint sie, tief enttäuscht,
Saugt statt Milch nur Heissluft ein.

Spaeter hoert man sie dann schnarchen,
Eine Spielzeugdampfmaschine.
Ach, es rührt selbst Patriarchen
Jede ihrer Leidensmienen.

Rot das Koepfchen, strampelnd stossen
Füße gegen taube Kissen,
Fünfmal Größer sind die Grossen,
Die von Blähungen nichts wissen.

Aus Verzweiflung muss man schielen,
Zittern wie die Aufziehmaus.
Durch die Nasenloch-Ventile
Strömt der Atem ein. Tagaus

Mahnt uns lange noch ihr Schnaufen,
Wie das anstrengt: Luft zu holen.
Eh die Kolben lautlos laufen,
Wird uns noch viel Schlaf gestohlen.


【散文訳】

蒸気機関車はもうたくさん

この悲嘆と唸(うな)る雑音
これが、わたしの娘だというのか?
時折、彼女は泣き、深く幻滅して
牛乳の代わりに、ただ熱い空気だけを吸い込む。

後になって、彼女が次に鼾(いびき)をかくのを聞く
それは、玩具の蒸気機関車
ああ、族長でさへも感動させる
彼女の苦悩の表情のどの表情もが

小さな頭は赤く、手足を動かしてもがくのは
両足であり、聾(つんぼ)の枕を蹴飛ばしている
5倍も大きいのは、大きいひとたちであり
そのひとたちは、放屁については知らないのだ。

絶望から、斜視になってしまうし
飼育している鼠のように震えなければならない
鼻の穴の弁(バルブ)を通じて
呼吸が流れ込んで来る。明けても暮れても

彼女の鼾は、もっと長い間、わたしたちに警告する
気合いを入れよというように:空気をくれよと
ピストンが音もなく動く前に
多くの睡眠がわたしたちから盗まれる。


【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。


現代ドイツを代表する詩人です。

次にドイツ文学の世界でノーベル賞を授与されるのであれば、この詩人だと言われていると仄聞しております。

もともとは東ドイツの生まれです。最初の詩集などを読みますと、荒々しくも繊細なる野獣の詩という感じがしますが、YouTubeに載っている後年のTVインターヴューの動画を拝見しますと、何かこうすっかり角がとれて、もっと円熟に向かっている詩人になったなあという感じがします。

これは、子供が生まれて、その子供が風邪かなにかをひいいて、泣き叫ぶことを詩にしたものでしょう。

Fünfmal Größer sind die Grossen,
Die von Blähungen nichts wissen.
5倍も大きいのは、大きいひとたちであり
そのひとたちは、放屁については知らないのだ。

というのは、赤ん坊が屁をひったからといって、親は知ったことではないという意味です。そこまでの面倒はみられないというと言い過ぎですが、やってられないという感情は伝わります。

世の母親には、よく理解される詩ではないでしょうか。

この詩が何故12月の詩なのか、季節との関係は謎です。

2012年11月28日水曜日

【Eichendorfの詩 17-2】Der verliebte Reisende (恋する旅人)


【Eichendorfの詩 17-2】Der verliebte Reisende (恋する旅人) 

【原文】

                       2
Ich geh durch die dunklen Gassen
Und wandre von Haus zu Haus,
Ich kann mich noch immer nicht fassen,
Sieht alles so trübe aus.

Da gehen viel Männer und Frauen,
Die alle so lustig sehn,
Die fahren und lachen und bauen,
Dass mir die Sinne vergehn.

Oft wenn ich bläuliche Streifen
She umber die Daecher fliehn,
Sonnenschein draussen schweifen,
Wolken am Himmel ziehen:

Da treten mitten im Scherze
Die Tränen ins Auge mir,
Denn die mich lieben von Herzen
Sind alle so weit von hier.


【散文訳】

            2

わたしは暗い小路を通って行く
そして家から家へと遍歴する
わたしは、わたしを相変わらず捕まえることができず
すべてはかくも曇って暗く見える。

そこへ、多数の男と女が行くが
皆かくも陽気にものを見
馬車に乗り、そして笑い、そして何かを建てるので
わたしの五感が消えて行く。

しばしば、わたしが青い線が
屋根屋根の上に逃げるのを見るたびに
戸外の太陽の光は漂い
空にある雲は行く

そこへ、冗談のただ中に
涙がわが目に入って来る
何故ならば、涙は心からわたしを愛しており
涙はみなかくもここから遠くにあるからだ。


【解釈と鑑賞】

この詩も不思議な詩です。ドイツ語の文法通りに書かれていますが、アイヒェンドルフの歌うところは、普通に文法通りの意味ではありません。

この詩の歌い手は、家家を訪ねますが、それらの家はいづれも、歌い手の家ではないようです。そうして、その訪ねる道は暗い。何故ならば、歌い手のわたしは自分自身を捕まえていないから、即ち自分自身を知らないからだというのです。これが一連目。

二連目は、対照的に、今度は孤独なひとりの人間から、陽気な多数の男女の登場を迎え、馬車に乗って遠出をしたり、笑ったり、家を建てたりします。これらのことは、詩人とは無縁のことのようです。その様子をみると、詩人の五感は消えて行く。気が遠くなって行くのです。

三連目は、さて、この青い線状のものが何かはわかりませんが、それは文字通りの姿をとるとして、それが家々の屋根の上を逃げて行くのを詩人は見るのです。この青い線が何かは、今は謎です。そうして、戸外の太陽の光は漂い、ということは、何も目的なく、目的を喪って、漂っている。天空の雲も行く。と続く一行は、雲もまた目的を欠いているように見えます。

四連目、最後の連では、こういったことがみな冗談であって、こういう冗談のど真ん中に、涙がわたしにやってくるのです。その理由は、涙というものは、こころからそのようなわたしを愛しているのであり、この場所から遥かに遠いものであるからです。愛してるから遠いのか、遠いから愛しているのか、この何故ならばの後の2行の文のそれぞれ互いの関係は、謎であり、読み手の推量に任されています。

以上が第2番目の詩の内容です。

このように歌うアイヒェンドルフは、全く現代の詩人、21世紀の詩人のようであり、少しも古くなく、18世紀の詩人であるにも拘らず、字tにcontemporaryな詩人であると、わたしは思います。


2012年11月23日金曜日

【西東詩集24】 Fetwa(フェトヴァ)


【西東詩集24】 Fetwa(フェトヴァ)


【原文】

Fetwa

Der Mufti las des Misri Gedichte,
Eins nach dem andern, alle zusammen,
Und wohlbedächtig warf sie in die Flammen,
Das schoengeschriebne Buch es ging zunichte.

Verbrannt sei jeder, sprach der hohe Richter,
Wer spricht und glaubt wie Misri - er allein
Sei ausgenommen von des Feuers Pein:
Denn Allah gab die Gabe jedem Dichter.
Missbraucht er sie im Wandel seiner Sünden,
So seh er zu mit Gott sich abzufinden.

   
【散文訳】


フェトヴァ


ムフティがミスリの詩を読んだ
次々と読み、すべての詩をまとめて読んだ
そして、熟慮しつつ、それらの詩を炎の中に投げ込んだ
美しく書かれてあるその本は、滅んだ。


だれでも追放するぞ、と高位の裁判官は言った
ミスリのように話をし、そして思う者、ー その者のみが
炎の苦しみから、例外である
何故ならば、アラーは才能を、どの詩人にも与えたのであり
詩人が、その罪の彷徨の中に、才能を濫用するならば
詩人は、神とうまく折り合いをつけることに注目し、用心するがよい、と。



【解釈】

題名のFetwaとは、Wikipediaによれば、

ファトワー (Fetwa) とは、ムフティーと呼ばれる、ファトワーを発する権利があると認められたウラマー(イスラム法学者)が、ムスリム(イスラム教徒)の公的あるいは家庭的な法的問題に関する質問に対して、返答として口頭あるいは書面において発したイスラム法学上の勧告のことである。ファトワー自体には法的拘束力はないが、著名なムフティーによるファトワーはファトワー集に編纂され、各イスラム法学派の個別事例に対する見解を示すものとして重視された。

日本語では、ファトワーと呼ばれていますが、ドイツ語の発音をそのまま写して、フェトヴァと記することに致します。

前の同じ題名のファトヴァでは、Anklage(告発)、そして、Der Deutsche dankt(このドイツ人が感謝する)というふたつの詩と併せて、3つひとまとまりの詩の一部を構成していました。

そして、その文脈は、ゲーテの、法律家どもに対する告発の詩でした。その詩で法律と法律家を皮肉り、ハーフィスを置き、ハーフィスを規準にして、世間に真っ向から挑戦をしていました。

ハーフィスの言葉は、前のフェトヴァでは「あちらこちらで、小さな事柄についてもまた言っている法の境界の外側で。」そこにある小さきことについて、完璧なる真理を言っているというのです。そこにこそ、真理があるということが、ゲーテのこころでした。

さて、このふたつめのファトヴァは何を歌っているのでしょうか。

読んでみると、これは前のファトヴァとバランスをとったファトヴァになっていることがわかります。


Muftiとは、イスラム法の権威ある解釈者という意味です。Wikipediaがあります。:http://en.wikipedia.org/wiki/Mufti

Misriとは、わたしの手元にある西東詩集の註釈によれば、エジプトの人で(1617/18 - 1699)、宗教的な結社の創設者であり、政治的に危険な邪説を述べたために罰せられたとあります。

一連目と二連目は何か一見矛盾している連のように見えます。裁判官は、Misriの詩をすべて火にくべてしまうのに、Misriのように考えるものだけが、炎の苦しみから逃れて、例外となるといっています。

裁判官は、Misriの詩を消却することによって、この宗教家の才能の濫費とのバランスをとったということなのでしょう。その書物を焼き、そして、Misriを認めるということによって。

それが、最後の一行の意味なのだと思います。

ここに、かろうじて、ゲーテの自制心が働いています。







第49週: Das lange Gedicht by Harald Hartung (1932 - )




第49週: Das lange Gedicht by Harald Hartung (1932 -  ) 

【原文】

Das lange Gedicht

Die jaehe Kuehle
immitten der Hadesgestalten -
das könnte aus einem Gedicht sein
Blau käme mehrfach drin vor
einmal auch gülden
wüsste man nur was das meint.


【散文訳】

長い詩

急激な寒さが
黄泉の国の姿の真ん中で
それは、一篇の詩の中からでてきたのかも知れない
青が、幾重にも、その中に現れていて
また実際、それは、金だと
それがそうだと言えば、それだけを、ひとは知っているのかも知れない。

【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Harald_Hartung

動詞は総て接続法II式(英語の非現実話法)になっていて、読んでいて、何か儚い、夢幻的な感じがする一方で、しかしやはり現実感のある詩となっています。

結局、この詩は何を歌っているのでしょうか。と、そうまとめてみると。

詩が、寒さ、冥界の真ん中にある寒さを生むということ。あるいは、逆にその寒さから、詩が生まれるということをも感じさせる。

青という色彩と黄金色の色彩とが、これが詩の色だということ。そういう色彩を現出せしめている何ものかが、詩を生むのであり、それをひとは接続法II式(非現実話法)でしか歌うことができないということ。

と、このように考えて来ると、この詩の題名は長い詩というものですが、詩自体は極く短く、しかしその歌うところは、詩の本質を歌っているので、命が長い、どの時代の詩にも通じる詩だという意味になるのでしょうか。




2012年11月21日水曜日

【Eichendorfの詩 17-1】Der verliebte Reisende (恋する旅人)


【Eichendorfの詩 17-1】Der verliebte Reisende (恋する旅人) 

【原文】

                       1
  
Da fahr ich still I'm Wagen,
Du bist so weit von mir,
Wohin er mich mag tragen,
Ich bleibe doch bei dir.

Da fliegen Waelder, Kluefte
Und schöne Täler tief,
Und Lerchen hoch in Lüften,
Also ob dein' Stimme rief.

Die Sonne lustig scheinet
Weit über das Revier,
Ich bin so froh verweinet
Und singe still in mir.

Vom Berge geht's hinunter,
Das Posthorn schallt im Grund,
Mein' Seel wird mir so munter,
Grüß dich aus Herzensgrund.


【散文訳】

            1

こうして、わたしは、静かに馬車に乗って走っているが
お前は、わたしのところから、かくも遠く
馬車はわたしをどこへと運ぶのか
わたしは、お前のもとに留まりたいというのに



森という森も、崖という崖も飛び去り
そして、美しい谷という谷が深く
そして、雲雀たちが高く空を飛ぶ
恰もお前の声の叫ぶように

太陽は陽気に輝き
猟区を遥かに広く亘って
わたしはかくも歓びに泣いている
そして、わたしの中(こころの中)で静かに歌う

山は傾斜になって下り
郵便馬車の角笛は、地底で鳴り響く
わたしの魂は、かくも陽気であり
お前に心の底から挨拶をする。


【解釈と鑑賞】

恋する旅人と題した詩の最初の詩です。

全部で6つの詩からなっています。

これから、この詩がどのように展開するものか、注目しましょう。

陽気なという言葉が、3つ出て来ています。それは、munterとfrohとlustigという言葉です。

明らかにアイヒェンドルフは、このみっつの言葉を使い分けています。

Grimmの辞書をひきますと、munterは、活発に、新鮮になにかをすること、frohは、満足の状態で喜ぶこと、lustigは、欲求があって、何かを求めること、それぞれの意味で、陽気だ、楽しい、愉快だという意味になります。

といっても、訳し分けることはなかなか難しいものがあります。






2012年11月17日土曜日

【西東詩集22】 Der Deutsche Dankt(このドイツ人(ゲーテ)が感謝の意を表する)



【西東詩集22】 Der Deutsche Dankt(このドイツ人(ゲーテ)が感謝の意を表する)


【原文】

Der Deutsche Danke

Heiliger Ebusuud, hasts getroffen!
Solche Heilge wünschet sich der Dichter:
Denn gerade jene Kleinigkeiten
Ausserhalb der Grenze des Gesetzes
Sind das Erbteil wo er, übermütig,
Selbst im Kummer lustig, sich beweget.
Schlangengift und Theriak muss
Ihm das eine wie das andre scheinen,
Töten wird nicht jenes, dies nicht heilen:
Denn das wahre Leben ist des Handelns
Ewge Unschuld, die sich so erweiset
Dass sie niemand schadet als sich selber.
Und so kann der alte Dichter hoffen
Dass die Huris ihn im Paradiese
Als verklärten Jüngling wohl empfangen.
Heiliger Ebusuud, haste getroffen!

   
【散文訳】

このドイツ人(ゲーテ)が感謝の意を表する

神聖なるエブスードよ、お前はそれを成し遂げたのだ!
そのような聖なる人々になりたいと、詩人という者は自らに願っているのだ
何故ならば、丁度あのような(ハーフィスが歌ったような)たくさんの小さなことは
法律の境界の外にあって
遺産なのであり、そこでは、詩人は、高慢にも
苦悶の中にあってさへも陽気で、動くものだからだ。

蛇の毒とテリアク(ヨーロッパ中世の解毒練り薬)は
詩人の前に、あれやこれやと姿を変えて現れるに違いなく
ひとを殺すことは、あのこと、このことを治癒させることはない。
何故ならば、真実の人生とは、行為の永遠の無罪、無実なのであり、その無罪潔白が示すところによれば、それは
無罪潔白とは、自分自身以外の誰をも傷つけることがないからだ。
そして、このように、年老いた詩人が願うのは
永遠の処女が詩人を天国で、光輝き変容した若者として迎え入れることである。
聖なるエブスードよ、お前はそれを成し遂げたのだ!


【解釈】

わたしの読んでいる西東詩集の註釈によれば、この詩と、前のAnklage(告発)、そして、Der Deutsche dankt(このドイツ人が感謝する)という3つの詩は、ひとまとまりの3連作だと言っています。そのつもりで、この詩を読むことにしましょう。

前の詩は、ゲーテの、法律家どもに対する告発の詩でした。その詩で法律と法律家を皮肉り、世間に真っ向から挑戦をしていました。

お前達が正しいのではない、コーランの教えを血肉にして自由闊達な歌を歌う詩人、ハーフィスこそ、そうしてその遺髪をドイツにおいて継ぐ、このわたしこそ正しい者だというゲーテの声が聞こえて来ます。

さて、その次の詩では、ゲーテ自身がエブスードという名前の詩人に我が身を擬して、ハーフィスのようなレベルの詩作をすることを神に祈って、詩作をすることの罪のすべての赦しを乞うておりました。

さて、今回はこの3つ目の詩の最後です。

聖なるエブスードとは、ハーフィスの別称です。前回考察したようにエブスードとは、どうも無名の人の別称であるようです。

それが、聖なるハーフィスだということには、人生の深い意義と意味が隠れています。ゲーテはそのことを歌っている。そうして、無名の人間が法律の外にいて、如何に生き生きと生きているかを。

そのような詩人の姿を、この詩で、またこれら3つの詩で造形しているということになります。本当に法律よ糞喰らえ。

蛇の毒とテリアク(ヨーロッパ中世の解毒練り薬)の譬喩(ひゆ)は、前のフェトヴァという詩にも出て来て、これはゲーテのお気に入りの一句だと思われます。あるいは、出典がどこかにあるのでしょう。

蛇の毒とテリアクは、確かにわたしたちの生活の中にいつも繰り返し姿を変え、手を変え品を変えて現れます。蛇の毒を飲んではなりません。

そうして、詩人は言葉で歌を歌います。しかし、詩人の無罪無実はだれも人を傷つけません。しかし、法律は人を処刑し、死刑にする。

この強烈な対比で、詩人の詩がどれほどのものか、どれほど詩人の言葉は人を殺さないかを言い表しています。そして、それによって、天国の処女に光り輝く者として迎えられる。

聖なるエブスードよ、聖なる無名者よ、お前はそれを成し遂げたのだ!という最初と最後の一行には、ゲーテの、このドイツ人の万感の思いが籠められています。