おお、そうだ、今日埴谷雄高の死霊を読み終えたことをここにしるしておこう。
死霊を一言で言えば、三輪家の異母兄弟が存在(das Sein)に挑戦する話しということができる。
登場人物のひとりひとりが語る宇宙の話はおもしろく、興味が尽きない。これは、ひとりひとりが奇譚を語るという着想と体裁で話しを作っても面白かったと思う。(例えば、ETAホフマンのSerapion Brueder(セラピオン同盟))しかし、埴谷雄高はそれでは満足しなかったのだ。
やはり、最後に難解な問いのひとつは、男女の仲、男女のことだったのだと思う。この作品が、遠大なるSpiel、遊び、遊戯であることを願う。作者の真剣であることの程度とは無関係に、言葉の本来の性質と働きによって、この作品はSpielになっている。最後に虚体がでてきてから、更にのっぺら坊の宇宙が意志を以って出てくるということになると、やはりそうなったかという思いがします。つまり、収まりがつかなくなったのだ。それで充分ではないかとわたしは思う。
素晴らしいことは、自同律の不快、すなわち「わたしはわたしである。」と、人間はいえない現実と事実に抗して主人公たちが戦いをはじめ、それを延々と書くことができたことだと思う。
その間に現れるイメージ、形象は素晴らしい。この空間を綾どるイメージを抜きに、この作品は成立しなかっただろう。そうであれば、それは単なる論理の散文になってしまいます。つまり、これが、埴谷雄高の詩であることが素晴らしいことなのだ。
この空間を綾どる数々の形象の、従属文に従属文を幾つも重ねる様式、スタイルに、埴谷雄高というひとを、わたしは見るのだ。今まで、このような垂直の階層構造を幾重にも備えた従属文で一つの文を構成した作家はいないと思う。日本人の文は、いつもそれを平面的に開いて、助詞「が」と「、」を以って「が、」で以って接続しながら、文章を展開するのだ。その方がわかりやすいから。
このことは、暗に、埴谷雄高の至った宇宙像を示しているとわたしは思う。この小説の構想は20代に胚胎したものであるから、若き埴谷雄高の無意識に至った宇宙の姿だといってよいと思う。
そうしてまた、このひとは、日本語の構造にも挑戦したひとだということになると思う。
わたしも、このように挑戦してみたいものだ。わたしが今ポルノ小説を書きたいと漠然と思っていることも、この埴谷雄高の影響下にあり、また関係のあることのひとつなのだと思う。これはレヴィナスの女性観を否定して、ボードレールの女性観を肯定することになるかも知れないけれども。埴谷雄高というひとは禁欲的なひとだった。レヴィナスもボードレールも否定した。
まだまだ思うところあり。とても、書ききれない。そうやって、沈黙して、想念が熟成して、時間をかけて、わたしの言葉になるのであろう。それが埴谷雄高のいう精神のリレーであることを願っている。
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