2011年9月24日土曜日

Im Herbst(秋に):第39週


Im Herbst(秋に):第39週

by Justinus Kerner (1786 - 1862)


【原文】

Eh’ sie erstirbt, die Natur, die treue Mutter, noch einmal
Ruft sie die Kinder zu sich, reicht als Vermaechtnis den Wein.


【散文訳】

死滅する前に、自然、貞節なる母は、もう一度
子供たちを、御身(おんみ)に呼び給いて、遺産として
葡萄酒を渡し給う


【解釈】

原文は、形式的には、敬語が使われているわけではありませんが、その情調に、自然を敬うこころがあると思いました。

この詩人は、ドイツ語のWikipediaがあります。肖像画も載っています。

http://de.wikipedia.org/wiki/Justinus_Kerner

最初から読み下していって、最後に葡萄酒という言葉がおかれる、その配語が素晴らしい。




2011年9月17日土曜日

Lob der Kartoffel(ジャガイモ賛歌):第38週


Lob der Kartoffel(ジャガイモ賛歌):第38週

by Matthias Claudius (1740 - 1815)


【原文】

Pasteten hin, Pasteten her,
Was kuemmern uns Pasteten?
Die Kumme hier ist auch nicht leer
Und schmeckt so gut, als bonne chere
Von Froeschen und von Kroeten.
Und viel Pastet und Leckerbrot
Verdirbt nur Blut und Magen.
Die Koeche kochen lauter Not,
Sie kochen uns viel eher tot:
Ihr Herren, lasst euch sagen!
Schoen roetlich die Kartoffeln sind
Und weiss wie, Alabaster!
Sie daeun sich lieblich und geschwind
Und sind fuer Mann und Frau und Kind
Ein rechtes Magenpflaster.


【散文訳】

あっちへも、パイ、こっちからも、パイ
パイがあれば、何を憂うることがあろうか?
このボール(鉢)だって、実際空っぽにはならないさ
そして、フランス人が、蛙や蟇(ひきがえる)を食べて
bonne chereという位に旨いのさ
そして、たくさんのパイと美味しいパン
血と胃袋が腐るだけさ
コックはただただ必要に迫られて料理をする
コックは料理をたくさんつくって、俺たちを殺そうってんだ
お歴々の方々、一緒にこう言おうぜ!
ジャガイモは、赤みを帯びて美しい
そして、雪花石膏(アラバスター)のように真っ白だ!
ジャガイモは、おいしく、素早く、消化する
そして、男にも女にも子供にも
本当に胃袋の膏薬なのさ


【解釈】

ドイツ語のWikipediaです。この詩人の肖像画も載っています。

http://de.wikipedia.org/wiki/Matthias_Claudius

本当は、北海道生まれのわたくしは、ジャガイモではなく、馬鈴薯と書き、それもバレイショと読ませたかったのですが、読者には馴染みなきこともあらうかと、敢えて、ジャガイモと記した次第。

バレイショ賛歌もいいと思う。

ドイツというとジャガイモですが、このジャガイモの栽培を促進して、今のようにしたのが、18世紀のフリードリッヒ大王です。(http://goo.gl/JWZYL)

この王様の元で、この詩人も過ごしたことになります。

それで、ジャガイモの歌を書いたということなのでしょう。

コックはただただ必要に迫られて料理をする、と訳したところは、実際に当時は食料難だったからだと思います。

ジャガイモがあるので、需要に応じて、どんどん料理をつくって行くという状態だったのではないでしょうか。

そうして、コックは料理で俺たちを食わせ殺す(こんな言葉があるかどうか)位に、ジャガイモは人々を救ったのでしょう。

今の日本では、想像もできないことですが。



2011年9月10日土曜日

無題(木になる):第37週


無題(木になる):第37週

by Patrizia Cavalli (1949年生まれ)


【原文】

Schoen war es gestern, mich als Baum zu denken!
An einer Stelle fast verwurzelt
wuchs ich in herrlicher Langsamkeit.
Nordwind und Brise nahm ich auf,
ein Streicheln, ein Schuetteln, alles war gleich.
Ich war mir keine Qual und kein Entzuecken,
aus meiner Mitte konnte ich nicht heraus,
entscheidungs- oder regungslos
im Wind bewegte ich mich bloss.


【散文訳】

昨日、わたしは樹木だと考えるのは、素敵なことだった!
ある場所にほとんど根を降ろし
わたしは、素晴らしく、文句なく、ゆっくりと成長した
北風も微風も、わたしは、浴びた
優しく撫(な)ぜることも、揺(ゆ)することも、すべて同じだった。
わたしは、苦しみなどなく、また魅了されることもなかった
わたしの中心から、わたしは外に出ることができなかった
決心することなく、また動揺することなく
風の中で、わたしは、ただ動いていた


【解釈】

イタリアの詩人です。

このひとのイタリア語のWikipediaがあります。詩人の写真が載っています。

http://it.wikipedia.org/wiki/Patrizia_Cavalli

こういうのが詩というのだろうなあ。

想像力の豊かさ。

そして、確かなわたしの有り様。

動かされ、そして、動きながら、それは、わたしだという勇気。

それは、わたしだ、または、それが、わたしだ、
また、わたしは、それだ、ということ。

これが、詩の本質だと、わたしは、思う。

そうして、それが、死者であっても、それは、尚更。

こうして、わたしは、樹木だ。







2011年9月3日土曜日


Die Quadratur des Kreises(円を四角にすること):第36週

by Jan Skacel (1922 - 1989)




【原文】

Die unterschiedlichen Entfernungen des herbstes
und die stelle mit den hobelspaenen
die zurueckbleibt
wenn der zirkus abreist aus der stadt

Und nach lange danach
gehn die schulkinder auf einem umweg nach haus
um auf dem ring
den loewen riechen zu koennen




【散文訳】

秋の様々な距離
そして、サーカスが町から旅立つときに
残る
鉋屑(かんなくず)の散らばった場所

そして、その後長い時間が経って
子供たちが学校の帰り道に道草をする
円の上で
ライオンのにおいを嗅ぐことができるために




【解釈】

詩の題名の、円を四角にすることとは、それは不可能事だという、ひとつの言い方です。

チェコの詩人です。

この詩人のWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Sk%C3%A1cel

この詩は9月の詩。

この時期のサーカスの去った後のことというと、レイ・ブラッドベリーの作品を思い出します。

ブラッドベリーは、9月ではなく10月、October, October Countryですが。

この秋という季節とサーカスと、サーカスの去った後また跡の、そんな雰囲気が、この詩にはある。

最初の一行、秋の様々な距離という言葉がいい。

これは、秋が様々な距離を有するともとれるし、秋になると、様々な距離が生まれるという意味にもとれる。

あるいは、秋になると、様々なものごとと距離が生まれ、お別れすることになるのか。冬を前にして。それは、そうだ。

詩の題名の円とは、サーカスの舞台のあの円形をいっている。

サーカスが去った後では、その円を四角にすることはできないという意味か、いや、それが出来るのだ、それが秋の、サーカスのテントや円形舞台の終わった後の、そこに立って、ライオンのにおいを嗅ぐことができるのだ、という意味かも知れません。

後者の意味にとった方が、何故最後の一行に、「ライオンのにおいを嗅ぐことができるために」と、「できる」という助動詞を詩人が入れたのか、そのこころがよりよく理解できると思います。

この訳語は、日本語にすると、少し馴染みのない、変な感じがいたしますが。

それも、子供にその能力があるといっている。

学校帰りの、道草をする子供たち、というのもよい。

わたしも、子供のころ、確かに、このような生活をしていたと思う。

円を四角にするという生活を。


2011年9月2日金曜日

Gedicht von Alena und Marie:アレーナとマリーの詩「私の心は日本のために泣いています」



【原文】

Mein Herz weint für
Japan


Der Wunsch der Hoffnung
Der Wunsch der Liebe
Gottes Segen ist geblieben.
Egal wie groß, egal wie klein,
Hoffnung soll in jedem sein.

Viele Menschen sind in Not,
denn überall lauert der grausame Tod.
Die toten Straßen schrecklich leer
Und dies war die Schuld vom Meer.

Die Opfer des Todes,
die Opfer des Leid’s
die Gefühle für Mitmenschen ziehen sich so weit.
Je schlechter die Lage,
desto weiter ziehen die,
Gottes Segen segne sie.

Wenn alle dran glauben,
wenn alle dann hoffen,
dann können sie’s dort in Japan bald schaffen.
Jedoch eines ist klar,
es bleibt die Gefahr.

Als sie Tsunamiwelle kam,
war alles kaputt.
Als der Stromausfall war,
ging es in die Luft.
Nun ist es so wie es ist.


Alles verwüstet, alles kaputt,
alles liegt nun in Asche und Schutt

Das kleinste bisschen Hoffnung ist nun fort,
keiner der Engel spricht irgendein Wort.
Entsteht Japan jetzt an einem anderen Ort?

Ein großes Unglück ist passiert,
dessen Sicherheitsvorkehrung nicht funktioniert.
Man brauchte eine Lösung und zwar schnell,
sonst wird das Leben von Japan nie wieder hell.

Die Stadt ist leer und die Zeit so schwer,
den Segen auf Erden spürt man nicht mehr


Die ganze Welt steht still
Weil jeder die gedenken will.
Alles ist wie eingefroren,
die Familien haben sich verloren.
Die ganze Welt ist betroffen
Und alle können nur noch hoffen.

Japan ist ein schönes Land,
doch jetzt liegt es in Gottes Hand.
Bald ist die Antwort hier.
Werden wir Japan für immer verlieren?

Keiner weiß es genau,
vielleicht kommt ja der Supergau,
Wir, wie auch ihr, hoffen es nicht.
Schaut den Menschen ins Gesicht.

Mit viel Einsatz und viel Mut
wird es klappen
Die Atomkraft abzuschaffen.

Der Wunsch der Hoffnung,
der Wunsch der Liebe,
Gottes Segen ist geblieben.
Egal wie groß, egal wie klein,
Hoffnung soll in jedem sein.

Wir sind hilflos, sprachlos,
keine Lösung ist in Sicht.
Japan, mein Herz weint für dich.


Alena Schmid, Marie Volkmer


【散文訳】

わたしのこころは
日本のために泣いています


希望の願いがあり
愛の願いがあり
神の祝福は、去ることがありませんでした
どんなに大きいか、どんない小さいかは関係なく
希望こそが、ひとりひとりの中に宿っているからです。

大勢のひとたちが、苦しんでいます
ここかしこに、恐ろしい死が待ち構えているから
死んだ通りは、どれも、恐ろしいほど、空虚だから
それもみな、海の犯した罪のせいでした

死の犠牲があり
悲しみの犠牲があり
同じ人間として同胞に感じるひとびとのこころは
かくも広く及んでいます
状況が悪くなればなるほど
ますます、そのこころは一層ひろがるのです
そのこころに、神の祝福がありますように

もしすべてのひとがそれを信じるなら
もしすべてのひとがそれを望むなら
そのこころは、日本の国で、じきに確かな形をとることでしょう
でも、ひとつだけ、はっきりしていることがあります
それは、危険は去ってはいないということです

津波が押し寄せたときに
すべてが失われました
原子力の事故がおきたときに
空中に放射されました
そうして今では、このような現実となっています

すべては荒れ果て、すべては失われ
すべては、こうして灰塵に帰したのです

ほんのかすかな希望さえも、今は、なくなり
天使たちのだれも、一言も言葉を発することがありません
日本の国は、これから、ほかの場所に
生まれるとでもいうのでしょうか?

大きな不幸が起き
その安全保障は機能せず
解決策が必要でした、それも迅速な
そうでなければ、日本の国の生活と生命は
二度と輝かないことになるでしょう

町は、空虚で、時は、かくも重たく過ぎ行き
地上に祝福があるなどとは、もはや、感じることがありません


全世界が、静止しています
だれもが、その世界を忘れまいとするので
すべては凍りついてしまったかのようです
もろもろの家族は、失われ
全世界が襲われたのです
そうして、できることと言えば、ただ希望を持つことだけです

日本は、美しい国です
でも、その国が今や神の御手の中にあるのです
じきに、答えがやって来ることでしょう
わたしたちは、日本を永遠に失ってしまうのでしょうか
(という問いに対する答えが)

だれも、そのことについては、確かには知りません
ひょっとしたら、原発のメルトダウンがやって来るかもしれませんが
わたしたちは、あなたたちがと同じように
それを望んではいません
人間から眼をそらしてはいけない

全力を尽くして、一杯勇気を出せば
原子力を廃棄することも
かならずうまく行くことでしょう

希望の願いがあり
愛の願いがあり
神の祝福は、去ることがありませんでした
どんなに大きいか、どんない小さいかは関係なく
希望こそが、ひとりひとりの中に宿っているからです。

わたしたちは、なすすべなく、ことばもなく
解決策もあきらかではありません
日本の国よ、わたしのこころは、あなたのために
泣いています

アレーナ・シュミート、マリー・フォルクマー


【解説】

今日は、解釈ではなく、解説です。

わたしのドイツにいる友人が、このたびの日本の大震災のためのチャリティコンサートを開いて、義捐金を募りました。

そのとき、その友人の娘さんたちが、この詩を書き、わたしが訳したという次第。

この詩は、義捐金とともに、石巻の幾つかの小学校に贈られたとのことです。

少し日にちは、づれますが、その詩を、思い出したように、掲げた次第です。

ご鑑賞あれかし。