2010年3月27日土曜日

19歳、20歳の安部公房2

もうひとつ、「詩と詩人(意識と無意識)」を読む前に、「僕は今こうやって」の論旨をまとめてみよう。ここで、安部公房は、外面と内面とその境界面または接触面について書いている。僕が感じたり、また僕はと発話するか、または「僕は」と文字で書いたとしても、それはすべて外面にあるものだという(「詩と詩人(意識と無意識)」では、外面を意識と呼び、内面を無意識と呼んでいる。無意識を夜と呼んでいて、「夜は亦定義され得るものでもない。」と言われている)。そうして、安部公房は、この接触面を見極める事が大切だと主張している。この面は、「努力して外面を見詰め、区別し、そしてそれを魂と愛の力でゆっくりと削り落として行く事なのだ。」

この短い見開き2ページのエッセイで主張しているのは、ただこれだけである(その哲学的な思考展開は、「詩と詩人(意識と無意識)」において、更に執拗に行われている)。この外面を内面と区別し、外面を削り落して行って、内面(無意識)とのぎりぎりの面を見つけること、これを同じエッセイの中では、「いわんや言葉は、唯生の窪(くぼみ)を外面から削りとる事丈なのだ。」と言っている。このように見ること、その見方(「生を思考する方法」)を、安部公房は、リルケのマルテの手記に見たと言っている。

おもしろいことは、安部公房が、言葉とは「唯生の窪を外面から削り取る事丈」であり、「マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記」だと言っていることである。「詩と詩人(意識と無意識)」を読むと一層明瞭なのであるが、安部公房は認識論的に思考しない。時間を捨象して、存在論的にものごとを論ずる。これが安部公房の思考の特徴である。これは安部公房という人が、数学に秀でていたこと、特に幾何学が好きだったことと関係のあることだと思う(初期の小説のなかのあるものには、位相幾何学の好きな中学教師というのも出て来る)。

(*)「安部公房の劇場」(ナンシー・K・シールズ著。新潮社刊)22ページにも、次のように言われている:「ノノ安部の純粋数学、とりわけ非ユークリッド模型の研究を伴う位相幾何学に寄せるか愛着も、それに劣らず重要であった。安部のイメージの多くは詩的な数学的観察から生まれており、その観察が、安部の神経を張りつめた精密な調査の下で、思いがけないものの性状を典型的にあばいて見せていた。砂丘のような現象、昆虫、檻、微笑、鞄は、研究され尽くしていた。時空という抽象概念は、何にもまして安部の心を占領していた。安部はそういう抽象概念を量子物理学者のように熟考していた。ノノ」

言葉とは「唯生の窪を外面から削り取る事丈」。安部公房というひとは、削って書いたということになる。このひとにとって書く事は意識と無意識の境界面を見極めるために言葉で外面を削り取るという仕事であった。これを後年「消しゴムで書く」と言っている。ここまで概念化すると、「消しゴムで書く」という文も、比喩ではなく、事実その通りの行為だと思われる。

「詩と詩人(意識と無意識)」では、この内面と外面の接触面にある、永遠にそのふたつを隔てているもの、そうしていて外面が内面にその「外界の形象を送り込んで来る」当のものを窓と呼んでいる。勿論この窓は疑うべき対象であり、「果たして此の窓ガラスは透明に外界の形象をありの儘に吾等の孤独の部屋に送り込んで来るのであろうか」と否定的な自問としていわれる。この問い立てからして既に安部公房の世界だ。勿論、窓はそうではなく、「吾等の心の反照たる鏡なのではなからろうか」というのが、20歳の安部公房の結論である。このように考える安部公房の世界は再帰的(recursive)である。

(*)この窓の議論は当時の友人達とした形跡があり、中の肇宛て書簡(1943年12月6日付)では、「ノノ新しい登場人物。別離と窓氏」とある。これは、1943年、安部公房19歳のときの議論。また同時に議論されている別離という言葉も、安部公房にとっては大切な言葉であり、概念であった。無名詩集の最後は、別離に関するリルケの引用で終わっている(「別離は出発の始めである」)。

(*)安部公房には最後まで心の中に少年が棲んでいた。上記ナンシー・K・シールズに対し、ある時、安部の多忙を理由に遠慮したにもかかわらず、羽田国際空港までわざわざ見送りに来てくれて、言ったはなむけの言葉:「長旅だから、だれか見送る人が必要なんだ」

この先へ行く前に、このエッセイの全体を眺めてみよう。このエッセイは、2つの章から成っており、第1章は、真理とは何か、主観と客観、人間の在り方について、第2章は、世界内在について論じられている。このエッセイの題からいって、これは、(詩、詩人)と(意識、無意識)を論じたエッセイだということをこころに銘記しておこう。

結論からいうと、第1章は、第2章を準備し、書くためにある。結論は、世界内在を論じた第2章である。「僕は今こうやって」では、メモ書きのように書かれてあったものが、ここでは存在論的にもっと突っ込んで論じられている。キーワードは、世界内在(これは「世界内―在」と「世界―内在」の統合概念。このふたつものの往来と次元の転位を、安部公房は詩人の「転身」と呼んでいる。これはまた、安部公房がイメージや比喩を創造する方法論、methodology、でもあった)、人間の在り方、態度、かく見ゆる、次元、転身(「僕は今こうやって」では「変容」とも言いかえられていた。「詩と詩人(意識と無意識)」では、次元展開とも言い変えられている。)である。これらのことについては後述する。

さて、第1章を見て見よう。第1節は、真理とは何か。ここでは、ひとことでいうと、その議論の仕方はともあれ、真理は客観的な絶対的、唯一のものではなく、相対概念であり、従って複数あるということを言っている。もし真理がそうであれば、人間は不安になり、その「意識は自己懐疑の嘆きの裡に、自分に先行するものを求めようとする。」そうして、そのようにもとめられた真理は、ふと気付いてみれば、「やはり、冷たい木枯しにたわむれつつ、一人冬の中に置き忘れられている。」よりほかないのだ。それは何故かを説明するために、安部公房は主観と客観ということを第2節で論ずるのだ。そうして、第3節で「再び真理とは何か?」と題して、真理と意識、従って、無意識の問題を論じ、第4節で人間の在り方を論じて、第2章の世界内在における次元展開、詩人の変身を論じている。

第2節では、主観と客観とは無意識の世界、夜においては分離することはできないといっている。

また「主観・客観はやはり未解決の儘で差し出された両手の凹みの中に残されていたのだ。」(この両手の凹みというイメージは、安部公房がリルケの形象詩集の中で一番好きだと1943年11月14日付中の肇宛て書簡で引用しているHerbst(秋)という詩が念頭にある。)そのために主観と客観は、誤用や混用が甚だしいという。

さて、人間が無意識を言語化して、意識の俎上に載せようというときに、主観と客観が分離してひとつの次元を構成するのだ。この主観と客観は有意味だろうか、それとも無意味だろうか。この問いに対する解答は、肯定と否定とふたつある。しかし、安部公房は第3の主観と客観の関係があると主張する。

客観は、主観を通じて存在する。「主観的体験のみが、あらゆる意識を言葉たらしめるのである。」こうして無意識が言語を通じて意識化される。その意識化の程度は、その人間の「生存者としての人間各個の内面的展開次元の相違に従って、その言葉の重さ(含まれている次元数)の相違が考えられる。」即ち、その言語化された文が、何次元の文かによるといっている。「では、此の主観のつもり行く次元展開の究極は、一体何を意味するのであろうか。」と自問自答し、安部公房は、その究極の、次元数を求める果てに、客観的に独立して外面にあるのではない、個人の内面にある(当然削るという行為を通じてあらわれる)客観が現れるのだと言っている。そのような客観には、「吾等の初源の声がある。」「そこには一瞬に凝縮された、実存的な永遠がある。そしてこれこそ客観の存在論的解釈として正当なものではないだろうか」といっている。このような客観を自らのものにする人間のことを「完成された宇宙的詩人」と呼んでいる。また、その客観を「第3の客観」と呼んでいる。

(*)1946年12月23日付中の肇宛て書簡では、このような詩人を自分に擬して、次のように書いている:「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てて生きるという事は、恐らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思います。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な存在自体――愚かな表現ですけれど――であればよいのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作と言ふ事が必要なのです。これが僕の仕事であり、労働です。」

さて、それでは、再び真理とは何だろうか。これが第3節の題である。しかし、安部公房は詩人であって、まづ冒頭にこのように書かねば、論理の展開ができないのだ。

(続く)

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