2015年12月26日土曜日

リルケの『形象詩集』を読む(連載第9回):『Die Liebende』、『愛をなす女』

 リルケの『形象詩集』を読む(連載第9回)
Die Liebende』、『愛をなす女』

【原文】

Ich sehne mich nach dir. Ich gleite
mich verlierend selbst mir aus der Hand,
ohne Hoffnung, dass ich Das bestreite,
was zu mir kommt wie aus deiner Seite
ernst und unbeirrt und unverwandt.

…jene Zeiten: O wie war ich Eines,
nichts was rief und nichts was mich verriet;
meine Stille war wie eines Steines,
über den der Bach sein Murmeln zieht.

Aber jetzt in diesen Frühlingswochen
hat mich etwas langsam abgebrochen
von dem unbewussten dunkeln Jahr.
Etwas hat mein armes warmes Leben
irgendeinem in die Hand gegeben,
der nicht weiß was ich noch gestern war.


【散文訳】

私はあなたに憧れる。私は
私を喪失しながら、自分で、私の手の内から外へと滑り出る
希望もなく、私がそれ、即ち私の所へと
あなたの側の中からのようにやって来るものと
真剣に、そして全く困惑することなく、そして全く不動に戦うという希望もなく

…あの時間の数々、おお、どのように私は一つであったことか
何も何かを呼ばなかった、そして何も私を裏切ることはなかった、何故ならば、
私の沈黙は、一個の石のようであったから
その石の上を、小川が、ぶつぶついう声を引いて行く其の石のようであったから。

しかし、今は、これらの春の週間にあって
私を、何かが、ゆっくりと手折り、摘み取った
この、無意識の、全く知られぬ、暗い歳から私を。
何かが、私の貧しい暖かい命を
誰かの手の中に与えたのだ
私が昨日は何であったのかを知らない其の誰かの手の中に。


【解釈と鑑賞】

前回の「リルケの『形象詩集』を読む(連載第8回)『Der Wahnsinn』『狂気』」に歌われた主題と同じ主題が歌われていることに気づきます。

再度、前回の冒頭を引用してお伝えし、この詩の解釈と鑑賞を述べることにします。

「この詩を読むと、リルケが瞑想する(sinnen)という動詞を書くときには、その主語は何かの内部にいるのだということがわかります。瞑想は何かの内部で行う行為なのです。同じ使用例が、第4回に論じた『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の騎士』にありました。

「しかし、騎士の甲冑の中、その中の
 最も暗い闇の格闘の背後には
 死神が蹲(うずくま)り、そして、死神は瞑想し、瞑想しなければならない:
 何時(いつ)剣(つるぎ)は
 鉄柵を超えて飛ぶことになるのだろうか、と」

この詩にあっても、死神は騎士の甲冑の内部で瞑想を繰り返しています。そうして、それによって、何かの内部から外部へと、死神の場合であれば「鉄柵を超えて飛」び出すのですし、この詩の女王さまの場合であれば、「そのような一人の子供の中から(外へと出て)/君主になったのか?」と質問されています。
(略)
「女はいつも瞑想しなければならない:わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」

さて、この一行を次の第2連の最初の一行の「わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…」と比較をして差異を見ると、わたしという此の一人称の話者である女は、内部にいると瞑想し、瞑想して、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」この現在の時間にいる時には、外部に出たいと願っている人間だということがわかります。

ところが、外部に出ると、今度は、「わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…」と、過去の時間の中のわたしになるのです。」

第1連を読みますと、

私はあなたに憧れる。私は
私を喪失しながら、自分で、私の手の内から外へと滑り出る
希望もなく、私がそれ、即ち私の所へと
あなたの側の中からのようにやって来るものと
真剣に、そして全く困惑することなく、そして全く不動に戦うという希望もなく


とありますように、この女性は自己を失うことによって、内部から、それも自分の手の内部から外部へと滑り出るのです。

そして、そうすると、外部と内部が交換されて、何ものか、余剰というべき何ものかが生まれる筈です。

外部から内部にやって来るものは、「あなたの側の中からのようにやって来るものと」言われております。これは、一体何でありましょうか。そのものとは、この女性は戦う意思はない。そもそも戦うということすら思わない。「真剣に、そして全く困惑することなく、そして全く不動に戦うという希望もな」いのです。

これは一体何を言っているのでしょうか。

前回の詩に歌われた女王さまを思い出しましょう。すると次のような引用の意味を再度思い出すことになります。この女性は、前回の『狂気』という詩に歌われた女王さまと同じ種類の女性なのです。この女性は、

今という時間の中で瞑想して念願すると外部へ出て、外部へ出ると今度は過去の時間に生きた自分になってしまっている。これは逆説でもなく背理でもなく矛盾でもない。この外部と内部の交換される当の場所が、リルケの生きる両極端の隙間であり、安部公房の生きている次の次元への上位接続点なのです。

この場所は、女王は一人いても「誰も住まぬ国」なのであり、その女王は「全く貧しく、そして剥(む)き出しの」ままにいるのです。 何故ならば、それは、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」という世界なのであり、わたしは医者であるとか、わたしは弁護士であるとか、わたしは消防士であるとか、わたしは何々であるというのではなく、只々「わたしは……ある」「わたしは……存在する」というだけの世界、即ち衣裳を剥ぎ取り剥ぎ取られて在る故に「全く貧しく、そして剥(む)き出しの」女王であるのです。裸の王様というアンデルセンの有名な童話を思い出せば、これを裸の女王さまと言っても良いでしょう。あなたも普段は、衣裳を着て現在の時間の中に生きている。

何故あなたはアンデルセンの『裸の王様』を容易に理解するのでしょうか。それは、あなたが普段は衣裳を身にまとうことによって何かを忘却しているが、実は裸であったということを思い出し、そうしてリルケ流に言えば、存在であるあなた自身を思い出すからです。即ち、未分化の実存に、あなたはなっていることを思い出すのです、即ち知るのです。

それが嫌で外部に脱出すると、今度は過去の時間の中に生きなければならない。それでは、外部にいて外部から見ると、内部にいて現在の時間の中にいて生きていた(「既にして」超越論的に現在に存在している過去の時間!あなたは一体誰であり何であるのか?

(この「既にして」そうある超越論的論理によって「明日の新聞」はいつも世界の果てで発行され(何故世界の果てかといえば、内部と外部の交換されて生まれる、こちらとあちらの間の境域だから)、『第四間氷期』の電子計算機の未来についての予言が常に現在において現実となる理由なのです。)

このように考えて来ると、外部と内部という空間的な(捨て身の)交換によって、時間が消滅すること、時間が無化されることがお判りでしょう。これを、安部公房はリルケから学んだのです。日本人ならば、平安時代の昔から(川の淵に)「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というところです。古代の格言の宿す智慧は、現代の存在論にあっても、正しいのです。

世界の果てに主人公が到達すると、その主人公の死と引き換えに現れる「明日の新聞」も死亡広告や失踪宣言書も、無名の人間として主人公が遂に選択する自己犠牲と自己忘却と自己喪失によって生まれる外部と内部の交換による時間の消滅した上位接続点の積算の記(しるし)であり章(しるし)であり標(しる)べなのであり、安部公房の読者承知の「終りし道の標べに」なのです。

この詩の第1連と第2連をこのように読むと、外部と内部の交換という一見空間的な関係の交換が、実は時間の無化を生み出していることがわかるのです。そうして、ここに存在が招来される。

この女性もやはり『狂気』の女王さまと同様に、「外部に脱出すると、今度は過去の時間の中に生きなければならない。それでは、外部にいて外部から見ると、内部にいて現在の時間の中にいて生きていた(「既にして」超越論的に現在に存在している過去の時間!あなたは一体誰であり何であるのか?」

あなたは一体誰であり何であるのか?」という問い、この問いに対して、この女性は、次のように答えます。

…あの時間の数々、おお、どのように私は一つであったことか


「…あの時間の数々」という過去の時間に、「おお、」「私は一つであった」と回答しているのです。従い、この詩と前の詩はやはり詩想としては連続していることがお解りでしょう。詩人はそのように詩を配置して、この詩集を編んでいるのです。

「私は一つであった」とは、既に諸処で述べているように、「私は存在であった」と言っているのです。しかし、今の此の現在の時間では、そうではない。

安部公房がリルケに深く学んだ(数学の記号ではなく言語で表す)存在の概念と形象がどのようなものであるかを『安部公房の奉天の窓の暗号wを解読する(後篇)』(もぐら通信第33号)から再掲してお届けします。

[註41]
これらのことを考えて参りますと、安部公房の師、石川淳の葬儀の場で安部公房の読んだ弔辞の、次の言葉が思い出されます。この弔辞に使われている語彙は、この論考をここまで書いて参りますと、実に安部公房好みの語彙が選択されており、その世界に石川淳を、いつもの陰画の呪文を唱えて結界を張り、蘇生させて、呼び出したいという安部公房の強い思いが伝わって参ります。

そうして、ここで石川淳との関係を深海の中での関係として述べていることは、そのまま『無名詩集』の(既にこの論考で読んだ)『心』や、同じ刺繍の『防波堤』や『孤独より』の「其の七」という詩や、『水中都市』や『第四間氷期』や、安部公房スタジオの『イメージの展覧会』の布(存在)や『水中都市(GUIDEBOOK III)』の布(存在)や『人命救助法』の水(存在)の形象(イメージ)や『S・カルマ氏の犯罪(GUIDEBOOK IV)』の砂漠(存在)、即ち裏返しの海(存在)の形象や『仔象は死んだ(イメージの展覧会)』の布(存在)で安部公房が表現した存在の中での師弟関係であったといっているのです。

これは、すべてリルケに学んだ存在という概念なのです。何故ならば、海の水は、どんなに物に衝突して離れても、また向こう側で必ず一つになるもの、即ち存在であるからです。([註12]の提灯や入籠構造を備えた器であなたに示した言語の形象を思い出して下さい。)リルケが同じ性質を有するものとして褒め称え、荘厳した存在に、風があり、人間の風である息があり(息が機縁となって人間の内部と外部が交換されるから)、動物としては、空を飛ぶ鳥と其の鳥の群れがあります。これらに共通していることは、分かれ別れても一つになるということなのです。それから、植物、循環して生き、垂直に成長して無時間の空間を生きる植物である木や花が、風と同様に、リルケの純粋空間に生きる生き物なのです。自然がそうであり、動物や植物がそうであれば、一体人間はどうなのでしょうか。存在としての人間が、即ち繰り返し循環しながら無時間の純粋空間に果てしなく垂直に成長して行く存在である人間がいるのではないでしょうか。それが、すべての安部公房の主人公たちなのです。リルケが『オルフェウスへのソネット』で歌った神的な青年、即ち自己を喪失して刻一刻果てしなく変身を続けて存在の中に隠れ続けて、誰にも知られることのないオルフェウスのような(垂直方向に樹木のようにいつまでも成長し続ける)存在が、即ち差異(時間の無い純粋空間)に棲む人間たちが、すべての安部公房の主人公たちなのです。

こうしてみますと、安部公房がリルケに学んだ存在の概念は誠に深く深く、安部公房のこころに生きております。

さて、長くなりましたが、存在の中での師弟関係を読んだ、安部公房の弔辞です。傍線筆者。

「 いわゆる弔辞をのべるつもりはありません。弔辞というものは、ナメクジにかける塩のようなものです。危険なもの、不穏なものを消してしまうための呪文にすぎません。
 石川さんには危険で不穏な存在のままでいてほしい。石川さんが亡くなったという実感がまるで湧いてこない、この気分をそのままに維持しておきたいのです。文壇という村構造に異議申したてをつづけ、潜水作業中の孤独な作家に酸素を送る仕事を引き受けた石川さんになお休息は許されない。石川さんのポンプから送られてくる救命用酸素を待つ者はいまなお跡を絶たないのです。
 ぼくも石川さんの救命ポンプに救われ、はげまされた一人です。(略)
 (略)あるべき表現を「精神の運動」と言いきった石川さんは、孤独な深海作業者のための命綱であっただけでははなく、自分自身もまた孤独な深海作業者だったのです。
 そして救命ポンプは現に作動中です。
    一九八八年一月二二日
                            安部公房」


…あの時間の数々、おお、どのように私は一つであったことか
何も何かを呼ばなかった、そして何も私を裏切ることはなかった、何故ならば、
私の沈黙は、一個の石のようであったから
その石の上を、小川が、ぶつぶついう声を引いて行く其の石のようであったから。


さて、この第2連の最初の一行の意味が上のようだとして、二行目以下の言葉は何を語っているのでしょうか。すぐに思いだされるのは、二つ前の誌『』から、以下に引用して、如何にリルケは同じ主題を繰り返し変奏しているかを思い出して下さい。

「前の詩が乙女という未分化の実存にいて、騎士という旅する男との背理的な関係についての詩でしたので、この詩でも引き続き、そのような乙女を愛する詩人の、生との関係にある境涯についての詩となっています。

リルケは、このような連想の繋がりを大切にして、詩を配置します。これによって、互いの詩の間に関係が生まれて、詩集として全体のまとまりをなすのです。

この詩の詩人は、石でできた柱の中に棲んでいる、浮き彫り(レリーフ)の像のひとつなのです。その石の中の、本来は生命のある筈のない像が、言葉を発している。

第1連では、この石に棲む詩人を愛するが余りに、自分が海に沈んで、溺死するものは、誰かと歌っています。海とあるのは、石は水に重く、海に沈むからでありましょう。

さすれば、その人の命を代償にして、この詩人は石の中から、この世の生命の世界へと帰つて来ることができるというのです。そうして、そのことによって、詩人の命は救われる。
第2連では、それほどに、生きた生命の此の世界で、自分の体に血の流れることを憧れることが歌われております。
(略)
これに対して、石の中は森閑として静かである。

最後の連の

「さすれば、わたしは独りで
泣いて、泣いて、わたしの石を求めて泣くことになる。
わたしの血が、何になろう?、もし血が熟するのであれば、
                     葡萄酒のように。

血は、海の中から外へとは、唯一者を大声で呼出すことはできない。
わたしを、一番愛した唯一者を。」

という言葉をこうして読み解いて参りますと、

わたしという詩人を自己の死と引き換えにするほどに愛してくれるのは、唯一者なのであり、この唯一者が海に溺れて、石の中の静寂に棲む詩人を生命の中へと救済してくれるのでありましょう。

リルケは、安部公房の大好きだった『秋』という詩でも、神(Gott、ゴット)とは呼ばずに、唯一者(Einer、アイナー)と呼んでおりますので、これはやはり、Gott(神)ではなく、何かある者、それも最初の文字を大文字で書き表すに足る唯一の者であり、その意味では絶対の者でありましょう。」


…あの時間の数々、おお、どのように私は一つであったことか
何も何かを呼ばなかった、そして何も私を裏切ることはなかった、何故ならば、
私の沈黙は、一個の石のようであったから
その石の上を、小川が、ぶつぶついう声を引いて行く其の石のようであったから。


この女性も存在の女、即ち砂の女であった時には、砂のように一者であり、一つであり、従い、もの言わぬ沈黙の女であり、一個の石のような存在であった。その石のような沈黙の存在の上を、小川という時間は「ぶつぶついう声を引いて行く」のであった。時間は川のように流れるが、対して存在は不動である。それが、第1連の「真剣に、そして全く困惑することなく、そして全く不動に」いた状態なのです。あなたと呼ばれる男と性愛を交わし、交わって、外部と内部が交換されるまでは。

もうここまで来ると、最後の連の次の行は、理解が容易です。


しかし、今は、これらの春の週間にあって
私を、何かが、ゆっくりと手折り、摘み取った
この、無意識の、全く知られぬ、暗い歳から私を。
何かが、私の貧しい暖かい命を
誰かの手の中に与えたのだ
私が昨日は何であったのかを知らない其の誰かの手の中に。


春という生命の発露の季節になると、女性である「私を、何かが、ゆっくりと手折り、摘み取」るのです。これは、何か可憐な花を摘み取り、手折るという、何時ものリルケの形象です。女性という性の交接を歌う際に、その処女と純潔を奪う乱暴な男として贖罪の気持ちを持つリルケが歌う形象です。「リルケの『形象詩集』を読む(連載第6回)『Von den Mädchen』『乙女たち』」(もぐら通信第37号)より再掲して、お伝えします。


「前の詩が乙女についての詩でしたので、この詩も乙女についての詩です。

リルケは、よくこのような連想の繋がりを大切にして、詩を配置します。

第I章では、娘たちがどのような者たちであるかが歌われております。この場合、娘たちというドイツ語の意味は、乙女であり、まだ男を知らぬ生娘という意味であります。

このような純潔の乙女に対して、第II章では、夫を持ったご婦人たち、成熟した女性たちが登場致します。

(略)
乙女というものが、そうなのではなく、詩人という男が乙女という純潔の女性に接すると、遥かな距離という詩人の創作に大変重要な契機を知り、それを詩にすることができるのだと、リルケはいうのです。

だから、


どの娘も、詩人という者に身を捧げてはならない
仮令(たとえ)詩人の目が、女性たちに求めたとしても

というのです。

上の二行目の女性たちと訳したドイツ語の言語の意味は、結婚した女性という意味であり、そういう意味で大人の女性たちという意味、或いはまたそのような世俗の、世の女性たちという意味です。

しかし、乙女たちは、そうではない。

第I章で、娘たちが詩人の居場所を訊かないのは、そのままに居れば、詩人の方が向こうからやって来るからでありましょう。何故ならば、娘たちは、「どの橋々が形象たちへと通じているのかを」よく知っているからです。

やはりこのような純潔の乙女、即ち性を知らない、或いはもっと小さな子供に近い女性もドイツ語の乙女は言い表しますから、例えば赤ずきんちゃんのような娘も娘ですから、安部公房の十代の認識の言葉によれば、これらの乙女は未分化の実存として存在に存在しているということになります。

存在の存在していると言い表して明らかなように、娘たちの存在は既にして再帰的なのであり、従い循環する生命を備えているのです。

そのような存在である乙女たちは、詩人の形象の源泉であるのです。この詩集は『形象詩集』と題されておりますので、これからも、乙女たちという主題は歌われることでありましょう。

そのあり方から言っても、既にして「どの橋々が形象たちへと通じているのかを」知っている乙女たちなのです。

橋とは、川に掛かり、こちらの世界から別のもう一つの異界へと渡るための接続です。」

このように読んで参りますと、第1連の、


私はあなたに憧れる。私は
私を喪失しながら、自分で、私の手の内から外へと滑り出る
(略)
私がそれ、即ち私の所へと
あなたの側の中からのようにやって来るもの


という第1連の最初の二行の意味が、一層深く理解されることでしょう。

何故、この乙女は詩人の男に憧れるのか、何故詩人である男の「側の中からのようにやって来るもの」に憧れるのか。『乙女たち』という詩では、あれほど、

「どの娘も、詩人という者に身を捧げてはならない
仮令(たとえ)詩人の目が、女性たちに求めたとしても」

と歌っていた其の当の男であるにもかかわらず。

と、このように読んで来ると、この最初の一行は、男性であっても構わないかも知れないという理解も成り立ちます。何故ならば、このような外部と内部の交換を未分化の実存にいる女性、即ち男を知らない乙女に、積極的に強く求めるのは、乙女ではなく、詩人である男性であるからです。もしそうならば、ここにある種の倒錯があることになりましょう。いや、しかし、


しかし、今は、これらの春の週間にあって
私を、何かが、ゆっくりと手折り、摘み取った
この、無意識の、全く知られぬ、暗い歳から私を。


とあるのですから、やはり乙女を摘み取るのは男の詩人なのでありましょう。そうして、


何かが、私の貧しい暖かい命を
誰かの手の中に与えたのだ
私が昨日は何であったのかを知らない其の誰かの手の中に。


この乙女、存在の女、砂の女は、自分自身の手の中から出て、争(あらが)うことなく無抵抗に男を受け容れて、外部と内部を交換され、さうやって自己を喪失して「外部に脱出すると、今度は過去の時間の中に生きなければならない。」そうして、外部にいて外部から見ると、内部にいて現在の時間の中にいて生きていた(「既にして」超越論的に現在に存在している過去の時間!」女になってしまっているのです。

従い、すべての安部公房の主人公の意識がそうなるように、現在の時間の中で記憶を失い、自己を喪失し、即ち縁(へり)から縁へと夜に躍り狂う『狂気』の女王さまのように、「私が昨日は何であったのかを知らない其の誰かの手の中に」落ちていることになるのです。

最後に、安部公房がリルケに学んだ手のことについてお話しします。

この『形象詩集』には、全部で15の単数の手が出てきます。この『愛をなす女』に出てくる手を除いて、そのほかの総ての手を列挙して、リルケの手の概念をお伝えします。これは、そのまま、安部公房の手なのです。この存在の手は、繰り返し、安部公房の作品の中に出てきます。

1。『Aus einer Kindheit』(『ある子供時代の中から』):周囲は静かであること。「子供の偉大な見るということ(行為)は、母親の手にぶら下がっていた」ということ。
2。『Herbst』(『秋』):安部公房の大好きな詩。星々と一緒に、私たちも落ちてゆき、手も落ちるということ。しかし、そこには、この落下を限りなく受け止めてくれる唯一者の両手の窪みがあるということ。そのことを安部公房に教えた詩は、次のような詩です。

「秋

 数々の葉が落ちる、遠くからのように
 恰(あたか)も、数々の天にあって、遥かな数々の庭が凋(しぼ)み、末枯 (すが)れるかの如
 くに
 葉は、否定の身振をしながら、落ちる
 そして、数々の夜の中で、重たい地球が落ちる
 総ての星々の中から、孤独の中へと。

 わたしたちは皆、落ちる。この手が、落ちる。
 そして、他の人たちを見てご覧 落ちるということは、総ての人
 の中に在るのだ。

 そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
 その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。」

3。『Gebet』(『祈り』):指環が私の手に滑らかにあること。(指環とは何か?)
4。『Abende in Skane』(『スカーネの夕暮れ』):「今や、私も、彼の手の中で、一個の物である、これらの物の中で最も小さな物である」ということ。
5。『Strophen』(『詩の連』):すべての人々を一つの手の中に取り入れることのできるある者、一人の者がいる。この者の能力は、社会の一番上の階層にいる女王さまたちの中から最も美しい女王さまたちを選び、白い大理石の中に彫り込んで、今度は王様たちを、そのご婦人である女王さまたちのそばに置くのだが、この王様たちもまた、同じ白い大理石(の中から)で出来ているのだ。手とは、そのような力を持っている。この手の持ち主は赤の他人ではなく、見知らぬ人間ではない。何故ならば、この者は、私たちの生命であり、さやさやと流れる音を立て(rauschen)、静かに憩うている血の中に住んでいるからだ。詩人は、このような手を持つ此の者が不正義をなしているとは思わないが、世間の多くの人間たちは、この者の悪口を言う、そのような者の、これは、手である。
6。『Die heiligen drei Könige Legende』(『聖なる3人の王様の伝説』):「荒野の縁(へり)には、主の手が開いて(現れて)いた、毎年夏になると其の芯のあることを世に告げる果実のような、主の手である。そして、それは奇蹟だった。」とあらしめる手。
7。『Karl der Zwoelfte von Schweden reitet in der Ukraine』(『スウェーデン王カルル12世がウクライナを騎行する』):この王は故郷を出て、外国に転戦する、「危険を求めて、危険を巡って、奇蹟が此の王を超越し、乗り越えるまで、戦った。夢を見ているかのように、王の手が、王の体を、(剣を佩(は)いている其の)鋼鉄の帯から鋼鉄の帯へと行くが、しかし、帯には剣は入っていなかった。というのは、王は、見るために目覚めたからだ。」とあるような王さまの体に、戦の中で、存在しない剣を探している手。
8。『Ein Gedichtkreis』(『詩の会』):手は、椅子の緋色の背凭れを前にすると、ぼんやりとした憧れから、混乱した不確かなものの中に逃げるということ。従い、やはり、手と憧れは関係のあること。
9。『Ein Gedichtkreis』(『詩の会』):乙女の手は、巴旦杏の実ほどの狭い幅の手をしていて、それは、銀の縁(へり)の中から外へと、右にも左にも浮き出てきて、目に著(しる)きものであること。手と縁は関係の深いこと。
10。『Die aus dem Hause Colonna』(『コロンナという家から出る女』):手は、少年の手でもあること。即ち、未分化の実存に生きる男以前の男である少年の手は、少年である時には、暖かかった(過去形)のであること。そして、その手が温かいということを、少年であった時代には知らなかったこと。これは、この『愛をなす女』の最後の連で、「何かが、私の貧しい暖かい命を/誰かの手の中に与えたのだ」と歌われる「私の貧しい暖かい命」という言葉に実に通じていることがわかります。
11。『Das Lied des Bettlers』(『乞食の歌』):右の手に右の耳を当てると、乞食の前に自分の声が立ち現れて、それが恰も乞食が知らない声であったかの如くにある、そのような声であること。
12。『Das Lied des Bettlers』(『乞食の歌』):「遂に両の目を使って(閉じて)私の顔を閉じると、手の中に、顔が、その重さと一緒にあるがままに、そ顔はほとんど静寂のように見える」というkと。手ー両目ー顔ー重さー静寂という概念連鎖。
13。『Das Lied des Blinden』(『盲(めくら)の歌』):「盲の男が、成熟した女の腕に手を載せ、自分の灰色の手を、その女性の灰色をした灰色の上に置くと、この女性は盲の男を純粋な空虚の中を案内してくれる」ということ。
14。『Der Schauende』(『見る男』):天使の手は厳しい手であること。
15。『Acht Blaettermit einem Titelblatt Titelblatt』(『題名という題名の8枚のページ』):盲の女にとっては、「私の額は見、私の手は、他の手たちの中にある沢山の詩を読んだ」ということ。


そうしてみますと、


私はあなたに憧れる。私は
私を喪失しながら、自分で、私の手の内から外へと滑り出る


という最初の連の最初の二行は、実は、この私は性を問わず、手という存在と存在しないものとの境界、縁(へり)を生きて、それも現実の時間の中を縁をたどることのみをしながら生きて(安部公房の「周辺飛行」!)、既にして超越論的に現実の中で過去の時間を生きる、そのような未分化の実存、即ち現実にいて、存在の中に生きている人間、しかし恰も死者のような人間であるということになります。

それは、安部公房の読者であるあなたのことではないでしょうか?違いますか?即ち、安部公房の創造した、あなたは、幽霊であり、透明人間であり、箱男であり、脛からカイワレ大根の生えてくる人間であり……。

最後の連、


しかし、今は、これらの春の週間にあって
私を、何かが、ゆっくりと手折り、摘み取った
この、無意識の、全く知られぬ、暗い歳から私を。


何かが、私の貧しい暖かい命を
誰かの手の中に与えたのだ
私が昨日は何であったのかを知らない其の誰かの手の中に。


「私を、何かが、ゆっくりと手折り、摘み取った」、あなたにはその理由がわからない。それは安部公房も同じだった。母親に手を引かれて行ってみたが、何故毎日学校に行くのか、そこに一緒にいる同級生たちが何なのか、先生と呼ばれる人たちがいるが、この人たちは何なのか、そして大きくなり、中学高校へ進み同じことを感じ思う、そして世の中に出で再た思う、何故毎日会社に行くのか、何故毎日あれをし、これをしなければならないのか、あの場所で、この場所で、それは恰も人さらいにあったようなものではないのか?理由もわからずに救急車に、甲高いサイレンの音で劇場の幕が開いて(一体誰が幕を上げるのだ?)乗せられて、いつも何処かへ理由なく連れて行かれたのと同じことなのではないか?

と考えていた、「この、無意識の、全く知られぬ、暗い歳から」「何かが、ゆっくりと手折り、摘み取った」「私」であった子供の、そして十代の安部公房に、この詩は、実に論理的な回答を与えたのです。安部公房はリルケを叙情的には全く読まなかった。[註1]

[註1]

1。安部公房の自筆年譜によれば、昭和18年(西暦1943年)に「ただリルケの『形象詩集に耽溺した』」とあり、昭和22年(1947年)の項には「手垢にまみれたリルケの『形象詩集』がついてまわっていた。いつの間にか、リルケ調の詩を書きはじめていた。それは詩というよりも、”物”と”実存”に関する対話のようなものだった。」とあります(全集第12巻、465~466ページ)。

2。1968年『三田文学』での秋山駿との対談で、次の発言があります。傍線筆者。

編集部 つまり、あの頃だったら(筆者註:思春期で文学書や哲学書を読みふけった戦時中の時期のこと)、安部さんのいうセンチメンタリズムというのがあって、それが小説形式に至ったりする場合、安部さんはそういうのが嫌いな方ですから、なぜ小説という方法を採用したか、そこがわからないんです。戦争中、梶井基次郎、堀さんのものなんか読む人が多かったですね。あるいは亀井勝一郎、リルケ、カロッサ、それで一種のセンチメンタリズムみたいな形で小説的方法というものにもたれかかるという感じがありましたが、それが安部さんにはないのですから論文でもお書きになった方がよかったのでは......。
安部 なんとなく小説には総合的表現があるというような感じがあったのじゃないかしら。
 僕もリルケは好きだった。けど、君の言うように抒情的には読まなかったな。リルケのことを書いたのは、ハイデッガーだっ たっけ……。」(全集第22巻、40ページ上段)

3。安部公房は後年、リルケを情緒的にではなく論理的に理解したことを次のように述べています(全集第24巻、143ページ下段から144ページ上段。「〈書斎にたずねて〉」)。1973年、安部公房、49歳。

「ぼくの初期作品について、よくリルケの影響を指摘されるけれど、リルケが自分の中で大きな根をおろしていたのは戦争中だ。リルケというのは非常に叙情的な面を持っているし、平気でぬけぬけと叙情におぼれるところがあって、そういう面はその後とても嫌いになった。ただ、リルケの持っている目に、以外と「物」に強くこだわる面があった。いろんな概念や観念の背景に必ず「物」が媒体にならなければ成り立たないという姿勢があって、それがとくに、戦争中のまわりの精神構造に対するアンチ•テーゼになってくれたんだな。だからある意味で、「物」とか「存在」ということに意識を集中させることで、時代の暗さを切り抜ける方法を求めていたのだと思う。あの時代、手に入るぎりぎりの範囲で支えになり得るものといったら、やはりそれしかなかったんだ。」


そうだ、


何かが、私の貧しい暖かい命を
誰かの手の中に与えたのだ
私が昨日は何であったのかを知らない其の誰かの手の中に。


これは、安部公房の小説や戯曲の筋立てそのものではないでしょうか?最後に書かれた手という文字は、既に上に列挙した概念の示すように、果てしなく落下してゆく人間を、宇宙の中で優しく両手を差し伸べて救ってくれる唯一者の手であるのです。この手のドイツ語は「誰かの手」と日本語で訳するように書かれていて単数形の手ですが、定冠詞が付いている手ですので、両手も含み手である其の手の様態の全てを意味しております。

安部公房の作品の最後には、いつも主人公の死亡記事と失踪宣告の立て札が立ち、主人公が次の次元へと、即ち「私が昨日は何であったのかを知らない其の誰かの手の中に」委ねられ、攫(さら)われて、転生を繰り返すことを暗示して終わっております、否、始まってしまっているのです。「既にして」超越論的に、早や。

そして、そのことに、あなたは限りなく、安部公房の優しさを感じる。

次回は、『Die Braut』(『花嫁』)です。







2015年12月6日日曜日

リルケの『形象詩集』を読む(連載第8回):『狂気』、『Der Wahnsinn』

 リルケの『形象詩集』を読む(連載第8回)

狂気Der Wahnsinn


【原文】

Sie  muß immer sinnen: Ich bin…ich bin…
Wer bist du denn, Marie?
Eine Königin, eine Königin!
In die Knie vor mir, in die Knie!

Sie muß immer weinen: Ich war…ich war…
Wer warst du denn, Marie?
    Eine Niemandsland, ganz arm und bar,
    und ich kann dir nicht sagen wie.

Und wurdest aus einem solchen Kind
eine Fürstin, vor der man kniet?
   Weil die Dinge alle anders sind,
   als man sie beim Betteln sieht.

So haben die Dinge dich groß gemacht,
und kannst du noch sagen wann?
    Eine Nacht, eine Nacht, über eine Nacht, −
    und sie sprachen mich anders an.
    Ich trat in die Gasse hinaus und sieh:
    die ist wie mit Saiten bespannt;
    da wurde Marie Melodie, Melodie…
    und tanzte von Rand zu Rand.
    Die Leute schlichen so ängstlich hin,
    wie hart and die Häuser gepflanzt, –
   denn das darf doch nur eine Königin,
   dass sie tanzt in den Gassen: tanzt!…


【散文訳】
女はいつも瞑想しなければならない:わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…
お前は一体誰なのだ?、マリーよ
女王さまさ、女王さまに決まっている!
わたしの前で、膝の中へと入り込みなさい、膝の中へと入り込みなさい!

女はいつも泣いている:わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…
お前は一体誰だったのだ?、マリーよ
  誰も住まぬ国だ、全く貧しく、そして剥(む)き出しの
  そうして、わたしはお前には、どのように全く貧しく、そして剥き出しであるのかを言うことができない。

そして、お前は、そのような一人の子供の中から(外へと出て)
君主になったのか?、その前では世間の人が跪(ひざまづ)くような
 何故ならば(何故跪くかといえば)、事物は皆、異なっているのだから
 君主が乞食になって物乞いするのを、世間が見るのとは異なっているのだから。

そして、お前は、それはいつであったかを、まだいうことができるのか?
  ある夜、ある夜、一晩中ー
  そして、事物は、わたしに、異なった風に話したのだ。
  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:
  裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。
  人々は、忍び足で向こうへ行った
  硬くなっているかのように、そして、家々は植え付けられてー
  というのは、それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ  
  女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...


【解釈と鑑賞】

この詩を読むと、リルケが瞑想する(sinnen)という動詞を書くときには、その主語は何かの内部にいるのだということがわかります。瞑想は何かの内部で行う行為なのです。同じ使用例が、第4回に論じた『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の騎士』にありました。

「しかし、騎士の甲冑の中、その中の
 最も暗い闇の格闘の背後には
 死神が蹲(うずくま)り、そして、死神は瞑想し、瞑想しなければならない:
 何時(いつ)剣(つるぎ)は
 鉄柵を超えて飛ぶことになるのだろうか、と」

この詩にあっても、死神は騎士の甲冑の内部で瞑想を繰り返しています。そうして、それによって、何かの内部から外部へと、死神の場合であれば「鉄柵を超えて飛」び出すのですし、この詩の女王さまの場合であれば、「そのような一人の子供の中から(外へと出て)/君主になったのか?」と質問されています。

そうして、この女の瞑想する内心の声が、「ich bin…ich bin」、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」という言葉であれば、これはそのまま些(いさ)さか哲学風に訳すれば、「わたしは存在する…わたしは存在する」という訳にはなるでしょう。

しかし、そのような翻訳語に頼らずに、普通に此の文をドイツ語として理解すれば、「わたしは何々である…わたしは何々である」という意味になります。この何々に当たること、即ちわたしが何であれ、誰であるかということが、この女にはわからないのです。あるいは、記憶を失っていると言っても良いのですし、それほどに、わたしが何か誰かを言うことができないのです。これは、この詩を読むあなたと同じではないでしょうか。

従い、それを思い出すために、瞑想するのですし、瞑想するという意味は、自分自身を思い出すということなのです。リルケがここで言っていることは、現在に生きる其のわたしは、自分自身が何であるか誰であるかを忘れているということ、それが、ich bin(イッヒ・ビン)、即ち、わたしが存在する(と翻訳される其の)ことだと言っているのです。

これが、十代の安部公房がリルケの詩を読んで理解した、次の文章なのです。1947年、満年齢でいうと、安部公房24歳。

「リルケの、”唯、私は在ると叫べば良いのだ”と云う、雄々しくも悲しい決意は一切の理念を黙らして終う。」(『〈様々な光を巡って〉』全集第1巻、204ページ)

この一行の前段で安部公房の言っているのは、対立的に考える思考論理、即ち「それは、時間と空間、個体と全体、生命と生活、有と無、……」から生まれた19世紀のあらゆる理念の根底にある此の考え方を口にすることを、リルケの此の「唯、私は在ると叫べば良いのだ」と云う一行は「黙らして終う」というのです。即ち、この『狂気』という詩の第一連にならって言えば、「唯、私は何々で在ると叫べば良いのだ」という意味なのであり、更に言えば、「唯、私は私の自己を忘却したのだと叫べば良いのだ」という意味なのであり、もっと言えば、「唯、私は無名の人間だ」と言えばいいのだという意味なのであり、要するに此らを一言で言えば、「唯、私は存在すると叫べば良いのだ」と言っているのです。

何故叫ぶのかと言えば、それはこの世の中は皆、「時間と空間、個体と全体、生命と生活、有と無、……」という二項対立の思考で成り立ってい(ながら、世の人々は、これをぼんやりと思っているだけで、普段は其の間の灰色の、縁(へり)の無い曖昧な領域に謂わば漂うように生きてい)るからです。しかし、リルケはそうは言っていない。譬喩を使って分かりやすく言えば、これらの両極端の間に身を裂かれて生きよと言っているのです。これらの間に、即ち時間と空間の間に、個体と全体の間に、生命と生活の間に、有と無の間に、即ち此らの交差する其の十字路に立つことが、存在することなのであり、従い無名の人間として未分化の実存としてあることなのであり、人々の忘却に身を任せて、また世間による忘却を意に介することなく、自分自身の固有の死を求めて、この交差点という二項対立の交差点の隙間に、その差異、即ち上位接続点に身を潜(ひそ)めて密(ひそ)やかに棲むことが、安部公房がリルケに学んだ詩人としての一生の生き方なのです。


これが、安部公房がリルケに教わった「わたしは存在する」ということの意味です。

従い、このエッセイの結論として、その末尾に、安部公房は次のように書くのです。これが、安部公房です。安部公房のすべての小説の主人公たちの姿です。

「〈問題〉……如何にして忘却すべきであるか?
 〈解決〉……それは忘却によってである。
 現代にとって此の定律の宣告は生々しい記憶である。」

そうして更にダメ押しの、人間の心理分析による、本当に最後の最後に措いた、安部公房のもう一言。

「問題が提出されたと云う事の裏には、行動によって自己が要求され得るに異いないと云う本能的独断が潜在していたに相違ない。だが而し、更にその奥には、既に迫っている自己解体の宿命を予知しつつ……。

これらの引用にある「……」が、沈黙であり、空白であり、上の次元へいつも脱出するための上位接続点であることは、既に諸処でお話しして参り、特に『奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号及び第33号)と『『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く』(もぐら通信第34号)で、この「……」という記号が如何に安部公房の小説の構造を本質的に決定するかを詳細に論じた通りです。安部公房の言葉は、いつも此処(ここ)から、この「……」という沈黙と忘却の空白から、詩も写真も小説も舞台も、生まれて来るのです。何故なら、空白とは誰も振り返らぬ(物事と物事との)隙間であり、差異だからです。差異とは、即ち透明なる接続点、上位接続点です。[註1]従い、父親は存在になれば透明になってしまい、贋の父親と呼ばれるのです。贋の幽霊、贋の人間であるウエー、贋の火星人、贋の狸、贋のカンガルー、皆本物(現実のもの)にそっくりな擬(もど)きであり、擬装の生き物たち、即ち存在からやって来た生き物たちです。話は飛びますが、存在について思念を凝らす場所である御寺で修業する御坊さんの食する精進料理という贋の料理もあれば、日常生活の中にあるガンモドキという雁の肉の擬きもありましょう。

[註1]
『カンガルー・ノート』の最後の詩から、空白の、無の、上位接続点についての形象を引用して、示します(全集第29巻、188ページ下段)。

「北向きの小窓の下で
 橋のふもとで
 峠の下で

 その後
 遅れてやってきた人さらい
 会えなかった人さらい
 わたしが愛した人さらい

  遅れてやってきた人さらい
  会えなかった人さらい
  わたしが愛した人さらい

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」

第1連で、

「北向きの小窓の下で
 橋のふもとで
 峠の下で」

と歌われる場所が、上位接続点です。これらは皆交差点であり、十字路なのです。そこに、存在を、いつも安部公房は招来する。

そうして、第2連で歌われるように、人さらいは、『箱男』の最後に登場する安部公房の詩のように「平らな時計を持っている者がいたら/それはスタートしそこなった/一周おくれの彼」たる安部公房の創造した話者について行くことができなかった。或いはまた、この「一週おくれの彼」が人さらいであれば、やはり同様に、この詩の話者、即ち呪文を唱えて祈る者に会うことができないのです(『箱男』全集第24巻、138ページ下段の詩)。何故ならば、「だからいつも世界は/一周進みすぎている」からです。
それ故に、幾らお互いに、または一方が他方を愛しても、永遠に会うことができない。更に其れ故に、安部公房の呪文を唱える第3連が歌われるのです。それも、丸括弧の中に入れられて、従いこの歌を歌う話者の内心の独白として、そうして一文字分の空白を置いて、存在を招来するために。

「(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」



二つ目の引用の最後の「既に迫っている自己解体の宿命」とは、上でやはり私の言葉であなたに伝えようとした「譬喩を使って分かりやすく言えば、これらの両極端の間に身を裂かれて生きよ」ということを言っているのです。これが20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ)で論じた詩人の姿、即ち普遍的な人間の典型なのです。この論文には、このような人間として生きるためには一体どのように物を考えたら良いのか、その方法論(methodology)と方法が、この若者が十代で考え抜いた人生の戦略が、一生涯に亘る安部公房の論理と感情の凝縮が、鮮明に書かれております。わたしが、この論文は安部公房のOS(Operating System)だという所以(ゆえん)です。安部公房は、このOSを、後年投影体と呼んだ粘土塀に、壁に、砂に、顔に、地図に、箱に、病院に、石切場に、ノートブック(帳面)にinstallし続けたのです。

この論文には、二進数の言及があり、既に此の時、安部公房は電子計算機の数学、即ち19世紀のイギリスの数学者ジョージ・ブールの創造したブール代数の原理と記号論理学と(現代のソフトウエアのエンジニアが使う)真理表を知っていたことを示しています。[註2]1959年に発表された『第四間氷期』の取材で当時の電電公社を訪ねて電子計算機(コンピューター)に関する取材をしている安部公房の写真がありますが、電電公社の技術者の説明を数学的にも正確に理解していた安部公房の、これは小説家の姿なのです。『詩と詩人(意識と無意識)』は1944年、20歳、『第四間氷期』は1959年、35歳。

[註2]
「真理は正に、あらゆる次元の裡に、多種多様な姿をとって現れて来る。最初真理は判断の肯定的様式を以て始まる。a……b……cは真理である、と言う事と、α……β……γは真であると言う事は真理である、と言う表現とは、未定係数法可能的に一致する。つまりa……b……c……は、α……β……γは真であると言う形式に依ってのみ置き代えられ、満たされるのである。云い代えれば、真理は真虚の尺度である。そして此の場合、目盛の役目をするものは、他ならざる客観性なのである。此の事が真理と客観との第一の聯関である。」(『詩と詩人(意識と無意識)』全集第1巻、108ページ下段)

ここで、「云い代えれば、真理は真虚の尺度である。」と書いた事が、上の本文で述べた「二進数の言及」という意味です。今の論理学では、真虚とは言わず、真偽と言っていますが、当時の用語の方が正しい意味を漢字として表していると、私は思います。

そして、「真理は真虚の尺度である。そして此の場合、目盛の役目をするものは、他ならざる客観性なのである。」と言っている此の客観性を備えた客観の究極のものが、第三の客観と安部公房の呼ぶ、詩人が数かぎりない次元展開の果てに夜の中で眼にする究極の反照なのです。

これが、18歳の『問題下降に拠る肯定の批判』に書いて問うた「しかし、此処に新しい問題下降---- 一体座標なくして判断はあり得ないものだろうか。」(原文傍点)という問いに対する答えです。

未定係数法については、次の引用をご覧下さい。これを読みますと、二つの異なる次元の軸を互いに合わせるために、二つのものを置換と代替によって、思考の正しさを保証し、また二つのものを統合するために、簡略化する方法だということができます。化学の分野で多用される考えかたと見えます。

「質問:化学反応式における未定係数法とはどのようなものですか。

回答:例えば、「エタノール(CH3CH2OH)と酸素(O2)を反応させて二酸化炭素(CO2)と水(H2O)を生成する」という反応の化学反応式を書いてみます。

まず反応に関わる物質を書いてみます。
CH3CH2OH + O2 → CO2 + H2O

上の式では化学式の前の係数がばらばらなのでそれぞれにとりあえずa,b,c,dの係数を付けてみます。
aCH3CH2OH + bO2 → cCO2 + dH2O(・・・①)

次に左辺と右辺の各元素の数を合わせます。
炭素(C):左辺=2a個 , 右辺=c個
水素(H):左辺=6a個 , 右辺=2d個
酸素(O):左辺=a+2b個 , 右辺=2c+d個
なので
2a=c
6a=2d
a+2b=2c+d
の3つの方程式が立ちます。

ここで未定係数法のコツなのですが、「一つの係数をとりあえず1とおく」ということをします。
今回はa=1として考えて他の係数も算出します。
a=1 ,b=3 ,c=2 ,d=3
となります。

従って①の化学反応式は
CH3CH2OH + 3O2 → 2CO2 + 3H2O
となります。

このように化学反応式の係数を決める方法を未定係数法といいます。
またabcdが分数で出てきることがありますが、この場合は全てが整数になるように同じ数をかけてやればうまくいきます。

参考になればよいのですが、どうでしょうか。」(「ヤフー!Japan 知恵袋」:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1041855520



「女はいつも瞑想しなければならない:わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」

さて、この一行を次の第2連の最初の一行の「わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…」と比較をして差異を見ると、わたしという此の一人称の話者である女は、内部にいると瞑想し、瞑想して、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」この現在の時間にいる時には、外部に出たいと願っている人間だということがわかります。

ところが、外部に出ると、今度は、「わたしは(斯(か)く)在つた…わたしは(斯(か)く)在つた…」と、過去の時間の中のわたしになるのです。

今という時間の中で瞑想して念願すると外部へ出て、外部へ出ると今度は過去の時間に生きた自分になってしまっている。これは逆説でもなく背理でもなく矛盾でもない。この外部と内部の交換される当の場所が、リルケの生きる両極端の隙間であり、安部公房の生きている次の次元への上位接続点なのです。

この場所は、女王は一人いても「誰も住まぬ国」なのであり、その女王は「全く貧しく、そして剥(む)き出しの」ままにいるのです。 何故ならば、それは、「わたしは(斯(か)く)在る…わたしは(斯(か)く)在る…」という世界なのであり、わたしは医者であるとか、わたしは弁護士であるとか、わたしは消防士であるとか、わたしは何々であるというのではなく、只々「わたしは……ある」「わたしは……存在する」というだけの世界、即ち衣裳を剥ぎ取り剥ぎ取られて在る故に「全く貧しく、そして剥(む)き出しの」女王であるのです。裸の王様というアンデルセンの有名な童話を思い出せば、これを裸の女王さまと言っても良いでしょう。あなたも普段は、衣裳を着て現在の時間の中に生きている。

何故あなたはアンデルセンの『裸の王様』を容易に理解するのでしょうか。それは、あなたが普段は衣裳を身にまとうことによって何かを忘却しているが、実は裸であったということを思い出し、そうしてリルケ流に言えば、存在であるあなた自身を思い出すからです。即ち、未分化の実存に、あなたはなっていることを思い出すのです、即ち知るのです。

それが嫌で外部に脱出すると、今度は過去の時間の中に生きなければならない。それでは、外部にいて外部から見ると、内部にいて現在の時間の中にいて生きていた(「既にして」超越論的に現在に存在している過去の時間!)あなたは一体誰であり何であるのか?

このように考えて来ると、外部と内部という空間的な(捨て身の)交換によって、時間が消滅すること、時間が無化されることがお判りでしょう。これを、安部公房はリルケから学んだのです。日本人ならば、平安時代の昔から(川の淵に)「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というところです。古代の格言の宿す智慧は、現代の存在論にあっても、正しいのです。

世界の果てに主人公が到達すると、その主人公の死と引き換えに現れる「明日の新聞」も死亡広告や失踪宣言書も、無名の人間として主人公が遂に選択する自己犠牲と自己忘却と自己喪失によって生まれる外部と内部の交換による時間の消滅した上位接続点の積算の記(しるし)であり章(しるし)であり標(しる)べなのであり、安部公房の読者承知の「終りし道の標べに」なのです。

この詩の第1連と第2連をこのように読むと、外部と内部の交換という一見空間的な関係の交換が、実は時間の無化を生み出していることがわかるのです。そうして、ここに存在が招来される。[註3]

[註3]
安部公房は、この隙間に存在を招来することを『阿波環状線の夢』というエッセイの中で、その例として、次のようにいっております(全集第25巻、134ページ上段)。

「すべてのバナナは果物だが、すべての果物がバナナとは限らないのである。」(傍線筆者)

この「とは限らない」という言葉の、従い思考論理の、この変形の生まれる接続の隙間(差異)に、実際に「見た夢」(原文傍点)があり、都市の廃墟があり、塵捨て場があり、廃物が棲み、廃人が棲み、「存在しないもののシンボル」であるカメラの被写体があり、そこでは「現実のネガにな」る装置としてのカメラがあり、『箱男』の8枚の写真があり(『シャボン玉の皮』全集第24巻、416ページ)、「空飛ぶ男」が空を飛び(全集第23巻、333ページ)、「何時(いつ)も壊れかかった蓄音機のような子供だったような気」のする安部公房が棲んでいるのです(新潮社文庫『笑う月』所収『蓄音機』、63ページ)。


さて、しかし、第1連にある「膝の中へ」とは何を言っているのでしょうか。この『形象詩集』にある「膝まづく」という動詞や「膝」という名詞を探して、その使い方を見てみましょう。すると、全部で、この詩を含めて、6回の使用がなされていることがわかります。このうち3回が、この詩にあり、残りの3件の使用例は、次のようなものです。

1。『幼年時代』(『Kindheit』)
2。『少年』(『Der Knabe』)
3。『詩の会』(『Ein Gedichtkreis (1899 und 1906)』の第IV章)

最初の『幼年時代』という詩は、子供の時代を歌った詩で、今回の詩と同じ節廻し、同じ語彙が出てきます。

Und durch das alles gehen im kleinen Kleid,
ganz anders als die andern gehen und gingen−
O wunderliche Zeit, o Zeitverbringen,
o Einsamkeit.
そして、これらすべてのことを通って、小さな衣裳の内部で
他の者達が行き、そして行ったのとは全く異なる風に行くのである。即ち、
おお、素晴らしい時間よ、おお、時間の蕩尽よ
おお、孤独よ。

そうして、この連の後に、子供達が、男であり女である大人達とはどれほどに違うかということを歌い、庭で球体と円環の遊具で遊び、それが庭の内部での成熟をもたらすことを歌い、夕方になると子供達は家路へと就くが、さてその次にこのような連がきます。

Und stundenlang am großen grauen Teiche
mit einem kleinen Segelschiff zu knien;
es zu vergessen, weil noch andre gleiche
und schönere Segel durch die Ringe zehn,
und denken müssen an das kleine bleiche
Gesicht, das sinkend aus dem Teich schien−
O Kindheit, o entgleitende Vergleiche.
Wohin? Wohin?
そして、何時間もの間、大きな灰色の池のほとりで
一艘の小さな帆船で遊びながら膝まづいていること
そのことをを忘れるということ、何故ならば、もっと他に同じ
そしてもっと美しい数々の帆が、数々の円環の中を通って往き
そして、これらの帆は、この小さな蒼白の顔のことを考えねばならない
沈みながら、池の内部から外部へと出てきて輝く顔のことを:
おお、幼年時代よ、おお、逃げて滑りゆく数々の直喩よ。
どこへ行くのだ?どこへ行くのだ?

次の『少年』という詩での用例は次のようなものです。私とあり、私たちとあるのは、子供と思ってお読み下さい。

Und einer steht bei mir und bläst uns Raum
mit der Trompete, welche blitzt und schreit,
und bläst uns eine schwarze Einsamkeit,
durch die wir rasen wie ein rascher Traum:
die Häuser fallen hinter uns ins Knie,
die Gassen biegen sich uns schief entgegen,
die Plätze weichen aus: wir fassen sie,
und unsre Rose rauschen wie ein Regen.
そして、ある人が、私のそばに立っていて、私たちに空間を吹いて寄越す
トランペットを使って、トランペットは煌(きら)めき、進行し、
そして、私たちに、ある黒い色をした孤独を吹いて寄越し、
その孤独に因って、私たちは、疾風迅雷の夢のように狂い暴れ廻る。即ち、
家々は、私たちの背後で、膝まづき、膝を折り入れ
裏通りという裏通りは、斜めに傾いで、お互いに体を曲げ合い、
場所という場所は、退いて行く。即ち、私たちは、これらのものを捕捉し、
そして、私たちの薔薇は、雨のようにさやさやとさやけき音を立てている。


三つめの『詩の会』は次のような詩です。この引用の前段では、宮殿や皇帝や狂気や玉座や金色の衣裳や空間やらの語彙が配置されて歌われて、次の連になります。この連で、ボヤーレンと言われている人間たちには、ロシアと其の周辺国であるブルガリア、ルーマニア、白ロシア等々での歴史があって、8世紀以来これらの国々に住み、大地主の階層を形成し、皇帝に使えた貴族層の名前です。詳細はまた此の詩を読むときに知ることにして、このことを念頭に置いて、本題に入ります。

Und weiter denken sie: Das Kaiserkleid
schläft auf den Schultern dieses Knaben ein.
obgleich im ganzen Saal die Fackeln flacken,
sind bleich die Perlen, die in sieben Reihe
wie weisse Kinder knien um seinen Nacken,
und die Rubine an den Ärmelzacken,
die einst Pokale waren, klar von Wein,
sind schwarz wie Schlacken−

Und ihr Denken schwillt.
そして、更に、ボヤーレンたちは考える。即ち、皇帝の衣裳は
この子供の両肩の上で眠り込んでいる。
たとえ、大広間全体の内部で、篝火の火が揺らめかうとも、
数々の真珠は蒼白であり、それらは、七つの列をなして、
白い色をした子供たちのように、子供の頸(うなじ)の周りに膝まづいて
そして、数々の紅玉が、葡萄酒の清澄な色をして、
鉱滓(こうさい)のように黒い色をしている-

そして、ボヤーレンたちの思考は膨張する。


これらの連を読んでわかることは、次のようなことです。

1。子供は、球体と円環という完璧な形象・形態と無心に遊ぶものであること
2。それは、空間の外部と内部の交換の場所にいること
3。その場所は、縁(へり)であること、周辺であること
4。子供が、その遊びを徹底すると、世界の中にある秩序だった諸物は、それが皇帝という地上の最高位の物から最低のものに至るまで騒ぎ立ち、膝まづくこと。しかし、
5。子供もまた、そのようにある世界にあって、その縁で無心に、忘却の中に、膝まづくこと
6。その子供の姿は、眠る人間の姿であること
7。その姿に諸物諸人は、つきしたがうこと
8。子供は「内部から外部へと出てきて輝く顔」を持っているらしいこと

ということになるでしょう。

膝まづくという行為は、普通私が思うには、祈りの行為です。膝まづくということと一緒に、キリスト教徒であれば、祈りの手の形を両手で形作り、祈るのではないでしょうか。

しかし、勿論、リルケはキリスト教の唯一絶対全知全能のGodを歌っているのではなく、そのGodを包括する子供の姿を、普通の他の既に社会的にも性的にも分化した男や女の大人達とは、全く異質のものとして歌っているのです。

子供は、内部と外部の交換される境界線上で無心に遊んでいる。それが、子供が膝まづく行為である。

このように見て参りますと、第1連の最後の「わたしの前で、膝の中へと入り込みなさい、膝の中へと入り込みなさい!」という一行の意味は、マリーという女性が大人の女性か、女の子供かはわかりませんが、前者であれば、内部と外部の交換される境界線上で無心に遊ぶことを薦め、後者であれば、薦めるのではなく、祈りとして、この言葉を発したということになります。

第1連と第2連を読みますと、互いに見かけ上存在との関係では此の女性は背理の関係にありますから、即ち[(過去、現在)、(存在したこと、存在すること)]という関係が、言語の時制(時間の処理の規則)とは、擦れ違い、行き違っておりますので、やはり、これは大人の女性であるということになります。子供ならば、この行き違いは起きないのです。子供は、このような大人とは全く異質の世界にいるのです。それ故に、第3連で、次のようにリルケは歌うのです。

Und wurdest aus einem solchen Kind
eine Fürstin, vor der man kniet?
   Weil die Dinge alle anders sind,
   als man sie beim Betteln sieht.
そして、お前は、そのような一人の子供の中から(外へと出て)
君主になったのか?、その前では世間の人が跪(ひざまづ)くような
 何故ならば(何故跪くかといえば)、事物は皆、異なっているのだから
 世間の人間が、君主が乞食になって物乞いするのを見るのとは異なっているのだから。

子供が内部と外部の交換される縁にあって跪(ひざまづ)くのとは異なり、世間の人間たちは、昔は子供であり未分化の実存であった此の大人になって性も社会的地位も分化して、「私は存在する」とだけでいい切ることができず、「私は何々として存在する」という其の何々としてとか、何々のように(直喩)とか言い言われることになって、世間の大人たちにとっては女性の君主としてある其の御前に、膝まづくのです。

そのような拝跪は、君主が乞食になって物乞いするのを見て拝跪するのとは異なっている、あるいは、そのような君主の姿を見て憐れみ、膝まづいて拝跪するのとは異なっているというのです。

そのような君主の姿を思っては全くいない拝跪、この世の事物が、または物事が、そのようになさしめ、世間の物事がなさしめている偉大な君主の姿です

そうして、最後の連が来ます。

「このようにして、事物はお前を偉大にした
 そして、お前は、それはいつであったかを、まだいうことができるのか?
  ある夜、ある夜、一晩中ー
  そして、事物は、わたしに、異なった風に話したのだ。
  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:

  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:
  裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。
  人々は、忍び足で向こうへ行った
  硬くなっているかのように、そして家々は植え付けられてー
  というのは、それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ  
  女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...」


第1連と第2連を読みますと、互いに見かけ上存在との関係では此の女性は背理の関係にありますから、即ち[(過去、現在)、(存在したこと、存在すること)]という関係が、言語の時制(時間の処理の規則)とは、擦れ違い、行き違っておりますので、この詩の話者は「このようにして、事物はお前を偉大にした/そして、お前は、それはいつであったかを、まだいうことができるのか?」と問うことができるのです。

その何時とは、現在の時間に生きていて「私は存在する」ということを絶えず瞑想しなければならない大人の女性としての自分の生きている今なのか、それとも、「私は存在していた」のにと過去形でいうことになつて、その喪失を嘆き絶えず悲しむことになっている今なのか。即ち、

お前の今いる場所は、内部なのか外部なのか?と話者は問うているのです。

お前の存在するべき場所は、内部と外部の交換される境界線ではないのか?、豪勢な煌びやかな衣裳を脱ぎ捨てて裸になる其のNobody’s land(Niemandsland)、誰もいない国に住むことではないのか?、その「ある人が、私のそばに立っていて、私たちに空間を吹いて寄越す/トランペットを使って、/トランペットは煌(きら)めき、進行し、/そして、私たちに、ある黒い色をした孤独を吹いて寄越し」た此の「黒い色をした孤独」に一人棲むことではないのか?(『少年』)それ故に、大人となっていても、その無心の子供の孤独を思い出すのは、黒い色をした夜でなければならないのです。従い、話者の語るマリーの物語として、最後の連の段差をつけて、数文字退(ひ)かせて文字を続けた詩行が最後に来るのです。

「ある夜、ある夜、一晩中ー
  そして、事物は、わたしに、異なった風に話したのだ。
  わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る:
  裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。
  人々は、忍び足で向こうへ行った
  硬くなっているかのように、そして家々は植え付けられてー
  というのは、それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ  
  女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...」


夜に「事物は、わたしに、異なった風に話した」とは、上の3つの詩で既に見たように、普通の世界の秩序だった物事や事物のあり方とは異なって話したという意味であることは、明瞭でありましょう。

そうして、「裏通り」とは、既に『或る四月の中から(外へ)』(もぐら通信第33号)で見たように、秩序だって整理されている表通りではなく、存在の立ち現れる裏街の通りの、内部と外部の境界線である存在の窓のある場所なのです。[註4]

[註4]

或る四月の中から(外へ)

再び、森が匂い立つ
宙に浮遊している雲雀(ひばり)たちは
自分自身と一緒に(自己を以って)、わたしたちの肩には
重かった其の天を高く持ち上げている
なるほど、人は、未(いま)だ数々の大枝を通して、一日というものが如何に空虚であったのかを見たのであるが
しかし、長い、雨の降り続いている数々の午後の後に
黄金色(こがねいろ)に太陽の光の射し渡った
より新しい、数々の時間がやってくるのであり
それらの時間から逃れて、遥かな家々の前面に在る
総ての傷ついた
窓々は、びくびくしながら(臆病なことに)、両開きの窓(の両翼)を打ちたたいているのだ。

すると、静かになるのだ。おまけに、雨が、より微(かす)かな音を立てて通って行くのだ
数々の石畳の石の、静かに大人しく(少しづつ)暗くなって行く輝きの上を。
総ての小さな物音は、全く潜(もぐ)り込むのだ
沢山の若枝の、輝いている沢山の若芽の中へと。

この詩の裏通りと其の窓について、以下の註記を施しました:

22。「わたしの鳥達は、裏通りではたはたと羽を打って飛ぶことになり、見知らぬ窓
  (複数形)に止まって傷つくのだ」という、鳥にとっては其のような窓であるこ
   と。(『Die Blinde』(『盲目の女』))鳥は、高さの中を飛翔するが故に、そ
   うして無心であることによって、存在となっている動物の一つなのであり、群れ
   をなして飛んでいるにも拘わらず、また群れがものに当たって別れることがあっ
   ても、自然にまた一つの飛翔に還ることのできる、無時間の空間を生きる生き物
   なのでした。風もまた、リルケの世界では、鳥と同じ能力を有する存在なのでし
   た。(『ドィーノの悲歌』『オルフェウスへのソネット』)

ここで、上記22に書いた「わたしの鳥達は、裏通りではたはたと羽を打って飛ぶことになり、知らぬ窓(複数形)に止まって傷つくのだ」とあるように、リルケの詩の世界では、鳥は存在になる能力を有する生き物であり、存在になった鳥であり、存在である鳥にとっては、存在の窓ではない窓は、その窓に止まると、そのような傷つけられる窓であることを考えて下さい。


ここで、「わたしは、裏通りの中へと遠慮なく足を踏み入れて、そして見る」と語ることのできる話者は、既に存在になっている話者であり、存在が語っていると言っても良いのです。

そうしてみれば、

「裏通りは、琴の弦が張られているように、緊張している、(何故ならば)
  そこで、マリーが、旋律になったからだ、旋律になったからだ…
  そして、縁(へり)から縁へと踊ったのだ。」

と歌われる意味も、あなたには自明でありましょう。

リルケは弦楽器を好んで歌います。この連載第3回の『ハンス・トマスの60歳の誕生日に際しての二つの詩』の最初の詩『月夜』(もぐら通信第34号)から、弦楽器がリルケにとって持っている意味を再掲します。

「月夜

南ドイツの夜は、成熟した月の中にあって、全く広く
そして、すべての童話の再来のように、柔らかである。
塔からは、たくさんの時間が重たく落ちて来て
海の中へと落ち入るように、時間たちの其の深淵の中へと落ち入り
と、さやけき音と、夜間歩哨の叫び声がして
暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている
すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
                   或る金髪の女が...


このように読み進めて参りますと、このヴァイオリンの音(ね)もまた、この差異で演奏されて、その音が響きでて来るのではないでしょうか。

「何処から聞こえてくるのか誰が知ろう」と括弧に入れてある一行を、そのように訳しましたが、英語の世界も同様のことですが、神のみぞ知るという意味です。原文のドイツ語を其のまま訳せば「何処から聞こえてくるのか神だけが知っている」という意味なのです。

そうしてみれば、やはりこのヴァイオリンの音は、神聖な、神的な音色であり、楽器であるということになります。試みに、この詩集の中でヴァイオリンの登場する詩は、この詩を含めると4篇あり、今残りの3篇を挙げて示します。

1。『Der Nachbar』(『隣人』)
2。『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』)
3。『Der Sohn』(『息子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)

この三つの詩を読み、ヴァイオリンの登場する箇所と其の前後を読みますと、ヴァイオリンという楽器は、次のような意味を、リルケの世界では、備えております。

1。ヴァイオリンは、異邦人であり旅人であり、町を都会を訪れるが、それは誰も知らない異質のものである。ヴァイオリンは、夜に奏(かな)でられる。ヴァイオリンは孤独に鳴る。奏でるのは、やはり孤独な私である。ヴァイオリンは、沢山の大都会で、そのように鳴る。このヴァイオリンが無ければ、都会の孤独な人々は、川の流れに身を失うように(時間の中に流されて)自己を失ってしまう。そのような隣人が、ヴァイオリンを不安にするために奏でている。その演奏によって都会の人間たちがヴァイオリンに歌わせる歌は、人生は重い、全ての物の重さよりも重いという歌である。(『Der Nachbar』『隣人』))

2。この詩の一人称でる私は、弦であり、さやさやと音立てる幅の広い共振(共鳴)の上に張り渡されている弦である。これに対して、物はヴァイオリンの体であり、ぶつぶつ言う暗闇で満ちている。(『Am Rande der Nacht』(『夜の縁(へり)で』))
3。父親は剥落し病を得た王である。夜に息子は父親の王と小さな声でそっと話をする。この夜の中で、父と息子は、夢見られたヴァイオリンになる。ヴァイオリンは祈りを捧げる。ヴァイオリンの演奏する歌の数々の背後で(泉の背後で、風の中に在る森のように)ヴァイオリンの暗い楽器箱が、さやさやと音を立てている。(『Der Sohn』『息子(そして、我々は夢見られたヴァイオリンになった)』)

さて、そうしてみると、

すると、次には、ヴァイオリンが(何処から聞こえてくるのか誰が知ろう)
目覚めて、全くゆっくりとこう言うのだ:
                   或る金髪の女が...

という最後の3行の最初にあるヴァイオリンは、誰かに夢見られているヴァイオリンであり、誰かが夢みているヴァイオリンであり、それは夜の中のヴァイオリンであり、「暫くの間、沈黙が空虚のままに留まっている」その差異、その隙間に存在している、存在のヴァイオリンであることになります。

そうして、そのヴァイオリンが、その差異の中で目を覚ます。夜の夢見られているヴァイオリンであれば、歌を歌うわけですが、例え(安部公房の『箱男』の中の贋魚のように)夢の中でまた目を覚ますとしても、やはり目を覚ますヴァイオリンであってみれば、それは歌を歌うわけではなく、物を言うヴァイオリンであるのです。それ故に、「一人の金髪の女が」と言って、話を始めるわけなのです。」


リルケにとって、弦楽器の音色からなる旋律は、縁から縁へと、周辺から周辺へと踊るように渡る音色なのであり、旋律と化した者は、境界線から境界線へ、即ち外部と内部の交換される其の現場に旋律としているということが、存在に生きる人間の姿としてある理想の姿なのです。

しかし、このように此の詩を論じてみますと、安部公房の読者であるあなたには、既に地上の上に大きく育って枝葉をつけ、見事な花を咲かせた安部公房の作品群に、小説に、戯曲に、エッセイに、このリルケに学んだ安部公房の詩想と思想が、ここにあることにお気づきでありましょう。

『形象詩集』に踊りという言葉や、踊りに関係する縁語が現れたら、すべて例外なく、この意味でリルケは使っているのです。

これが、君主である地位にいる最高位の女侯が、人々の「忍び足で向こうへ行っ」て消え失せてしまった夜の裏街で一晩中踊り狂うという、『狂気』という題名の由来なのです。

こうしてみると、「それは、何と言っても、女王さまだけに許されることなのだ.女王さまが、裏通りで踊るということは:(女王さまが)踊るのだ!...」という『狂気』の最後の二行は、「それは、何と言っても、箱男だけに許されることなのだ.箱男が、裏通りで踊るということは:(箱男が)踊るのだ!...」と言い換えても、何も違和感のないことに、私たち読者は気づくのです。

狂気の箱男。

次回は『愛している女』(男が愛する女という意味ではなく、女が男を愛している其のような愛する側の女性という意味)。