2015年2月22日日曜日

【西東詩集106】 Dichter(詩人) 、Saki(酌人)、Hatem(ハーテム)

【西東詩集106】 Dichter(詩人) 、Saki(酌人)、Hatem(ハーテム)


【原文】

              Dichter
SCHENKE, komm! Noch einen Becher!


               Schenke
Herr, du hast genug getrunken,
Nennen dich den wilden Zecher!

                 Dichter
Sahst du je daß ich gesunken?

                 Schenke
Mahomet verbietets.

                 Dichter
Hört es niemand, will dir sagen.

                 Schenke
Wenn du einmal gerne redest
Brauch ich gar nicht viel zu fragen.

                  Dichter
Horch! wir andre Musulmanen
Nüchtern sollen wir gebückt sein,
Er, in seinem heiligen Eifer,
Möchte gern allein verrückt sein.

                   Saki
DENK, o Herr! wenn du getrunken
Sprüht um dich des Feuers Gast!
Prasselnd blitzen tausend Funken,
Und du weißt nicht wo es faßt.

Mönch seh ich in die Ecken
Wenn du auf die Tafel schlägst,
Die sich gleisnerisch verstecken
Wenn dein Herz du offen trägst.

Sag’ mir nur warum die Jugend,
Noch von keinem Fehler frei,
So ermangelnd jeder Tugend,
Klüger als das Alter sei.

Alles weißt du, was der Himmel,
Alles was die Erde trägt,
Und verbirgst nicht das Gewimmel
Wie sichs dir im Busen regt.

                 Hatem
Eben drum, geliebter Knabe,
Bleibe jung und bleibe klug;
Dichten zwar ist Himmelsgabe,
Doch im Erdenleben Trug.

Erst sich im Geheimnis wiegen,
Dann verplaudern freu und spat!
Dichter ist umsonst verschwiegen,
Dichten selbst ist schon Verrat.


【散文訳】

      詩人
酌童、こっちだ!もう一杯だ!

      酌童
旦那、もう十分に呑んじまいましたよ
野生の大酒飲みと自称なさませ!

      詩人
俺が腰の抜けて立てなくなったのを見たとでもいうのか?

      酌童
マホメットさまが、それは禁じていらっしゃいますからね。

      詩人
そんなことは誰も聞いていないぞ、お前。
                    
      酌童
旦那が一旦勢いがついて話し始めると
おいらは、全く質問の仕様もありませんや。

      詩人
聞け!我らは普通のムスリムとは違うのだ
素面(しらふ)であれば、年老いて背が曲がってしまうのだ
マホメットは、その神聖な熱意と献身の中にあって
好んで、一人で気が狂っているがいいのだ。

      サーキー(酌人)
いいですか、旦那!旦那が酔っ払っちまうと
旦那の周りで火花が飛び散りまさあ、火の客人の周囲でね!
千もの火花がパチパチと爆(は)ぜた音を立てて光りっていますよ
そして、旦那は、その火の落ち着きどころをご存じないと来ている。

旦那が食卓を打ち付ければ
偽善者の坊主ともは、酒場の隅っこに隠れるのを
おいらは目の当たりにするのさ
旦那の心臓を旦那が開いて運べば、ね。

何故青春には
まだ何の汚点もないのかを言ってご覧なさい
かくも、青春とは、どの徳目も欠乏していて
老年よりも聡明なのですから。

すべてを旦那は知っている、天国が何であるかを
地上が担っているものすべてをご存じでさあ
そして、旦那は群衆や雑踏を隠さないね
それが、旦那の胸の内に活発に生起するところに従って。

      ハーテム
まさしくそれ故に、愛する童(わらべ)よ
若いままでゐよ、そして聡明であれ
詩作とは、成る程天与の才であるが
しかし、地上の生活の中にあっては、誤魔化しであり、詐欺なのだ。

やっと秘密の中で揺れてゐられると思うと
遅かれ早かれ、秘密をうっかり漏らしてしまうのだ!
詩人は沈黙していても無駄なのだ
詩作自体が既に裏切り(思わずに出してしまうこと)なのだから。


【解釈と鑑賞】

この前後の同類の一編の詩の構成をみますと、この詩以下に訳する詩はみな、前回のSchenke(酌人)の題の下に収められるべき詩であると判ります。

前回の詩の続きと考えてお読み下さい。

ゲーテは、Schenke(酌童)とSaki(酌人)を使い分けておりますので、これはペルシャの酒場でいささかの役割の違いがあるものと思われます。

日本語の辞書に当たると、いづれも酌人となっており、今までSchenkeはすべて酌人と訳して参りましたが、この詩では、Schenke(酌童)とSaki(酌人)と敢えて訳し分けました。

ペルシャのサーキー(酌人)。衣装はサファヴィー朝期,17世紀初め頃のもの。

この絵は、望之 さんという方のTwitterからの拝借です。望之さんのプロフィール:@HishamWaqwaqi
トルコ留学中。歴史,文学,イスラーム思想,漢詩,漢語音韻学,言語学に興味があります。勉強中の言語:アラビア語,ペルシャ語,トルコ語,英語/たまに絵を描きます

酌人と詩人のやりとりを楽しく歌っている詩です。最後にハーテムが登場して、詩人の行為を、天賦の才ではあるが、この地上では詐欺の行為だというこの言葉の意味は、全くその通りであると、わたしは思います。

どの民族のどの国のどの言語の詩人であっても、それが第一級の詩人であれば、それはみな詐欺師にそっくりなのです。やはり、ゲーテはゲーテらしく一級の詩人であるのです。

Trennung(分離):第9週 by Erich Fried(1921 ー 1988)


Trennung(分離):第9週 by  Erich Fried(1921 ー 1988)


【原文】

Der erste Tag war leicht
der zweite Tag war schwerer
Der dritte Tag war schwerer als der zweite

Von Tag zu Tag schwerer
Der siebente Tag war so schwer
daß es schien er sei nicht zu ertragen

Nach diesem siebenten Tag
sehn ich mich
schon zurück


【散文訳】

一日目は、簡単だった
二日目は、もっと辛(しん)どかった
三日目は、二日目よりも更に辛どかった

毎日毎日一層辛どくなる
七日目は、かくも辛どかったので
堪えて持ちこたえることができないように見えた

この七日目の後で
わたしは自分自身を
振り返るのだ


【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。オーストリアの詩人です。

http://goo.gl/EBS0Vc

聖書の、神がこの世界を創造することを下敷きにして書かれた詩だということになります。

そうして、このように一週間を生きることの辛さを、週末の7日目の1週間の反省を歌っております。

ドイツ語のschwerは、重いという意味、重いということから、難しい、難儀だという意味です。しんどいという日本語の方が感じが出るように思いましたので、そのように訳しました。

この詩を読んであたらめて気づきましたが、1週間をひとつの単位として生活するということは、キリスト教の世界観、宇宙観を受け容れて毎日を生活するということを意味しています。

このキリスト紀元歴は、相当わたくしたち日本人にストレスと歪みをもたらしているのではないかと、わたしは思います。

やはり、イスラムの文明がイスラム歴を相変わらず使用することの意義は実に深く大きいというべきでありませう。日本にも和暦があり、紀元節の神武天皇建国以来の皇紀がありますので、これを再び採用することの意義は同様に深く大きいものがあると、わたしは思います。

西暦では、今年は2015年でありますが、皇紀で言えば、2675年であり、イスラム歴(ヒジュラ歴)で言えば、1436年となります。こんなウエッブサイトを見つけました。その冒頭に「キリスト紀元の西暦のみを押し付ける偏狭におちいららないために。」とあります。ご覧あれかし。:http://www.nunochu.com/matsuri/newyear.html

しかし、それにしても、この詩の題名は何故Trennung、分離であるのでしょうか?

何と何が分離し、別れ、分けられるのでしょうか?

聖書と日常に生きる私でしょうか、神と私でしょうか。

Adam und Eva(アダムとイヴ):第8週 by Mynona(1871 ー 1946)

Adam und Eva(アダムとイヴ):第8週 by  Mynona(1871 ー 1946)



【原文】

Adam und Eva naschen gerne Äpfel,
Im Paradies ist heute Fastnachtsschmaus,
Die Klapperschlange klappert zum Applaus,
Sie bieten ihr köstlich gebratene Kräpfel.

Sie frisst sie aus dem schön glasierten Neapel,
Vergißt, bei solchem übersüßen Schmaus,
Den Sündenfall und lebt in Saus und Braus
(Der Baum des Wissens schüttelt seinen Wäpfel).

Das nutzt ihm nichts, der Baum des Lebens lacht,
Es lachen alle, Adam, Eva, Schlange,
Gott selber lächelt und läßt sie gewähren.

Erzengel weisen auf die Uhr: 's wird Nacht!
Jedoch sie machen keinen damit bange -
Heute wird die ganze Nacht hindurchgewacht.


【散文訳】

アダムとイヴは、好んで林檎を幾つも盗み喰いをする
天国は、今日は謝肉祭の饗宴だ
ガラガラ蛇が、拍手喝采するためにガラガラと音を立てる
二人は、ガラガラ蛇に、美味に焼いたお菓子(クレッペル)を供する。

ガラガラ蛇は、お菓子を、美しくガラスの張ったナポリの器から取って、貪(むさぼ)り食い
そのような甘すぎるご馳走を食べると
地獄に堕ちるということを忘れて、放縦な生活をする
(知恵の木は、その林檎を振り落とす)。

そうやっても、知恵の木には何の役にも立たず、この生命の木は笑い
皆が、アダムが、エヴァが、蛇が笑い
神ご自身が微笑み、そして皆のなすがままにまかせる。

大天使が時計を指して言う:夜になるぞ!
しかし、それで、アダムもエヴァも蛇も、不安になることはない
今日は、徹宵、起きているのだから。


【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。ドイツの詩人です。

http://goo.gl/NzaGTu

Mynonaは筆名で、本名は、Salomon Friedlaenderと言います。

Wikipediaのある箇所を訳しますと、次のようになります。

この詩人の言葉は、グロテスク(残虐と怪奇)とパロディー(諧謔と戯画化)を備えた表現主義的な且つダダイズム風の要素を組み合わせたものであり、これによって、文学的な前衛(アヴァンギャルド)に対して衝撃を与えた。そのテキストの多くは、更に加えて、先鋭で辛辣な社会批判を含んでいる。詩人は、自らをイマヌエル・カントとチャーリー・チャップリンの統合者と見ていた。

第2連の最後の行にあるWäpfelという語は、辞書にはなく、林檎という意味に介して、そう訳しました。

こうやって知恵の木がその知恵の実たる林檎を、身を揺すって落とすということは、何を意味しているのでしょうか。
アダムとイヴは知恵の木の実を既に幾つも食べていますので、この木は蛇に林檎を食べさせたいと思ったのでしょうか。
蛇が林檎を食べるとどうなるのでしょうか。蛇は悪魔の化身のようでありますから、悪魔が林檎を食べると知恵がついて、そうして寿命を持つようになって、悪魔も死のことを考えなければならなくなるのでしょうか。

第3連の最初の一行の、

そうやっても、知恵の木には何の役にも立たず

とあるのは、悪魔はその手には乗らなかったという意味なのでしょう。そう解することに致します。

第1連にある通り、天国は、今日は謝肉祭の饗宴なわけですから、夜を徹して起きているのでしょう。夜に恐れを抱く必要のない理由が、眠らずに起きているからだとあります。

確かに、Wikipediaの紹介にあるように、この詩はアナーキー(無政府状態)、即ち神の支配のないような状態を歌った詩だと言えるでしょう。神もただ微笑んでいるというのも、この詩人の力技だということになりましょう。

確かに、聖書という神聖な書物の中の有名な逸話のパロディー(戯画と諧謔)になっております。


2015年2月21日土曜日

【Eichendorfの詩105】Die Freunde3(友達3)


【Eichendorfの詩105】Die Freunde3(友達3) 
  

【原文】

Mit vielem will die Heimat mich erfreuen,
Ein heitres Schloß an blaugewundnem Flusse,
Gesell'ge Lust, Mitwill und frohe Musse,
Der Liebe heitres Spiel, süß zu zerstreuen.

Doch wie die Tage freundlich sich erneuen,
Fehlt doch des Freundes Brust in Tat und Muße,
Der Ernst, der herrlich schwelget im Genuss,
Des reichen Blicks sich wahr und recht zu freuen.

Wo zwei sich treulich nehmen und ergänzen,
Wächst unverdeckt das freudige Werk der Musen.
Drum lass mich wieder, Freund, ans Herz dich drücken!

Uns beide will noch schön das Leben schmücken
Mit seinen reichen, heitern, vollen Kränzen,
Der Morgenwind wühlt um den offnen Busen!


【散文訳】

たくさんのもので以って、古里はわたしを喜ばせたいと思っている
青く渦巻く河の傍の明朗なる城
社交の陽気、元気発剌と愉快な安楽
甘く気散じするという、愛の明朗なる遊び。

しかし、日々が親しく(友のように)日々新たになるように
何と言っても、友の胸には、行為と安楽の中にあっても
真剣が、
豊かな眼差しを真にそして正しく悦ぶという享楽に
素晴らしく耽るという真剣が、欠けている

二人が誠実にお互いを取り、そしてお互いを補い合う場所で
隠れようもなく、ミューズ(文藝の女神)の喜びの作品が育つ。
それ故に、再びわたくしをして、友よ、お前を心と胸に押し当てせしめよ!

わたしたち二人を、人生が未だ美しく飾りたいと思っているのだ
その生の豊かな、明朗な、満ち足りた数々の王冠を以って
朝の風が、開いた胸襟の周りを巡って掘り返すのだ。


【解釈と鑑賞】

連詩5篇からなる詩『友達』の第3の詩です。

第2連にある、


豊かな眼差しを真にそして正しく悦ぶという享楽に
素晴らしく耽るという真剣

という此の真剣を友のものとすることが、この詩の歌い手の友情だということになるのでしょう。

第1連は、いつもながらのアイヒェンドルフの世界です。このような詩行を訳すと、いつも何かこころが慰められることが、実に不思議なことです。

やはり、詩人らしいことは、第4連(最終連)にあるように、das Leben、即ち生命、生、人生というものが、今の人が考えがちであるように自分の制御できる対象ではなく、そうではないことが最初から明らかであるが故に、ふたりが友として第3連に歌われた関係を、即ちミューズの女神の作品が生まれて成長することができたならば、豊かな明朗な満ち足りた数々の王冠で飾ってくれるということ、このような生命に対する感謝のこころのあることだと、わたしは思います。

2015年2月14日土曜日

【Eichendorfの詩104】Die Freunde2(友達2)


【Eichendorfの詩104】Die Freunde2(友達2) 
  

【原文】

Vor mir liegen deine Zeilen,
Sind nicht Worte, Schriften nicht,
Pfeile, die verwundend heilen,
Freundesaugen, treu und schlicht.

Niemals konnte so mich rühren
Noch der Liebsten Angesicht,
Wenn uns Augen süß verführen,
Und die Welt voll Glanz und Licht:

Als in Freundesaugen lesen
Meiner eignen Seele Wort,
Fester Treue männlich Wesen,
In Betrübnis Trost und Hort.

So verschlingen in Gedanken
Sich zwei Stämme wundertreu,
Andre dran sich mutig ranken
Kron an Krone immer neu.

Prächt'ger Wald, wo's kühl zu wohnen,
Stille wachsend Baum an Baum,
Mit den brüderlichen Kronen
Rauschend in dem Himmelsraum!


【散文訳】

わたしの前には、お前の行がある
言葉ではなく、文字ではない
矢だ、傷つけながら治癒させる矢だ
友垣の眼、誠実で実直な眼だ。

これほどには、わたしを未だ感動させることのできなかった顔(かんばせ)は決してなかった
この最愛の女性の顔(かんばせ)ほどには
もしわたしたちを、(わたしたちの)眼が誘拐するならば
世界は光輝と光に満ち溢れる:

友垣の眼の中に読むことのように
わたしの独自の魂の言葉を読み
確固として誠実たる、男としての在り方を読み
悲哀の中に、慰めと財宝を読むことだ。

様々な考えの中で
ふたつの幹は、奇跡のままに互いを掻き抱き
その場にいる外の者たちは、陽気に互いに絡み付き
王冠に王冠を接して、いつも新たに

壮麗なる森、そこには、棲むには冷気があって
樹木が樹木に接して、静かに成長している
兄弟の王冠と一緒に
さやけき音を立てて、天の空間の中で!


【解釈と鑑賞】

連詩5篇からなる詩『友達』の第2の詩です。

第1連の行と訳したドイツ語は、Zeilenです。これは友の書いた手紙の行かもしれず、また友の書いた本の行かも知れません。

この行(女性名詞)のことを、「この最愛の女性」と、第2連で呼んでいるのです。

そのような最愛の行(女性)の顔に誘惑され、誘拐されて、さらわれて、この世の中からはづれても、いやそうであればこそ、世界は輝きと光に満ちるのだというのが、第2連であり、そうなった後の世界がどのような世界であるかを、第3連以下の最後の連までに歌っております。

この世界の友達は、頭にみな王冠を戴いている。そうして、やはり森に棲んでいる。その森は壮麗なる森である。即ち、他の詩にあったように、森は一つのHalle、大広間であるということなのです。もう、ここからは、アイヒェンドルフの世界です。

最後の連は、わたしにはリルケの世界、特に最晩年の傑作『オルフェウス へのソネット』の動機(モチーフ)を思わせます。

リルケも、垂直に成長する樹木を讃え、それはこの世の時間を離れて成長する、オルフェウスと同じ、純粋空間に存在するものの形象として歌い上げているからです。



2015年2月7日土曜日

【西東詩集105】 Schenke(酌人)

【西東詩集105】 Schenke(酌人)


【原文】

                            Schenke

Nennen dich den großen Dichter
Wenn dich auf dem Markte zeigest;
Gerne hör ich wenn du singest,
Und ich horche wenn du schweigest.

Doch ich liebe dich noch lieber
Wenn du küßest zum Erinnern,
Denn die Worte gehen vorüber
Und der Kuss der bleibt im Innern.

Reim auf Reim will was bedeuten,
Besser ist es viel zu denken.
Singe du den andern Leuten
Und verstumme mit dem Schenken.


【散文訳】

あなたを偉大な詩人と呼ぶがいいのです
あなたが市場(マルクト)に姿を現わす度に
あなたが歌うたびに、わたしは、よろこんでその歌を聞き
そして、あなたが沈黙する度に、わたしは耳傾けるのです。

しかし、わたしはあなたをもっと愛しているのです
もしあなたが、記憶するために記念として接吻するのであれば
何故なら言葉は、過ぎ去って行くものだから
そして、接吻は、この接吻は、こころの底に留まるのです。

韻に韻を重ねると、それは何かを意味したいと言っているのですし
よりよいのは、たくさん考えることです。
あなたは、他の人々のために歌って下さい
そして、この酌人(わたし)と一緒にゐるときには、口をつぐんで下さい。


【解釈と鑑賞】

3つの連からなっています。

第1連と第3連は、互いに呼応しております。

詩人が歌を歌うこと、市場という公共の場所、人々、他方、詩人が沈黙すること、わたし( 酌人)ということ、そして、歌う其の言葉は過ぎ行くものであるのに対して、酌人への接吻はこころに留まるものであること。

このようなことが、対比的に、酌人の題の下に、酌人の言葉として歌われております。


Lang wie der schleppende(引きずつてゐる、銅の雉の美しい尾のやうに長く):第7週 by 柿本人麻呂(662頃 ー 710頃)


Lang wie der schleppende(引きずつてゐる、銅の雉の美しい尾のやうに長く):第7週 by  柿本人麻呂(662頃 ー 710頃)






【原文】

Lang wie der schleppende/Schweif des Kupferfasans/so lang ist die Nacht/mir - muss ich sie einsam/ohne die Liebste verbringen


【散文訳】

引きずつてゐる、銅の雉の美しい尾のやうに長く、そのやうに長く、夜はあり、わたくしにはさうおもはれ、わたくしは其の夜を孤独に、最愛の女性も無くて、過ごさねばならないのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩人の、Wikipediaです。言うまでもなく、日本の詩の歴史、和歌の歴史に名のある歌人です。

http://goo.gl/IYbXLq

この歌の原文の日本語は、次の有名な和歌でありませう。

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の
   長々し夜を ひとりかも寝む

          柿本人麿(3番) 『拾遺集』恋3・773

藤原定家の小倉百人一首にも採られてゐますので、百人一首の札にある柿本人麿の絵もまた掲げることにゐたします。




この歌の、ドイツ語の訳者が、山鳥を何故銅の雉と訳したのか、その真意は不分明なところがあります。銅の色が、山鳥の色であるからなのでせうか。しかし、銅の雉と訳すと、これはまた、その雉が文字通りに銅でできてゐるという意味にもなり、ドイツ語で読む読者に誤解を与へることになりますが、まあ、これも翻訳による余剰といふことになるでせう。



【Eichendorfの詩103】Die Freunde(友達)


【Eichendorfの詩103】Die Freunde(友達) 
  

【原文】

We auf den Wogen schliefe,
Ein sanft gewiegtes Kind,
Kennt nicht des Lebens Tiefe,
Vor süßem Träumen blind.

Doch wen die Stürme fassen
Zu wildem Tanz und Fest,
Wen hoch auf dunklen Strassen
Die falsche Welt verlässt:

Der lernt sich wacker rühren,
Durch Nacht und Klippen hin
Lernt der das Steuer führen
Mit sichrem, ernstem Sinn.

Der ist vom echten Kerne,
Erprobt zu Lust und Pein,
Der glaubt an Gott und Sterne,
Der soll mein Schiffmann sein!


【散文訳】

誰でも、大波の上で眠ってゐる者がゐれば、その者は
一人の、優しく揺り籠に揺られている子供なのであり
生の深さを知らず
甘く夢見る余りに、盲目である。

しかし、数々の嵐が、この者を捕(とら)まへる
野生の踊りと祝宴の場で
高く、暗い数々の通りで
間違つた世界が、この者を唆(そそのか)す:

この者は、勇敢に活動することを学ぶ
夜と崖を通り抜けて
この者は、操縦桿を握るのだ
確実な、真剣なこころを以つて

この者は、本物の芯が備わってゐて
陽気と苦痛で試される
この者は、神と星々を信仰する
この者こそ、わたしの船の船乗りならむ!


【解釈と鑑賞】

比較的長い詩5篇からなる詩『友達』の第1の詩です。

人生の荒波を進む、自分の船に乗船している仲間を友達と呼んでいることがわかります。これが、この詩の題名の意味です。

自分は操縦桿を握り、船を運行し、友達は船乗りとして、良い時も悪い時も、苦楽を共にしてくれる。

そうすると、この題名は、友達という散文的な訳よりも、友垣と訳したいところです。