2011年4月30日土曜日

Wiederholen(繰り返し):第19週

Wiederholen(繰り返し):第19週

by Wsewolod Nekrassow (1821 - 1871)

【原文】

Das darf sich nicht widerholen
ich wiederhole
das
darf sich nicht wiederholen
ich wiederhole
das
darf sich nicht wiederholen
das
darf sich nicht wiederholen
ich wiederhole


【散文訳】

それは、繰り返してはならない
わたしは繰り返す
それを
それは
繰り返さない
わたしは繰り返す
それを
それは
繰り返してはならない
それを
それは
繰り返してはならない
わたしは繰り返す


【解釈】

この詩人は、ロシアの詩人です。

この詩の面白さは、それを繰り返すというときの「それを」という言葉が、そのまま次の繰り返す、あるいは、繰り返さないという文の主語になっていることです。

この接続の構造を繰り返して、この詩ができています。

こうして、この繰り返しは、肯定と否定で、限りなく、永遠に繰り返すことになります。

日本語圏のインターネットで調べますと、この詩人は、ドストエフスキー、プーシキン、レールモントフと同時代人です。

2011年4月23日土曜日

Wie leicht(どんなに簡単に):第18週

Wie leicht(どんなに簡単に):第18週

by Ana Blandiana (1942年生まれ)

【原文】

Waeren die Goetter Pflanzen
Wie selbst Platon anzunehmen geneigt war,
Wie leicht fiele es uns,
Wie anzubauen,
Ihre minimalen Ansprueche zu erfuellen
(Etwas Wasser, etwas Pferdedung),
Wobei wir ihnen als Gegendienst
Die Blueten, Blaetter, Wurzeln, Fruechte abverlangten,
Und auch das Geheimnis, das Pflanzliche,
Die Auferstehung von den Toten ...


【散文訳】

もし神々が植物であったならば
これはよくプラトンがそう仮定するということが好きだったのだが
何と簡単だということが判ることでしょう
丁度植物を植えるように
神々の最小限の要求を満たすということが
(一寸水をやって、一寸馬糞をやって)
そのとき、神々の皆さまには、お返しとして
花々や、葉っぱや、根っこや、果物をくれといい、
そうして、またあの秘密も、あの植物的なものを、
つまり、死者の復活という秘密もまた 。。。


【解釈】

この詩人は、ルーマニアのひとです。Wikipediaを御覧ください。このような女性。

http://en.wikipedia.org/wiki/Ana_Blandiana

この詩は、ユーモアもあって、とてもよい。

知性もある。

バランスのとれた精神の持ち主なのだと思います。

しかし、実際に経験してきたことは、その父親の投獄と服役生活も含めて、共産党独裁のルーマニアでの過酷な文筆活動でありました。

日本のような能天気な国では、とても想像ができないほどの、密告や、殺される恐怖と闘いながらの活動であったと思います。

1989年に独裁者が倒されてからは、政治的な活動に力を入れているとのことです。

Googleの画像検索で写真を拝見しますと、若い時の表情には、憂愁の趣きが感ぜられますが、歳をとるとともに、何か太っ腹な、豪胆な表情になっております。笑顔が素晴らしい。

2011年4月16日土曜日

Die Prozession in Capri(カプリの葬列):第17週

Die Prozession in Capri(カプリの葬列):第17週

by Bertolt Brecht (1898 - 1956)


【原文】

Zur Zeit, wo er noch nicht vergessen
Trugen sie zum Gedenken an ihm zwar jedes Jahr
Seine Bilder durch ihre Staedte.

Voraus aber trugen sie alles, was
Noetig war, ihn zu toeten
Naegel, ihn zu zerfleischen
Den Hahn, ihn zu verraten
Die Wuerfel, sein Kleid zu teilen

Aber hinter dem Bild seines Leichnams
Trugen sie seine Mutter
So hoch, dass der Himmel zu nieder war
Und hinter ihr her getragen werden
Musste.


【散文訳】

彼がまだ忘れられていない時分に
彼らは、彼を記念して、なるほど、毎年
彼の像を幾つも掲げ、担って
彼らの町々を練り歩いた。

だが、何よりも、彼らは、彼を殺すのに必要なもの
すべてを担(かつ)いで歩いた
彼の肉をずたずたに引き裂くための釘
彼を裏切るための雄鶏(おんどり)
彼の衣服を分けるためのサイコロ

しかし、彼の死体の像の後ろに
彼らは彼の母を担いでいた
余りに高く掲げ担いでいたので、天が低過ぎる程に
そして、天が、彼の母の後ろに担がれて運ばれなければ
ならなかった程に


【解釈】

この詩は、このカレンダーの中の53の詩のうちで、わたしの好きな3つの詩のうちに入れたい詩のひとつです。

何故この詩が好きなのか、この詩に惹かれるのかわからない。

多分、犠牲としての死が歌われているからだろう。

それも、祭礼としての。それから、明るさの中で。

この彼も彼らも、だれとは言われていない。人称代名詞で歌われているだけである。

彼は、イエス・キリストのようである。

彼らは、その信者達であろうか。

そうだとして、彼らは、信じたひと当人を殺すための道具、殺した後に、彼の遺物を分けるための道具(サイコロ)などを担いで、練り歩く。

そうして、その犠牲者の母が担がれて、その後に続いていたということ。

これは、このまま読めば、生きている実の母親ということである。

もし彼がキリストならば、マリアが生きているということになる。

そうして、その母親を、天が低くなる程に、天高く掲げ、担った。

そうして、天が彼の母親の後に担われて従うようになるほどに。

第3連の、担う彼ら、彼の死体の像、生きた母親、天のイメージと、それらの関係は、誠に想像力を刺激する。

カプリという島は、このような島です。

多分、この美しい景色、風光明媚な景色を思い描いて初めて、この詩の葬列は躍動するのだと思う。

風光明媚の中の葬列。

http://goo.gl/7T9on

作者はいうまでもなく、ブレヒト。ブレヒトのWikipediaです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Bertolt_Brecht

2011年4月9日土曜日

Gaststube in der Provinz(田舎のレストラン):第16週

Gaststube in der Provinz(田舎のレストラン):第16週

by Jan Wagner (1971年生まれ)


【原文】

hinter dem tresen gegenueber der tuer
das eingerahmte foto der fussballmanschaft:
laechelnde helden, die sich die rostenden naegel
im ruecken ihrer trikots nicht anmerken lassen.


【散文訳】

テーブルの後ろ、入り口の反対側に
額に入れられた、サッカーチームの写真。
笑顔の英雄たち、そのメリヤスのスポーツシャツの背中にある
錆びて行く釘を
気づかせられること無く


【解釈】

Gaststubeをレストランと訳したが、本当はそう訳したくない。

Gaststube、ガスト・シュトゥーべという場所の持つ、割合と狭い空間、安楽な雰囲気、懐かしさのある場所という感じが、日本語のカタカナでいうレストランにはないからである。

GaststubeのStubeという名詞が、小じんまりとした、何かに親密な空間を思わせる。

Kinderstube、キンダーシュトゥーべといえば、子供部屋という意味です。

また、GaststubeのGastとは、英語でguest、客、賓客という意味です。

Gaststube、ガストシュトゥーべがどのような空間であるか、次のGoogleの画像検索で見てください。

http://goo.gl/huwYp

わたしが、このGaststubeという言葉に、これだけ言葉を割くのは、この言葉が、この詩の大きな一部になっているからです。

田舎のGaststubeというだけで、のんびりした、鄙びた、くつろいだ、懐かしい雰囲気を感じ取ることができます。

休日などには、日がな一日、トランプなどをしながらビールも飲むというような地元のひともいることでしょう。

この短い名詞ふたつだけでできている詩は、田舎のガストシュトゥーべの、そんな気だるい雰囲気を醸(かも)し出しています。

この詩は、額縁入りの写真と、笑っている英雄たちというふたつの名詞だけからなっています。

このふたつの名詞に、それぞれ掛かっている形容があるのです。

錆びて行く釘と訳したドイツ語は、die rostenden Naegelというところですが、これは現実に錆びてゆく時間を表しています。

錆びている釘というのではないところに、この詩人の工夫と言いたいことがあると思います。

笑顔のサッカー選手たち、若い英雄たち。

その写真の額の後ろに見えない釘があって、写真はこの釘に掛けられている。

そうして、その釘が錆びて行く、錆びて行きつつある。

他方、この店ではゆったりとした時間が流れている。

何か、日本語で書かれた詩を読むような、余情があります。

この若者たちは、今どうしているのでしょうか。

この余情はいい。

Jan WagnerのWikipediaがあり、ドイツ語ですが、次の通りです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Jan_Wagner

また、Googleの画像検索をすると、次の通りです。

こんな若者です。

http://goo.gl/U7QUT

2011年4月2日土曜日

Die schlimmen Eheleut(悪しき夫婦):第15週

Die schlimmen Eheleut(悪しき夫婦):第15週

by Abraham a Sancta Clara(1644-1709)


【原文】

Nicht also kuerren und schorren die Ratzen,
nicht also schreien und gmauzen die Katzen,
nicht also pfeifen und zischen die Schlangen,
nicht also rauschen und prasseln die Flammen,
nicht also scheppern und kleppern die Raetschen,
nicht also plurren und schnurren die Praetschen,
nicht also wueten und heulen die Hund,
nicht also bruellet der Loewen ihr Schlund,
nicht also hauset und brauset das Meer,
nitch also stuermet ein kriegrisches Heer,
nicht also reisset und tobet der Wind,
nicht also jammert ein schreiendes Kind:
Wie zwei wankende, zankende, reissende, beissende,
weinende, greinende, mockende, bockende,
trutzige, schmutzige
Eheleut.


【散文訳】

つまり、そのう、鼠たちが、チュウチュウ鳴いたり、ガリガリしたりするのではなく、
つまり、そのう、猫たちが、叫んだり、ゴロゴロニャアと鳴くのではなく
つまり、そのう、蛇たちが、笛を吹くようにピーピーと鳴いたり、シューシューと音を立てたりするのではなく、
つまり、そのう、火炎が、さわさわとざわめいたり、パチパチと音を立てたりするのではなく、
つまり、そのう、家鼠が、ガタガタ鳴ったり、カタカタと音をたてたりするのではなく、
つまり、そのう、二十日鼠が、プリプリと鳴ったり、ゴロゴロと鳴いたりするのではなく、
つまり、そのう、犬たちが、怒ったり、吠えたりするのではなく、
つまり、そのう、ライオンたちが、喉をゴロゴロと鳴らすのではなく、
つまり、そのう、海が、荒れたり、激しく波立ったりするのではなく、
つまり、そのう、戦時下にある軍隊が、突撃するのではなく、
つまり、そのう、風が、引き裂いたり、荒れ狂ったりするのではなく、
つまり、そのう、泣き叫ぶ子供が悲嘆にくれるのではなく、
つまり、ふたりの、グラグラ揺れ動く、喧嘩をする、引っ掴み合う、噛み合う、泣いている、オイオイ泣く、嘲笑する、サカリがついて発情する、
強情な、汚い、そんな
夫婦
のようにではなく


【解釈】

1行目のschorrenという動詞が辞書にはみつからなかったので、見当をつけて訳しました。

いづれにせよ、最悪の夫婦の姿を風刺しているのです。

悪しき夫婦と訳しましたが、本当は最悪の夫婦と訳すのがよいのかも知れないと思いました。

最悪が状態の夫婦、それが悪しき夫婦。

味なところは、そうではなく、そうではなく、と否定を連ねることで、実は、そうである、そうである、と裏返して言っているところです。

この詩に出てくる動詞は、みな擬音語、擬態語で、これは普通の辞書には載っていないので、インターネットで調べると、この詩そのものが出てくるというばかり。

こうなると、もうわが直観と、わが経験をもとに、ありたけの想像力を駆使して、見当をつけるという以外には、方途はないのであります。

これこそ、苦心の迷訳というべきでありませう。

よくよくご鑑賞いただきたい。

家鼠と訳し、二十日鼠と訳したところは、取り敢えずの言葉をおいただけで、大いに間違っている可能性があります。

ドイツ語のこれらの名詞の形態からいって、何か小さな可愛らしいものを主語に使って、反対にアイロニカルに、そんなちっこいものが斯く斯く云々(かくかくしかじか)のことをするのではなく、というように歌っています。

もし、お分かりの方がいらしたら、お教えください。

この詩人は、その名前からいって、アラブの世界の詩人と思いましたが、そうではなくカトリックの僧侶です。

Abrahamという名前ですが、しかし、その出自をみると、生粋のドイツ人です。

ドイツ語の世界では、有名な御仁のようで、わたしの不勉強を恥じるばかりです。

ドイツ語のWikipediaに肖像画が載っていますので、御覧ください。

http://de.wikipedia.org/wiki/Abraham_a_Sancta_Clara

説教の才に豊かで、優れた説教を数多くしたことが記述されています。

この詩を読むと、HumorとIronieの豊かな方と見受けられます。

ご夫婦でいらっしゃる読者には、これ以上、註釈は不要の詩であると思われますが、如何か。

わたしたちに、この詩から得る慰めがあるとすれば、時代も民族も超えて、夫婦関係というものは不変であるという慰めであろうか、と、こう書くと、少し厳しすぎるかな。