2014年2月22日土曜日

【西東詩集58】 Der Winter und Timur

【西東詩集58】 Der Winter und Timur


【原文】

DER WINTER UND TIMUR

SO UMGAB sie nun der Winter
Mit gewaltgem Grimme. Streuend
Seinen Eishauch zwischen alle,
Hetz' er die verschiednen Winde
Widerwärtig auf sie ein.
Ueber sie gab er Gewaltkraft
Seinen frostgespitzten Stuermen,
Stieg in Timurs Rat hernieder,
Schrie ihn drohend an und sprach so:
Leise, langsam, Unglueckselger!
Wandle du Tyrann des Unrechts;
Sollen länger noch die Herzen
Sengen, brennen deinen Flammen?
Bist du der verdammten Geister
Einer wohl! ich bin der andre.
Du bist Greis, ich auch, erstarren
Machen wir so Land als Menschen.
Mars! du bists! ich bin Saturnus,
Uebeltaetige Gestirne,
Im Verein die schrecklichsten.
Tötest du die Seele, kaeltest
Du den Luftkreis―meine Luefte
Sind noch kälter als du sein kannst.
Quälen deine wilden Heere
Glaeubige mit tausend Martern―
Wohl, in meinen Tagen soll sich,
Geb es Gott! was Schlimmres finden.
Und bei Gott! dir schenk ich nichts.
Hör es Gott was ich dir biete!
Ja bei Gott! von Todeskaelte
Nicht, o Greis, verteidigen soll dich
Breite Kohlenglut vom Herde,
Keine Flamme des Dezember.


【散文訳】

冬とチムール帝

さてこうして、このように、冬が彼等を取り囲んだ
暴力的な憤怒(自然の猛威)を以て。すべての人々の間に
その凍りの息を撒き散らしながら
冬は、様々な風を追い立てて
人々みなに逆って、その風を吹入れる。
冬は、その霜の散った嵐に
強権を与えて、人々を支配し
チムールの中枢の部屋の中に降りて来て
チムールに脅しを掛けて叫び立て、そして、こう言った:
静かに、ゆっくりとな、不幸者めが!
お前、不正の暴君よ、彷徨(さまよ)うがいい
もっと長く、心臓という心臓が
火を放ってお前の炎を焼き、燃やさねばならないと言うのか?(そうしなければ、まだ解らないのか?)
お前は、碌でもない亡霊たちの
一人であるに間違いない!わたしも、同じ別の亡霊だ。
お前は、白髪の老人であり、わたしもそうではあるが、凝固させるのだ
わたしたちは、国土も人間たちも。
お前は、火星だ!わたしは土星だ
悪事をなす星々だ
同盟を組めば、最も極悪非道の星々だ。
お前は魂を殺し、冷たくせよ
空気の圏を―わたしの空気は
お前が冷たくあることができるよりも、もっと尚冷たいのだ。
お前の野蛮な軍隊は
幾千もの拷問で、信仰あるものたちを苦しめる
そうさ、わたしの日々では、
なるべくして、最も悪いものが実現することになっているのだ。
そして、神に誓って、わたしはお前には何も贈ることはないのだ。
わたしがお前に与えるものが何かを神に聞くがよい。
そうだ、神に誓って!死の寒さから
何も、おお、白髪の老人(チムール)よ
竃(かまど)の幅広い石炭の灼熱が、お前を守ることはないのだ
12月のどんな炎も。



【解釈】

ここからは、新しい巻、新しい書に入ります。題して、Buch des Timur、チムール帝の巻です。

チムールという人物は歴史上の人物ですので、説明の煩を避けて、Wikipediaの引用に留めます。:http://ja.wikipedia.org/wiki/ティムール

この詩を読むと、やはり前回までの箴言詩は箴言詩としても、それはゲーテの本領ではないということがわかります。この詩は、詩になっていて、詩であって、やはり素晴らしい詩であると思います。箴言詩の場合とは違って、言葉が苦しみを歌っていても、苦しみがなく、言葉の力が存分に発揮された言葉からなっている詩だという風に感じられます。

この詩を読むと、ゲーテは我が身をチムール大帝に譬(たと)えていることが判ります。

我が身をチムール大帝に譬えるには、それ相応の人生を歩んで来なければなりません。そうでなければ、そのような類比(アナロジー)を産み出すことができないのです。ゲーテの政治家としての人生を思うべきでしょうし、そうして、他方、その経験と知識と、いや苦労を、このように詩に変換できるゲーテの姿を思うべきでありましょう。

第8行目のRatを「中枢の部屋」と訳しました。これは、チムールの近臣の者達がいて、その者達と会議をする組織があると理解をして、inという空間の中に入って来ると歌われているので、その組織を比喩的に場所を言っていると解釈しました。そのような重要な枢要の場所にも冬は傍若無人に土足で入り込んで来る。

第12行目の心臓は、チムールの殺戮した人間のことでしょう。或いは、この心臓の意味が、生きている心臓というのであれば、それは生者達が、という意味になります。

箴言詩は苦しい詩が、こうしてみると、この詩は生き生きとして、ゲーテのこころを伝えております。

Lass die Molekuele rasen(分子を荒れ狂わせよ):第10週 by Christian Morgenstern(1871 - 1914 )


Lass die Molekuele rasen(分子を荒れ狂わせよ):第10週 by Christian Morgenstern(1871 - 1914




【原文】


Lass die Molekuele rasen,
Lass das Tuefteln, lass das Hobeln,
heilig halte die Ekstasen.


【散文訳】


分子を荒れ狂わせよ
微を穿ち細にわたる(小事にこだわる)ことを止めよ、鉋(かんな)を掛けて洗練させることを止めよ
神聖に、法悦を維持せよ。



【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたWikipediaです。。


http://de.wikipedia.org/wiki/Christian_Morgenstern


このカレンダーには、毎年顔を出す常連の詩人です。きっと、編集者の好みなのでしょう。

当時、化学の発達で、分子の発見があったのではないかと推測します。

分子という物質の要素の最小単位を自然のままにするようにと人間がすることで、神聖に法悦の境を得ることができると考えていることがわかります。

分子を荒れ狂わせよといっているので、これは人工的な人間の社会を否定するものであることでしょう。


この詩人の思想の一端の伺える詩だと言えるのではないでしょうか。

【Eichendorfの詩 56】Lass das Trauern(悲しむことを止めよ)

【Eichendorfの詩 56】Lass das Trauern(悲しむことを止めよ)

【原文】

Lass, mein Herz, das bange Trauern
Um vergangnes Erdenglueck,
Ach, von diesen Felsenmauern
Schweifet nur umsonst der Blick.

Sind denn alle fortgegangen:
Jugend, Sang und Frühlingslust?
Lassen scheidend, nur Verlangen
Einsam mir in meiner Brust?

Voeglein hoch in Lüften reisen,
Schiffe fahren auf der See,
Ihre Segel, ihre Weisen
Mehren nur des Herzens Weh.

Ist vorbei das bunte Ziehen,
Lustig über Berg und Kluft,
Wenn die Bilder wechselnd fliehen,
Waldhorn immer weiterruft?

Soll die Lieb auf sonn'gen Matten
Nicht mehr baun ihr prächtig Zelt,
Übergolden Wald und Schatten
Und die weite, schöne Welt?―

Lass das Bangen, lass das Trauern,
Helle wieder nur den Blick!
Fern von dieser Felsen Mauern
Blüht dir noch gar manches Glück!


【散文訳】

わたしのこころよ、不安に悲しむことを止めよ
過ぎ去った地上の幸福の周囲を巡って悲しむことは
ああ、この岩の壁たちから
視線は、ただ無駄に漂っているのだ。

それでは、すべてのひとびとはみな、立ち去って、先へと行ってしまったのだろうか:
青春、歌、そして、春の歓びは?
きっぱりと止めて、欲するだけをせよというのか
孤独にわたしの胸の内で?

小鳥は、高く、空を旅する
船たちは、海を行く
その帆、その様子は
ただこころの悲しみ(傷み)を増幅するだけだ。

既に、あの色とりどりに行く事は、終ったのだろうか?
陽気に、山や谷を越えて
もし形象という形象が、無常に逃げて行くのならば
森の笛は、いつまでも、更に呼び続けているだろうか?

愛は、陽の光のよく当たった牧場で
もはや、その壮麗なテントを張ることは叶わないのだろうか?
森と影たちを黄金に塗ることは
そして、遥かな、美しい世界を塗ることは?

不安にすることを止めよ、悲しむことを止めよ
明るく再び、ただ見る事のみを止めよ!
これらの岩の壁たちから遠く離れて
お前には、まだ幾多の幸せが花咲くのだから!


【解釈と鑑賞】

第1連の、

ああ、この岩の壁たちから
視線は、ただ無駄に漂っているのだ。

と、最後の連の

明るく再び、ただ見る事のみを止めよ!
これらの岩の壁たちから遠く離れて
お前には、まだ幾多の幸せが花咲くのだから!

とは、お互いに呼応、照応しております。

このふたつの連の間にある詩句を通って、最初の視線が何か朦朧としている状態から、きっぱりと決心をして、積極的に離れて行くというように、詩の内容が変化して、明るい方へ(Helle wieder―明るく再び)と向かって行く結末になっています。

こうして、この詩を読むと、やはり、アイヒェンドルフとい詩人の特徴は、改めて挙げてみると、

1。喪失(青春、歌、春の)
2。喪失の場所から離れないこと、そこへ回帰すること。
3。世俗的な幸せへの全き断念と諦念
4。森、狩り、笛の音
5。詩人の孤独


と、このようになるでしょう。

2014年2月14日金曜日

【西東詩集57-10】 Vesir(Vesir)


【西東詩集57-10】 Vesir(Vesir)


【原文】

Der gute Mann hat wenig begehrt,
Und hatte ichs ihm sogleich gewährt
Er auf der Stelle verloren war.

SCHLIMM ist es, wie doch wohl geschieht,
Wenn Wahrheit sich nach dem Irrtum zieht;
Das ist auch manchmal ihr Behagen,
Wer wird so schöne Frau befragen?
Herr Irrtum wollt' er an Wahrheit sich schliessen
Das sollte Frau Wahrheit bass verdriessen.

WISSE dass mir sehr missfaellt
Wenn so viele singen und reden!
Wer treibt die Dichtkunst aus der Welt?
              Die Poeten!


【散文訳】

善き男は、少なく求めた
そして、わたしがそれを善き男に即座に授けて、叶えてやったので
その男は、その場で駄目な奴になってしまった。

悪いのは、何といってもそれは間違いなく起こるわけだが、そのように
もし真理が過ちに向かって進むならば
それは、実際よくあることだが、真理にとっては快適なのであり
かくも美しい(真理という)女性に質問するのは誰だ?
過ち氏が、真理に連なりたいと思うならば
それは、真理婦人をもっと多く不機嫌、不愉快にするだろう。

わたしには、非常に気に入らないのだということを、お前達は知るがよい
かくも多くの人間どもが歌い、且つ議論をするというならば!
誰が、詩という芸術を、この世から追いやるのだ?
        それは、詩人たちが、だ!


【解釈】

この詩を歌っているVesirという名前の意味がわかりませんでした。

ペルシャ由来の言葉であるのでしょうか。前の詩が、信頼されたる者、信頼されたる男という題名したから、それを受けてのこのVesirという者が答えているのです。

この者は、やはり世の逆説を知っているとみえて、その第1連は、まさしくその通りだと思われます。

少なく願っても、自分の力でそれを願い、成就しないものは、力を貸したその場で駄目になるといっているのです。

第2連では、ゲーテは、ドイツの中世の詩人たちのように、真理を真理婦人と呼び、一種の存在として歌っております。それに対して、過誤氏という男性が登場します。

最後の一行の、そのようなどうしようもない、ろくでもない歌を歌い、議論もふっかけて、詩という芸術を世間から追い出すのは、詩人自身であるといっております。

この最後の詩人たちである!という詩人たちは、複数形になっていて、もう一切合切の、あの有象無象の馬鹿どもがという感じがよくします。

わたしのみるところ、これは、日本の今の詩人たちにも、実によく当て嵌まるのです。

この最後の連は、時代を超えて、まさしく、真理であり、真理婦人の言なのです。


【西東詩集57-9】 Vertrauter(信頼されたる者)


【西東詩集57-9】 Vertrauter(信頼されたる者)


【原文】

DU HAST so manche Bitte gewährt
Und wenn sie dir auch schädlich war;
Der gute Mann da hat wenig begehrt,
Dabei hat es doch keine Gefahr.


【散文訳】

お前は、かくも多くの願いを叶えてやった
たとえ、それらの願いが、お前にも害をなそうとも
善なる男は、そこで、少なく求めた
だから、それは危険はないことだろう。


【解釈】

何故この詩句を、一連の箴言詩の連続のあとに、ここに持って来たのか。

この信頼される者という者が、この詩句を歌っているのか。それとも、この信頼せる者に対して、この詩の話者が語りかけているのか。

世間、世俗で、しかもワイマールの宮廷の政治家としても生きて来たゲーテにとっては、この箴言の巻の詩は、いづれも苦い経験と知識に裏打ちされたものであったでしょう。政治の世界ですから、裏切りもあり、誹謗中傷もあったことでしょう。

しかし、そのような世の中にあって、尚、信頼をおくに足る人間がいたというのです。それが、このVertrauter、信頼される男という題名にして、この男に話をさせた、この詩なのだと思います。

とすると、やはり、この信頼される者という者が、この詩句を歌っているのだということになります。


Liebeshungrigen(愛に飢えたる女性の謎々):第9週 by Gonzalo rojas(1917 - 2011 )



Liebeshungrigen(愛に飢えたる女性の謎々):第9週 by Gonzalo rojas(1917 - 2011




【原文】


Unvollkommene Frau sucht ebensolchen Mann
von 32 Jahren, Ovidkenntnisse
unerlässlich: bietet: a) zwei Taubenbrüste
b) Stueck fuer Stueck ihrer luesternenen Haut
zum Küssen, c) den gruenen
Blick, zu trotzen den Stuermen
jeglichen Unheils;
                     Hausbesuche tabu,
Telefon nicht vorhanden, gerne
Gedankenübertragung. Ist nicht Venus,
hat nur ihren Heisshunger.



【散文訳】


不完全な女性が、同じような男性を探している
男は32歳で、オウィディウス(古代ローマの詩人)の知識は
欠かせない。つまり、次のようなものを提供してくれなければ:a) ふたつの鳩の胸
b) 彼女の欲望を感じる肌のひとつひとつに口づけをすること、c) 青い眼差しを、どの災厄の嵐に抗ってでも、というのは
      家を訪問することは禁忌であり
電話は無く、よろこんで
思考を翻訳すること。その女性は、ヴィーナスではない、
ヴィーナスの熱い飢えを唯々持っているのだ。


【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書Wikipediaです。スペイン語です。




この詩人は、チリの詩人です。原文はチリのスペイン語です。

一寸今迄の詩とは毛色の変わった詩です。

これは題名からいって、恋人のいない、異性の愛に飢えている女性のかけた謎々ということなのでしょう。

或いはまた、求める男性の仕様書ということになります。

果たして、この世にこのような男性がいるものなのか。

最後の4行は、この女性の心中の言葉を語っているのでしょう。

家には来てくれるな、電話はない、相手の思考を翻訳することが好きだ、ヴィーナス(女神)のようには美しくない、そして唯々熱い欲情だけを持っている女性なのだ。

かう解釈して来ると、何だか段々とこの女性に興味が湧くから不思議です。

この詩人の恋愛もまた、奇妙な恋愛であったのでしょう。



【Eichendorfの詩 55】Intermezzo(間奏曲)

【Eichendorfの詩 55】Intermezzo(間奏曲)

【原文】

Dein Bildnis wunderselig
Hab ich im Herzensgrund,
Das sieht so frisch und fröhlich
Mich an zu jeder Stund.

Mein Herz still in sich singet
Ein altes, schoenes Lied,
Das in die Luft sich schwinget
Und zu dir eilig zieht.


【散文訳】

お前の肖像を、その至福の肖像を
わたしはこころのそこに持っていて
それは、かくも新鮮であり、また陽気なものであって
わたしを、いかなる時間にも見ているのだ。

わたしのこころは、静かに、それ自身の内で歌い
古い、美しい歌を歌い
その歌は、空気の中に振動して入って行き
そして、お前の所へと急いで行くのだ。


【解釈と鑑賞】

ふたつめの間奏曲です。ここまでで、この詩集の17%の量を訳すことになります。まだまだ道遠し、ですが、こつこつと読み、解釈し、訳して行くと、必ず最後の詩に至ることでしょう。

その間の道行きで、わたしたちはこのアイヒェンドルフという優れた詩人の詩の世界に親炙し、通暁することができることでしょう。

この歌は、

わたしのこころは、静かに、それ自身の内で歌い
古い、美しい歌を歌い

とあるように、そのこころの内にある肖像を歌っているのです。

静かなこころの詩人の心境が歌われています。そうして、それがどのような場合に現実であるのかも。



2014年2月13日木曜日

【Eichendorfの詩 54-3】Wehmut(哀傷)

【Eichendorfの詩 54-3】Wehmut(哀傷)

【原文】

                          3

Es waren zwei junge Grafen
Verliebt bis in den Tod,
Die konnten nicht ruhn, noch schlafen
Bis an den Morgen rot.

O trau den zwei Gesellen,
Mein Liebchen, nimmermehr,
Die gehen wie Wind und Wellen,
Gott weiss: wohin, woher.―

Wir grüßen Land und Sterne
Mit wunderbarem Klang
Und wer uns spürt von ferne,
Dem wird so wohl und bang.

Wir haben wohl hienieden
Kein Haus an keinem Ort,
Es reisen die Gedanken
Zur Heimat ewig fort.

Wie eines Stromes Dringen
Geht unser Lebenslauf,
Gesanges Macht und Ringen
Tut helle Augen auf.

Und Ufer, Wolkenfluegel,
Die Liebe hoch und mild―
Es wird in diesem Spiegel
Die ganze Welt zum Bild.

Dich rührt die frische Helle,
Das Rauschen heimlich kuehl,
Das lock dich zu der Welle,
Weil's draussen leer und schwül.

Doch wolle nie dir halten
Der Bilder Wunderfest,
Tot wird ihr freies Walten,
Haeltst du es weltlich fest.

Kein Bett darf er hier finden.
Wohl in den Taelern schoen
Siehst du sein Gold sich winden,
Dann plötzlich meerwärts drehn.



【散文訳】

ふたりの若い伯爵がいて
ふたりは死ぬほどに恋をしていた
ふたりは、こころも体も休まらず、また眠ることもできなかった
燭光の赤い光の朝の来る迄。

ああ、このふたりの仲間を信頼してはならぬ
わたしの愛する者(女性)よ、決してもはや二度とは。
ふたりは風と波のように往く
神は知っているのだ:どこへ往くのか、どこから来るのかを。

わたしたちは、国土と星々に挨拶をする
不思議な響きを以て
そして、わたしたちを遠くから感ずる者
その者には、かくも間違いないと思い、しかし同時に、不安になるのだ。

どこの場所にもどんな家も持たず
様々な考えだけが旅をして
故郷へと永遠に旅を続けて進むのだ。

流れ(河)の押し迫るように
わたしたちの人生の軌跡は往き
歌の力と格闘は
明るい両目を開かせる。

そして、岸辺、雲の翼、
愛が、高く、そして柔和に―
この鏡の中では
全世界が像を結び、像となっている。

お前に触れるのは、新鮮な明るさであり
さやけき音は、密かに冷たく
それがお前を波へと誘惑する
何故ならば、外は空虚であり、湿っぽいからだ。

しかし、お前のところには、決して
数々の像の不思議の宴はその宴を張ってはならぬ
それら(数々の像)の自由な宰領(支配)は死に
お前はそれ(自由な宰領)を世俗の世ではしっかりと捕まえて、自分のものとしているからだ。

どんな寝床も、彼はみつけてはならぬ。
きっと谷々の中では美しく
お前は彼の黄金が巻いて廻転しているのを見、
次に突然として、海の方角へと旋回するのを見るのだ。


【解釈と鑑賞】

同じ題名のもとでの3番目の詩です。

この詩は、不思議な詩で、普通に読んでも、幾つかの箇所は何を言っているのか、よくわからないところがあります。

ひとつひとつ見て参りましょう。

第1連は、ふたりの若者の恋を歌い、恋をすれば、その男を信じてはならぬという。

ふたりの若い伯爵という設定に、何かアイヒェンドルフの小説の世界に通う発想を覚えます。そこに何か物語りがありそうです。

しかし、それはそれ、風と波に直喩で譬えておりますので、頼りなく、移ろい易いという意味なのでしょう、そのような若者の恋というものは。

第3連で、

わたしたちは、国土と星々に挨拶をする
不思議な響きを以て
そして、わたしたちを遠くから感ずる者
その者には、かくも間違いないと思い、しかし同時に、不安になるのだ。

と歌う話者のいう「わたしたちは」とある「わたしたち」とは、国土と星々に挨拶をするというのですから、これは詩人であるわたしたちという意味でしょう。しかも尚、不思議な響きを以てするとあるからには尚さら。

第4連で歌われるわたしたちの旅は、これまで見て来た通りの詩人の旅です。故郷にも永遠に現実には直には辿り着かないことは自明です。

第5連をみると、詩人の人生行路は、何か眼に見えない自然の力の衝迫によるものだということがわかります。それに抗して、また従ってということでしょうか、歌う歌の力と格闘は、詩人の両の眼(まなこ)を明るく開かせる、或いは明るい眼を開くというのは、明るいという形容詞はアイヒェンドルフの愛用する形容詞ですから、詩人が物事や世界や世間をみるのに闊達な眼だということがわかります。

第6連で重要な言葉は、鏡です。アイヒェンドルフは、詩人は鏡の中の像を見ると考えていること、これがこの詩人の詩を理解する、いわば秘密の鍵です。この詩人は、自己の姿を世界に見ているのです。世界を写すのは、鏡である。鏡には自己の姿が映っている。それは、

岸辺、雲の翼、
愛が、高く、そして柔和に

あるさまである。

第7連で、

お前に触れるのは、新鮮な明るさであり
さやけき音は、密かに冷たく
それがお前を波へと誘惑する
何故ならば、外は空虚であり、湿っぽいからだ。

とあるのを読むと、詩人は、外は空虚で湿っぽいとありますので、内、詩人のこころの内は、逆に生命が充実していて、湿っぽくはない、或いは乾いていると考えていることがわかります。

世界を観るのは鏡の中とう前の連と、この連は呼応していることがわかります。世界もこころの内にあるのでしょう。そして、それは密かに冷たくとありますから、第1連の若者達の恋のような感情とは無縁の感情(それが感情ならば)です。それ故に、愛する娘には、ふたりの若き伯爵を信用してはならないと歌ってのでしょう。ということは、この密かに冷たい詩人の感情は、変わることがなく、永遠であるという含意があることでしょう。

第8連は、詩人と世間の関係を歌っている。様々な像(形象)を支配するのは、その世に、上のように一種倒錯した関係でいる詩人であるのだと歌っています。

最後の連では、

どんな寝床も、彼はみつけてはならぬ。
きっと谷々の中では美しく
お前は彼の黄金が巻いて廻転しているのを見、
次に突然として、海の方角へと旋回するのを見るのだ。

と歌い、詩人の手にする財貨をこのように歌っているのです。どんな寝床もないということから、旅を寝床とする詩人としてあるならば。

これは、このまま日本の詩人にも、勿論通用することでありましょう。








2014年2月12日水曜日

【西東詩集57-8】 Buch der Sprüche(箴言の書)


【西東詩集57-8】 Buch der Sprüche(箴言の書)


【原文】

WENN man auch nach Mekka triebe
Christus' Esel, wuerd' er nicht
Dadurch besser abgerecht,
Sondern stets ein Esel bliebe.

GETRETNER Quark
Wird breit, nicht stark.

Schlägst du ihn aber mit Gewalt
Yin fest Form, er nimmt Gestalt.
Dergleichen Steine wirst du kennen,
Europäer Pise sie nennen.

BETRUEBT euch nicht, ihr guten Seelen!
Denn wer nicht fehlt, weiss wohl wenn andre fehlen;
Allein wer fehlt der ist erst recht daran,
Er weiss nun deutlich wie sie wohl getan.

》DU HAST gar vielen nicht gedankt
Die dir so manches Gute gegeben!《
Darüber bin ich nicht erkrankt,
Ihre Gaben mir im Herzen leben.

GUTEN Ruf musst du dir machen,
Unterscheiden wohl die Sachen;
Wer was weiter will, verdirbt.

》DIE Flut der Leidenschaft sie stürmt vergebens
Ans unbezwungne feste Land.《
Sie wirft poetische Perlen an den Strand,
Und das ist schon Gewinn des Lebens.


【散文訳】

もしメッカに向かって
キリストのロバを追って行くとしても
それによっては、ロバは調教されるわけではなく
絶えずロバのままでいることだろう

踏みつけられた泥土は
広がりはするが、強くはならない。

お前は、しかし、力づくで泥土を打って
堅固な形式にすると、泥土も形をなす。
このような同類の石を、お前は知っている筈だ
ヨーロッパ人は、その石をピセ(足踏みによる土固め)と、呼んでいる。

自分自身を悲しませるな、お前達、よき魂よ!
何故ならば、欠けるもののない者は、他の者達が欠けているならば、間違いなく欠けているとわかるのだから。
しかし、欠けている者は、やっとこさ、そこに至るのだ
つまり、その者は、あとになって、他の者達がどのようによくやったのかを明らかに知るのだ。

》お前は幾多のひとびとに感謝しなかった
お前にかくも多くの善き事を与えた人たちに!《
だからといって、それについて、わたしは、病気になることはない
お前達の贈物が、わたしのこころの中で生きているから。

善き評判を、お前は自らになさねばならぬ
様々に、それは、物事はきっとあるであろうが
それ以上を更に求める者は、腐る。

》情熱の洪水、それは徒(いたずら)に押し寄せる
強制されない、固い土地に。《
その洪水は、詩的な数々の真珠を岸辺に投げ
そして、それは既に、人生の授かり物である。


【解釈】

第1連は、聖書のマタイ伝その他にある逸話を踏まえています。
キリスト教徒ではないわたしには不案内なエピソードですが、しかし、それを離れても、この連を理解することはできるでしょう。

ゲーテ一流の、それも宗教的な、キリスト教の逸話を利用しているだけ、強烈な皮肉の効いた箴言になっています。

日本語で近いものも幾つもあるように思いますが、豚に真珠とか、猫に小判とか、餅は餅屋とは(一寸ズレますが)、それぞれ一寸つづ、この箴言に擦っているように思いますが、どんぴしゃというものがありません。

第2連と第3連は連なっています。これも、いかなる意味にとるべきなのか。

第4連も、この通りのままの理解でよいのでしょう。

第5連のこころも、わたしにはよく解ります。感謝しないことも大切なのです。敢えて言えば。世の中は通俗的に堕して感謝に溢れているので。

第6連の最後の一行、腐るという言葉は強烈です。これも、ゲーテのアイロニーでしょう。今回の詩行は、なにか苛烈なアイロニーの色彩が強い。

最後の詩は、情熱の洪水は、固い土地に押し寄せても、無駄におわる、それほどに固い土地であるようです。その土地を前提に、詩の真珠を人生の賜物としてその岸辺に打ち寄せ運ぶ、情熱の洪水。
若者の言葉ではなく、やはり老いて、しかしなおその情熱を知っている人間の言葉というべきでしょう。




【Eichendorfの詩 54-2】Wehmut(哀傷)

【Eichendorfの詩 54-2】Wehmut(哀傷)

【原文】

                          2
Sage mir mein herz, was willst du?
Unstet schweift dein bunter Will;
Manches andre Herz wohl stillst du,
Nur du selbst wirst niemals still.

》Eben, wenn ich munter singe,
Um die Angst mir zu zerstreun,
Ruh und Frieden manchen bringe,
Dass sich viele still erfreun:

Fasst mich erst recht tief Verlangen
Nach viel andrer, bessrer Lust,
Die die Töne nicht erlangen―
Ach ,wer sprengt die muede Brust?《


【散文訳】

わが心臓よ、言うがよい、何が欲しいのか?
お前の色とりどりの意志は、定まらずにたゆたふている
幾多の他の心臓を、お前はきっと静かにするだろう
お前自身だけが、決して静かにはならぬのだ。

》そうさ、その通りさ、もしわたしが陽気に歌えば
お前の不安を散ずるために
わたしは、憩いと平安を幾多の人々に運んで来るし
そうすれば、多くのひとたちが静かに喜ぶのだ

わたしをまづは深い欲求が捉える
多くの他のひとたちに向かふ欲求が、よりより意欲が
その意欲は、数々の音を勝ち得ることがない―
ああ、誰が、この疲れた胸を粉砕するのか?《


【解釈と鑑賞】

同じ題名のもとでの2番目の詩です。

話者が自分の心臓に話かけている。

この詩もまた、詩人と世間の倒立関係、倒錯した関係を歌っていることがわかります。

世間のひとを、詩人はその歌でこころ静かにすることができるが、他方、詩人自身は、こころ鎮まることがないという。


最後の2行は、詩人の苦しみの2行です。

これも、詩人のWehmut(哀傷)です。

Ich hasse und liebe(わたしは憎み且つ愛する):第8週 by Catull(紀元前1世紀 )


Ich hasse und liebe(わたしは憎み且つ愛する):第8週 by Catull(紀元前1世紀



【原文】


Ich hasse und liebe.
Warum ich das tue, fragst du vielleicht?
Ich weiss nicht. Doch dass es geschieht,
fühl ich und leide Qualen.


【散文訳】

わたしは憎み且つ愛する。
何故わたしはそれをするのかと、お前はひょっとして問うのか?
わたしも知らないのだ。しかし、それが起き、
そのことを、わたしは感じ、そして苦悩に苦しむのだ。



【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書Wikipediaです。ドイツ語です。




この詩人は、ローマ帝国の時代、紀元前1世紀に生きた詩人です。


率直簡明な、生きる人間の言葉です。

Wikipediaによれば、この詩は、この詩人の詩の中でも一番有名な詩だとあります。

ラテン語のまま掲げます。

Odi et amo. Quare id faciam fortasse requiris.
Nescio. Sed fieri sentio et excrucior.

„Ich hasse und ich liebe – warum, fragst du vielleicht.
Ich weiß es nicht. Ich fühl’s – es kreuzigt mich.“[1]

このWikipeidaのドイツ語訳だと、最後の行は、日本語に訳すと、次のようになります。


わたしはそれを知らないのだ。わたしはそれを感じて―それがわたしを磔刑(たっけい)に処するのだ。

2014年2月8日土曜日

【西東詩集57-7】 Buch der Sprüche(箴言の書)


【西東詩集57-7】 Buch der Sprüche(箴言の書)


【原文】

WER auf die Welt kommt baut ein neues Haus,
Er geht und lässt es einem zweiten,
Der wird sich's anders zubereiten,
Und niemand baut es aus.

HERR! lass dir gefallen
Dieses kleine Haus,
Groessre kann man bauen,
Mehr kommt nicht heraus.

DU BIST auf immer geborgen,
Das nimmt dir niemand wieder:
Zwei Freunde, ohne Sorgen,
Weinbecher, Buechlein Lieder.

》WAS brachte Lokman nicht hervor,
Den man den garstgen hiess!《
Die Süßigkeit liegt nicht im Rohr,
Der Zucker der ist Süß.

HERRLICH ist der Orient
Uebers Mittelmeer gedrungen;
Nur wer Haffs liebt und kennt
Weiss was Calderon gesungen.

》WAS schmückst du die eine Hand denn nun
Weit mehr als ihr geburhrte?《
Was sollte denn die linke tun,
Wenn sie die rechte nicht zierte?



【散文訳】


この世に来る者は、新しい一個の家を建てる
この者は往き、そして、その家を二人目の者に委ねる
二人目の者は、違った風に家を手を入れて
そして、誰も家を拡張することがない。

主よ!お気にめしますよう
この小さな家が
より大きな家々を、世間のひとは建てることができますが
それ以上のものは、何もそこからは出て来ないのです。

お前は、永遠に庇護され、隠されているのだ
それをお前から、誰も再び取戻すことはできない:
二人の友、心配もなく
葡萄酒の盃、小さな歌の本

》ロクマンは何も創造しなかっただろうか
世間が最も厭わしい者と呼んだあのロクマンが!《
甘味は(芦のような植物の)管の中にはないのだ
甘いのは、砂糖なのである。

素晴らしいのは、オリエントである。
地中海を超えて迫って来る
ハーフィスを愛し、ハーフィスを知る者のみが
カルデロンが歌ったものを知っているのだ。

》お前、片方の手は、一体こうして今
その手に相応しい以上の何を以て飾るというのか?《
一体左手は何をすべきなのか
もしその手が右手を飾ることがないならば?



【解釈】

第3連の詩は、いい詩です。このような詩を私は好むのだということが判ります。

第4連のLokmanという男性の名前は、トルコによくある名前のようです。註釈によれば、賢者であり、伝説的な寓話作家であり、コーランの中の1章において褒め称えられているという人物です。

第5連のカルデロンとは、17世紀のスペインのバロック精神の詩人であり劇作家です。このWikipediaの記述を読むと、実に優れた芸術家であったことがわかります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ

わたしの西東詩集の註釈には、次のようなゲーテによる、カルデロンの翻訳者に当てた感謝の言葉が載っています。カルデロンもまた、ペルシャやイスラムの世界を舞台にした、或いはそれに色濃く通じる戯曲や詩を書いたのでしょう。以下、註釈の訳出です。

「カルデロンは、偉大なスペインの劇作家(1600-1681)であり、ゲーテはワイマール劇場用にその作品を新たに活かすことを試みた。この詩人の翻訳者に対して、ゲーテは(1816年5月29日付で)次のように書いている:わたしのオリエントでの滞在は、わたくしには、そのアラビア風の教養を拒否しない素晴らしいカルデロンを、ただただ更に価値あるものと致します。それは丁度ひとが、高貴な族長たちを、その品位ある孫達の中に、よろこんで再び見出し、そして不思議に思い、驚くようなものです。」

最後の連は、いづれの場合にも、誰と一緒に仕事をしても、そのひとのこころの在り方を歌っているように思われます。

【西東詩集57-6】 Buch der Sprüche(箴言の書)


【西東詩集57-6】 Buch der Sprüche(箴言の書)


【原文】

WELCH eine bunte Gemeinde!
An Gottes Tisch sitzen Freund - und Feinde.

IHR nennt mich einen kargen Mann;
Gebt mir was ich verprassen kann.

Soll ich dir die Gegend zeigen,
Musst du erst das Dach besteigen.

WER schweigt hat wenig zu sorgen,
Der Mensch bleibt unter der Zunge verborgen.

EIN Heere mit zwei Grind
Er wird nicht wohl gepflegt.
Ein Haus worin zwei Weiber sind
Es wird nicht rein gefegt.

IHR lieben Leute, bleibt dabei
Und sagt nur: Autos epha!
Was sagt ihr lange Mann und Weib,
Adam, so heissts, und Eva.

WOFUER ich Allah hoechlich danke?
Dass er Leiden und Wissen getrennt.
Verzweifeln müsste jeder Kranke
Dass Uebel kennend wie der Arzt es kennt.

NÄRRISCH, dass jeder in seinem Falle
Seine besondere Meinung preist!
Wenn Islam Gott ergeben heisst,
In Islam leben und sterben wir alle.


【散文訳】

何と色とりどりの集まりだ!
神の食卓に坐っているのは、友たち、そして敵たち。

お前達は、わたしをこすからいケチな奴と呼ぶが、
やい、わたしの蕩尽できるものを与えてみろ。

わたしはお前にこの付近、この土地を示せというのか、それならば、
お前は、まづ屋根に登らねばならぬ。

沈黙する者は、心配することが少ない
そんな奴は、舌の下に隠れたままでいるものだ。

ふたちの従者をともなう軍勢
その軍隊は、よく訓練されて腕を上げることがない。
ひとつの家があり、その中にふたりの女がいる
その家は、綺麗には掃除されることがない。

お前達、愛するひとびとよ、そのままでいなさい
そして、ただこう言うのだ:師曰くだ!
お前達立派な男と女よ、お前達は何をいえばいいのかというと
アダム、といいえばよく、そして、エヴァといえばいいのだ。

何のためにアラーは、気高く考えるのか?
アラーが悲嘆と知識を分離するということは何を考えているのか?
絶望は、どの病人もせずにはいられないものだ
それが悪だと知りつつ、丁度医者が患部の悪を知っているように。

誰もが自分の場合には
自分の特別な意見を賞賛することは愚かなことだ!
イスラムが神に委ねるということは、
イスラムの中に、われわれみなが生き、そして死ぬということなのだ。


【解釈】

どの連も註釈は不要と思います。それほどに身近な箴言ばかりです。

第5連の意味は、ふたりの構成員であれば、お互いをたよりにして、何もしないということなのでしょう。

第6連のAutos ephaについては、オンラインの神話辞典に、

Latin, literally "he (the master) said it," translation of Greek autos epha, phrase used by disciples of Pythagoras when quoting their master.
http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=epha&searchmode=none

とありますので、これはピタゴラスの定理を引用するときに、定型的に、師曰くといったとあります。東洋ならば、孔子曰くの師曰と同じく、古今東西同じということでしょう。

第7連の悲嘆と知識の分離も、智慧ある分離です。これのごちゃごちゃな似非(自称他称)知識人の多い日本の国にあっては、そんな阿呆どもに読ませたい箴言です。

Alleinsein(一人でいること):第7週 by Bruno Frank(1887 - 1945)



Alleinsein(一人でいること):第7週 by Bruno Frank1887 - 1945



【原文】


In meine kleine Kammer dringt kein Ton.
Es ist schon spät, und alle schlafen schon.


Jetzt bin ich froh, denn alles Fremde wich,
Und niemand auf der Erde denkt an mich.


Ich fühl es ganz, es hüllt mich selig ein,
Das namenlose Glück, allein zu sein!



【散文訳】


わたしの小さな部屋の中には、どんな音も押し入ることがない。
既に時遅く、そしてみなが既に眠っている。

今や、わたしは嬉しい、というのは、総ての異なるものが退いたからだ
そして、この地球上の誰も、わたしのことを思うことがない。

わたしは全くそれを感じて、それがわたしを至福にも囲い包む。
一人でいるという、名前のない、なんという幸福!


【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書Wikipediaです。ドイツ語です。




貧しい記述ながら、日本語のWikipediaもあります。




この詩人はドイツの詩人です。ナチスに追われて、アメリカのビバリーヒルズで没しています。

詩のほかにも、戯曲や歴史小説に才能を発揮しました。

この詩人の写真が見つかりませんでした。それらしい人物の写真がありましたが、名前が特定できないので、掲載は控えました。了とされたい。

夜に孤独でいる時間、そして静寂の時間にいる詩人のこころは、よくわかるように思います。

自分以外のものをすべて一言で、Alles Fremde、総て異なるものと呼び切るとは、そのこころの強さ、凄さを覚えます。



【Eichendorfの詩 54】Wehmut(哀傷)

【Eichendorfの詩 54】Wehmut(哀傷)

【原文】

                          1
Ich kann wohl manchmal singen,
Als ob ich fröhlich sei,
Doch heimlich Traenen dringen,
Da wird das Herz mir frei.

So lassen Nachtigallen,
Spielt draussen Fruehlingsluft,
Der Sehnsucht Lied erschallen
Aus ihres Käfigs Gruft.

Da lauschen alle Herzen,
Und alles ist erfreut,
Doch keiner fühlt die Schmerzen,
Im Lied das tiefe Leid.


【散文訳】

わたしは、確かにしばしば歌うことができる
恰もわたしが陽気であるかの如くに
しかし、密かに涙が切迫して
するとわたしの心臓が自由になるのだ。

このように夜啼鶯が啼くのを止めると
外では、春の空気が遊ぶ
憧れの歌が鳴り響く
憧れの鳥籠の墓の中から。

すると、すべての心臓が聞き耳を立て
そして、すべてが歓び
しかし、誰も苦痛を感ずることなく
歌の中に深い悲嘆を感ずることがない


【解釈と鑑賞】

この詩も、詩人という人間とありかたと、世間との逆説、というよりは、倒錯といってよい関係について歌われています。

それが、第1連から直に始まります。

詩人が歌を歌うときは、それは現実に陽気なのではなく、恰も陽気であるかの如くに陽気に歌うのだというところが味噌です。

実際には、こころ密かに涙しているにもかかわらず、恰も陽気であるかのように、歌は歌わねばならなぬというのです。

第2連の1行目の「このように夜啼鶯が啼くのを止めると」と「このように」とあるのを読みますと、第1連との関係で、詩人が普通の人間の状態にあることを夜啼き鴬と呼んでいることがわかります。

どうもアイヒェンドルフの詩の世界では、夜啼き鴬は、通常の人間としての詩人であるらしい。夜に普通に人間に戻っている詩人、ということは詩人は夜に棲む人間だということにもなりますが、その詩人が夜に啼けば、それは世間や世界の歓びをもたらす歌にはならないということを歌っていることがわかります。

しかし、昼間に恰も陽気なように歌うと、春の空気が訪れ、憧憬の歌が鳴り響く。昼間に生きることは詩人としては苦しみであり、悲しみなのです。

これが、アイヒェンドルフの詩の世界のようです。

そうして、第3連にあるように、誰も苦しまず、歌を聴いて、それの中に深い悲嘆を感じることなく、愉悦の感情を抱くことができるのです。

こうしてみますと、題名のWehmut、哀傷、悲しみという題名は、詩人の哀傷、そして世間の人間には知られない、その哀傷ということになるでしょう。


全3作連作のうちの、これが第1番目の詩です。

2014年2月6日木曜日

【Eichendorfの詩 53-6】Sonette(ソネット)

【Eichendorfの詩 53-6】Sonette(ソネット)

【原文】

                          6

Ihm ist's verliehn, aus den verworrnen Tagen,
Die um die andern sich wie Kerker dichten,
Zum blauen Himmel sich emporzurichten,
In Freudigkeit: Hie bin ich, Herr! zu sagen.

Das Leben hat zum Ritter ihn geschlagen,
Er soll der Schoenheit neid'sche Kerker lichten;
Dass nicht sich alle götterlos vernichten,
Soll er die Götter zu beschwören wagen.

Tritt erst die Lieb auf seine blueh'nden Hügel,
Fühlt er die reichen Kränze in den Haaren,
Mit Morgenrot muss sich die Erde schmücken;

Suessschauernd dehnt der Geist die grossen Flügel,
Es glänzt das Meer―die mutigen Schiffe fahren,
Da ist nichts mehr, was ihm nicht sollte glücken!


【散文訳】

彼に、混乱した日々の中から、授けられているのは
他の人々を巡って監獄のように犇めき合っている日々の中から授けられているのは
他のひとびとが青い天へと自分自身を高めること
悦びの中で:ここに我在り、神よ!と言うことの。

生は彼を騎士の位を授け
彼は美の羨望する監獄を光で照らすのが使命である;
皆が不敬にも神を忘れて我が身を滅ぼさないように
彼は神々に敢えて切願しなければならない。

まづ愛が、彼の花咲く丘の上にやって来ると
彼は、豊かな花飾りを髪に感じる
燭光(朝の光)を以て、大地が自らを飾らねばならないのだ。

甘く打震えながら、精神は偉大な翼をひろげ
海は輝き―勇敢な船達は往く
そこには、彼が成功しないものは、もはや何もない!


【解釈と鑑賞】

第2連で、「美の羨望する監獄」とあるドイツ語の意味は、監獄が羨望の念を抱いているということ、そのような監獄が美の監獄であるとは、監獄に棲むような犇めく世俗の人々が美を羨望しているという意味です。

文法による形式的な解釈はまた、美が監獄を羨望しているととることも論理的には可能ですが、ここではその訳はあたりません。

最初の2連は、随分と重たい連となっているのに対して、後半の2連は、それと均衡して美の世界の言葉となっています。


まさしく、前半2連の歌っている通りの詩となっております。

Der Knoten(結び目):第6週 by Wilhelm Busch(1832 - 1908)



Der Knoten(結び目):第6週 by Wilhelm Busch1832 - 1908





【原文】

Als ich in den jugendtagen
Noch ohne Groebelei,
Da meint' ich mit Behagen,
Mein Denken wäre frei.

Seitdem hab' ich die Stirne
Oft auf die Hand gestuetzt
Und fand, dass im Gehirne
Ein harter Knoten sitzt.

Mein Stolz, der wurde kleiner
Ich merke mit Verdruss:
Es kann doch unsereiner
Nur denken, wie er muss.


【散文訳】


わたしが青春の日々にあって
まだあれやこれやの世間の蕪雑もなく
わたしは心地よく思った
わたしが考えることは自由だと。

それ以来、わたしは額を
よく手の上に立てて
そして、脳味噌の中には
一つの固い結び目があることを知った。

わたしの誇りもあったが、それは小さくなり
不機嫌を以て気付いたことは:
われわれのような者は、しょせんは
考えねばならぬようにしか
考えることができないということである。


【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書Wikipediaです。


http://de.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Busch


この詩人はドイツの詩人です。素描もよくしたとあります。

この詩は平凡な詩ですが、このように言えるということに救いがあります。

この詩人らしいのは、

額を
よく手の上に立てて
そして、脳味噌の中には
一つの固い結び目があることを知った

という連でしょう。

この表現の仕方、語彙の選択に、この詩人の感覚(センス)があります。

このセンスは、そのままこの詩人の画業に通じている絵画的な表現です。

編者は何故この時機、この時節に、この詩を持って来たのか。若いひとたちのための選択であったのでしょうか。それぞれの年齢で読むことのできる詩です。

そうしてみれば、この詩の題名の結び目も絵画的な語彙選択です。ドイツ語でder Knoten、結び目と訳したこの言葉は、また瘤(こぶ)と訳すことができます。その方が詩の理解を助けるならば、その訳にしてもよいと思います。