2015年4月29日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く1




         目次

0。はじめに
1。安部公房と三島由紀夫の言語能力について
2。三島由紀夫と安部公房の思考論理の差異
3。十代の三島由紀夫の詩と散文について
4。二つ目の詩の「凩」(木枯らし)を読む
5。三島由紀夫の詩のこころと、その詩の世界の構成要素
6。三島由紀夫の源泉の感情と源泉の論理
7。『父親』という詩を読む
8。十代の詩のこころへの永劫回帰
9。何故『暁の寺』が完結したら「それまでの作品外の現実が紙屑になった」のか


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0。はじめに
この論考は、安部公房の世界を論じた『安部公房の奉天の窓の暗号を読み解く~安部公房の数学的な能力について~』を書いたことによる副産物です。

従い、安部公房と同様に十代に詩人であった三島由紀夫の詩の世界を、また散文の作品とも照らし合せて、そうして言葉の眼で、三島由紀夫という人間と其の世界を眺めたならば、一体どのように見えるのかということを書いたものです。バロック様式(style)の言語藝術家である安部公房の眼で、浪漫主義者の言語藝術家である三島由紀夫の世界を眺めたらどのように見えるかと言い換えてもよいかも知れません。

最初の導入部が少し言語論理に拘泥しているようで、慣れない読者には入りにくいかもしれませんが、そこを少し我慢をしておつきあい下さい。一見迂遠のように見えますが、あとで、十代の三島由紀夫の詩と散文の理解に大いに役立つ筈です。

1。安部公房と三島由紀夫の言語能力について
三島由紀夫も、自らの語るところによれば、二十歳までは叙情詩人でありました(『太陽と鉄』の冒頭)。三島由紀夫は、詩人としてあった自分を後年贋の詩人と呼んでおります。この二人は、お互いにお互いを映す、相補的な合わせ鏡の二人です。安部公房も散文家として身を立ててからは、自分が詩人であることも、23歳のときの詩集『無名詩集』も表に出そうとはしませんでした。むしろ隠したといってよいのです。また、贋という文字も(偽ではなく)、この二人が作品の中でも共有した文字の一つです。『豊饒の海』にも此の文字が何度か出てまいります。安部公房の作品については言うまでもありません。

さて、言語能力の特質を論ずるとは、その人間が現実に対したときにどのにように言語にその諸要素を変換し、結合し統合して(上位接続して)、その修辞の能力を駆使して、そうして其の最たる能力の一つである隠喩(metaphor)を使って変形させるか、20歳の安部公房の言葉で言えば「次元展開」するか(『詩と詩人(意識と無意識)』全集第1巻、104ページ)、即ち虚構の世界では如何に私事を語らずに修辞を駆使するかということの説明をすることになります。そうして、それは何故かということも、また。

年齢が一桁の小学生のときに、またせいぜい中学生までの年齢の時に、安部公房がどのように対象を捉えることができたかをあなたに理解してもらうために、三島由紀夫が同じ年齢の頃の、11歳のときに書いた『木枯らし』という題の詩を読んでみましょう。この詩を理解することによって、満洲国の奉天の町に住んでいた安部公房の持っている能力を知ろうというのです。(安部公房は2歳から16歳まで奉天で育ちました。)

三島由紀夫11歳の詩です。


「木枯らし

木が狂つてゐる。
ほら、あんなに体をくねらして。
自分の大事な髪の毛を、風に散らして。

まるで悪魔の手につかまれた、娘のやうに。
木が。そしてどの木も狂つてゐる。」


この詩の示す所は、少年三島由紀夫と対象との関係が切れているということ、差異があることの認識を其のまま示しているということです。

そうして、その認識が、そのまま隠喩(metaphor)を使った修辞を生んでいるということです。木枯らしという風の吹き荒(すさ)ぶ其の木々の様子を隠喩で表していて、その隠喩を生む能力が既にして対象との絶対的な距離(差異)を前提に成り立っているのです。

このことは18歳の小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の殺人者の感情の湧いて出てくる源泉が、この現実と他者との距離、即ち差異であるのことの理由になっています。

普通の平凡な人間の言葉は、対象の名前を言えば、それは自分の延長であることを意味しています。しかし、この詩の言葉は、そうではありません。

11歳の三島由紀夫が、木が狂つてゐると書けば、木が狂っているのであり、ほら、あんなに体をくねらして、と書けば、それは木が実際に体をくねらしているのであり、自分の大事な髪の毛を、風に散らして、と書けば、木には髪の毛が備わり、実際に風に髪の毛を散らしているのですし、まるで悪魔の手につかまれた、娘のやうに、と書けば、悪魔の手に木がつかまれているのであり、木はそのやうに娘のやうに在るのであり、そしてどの木も狂つてゐるのです。

普通の平凡な人間の言葉は、対象の名前を言えば、それは自分の延長であることを意味しています。しかし、この詩の言葉は、そうではありません。

例えば、あなたが身の廻りにある物の名前を指差して挙げてごらんなさい。曰くパソコン、曰くコーヒーカップ、曰く本、曰く鍋、曰く釜、曰く曰く曰く......。

これは、物の名前を果てしなく列挙して行くことですから、小学生の安部公房の数学的能力が既に知っていた言葉によれば、足し算の世界ということになります。

しかし、隠喩は掛け算の世界なのです。パソコンと鍋の差異を一挙に0にして、二つの対象を一つにして、上位接続をするのです。これが隠喩です。

このことを普段人は意識しないので、あなたに当たり前のこととして伝えることが難しい。もう少し伝えようとしてみましょう。

みかん、りんご、バナナ、キウイ、柿、さくらんぼ、無花果(いちじく)、パイナップル、葡萄、梨、桃、マンゴー、ライチ、栗、パパイヤ、レモン、グレープフルーツ、すもも、花梨(カリン)、石榴(ザクロ)、グアバ 、ドリアン等等々........

これら果てしなく無限に続く名前の行列の全てを上位接続(conjunction)すると、たった一言、即ち果物という一語になり、わたしたちは掛け算をした、積算をしたということに、自然言語の世界ではなるのです。

隠喩は従い、掛け算ですので、時間が存在しないのです。上のような言葉の無限、言葉の数かぎりない列挙、言葉の果てしなさを見て、その本質(関係、差異)を抽象化して、一つの名前で呼ぶこと、これが、全く異なる二つのものを接続する(積算:conjunction)ことの意義(sense)なのです。

さて、その名前を言うことによって、或いは名付けることによって、あなたは対象と自分との距離(差異)を0にすることができると思っているのです。それが、わたしの言い方で言えば、対象の名前を言えば、それは自分の延長(extension)であることを意味するという言葉の意味です。

一次元の時間の中で、即ち日常の生活の中で生きている私たちは、そのように思っているのです。

このこと、即ちこの足し算の世界の論理と感覚を、哲学の世界では外延(extensive)、即ち普通の言葉では延長と言い、掛け算の世界を内包(intensive)と言います。

内包とは、上の説明でお分かりの通り、果物という言葉、上位概念、即ち意義(sense)の発見です。この内包である意義(sense)に対して、足し算の和、外延のことを意味(meaning)と言います。(肯定する世界では、結局、掛け算か足し算しかないのです。)

言い換えれば、内包、即ち積算とは、この日常からの脱出であり、非日常と非現実の創造なのです。

わたしたちは、りんごを食している一瞬一瞬にはりんごを食べていると思っているのであって、果物を食べていると感じているのではないということです。

もしりんごを食べながら、これは果物であって、わたしが一瞬一瞬食しているのはりんごではない、果物(という何ものか)を食べているのであり、食べながら既にして食べ終わっているのだと思う少年がいたとしたら、それが三島由紀夫であり、また同時に安部公房という少年なのです。

あなたはレストランへ向かうときに、未来の時間に向かって、さあこれから食事をしようと心の中で思う。何故ならまだ何を食べるかが決定されていないから。未来はまた不確定である。そうしてレストランの内部に入ってから、実はスパゲッティ・ナポリタンを食べたいと思い、スパゲッティ・ナポリタンを注文する。そして、一瞬一瞬スパゲッティ・ナポリタンを食べ、食べているのはスパゲッティ・ナポリタンだと思っている。

そして、スパゲッティ・ナポリタンを食べ終わって、レストランの外部に出てくる。そうして、ああおいしかったと思う。そのとき初めて、次の二つの文のいづれかを生成して、選択する自由をあなたは手にするのです。

(1)ああ、今日の食事はおいしかった(一般)。
(2)ああ、今日のスパゲッティ・ナポリタンはうまかった(個別)。

こうしてみると、過去を振り返るとは、内部から外部に出ることだと判ります。

内部から外部に出て初めて、内部の空間での経験を、上の二つの文を過去形でいうことができるのです。(事実はすべて過去形だということになります。起こっていること、これから起こることを事実とは言わない。)

もし内部にあなたがいて、一瞬一瞬、刻一刻に、今日のスパゲッティ・ナポリタンはうまかったという文を生成できれば、一見この文は過去形であり、過去に起こった事実の文のようでありながら、実は全く過去の事実ではない非現実のことを言った文だということを、このように考えてくると、あなたには理解されるでしょう。

これが、あなたが義務教育の英語の授業の英文法で教わった非現実話法という話法(mode)の意味なのです。(ドイツ語の文法用語の方がもっと遥かに厳密で、この話法を接続法というのです。)上の説明でお分かりの通り、この非現実話法の文はいつも過去から生成されるのは、上の通りの理由によるのです。これは何語であろうと、人間の言語である限り、言語を問いません。

安部公房が一生追い求め、晩年には人間の遺伝子の中に最初からあると考え、二次元の円形は積分すれば三次元のチューブ(円筒形)になるだろうと言って視覚的にインタビュアーなどに説明して伝えようとした(チョムスキーなどの)普遍文法の規則、言語の本質的な構造というのが、この非現実話法(接続法)の言語規則のことなのです。

勿論図形の問題として三次元でも四次元でも五次元でも幾らでも次元を上げることができることは、奉天の窓の数ほど存在の数があるのだと言って、既に別途お話した通りです。次元の数を上げて、読者の理解できるギリギリの次元で書いて見せたその実例が、存在の革命を起こすために書いた『箱男』(1973年)だと言えば、安部公房の読者であるあなたには、十分過ぎる位に伝わるでしょう。

さて、勿論、日本語も言語である以上、この非現実話法、即ち「もし~だったら、~なのになあ」という文があります。それが、譬喩(ひゆ)という修辞の世界では、隠喩という掛け算の譬喩なのです。

ああ、わたしが鳥であったらなあという非現実話法(時間を捨象した接続法)で表現する思いが、そのまま、わたしは鳥だという隠喩に変形することは、こうして考えて参りますと、自然のことに思われるでしょう。勿論修辞の世界には足し算の譬喩もあって、それは換喩と呼ばれています。

さて、前者、即ち隠喩という積算の能力が、三島由紀夫と安部公房に既にして幼年時に備わっていた言語能力であり、思考能力なのです。それも普通ではなく、日常の一次元の時間の中にあって、空間的には何かの内部にあって、一瞬一瞬、刻一刻に、あなたが「このスパゲッティ・ナポリタンは実にうまいなあ、ねえ君」と思って話しかけているときに、「うん、そうだね」と生きている人間として現実に答えていながら、しかし、その心の中では既にして(このスパゲッティ・ナポリタンではなく)「食事はうまかったなあ」という非現実の話法(時間を捨象した接続法)の文を生成しているのが、この二人の際立った言語能力なのです。

このような言葉を使っていては、普段に普通に生きて行くことは出来ません。このような人間は非常に孤独になるでしょう。何故ならば、この二人は日常の現実と言語の関係が、あなたとは全く逆の関係にあって、言語があって日常の現実があるのであり、日常の現実があって言語があるのではないからです。あなたは生きるために言葉を使うのに対して、この二人は言葉のために生きているからです。


2。三島由紀夫と安部公房の思考論理の差異
この現実と非現実との間の差異をどのように生きるのか、この差異をどのようなものの考え方で0にするのか、この差異にどのように対処するのか、安部公房は、この差異のことを、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の平行線の差異として、三島由紀夫に説明をしました。勿論安部公房は後者を選択し、他方、三島由紀夫は前者を選択したのです。

次の三島由紀夫の発言を読みますと、安部公房は三島由紀夫に、中学生のときに読んで以来終生好きだったエドガー・アラン・ポーの作品の内、『楕円形の肖像画』の話を例にして、自分の文学概念である仮説設定の文学の話したことがわかります。

そうして、そのときに、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の平行線の差異が後者では0になるという話をし、安部公房は後者を選択するのだと言ったのに対して、三島由紀夫は、俺はそれは嫌だ、現実と非現実は永遠に交わることなく、0になることなく、俺はその二つの間に立って、二つを永遠に平行線のままユークリッド幾何学の世界にいて宰領するのだ、それが俺の自由なのだと答えたのです。

自己を現実と非現実の間に立って永遠に宰領しようとしたら、即ち現実の中で自己が透明な媒体となり関数となろうとしたら、関数は無時間の媒体(統合的な関係である積算)のことですから、自己の変化や社会の変化に応じて、関数である自分自身を更に上位接続(積算:conjunciton)をして変形させなければ生きてゆけなくなります。これが、三島由紀夫がボディビルをしたり、武道に励んだりという、文に対するに武に傾いた、現実と非現実の均衡をとるために止むを得ず自然になりゆくべくして選択した選択肢であり、言語の世界から言葉の眼で眺めた、三島由紀の文学の世界の有り様です。

これらのことを『暁の寺』を書き終えた三島由紀夫は、次のように言っております。

「つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻「暁の寺」を脱稿した。これで全巻を終わったわけでなく、さらに難物の最終巻を控えているが、一区切がついて、いわば行軍の小休止といったところだ。
人から見れば、いかにも快い休息と見えるであろう。しかし私は実に実に実に不快だったのである。この快不快は、作品の出来栄えに満足しているか否かということとは全く関係がない。では何の不快かを説明するには、沢山の言葉が要るのである。
私は今までいくつかの長編小説を書いたけれども、こんなに長い小説を書いたのははじめてである。今までの三巻だけでも、あわせて優に二千枚を超えている。長い小説を書くには、ダムを一つ建てるほどの時間がかかる。
従って、『豊饒の海』を書きながら、私はその終わりのほうを、不確定の未来に委ねておいた。この作品の未来はつねに浮遊していたし、三巻を書き了えた今でもなお浮遊している。しかしこのことは、作品世界の時間的未来が、現実世界の時間的未来と、あたかも非ユークリッド数学における平行線のように、その端のほうが交叉して溶け合っていることを意味しない。
作品世界の未来の終末と現実世界の終末が、時間的に完全に符号するということは考えられない。ボオの「楕円形の肖像画」のような事件は、現実には起こりえないのだ。」(傍線筆者)

しかし、この文の語るところは、作品世界の未来の終末と現実世界の終末が、時間的に完全に符号するということは考えられない。ボオの『楕円形の肖像画』のような事件は、現実には起こり」得ないという確信のもとに生きてきた三島由紀夫の確信が根底からくつがえって、作品世界の時間的未来が、現実世界の時間的未来と、あたかも非ユークリッド数学における平行線のように、その端のほうが交叉して溶け合ってしまって、その平行線の間の差異が0になったということを言っているのです。

この三島由紀夫の文章を読んで解ることは、この作家は安部公房の説明したユークリッド幾何学のどこまで行っても交わらない平行線を時間のこととして理解をしていること、これに対して安部公房は、そうではなく、これは空間のことなのであって、幾何学の世界には時間は無関係であること、世界は差異であって、連続量(又は連続体)としてみたら、それは歪みであり、人間の意識も含めて世界は歪んでいるのだということ、従って現実は曲面なのであって、実際に平行線を現実の世界で引いても、空間の問題として先へ行くと交差するのだと説明をしたのだということです。

安部公房の読者であれば『箱男』に挿入された8枚の安部公房自身の撮影した写真のうちの一枚にカーブミラーの写真があり、それは曲面であるが故に、対象となる旧海軍将校倶楽部の建物が歪んでいることを知っているでしょう。(安部公房の十代の詩と安部公房の空間についての理解、特に十字路と十字形についての理解については『もぐら感覚22:ミリタリィ・ルック』(もぐら通信第27号、第28号)で詳細に論じましたので、これをご覧下さい。)又、そのほかの安部公房の撮った写真に、タンクローリー車のタンクの背面の歪みを写した写真その他のあることは、あなたのご存知の通りです。

また、安部公房の読者であれば、安部公房は時間を幾何学的に空間化して、即ち時間の単位を交換して時間を無化することによって、即ち今日は昨日の未来、今日は明日の過去と考えて、位相幾何学的に誕生する(今日配達される)「明日の新聞」や『第四間氷期』のコンピューターの(今現在に予言を実現させる能力を有する)未来予言機械を思い出せば、それは安部公房のいう通りだと思われるでしょう。

しかし、三島由紀夫はそうは考えることができなかったし、したくなかったのです。これは、人間が違うので、いかんともしがたい。しかし、この安部公房との議論は、自分の文学の弱点を突いていたので、実に三島由紀夫には印象が深かった。死の一週間前の古林尚によるインタビューで、次のように言っております。

「日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは出てこないでしょうね。未来にあるのは,まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。安部公房なんか、そっちに行ってるわけですが,ぼくは行けないんです。それで世界中が、すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、まったく同じ精神、同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、それはよいことですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。」
「未来にあるのは,まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。」

と言ってる通りで、安部公房のいう非ユークリッド幾何学の話をやはり時間的にしか理解できなかった三島由紀夫がおります。それ故の、言葉を続けて、伝統の欠如を戦略とする安部公房についての、三島由紀夫の言及があるのです。

そして、三島由紀夫は、上に引用した『暁の寺』を書き終えた後の同じ文章の中で「現実が紙屑になってしまった」と言って、次のように書いております。

「すなわち、『暁の寺』の完成によって、それまで浮遊していた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し、閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべて此の瞬間に紙屑になったのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかった。それは私にとっての貴重な現実であり人生であった筈だ。」と書き、また、

「私はこの第三巻の終結部が嵐のように襲って来たとき、ほとんど信じることができなかった。それが完結することがないかもしれない、という現実のほうへ、私は賭けていたからである。この完結は、狐につままれたような出来事だった。『何を大袈裟な』と人々の言う声が再びきこえる。作家の精神生活というものは世界大に大袈裟なものである。」

この言葉の意味は、実は現実が紙屑になったのではなく、いや実際にそうなったわけなのですが、しかし同時に小説による非現実の世界も紙屑になってしまったと、三島由紀夫は言っているのです。後述するように(安部公房の言葉でいえば)「言葉によって存在する」ことを共有していたふたりであれば、非現実の世界が紙屑になってしまったので、現実の世界も紙屑になったのだという因果関係になるでしょう。

しかし、三島由紀夫という人間は、自己を関数となし両者の媒介となして、即ち自己そのものを無時間にして生きようとし、そうして実際に自己の意志の力によって現実を無時間で生きた人間ですから、わたしのこの因果関係の説明も否定することでしょうし、それは正しい否定だということになります。しかし、世の人は、その死と小説の関係に因果関係という時間による説明を求め、この言語藝術家が無時間の人生を日々現実に生きたということに気づくことはないのです。上述した、既に11歳のときの詩に現れている積算と隠喩と非現実話法で話をする能力、そのような文を平然と生成する能力の話を思い出して下さい。

三島由紀夫の現実での無時間の生き方は、現実と非現実の二つの平行線を宰領することでしたが、しかし、その死を以って、1970年11月25日に非ユークリッド幾何学の交差点を実現したということ、この世の時間の変化を到頭一回限りの関数の、唯一の絶対的な関数の変化として表現し得た三島由紀夫がおります。こうしてみますと、二人の次の会話は、誠に興味深い。伝統に対する戦略的方法を論ずる二人の会話です。

「安部 やはり蛮族との関係があるのだよ、ソクラテスにも。
 三島 あるけれども、あるいは、ソクラテスは、メトーデを発明しようとしたから、殺されちゃったのかも知れないよ。
 安部 それはそうだな。
 三島 そういう点、そのころのギリシャは日本に似ていると言えるかも知れない。しかし日本ほどストイックな伝統観念は、それほどではなかったかも知れないね。それにしても、僕はしかし、自分が非常に自由だという観念は、伝統から得るほかないのだよ。僕がどんなことをやってもだよ、どんなに西洋かぶれをして、どんなに破廉恥な行動をしてもだね、結局、おれが死ぬときはだね、最高理念をね、秘伝をだれかから授かって死ぬだろう。
 安部 きみ、死ぬときに授かるのか。
 三島 そう、死ぬときに授かる。(笑)
 安部 遅すぎはしないかな。(笑)しかしもう少し詳しく聞きたいのだけれども、僕は率直に言って、伝統という観念がほとんどないのだよ。観念がだよ。(略) 」

安部公房が三島由紀夫の死後、その死の理由について言っている言葉、即ち「三島君はもう書くことがなくなったんだよ。作家にとって、書くことがないほどつらいことはないからね」という言葉は、正鵠を射ているのです。安部公房は自己の同類である此の友を本当によく理解しておりました。[註1]

[註1]
ヘンリー・スコット=ストークス著『三島由紀夫 死と真実』(ダイヤモンド社刊)に、安部公房がスークスに語ったという此の安部公房の言葉がある(同書あとがき、369ページ)


三島由紀夫は時間的に考えることを止めることができなかったのに対して、圧倒的に幾何学的な町である奉天(満洲国)で育った安部公房は空間的に、それも徹底的に、考えることを止めることができなかった。

後者の小説論も舞台論も、時間を空間化をすることが作品を言語で、言語に変換して書くことなのだといい、現実の時間の中にある諸物諸事を関数関係に置き換えて、即ち積算によって時間を捨象して関数関係の変化として時間の変化を表すという方法をとるのに対して、前者は、こうしてみれば、空間をすら時間化した作家だということができます。三島由紀夫の成年になってからの作品の文体の解析は後日と致します。[註2]しかし、幼年の詩には、隠喩の才ということから、空間化した時間、即ち安部公房の『夜』と題した「クリヌクイ」の詩と同じ主題である夜の部屋を歌っているのです。

[註2]
安部公房が時間を空間化した作家だというのに対して、三島由紀夫は、空間を時間化した作家だという例を以下に、十代の小説から最後の『豊饒の海』までの間で挙げて、みてみましょう。

まづ『仮面の告白』の最初の有名な冒頭から。しかし、何故それが有名であるのか、何故三島由紀夫の読者であるあなたに訴求する力を持っているのかの説明を、わたしはしたいのです。:

「永いあひだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」

この冒頭の一行にあるように、三島由紀夫の豊かな修辞の言葉は、現在から過去を追憶すること、追憶して現在と過去との差異を意識するところから生成するのです。これは、この論考の本文で後述し、詳述します。

同様に、世に出た最初の作品『花ざかりの森』の冒頭。ここには、隠遁した人間の追憶が語られています。この最初の行を含む段落の其の次の段落の冒頭の最初の一行で、主人公の行為が、追憶という言葉を使って始まり、その意識の有り様の具体的な事柄が、はっきりと語られています。:

「この土地へきてからといふもの、わたしの気持ちには隠遁ともなづけないやうな、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。」

最後の連作『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の冒頭:

「学校では日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もつとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえてゐるだけであつた。」

主人公の追憶、即ち現在と過去との差異を求めるこころから、この全四巻の一連の物語は始まるのです。それでは、第二巻『暁の寺』以下第四巻『天人五衰』までの冒頭はどうでしょうか。

『暁の寺』:「バンコックは雨期だつた。空気はいつも軽い雨滴を含んでゐた。」
『奔馬』:「昭和七年、本多繁邦は三十八歳になつた。/東京帝国大学法科大学に在学中、高等文官試験の司法科に合格し、大学を卒業すると、司法官試験補として大阪地方裁判所詰になり、その後ずつと大阪で暮らしてゐた。」
『天人五衰』:「沖の霞が遠い船の姿を有限に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。」(傍線筆者)

この全四巻のうち、最初の『春の雪』と最後の『天人五衰』の出だしは、従って其の物語の性質は、『花ざかりの森』型、この二つの間にある第二巻『暁の寺』と第三巻『奔馬』は、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』型ということになります。『豊饒の海』の連作は、そのまま三島由紀夫の人生の在り方の変遷と「ハイムケール(帰郷)」を写していることがわかります。

この十代に書いた二つの、三島由紀夫の人生に於いて有している、物語としての典型的な、また本質的に重要な性格については、本文で後述します。ちなみに、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の冒頭は、次のように始まっております。一読、『暁の寺』と『奔馬』に通っていることがお判りでしょう。問題は、この冒頭の殺害とある言葉の意義にあるのです。

 室町幕府二十五代の将軍足利義鳥を殺害。百合や牡丹をゑがいた裲襠(うちかけ)を着た女たちを大ぜいならべた上に将軍は豪然と横になつて朱塗の煙管で阿片をふかしてゐる。」

そうして、この日記には時間のない、日ばかりの、空白の時間ばかりの日記であることに注意を払いましょう。



3。十代の三島由紀夫の詩と散文について
例えば、三島由紀夫11歳の次のような詩です。

「蛾

窓のふちに、蛾がとまつてゐて、ぶるぶると体を震わせてゐた。
私は、可哀さうになつて、蛾を捕へようとした。
窓は、堅く、閉ざされてゐたので、私は、窓を開けて、放してやらうと思つた。
私は蛾にさはつて見た。
蛾は勢ひよく飛び出した。
私は、気が抜けた。
さつきの蛾と、そして、今の蛾と……。」

安部公房の部屋は窓だけがあり、その窓は開きません。安部公房の部屋は密室なのです。しかし、三島由紀夫の窓は開くのです。大江健三郎との対談で、安部公房は、「三島君って、変わり者だった。」と言っていますが(全集第29巻、73ページ上段)、しかし、窓の開かない部屋を詠む少年安部公房の方が変わり者なのではないでしょうか。それとも、奉天の家の窓は、どの家の窓も普通には開かない窓であったのでしょうか。

三島由紀夫の此の詩の方が、安部公房の『夜』と題した、満月の反照を窓のカーテンに見る「クリヌクイ」の詩よりも、何か常識的な日常の情景と体験を書いているように思います。言い換えれば、もう安部公房の詩の方が何か非日常的な感じ、その夜の外界に「クリヌクイ クリヌクイ」、即ち「栗温い 栗温い」と繰り返し誘う栗売りの異国人の異界の声と対比されて異様に静寂な感じが、非常に強く、します。

この三島由紀夫の詩にある日常の時間は、一番最後の行の「さつきの蛾と、そして、今の蛾と……。」という時間です。この詩で三島由紀夫の歌っているのは、過去と現在の時間で、未来がありません。三島由紀夫の注意は、現在と過去の差異にあって、現在と未来との差異にはないのです。折角救おうとして、飛び立ったのに、どういう風に未来に向かって、この生き物が、夜の黒い空へと飛び立ったかには関心はないのです。

「さつきの蛾」と今の「勢ひよく飛び出した」蛾の急な変化を目の当たりにして、「私は、気が抜けた。」と歌っている。その変化と自分が「気が抜け」るのは、「可哀さうになつ」て、窓を開けてやり、目に入った蛾を「放してやらうと思つた。」と思ったからであり、それは、詩の中の私の意志によるのです。この意志が、蛾という対象の急激な変化の起こる契機です。そうして、何故その意志が発動したか、表に出たかというと、「可哀さうになつ」たからなのです。この契機は重要です。

しかし、その蛾は、少しも弱っていなかったし、むしろ強く元気な力を持っていた。それが、私の「気が抜けた」原因だということです。これは、普通の言い方をすれば、期待に反して、現実に、そして実際の人間に裏切られたということを意味しています。

『花ざかりの森』という十六歳のときの小説も、未来の時間へ向かう話ではなく、「もともとこの土地はわたし自身とも、またわたしの血すじのうえにも、なんのゆかりもない土地にすぎない」土地にきて、「いつかわたし自身、そうしてわたし以後の血すじに、なにか深い聯関をもたぬものでもあるまい。」と、主人公は思うところから始まる過去の話です。

この思いを、主人公は「隠遁ともなづけたいような、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえ」る心と呼んでいる。「わたし以後の血すじに、なにか深い聯関をもたぬものでもあるまい。」とあるように、未来に何か計画的な意志を発展させようとか、その意志を実現しようというような意志はない。

そうして、その老いのこころで追憶する過去は、追憶によって「「現在」のもっとも清純な証」となるというのが、主人公の考えです。「愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純するぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつすようなものである。泉のうえにおちちらばっていたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。」

ここで考えられている論理は、過去を追憶することが、現在の愛と正しさの清純な、純潔の証明であるという論理です。そして、それを隠遁という感情として、16歳の三島由紀夫は考えている、考えているというよりも、この論理を感情の問題として置き換えれば、それは、現に隠遁しているという自分の感情であると言っている。

この小説は、その結末部にも、やはり落葉が登場して来て、「まっ白な空」が現れます。今度は、この主人公は、『蛾』に歌われた蛾だと思ってみると、黒い夜の空ではなく、まっ白な空をみるのです。この最後の数行を読みますと、これはやはり死装束の白の色で、三島由紀夫は死という文字を書くのに一重の鍵括弧を使っておりますので、擬人化した死であるか、または所謂(いわゆる)死というように、まだ少年の未経験の知らない経験として(主語であるまろうどにとって)在る死だということがわかります

この無意識の論理を読めば、『蛾』という詩の主人公である蛾の飛び立った夜の黒い空は、既に死の空間であるので、歌う必要もなく、三島由紀夫にとっては自明であったがために、関心がなかったのかも知れません。

さて、しかし、この『花ざかりの森』という小説の主人公の追憶と隠遁の感情は、死そのものではなく、「「死」にとなりあわせ」なのであり、「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。」とある追憶であり、感情なのです。[註3]

[註3]
三島由紀夫は、十二歳から十三歳にかけて、十代で独楽という題の詩を二つ書いております。一つは、詩集『HEKIGA』にある「玩具」の中の連作の最初の「a 独楽(「それは……」)」であり、もう一つは『聖室からの詠唱』所収の「幼き日」の中の最初の詩「独楽(「音楽独楽が……」)」という詩です。

こうして、この二つの詩の表題(形式)を眺めてみますと、題名の次に括弧がしてあって、「……」が必ずあり、これは安部公房の詩にも登場する同じ「……」という符号の使い方に省みて解釈をすれば、文字通りの余白であり、沈黙であり、そこにこそ自己の本来の姿が宿っていることを意味しております。十代の安部公房の場合は、この余白と沈黙に隠れ棲む自己を「未分化の実存」と呼び、即ち存在に生きる自己と言っております。しかし、この自己は、この世の人たちからみると、ほとんど死者のありかたに見える人間のありかたです。

三島由紀夫の場合も、同様であったように思われます。

なぜならば、この独楽の詩も、登場する縁語を此処に挙げますと、それは、白銀色の金属の独楽であり、悲しい音を立て、その悲しい音は音楽であり、落ち着きもなく狂ひ廻り、従い独楽は酔ひどれであり酔漢であり、そのようにして踊りを踊るものであり、踊りたくないのに一本の縄に「その身を托されて」いる。その立てる音は、梟の不気味なほ!ほ、という夜の声である。そうして、体は小刻みに震えている。(この体の小刻みに震える震えは、『木枯らし』や『凩』の木々の震えに通じているのだと思います。)

同じ『HEKIGA』の中にある「古城」という廃墟の城を歌った詩を読みますと、ここにも梟が出て参ります。この梟は、やはり”Hoh!”と鳴きます。この梟は、話者が廃墟の城の中に向かって問いかけることに対して、この声で応えるのです。また同じ詩集の「壁画」と題した詩では、梟は「梟が鳴く/一本調子の、/嗚咽するやうな、/物悲しい、啼き声、」と謳われていて、やはり、廻転する独楽に通じる悲しみを歌っております。廃墟の古城の梟のHoh!という鳴き声もまた、同様の感情を表しているのです。

それは、廃墟の、空虚の、何もないものに対する悲しみの感情というものでありましょう。そうして、それは、一本の縄に「その身を托されて」酔漢のように踊り、廻転している悲しみであるというのです。

『聖室からの詠唱』所収の「幼き日」の中の最初の詩「独楽(「音楽独楽が……」)」という詩で「ほ!ほ」啼いている梟の声は、詩集『HEKIGA』にある「玩具」の中の連作の最初の「a 独楽(「それは……」)」で歌われている”Hoh!”と啼く梟の声に比べて、後者が説明的であるのに対して、前者は説明ではなく隠喩で歌われているだけに一層、何か酷く不気味な感じが致します。

三島由紀夫の独楽は「……」という余白、沈黙、もっと言えば、廃墟、廃絶、喪われて其処にあるもの、過去としてしか追憶できないものの中に廻っている。

これらのことが、十六歳で『花ざかりの森』を出版するまでの、十代の前半の三島由紀夫の感情生活の一端であるということになります。

『花ざかりの森』の最後にあるように、「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐」、これが独楽の目に見えない程の廻転の意味なのです。



18歳のときの小説『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』という作品も同様で、未来の時間を生まない、生まないどころか未来の時間を殺人によって断ち切る其のような殺人者の日記の抜粋を羅列している小説です。しかし、これは実に素晴らしい殺人の話となっています。その論理展開は、後年の三島由紀夫の論理展開であり、小説の構造化の論理であり、戯曲の科白のactionの作り方其のものです。

『花ざかりの森』の主人公は、非常に消極的に未来を思い、「わたし以後の血すじに、なにか深い聯関をもたぬものでもあるまい。」と思っているだけですが、この『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の主人公は、前者の論理を反対方向に極端に振り、それを徹底して一人の殺人者、即ち未来を非常に積極的に奪う人間に変貌しています。この短編集のあとがきで、作者は次のように言っています。

「この短い散文詩風の作品にあらわれた殺人哲学、殺人者(芸術家)と航海者(行動家)との対比、などの主題には、後年の私の幾多の長編小説の主題の萌芽が、ことごとく含まれていると云っても過言ではない。しかもそこには、昭和十八年という戦争の只中に生き、傾きかけた大日本帝國の崩壊の予感の中にいた一少年の、暗澹として又きらびやかな精神世界の寓喩がびっしりと書き込まれている。」

この人物造形のための極端な論理は、「傾きかけた大日本帝國の崩壊の予感の中にいた一少年の」展開した論理であることは間違いがありません。三島由紀夫は生きるために、自分の命を救うために、少年の力を振り絞り、絞りに絞って、この殺人者の論理に至ったということなのです。三島由紀夫は、当時の戦時下での自分の態度について、『太陽と鉄』というエッセイに、次のように書いています。

この散文の前後に、自分の15歳のときに書いた詩を引用しております。このエッセイの冒頭に自分が二十歳までは叙情詩人であったと書いていることを前提にお読みください。

この詩に歌われた太陽は、普通の人間が太陽に抱く形象(イメージ)とは全く反対であり、倒立しており、倒錯しております。この倒錯そのものは、安部公房と同じです。

「 太陽は死のイメージと離れることがなかったから、私はそれから肉体上の恵みをうけることになろうとは、夢にも思っていなかった。それまでもちろん、戦時中の太陽は光輝と栄誉のイメージを保ちつづけてはいたが。
 すでに十五歳の私は次のような詩句を書いていた。

「それでも光は照ってくる
  ひとびとは日を讃美する
  わたしは暗い坑のなか
  陽を避け 魂(たま)を投げ出(い)だす」

なんと私は仄暗い室内を、本を積み重ねた机のまわりを、私の「坑」を愛していたことだろう。何と私は内省を楽しみ、思索を装い、自分の神経叢の中のかよわい虫のすだきに聴き惚れていたことだろう。

太陽を敵視することが唯一の反時代的精神であった私の少年時代に、私はノヴァーリス風の夜と、イエーツ風のアイリッシュ・トゥワイライトとを偏愛し、中世の夜についての作品を書いたが、終戦を堺として、徐々に私は、太陽を敵に回すことが、時代におもねる時期が来つつあるのを感じた。」(傍線筆者。)

「戦時中の太陽」の「光輝と栄誉のイメージ」たる「太陽を敵視することが唯一の反時代的精神であった私の少年時代」は、安部公房の少年時代と全く同じでありました。そのために安部公房はリルケを読み耽ったのです。安部公房と三島由紀夫はリルケを共有しております。(もう一人の共有したドイツ語の世界の人間は、ニーチェです。)

さて、そうして、三島由紀夫が上の引用の最後でいっていることは、戦後は、この反時代的な態度が通俗に堕するような時代になったと言っているのです。それが、戦後の軽佻浮薄の、反時代と反権力を気取ることが流行の風俗になってしまい、実は全くの俗物であることに気づかない、「時代におもねる」空虚な人間たちが多くなったと言っているのです。

夜とは、二人が十代で読んだリルケの詩に明らかなように、それは人間に無名となることを当たり前に要求する何ものかであり、夜の中に生きるとは、それは生きている者としては其のまままさしく死者となり、死者として此の世を生きることになります。

上の引用にある夜の中で、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の殺人者は誕生したということなります。

夜の共有、これが、安部公房と三島由紀夫の二人に共通する最たることではないかと、わたしは思います。最初に見た11歳の『蛾』という詩が、三島由紀夫の側で、それを示しています。

この眼で見ると、『木枯らし』という詩も、恰も夜の詩であるように思われます。夜に、窓の外をみると、木枯らしが吹きすさんで、木々が木枯らしの強い風で揺れて揺れて狂っている。

11歳の三島由紀夫の眼には、「窓のふちに、蛾がとまつてゐて、ぶるぶると体を震わせてゐた。」とありますように、蛾もまた『木枯らし』の木々と同じようにふるえているのです。

三島由紀夫は震えるものに注目して、その原因が木枯らしのような強風であると、可哀想に思い、悲しみの情から、その対象を救ってやりたいと思い、意志を発動させて、行動に移すのです。

この眼で、再度『木枯らし』という冒頭に掲げた詩をお読み下さい。

「木枯らし

木が狂つてゐる。
ほら、あんなに体をくねらして。
自分の大事な髪の毛を、風に散らして。

まるで悪魔の手につかまれた、娘のやうに。
木が。そしてどの木も狂つてゐる。」

次に『凩』(木枯らし)という、やはり11歳の詩です。


4。二つ目の詩「凩」(木枯らし)を読む

「凩

凩よ、速く止まぬと、可愛さうな木々が眠れない。
毎日々々お前に体をもまれて、休む暇さへないのだ。
凩よ、お前は冬の気違ひ、私の家へばかり、は入つて来ないで、いつその事、雪を呼んでおいで。

最初の『木枯らし』という詩といい、この『凩』という文字は違ってもやはり、こがらしという題名のこの二つの詩は、強い風と揺れる木々と、それから風に強く吹かれ揺れて気の狂っている木々を歌っているということになります。

この場合、最初の『木枯らし』は、木枯らしによって木々の気が狂っているのですが、この『凩』では、「凩よ、冬の気違い」とありますので、木々の気を狂わせるのは、冬の木枯らしなのです。

この主題は、11歳の三島由紀夫にとって、何か非常に重要な主題であったのでありましょう。

この『凩』という詩でも、『蛾』という詩と同じで、詩の生まれる契機は、対象が「可愛さう」だという感情であり、「可哀さう」だという感情です。

そうしてみると、最初に引用した『木枯らし』という詩も、その根底にある感情は、かわいそうという感情であることになります。本居宣長であれば、もののあはれといったことでしょう。

『木枯らし』と『蛾』と『凩』いう三つの詩から抽出できる、子供時代の三島由紀夫の詩の世界は、次のようになるのではないでしょうか。


5。三島由紀夫の詩のこころと、その詩の世界の構成要素

(1)夜である。そして、恰も夜である。
(2)木枯らしという強風が吹きすさぶ
(3)それが原因で、木々が狂っている
(4)冬の木枯らしは気違いである
(5)蛾である、夜に生きる命あるものもふるえている
(6)そのふるえるものを助けたい、窓を開けて、解き放してやりたい、自由にしてやりたいという思い
(7)その思いの本(もと)は、「可哀さうな」感情を持ったからであること
(8)そうして、上記の酷い状態を解決するのが雪であって、例え木枯らしが冬の気違いであって、強く吹いていても、雪を呼んでくれば、救われるということ。何故ならば、雪の白は、夜の黒とは違って、清浄であり、そのような酷い狂気を浄化して救ってくれるからでありましょう。


このような、十代の三島由紀夫の詩のこころであるということになります。

この可哀想という感情は、間違いなく『花ざかりの森』に書かれた「追憶と隠遁の感情」の発展形であり、「死そのものではなく、「「死」にとなりあわせ」なのであり、「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。」とある其のような追憶であり、感情なのです。

上記の1から8までの、三島由紀夫の詩の要素と其の根底にある感情は、『花ざかりの森』と併せて読みますと、過去への「追憶と隠遁の感情」に発するものであることになります。

それは取りも直さず、現在と過去との差異を知ることから生まれる感情です。これを、三島由紀夫は源泉の感情と呼びました。


6。三島由紀夫の源泉の感情と源泉の論理
『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』で、この未来を向かない消極的な他者他人の感情を積極的に断ち切ってしまう殺人者の主人公を創造した18歳の三島由紀夫の心中の思いは、上の[註2]に言及した此の小説の冒頭の引用では既に恰も成人した大人の言葉であるかの如くに書かれているわけですが、しかし、この人物の造形は、戦時下で「太陽を敵視することが唯一の反時代的精神であった」三島由紀夫の「少年時代に」少年三島由紀夫が相当に苦しみと不安の果てに至った極端な論理の仮構の世界での展開であり、人物の造形であったということになります。

18歳といえば、安部公房も18歳の時に、同じ18歳の時に『問題下降に依る肯定の批判』という論文を成城高校の校友誌『城』に書いております。

この主題は、一体どうやって此の蟻の社会である出口なしの空間から脱出することができるかという主題であり、この論文ではその方法を論じ、明確に提示しています。
このときの此の論文の思想が(もう既に思想といって一向差支えないということを、この奉天の窓を論じた『安部公房の奉天の窓の暗号を読み解く~安部公房の数学的な能力について~』という論考であなたにお伝えした通りです)、安部公房一生の思想でありました。

さて、安部公房の場合もそうだとして、三島由紀夫の場合も、「後年の私の幾多の長編小説の主題の萌芽が、ことごとく含まれている」という言葉から云っても、実に此の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』という小説は、三島由紀夫の一生の思想を盛ったものだということになりましょう。

安部公房が、一生その小さな論文の外へ出ることがなかったように、三島由紀夫も、一生この短編小説の外へ出ることはなかったのです。

これは、少しも否定的な言ではありません。むしろ全く逆に、散文家としての論理は、二人の作家は既に此のときには出来上がっていた、完成していたということが言いたいのです。即ち、

安部公房は、奉天の窓から、「その沿傍に総ての建物を持ってい」て、「つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけない」「ひとつの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念で」あって「郊外地区を通らずに直接市外の森や湖に出る事が出来る」時間の無い、上位接続の道(『問題下降に拠る肯定の批判』全集第1巻、13ページ)を発見する方法を説いたのに対して、三島由紀夫は、安部公房が奉天の窓を発見し、創造したほぼ同じ小学生の時代に、多分安部公房よりも2年から3年遅れて9歳のときに、次の二階の窓からの景色を作文(散文)で書いており、この散文の延長上に『花ざかりの森』が、更にその延長上に『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』という小説が、更にそのずっと向こうの向こうに『豊饒の海』があるのです。

「学校の二階の窓から

いつもならさうも想はないが、かうやつてしみじみと二階から見える景色をながめると本当にいゝけしきだと思ふ。
赤坂御所の方はあまり木ばかり立つてゐてさうでもないが、学校のうらの製紙工場の方は木々が緑を増してゐて
何となく秋をおもはせる。
ごんだはらの市電停留所の所へつづいてゐる自動車路は大へん静で良い道路だ。
今度は一寸ちがつて左手の方をながめると、小高い丘の上に家が七、八軒並んで居る。黒い細い煙突から
煙が細く登つてゐる。そのそばに銀色をしたアドバルーンがふんはり浮いてゐる。
丘の上はこの位にして、段々下へうつつて行く。
先づお堀のすぐそばに四ッ谷のプラットホームがあるのがよくわかる。
こゝからは見えないが、始終、電車が出入してゐる。
半身黄、半身緑の市内電車が橋下のトンネルの中へ消えて行く。

(学校の二階のまどべの机で記す)」

この散文と同じ景色を、三島由紀夫は『花ざかりの森』の冒頭で次のように、今度は小説という虚構のものとして、しかし全く同様に書くのです。

「そうした気持ち(筆者註:隠遁と名付けたいような気持ち)をいだいたまま、いえの裏手の、せまい苔むした石段を上がり、物見のほかにはこれといって使い途のない五坪ほどの草がいちめんに生いしげている高台にたつと、わたしはいつも静かなうつけた心地といっしょに、来し方へのもえるような郷愁をおぼえた。この真下の町をふところに抱いている山脈にむかって、おしせまっている湾(いりうみ)が、ここからは一目にみえた。朝と夕刻に、町のはずれにあたっている船着場から、ある大都会とを連絡する汽船がでてゆくのだが、その汽笛の音は、ここからも苛だたしいくらいはっきりきこえた。夜など、灯(ひ)をいっぱいつけた指貫(ゆびぬき)ほどな船が、けんめいに沖をめざしていた。それだのにそんな線香ほどに小さな灯のずれようは、みていて遅さにもどかしくならずにはいられなかった。」

この冒頭は、既にして『天人五衰』の延々と続く、灯台の高い位置から孤児の主人公が眺める海の景色、船の出と入りの情景そのものとなっています。

詩人としての三島由紀夫にとって、この高みから景色を、現実を眺め遣るということ、この位置は、十代から最晩年に至るまで、非常に重要な位置であったのです[註4]


[註4]
『近代能楽集』の『卒塔婆小町』を見ますと、やはり登場する此の詩人の言葉として、作者は其の詩のよって来る由来を卒塔婆小町に向かって次のように語っております。

「このベンチ、ね、このベンチはいわば、天まで登る梯子なんだ。世界一高い火の見櫓なんだ。展望台なんだ。恋人と二人でこれに腰かけると、地球の半分のあらゆる町の燈(あかり)が見えるんだ。例えば僕が(ト、ベンチの上に立上がり)僕がこうして一人で立ってたって、何も見えやしない。……やあ、むこうのほうにもベンチが沢山見える。懐中電気をふりまわしている奴が見える。ありゃあお巡りだな。それから焚火が見える。乞食が火に当たっている。……自動車のヘッドライトが見える。……やあ、すれちがった。むこうのテニスコートのほうへ行っちまった。ちらっと見えたぞ、花をいっぱいに積んでいる自動車だよ。……音楽会のかえりかな。それともお葬式の。(ベンチより下りて腰かける)......僕に見えるのは、せいぜいこれだけさ。」という、やはり戦後の東京を眺めて景色の中のものの名前を列挙する其の科白、そうして其れは実は現実の景色ではないという此の科白は、そのまま『天人五衰』のあの冒頭から延々と続く高い灯台から眺めた海の景色、即ち学習院初等科の二階の教室から眺めた外界の景色と其の列挙の仕方に同じものであることが、よく判ります。

また、同じ詩人としての高みを、感情の問題として、その高みという垂直方向の差異から生まれる源泉の感情を、悲劇の定義との関係では、崇高さとして、次のように言っています(『太陽と鉄』)。

「 私の悲劇の定義においては、その悲劇的パトスは、もっとも平均的な感受性が或る瞬間に人を寄せつけぬ特権的な崇高さを身につけるところに生まれるものであり、決して特異な感受性がその特権を誇示するところには生まれない。したがって言葉に携わる者は、悲劇を制作することはできるが、参加することはできない。しかもその特権的な崇高さは、厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要があった。」(傍線筆者)

この箇所は、詩人としての特権的な高みである崇高さと「一定の肉体的な力を具えた平均的感性」の関係を述べた重要なところです。この特権的な崇高という詩人の高みは、「厳密に一種の肉体的勇気に基づいている必要」があったのであれば、ここで三島由紀夫は詩人である自己とボディビルや剣道に向かう自己との関係の均衡について語っているのです。

他方そうして、やはり、この高みという垂直方向の(地上との)差異は、高さでありますので、その均衡点には、時間は存在しないのです。高さ(隠喩)に時間はない。学習院初等科の二階の教室にいて外界を眺めて景色を叙する詩人三島由紀夫にとって、教室の内部には時間は存在しなかったことを意味しています。人と公の空間においては、三島由紀夫が詩人である限りは、自らが現実と非現実を宰領する関数となって無時間を生きる小学生三島由紀夫の姿です。

この註で上に引用した『卒塔婆小町』の箇所に続いて、もう少し先へ行きますと、次のような会話が、詩人と卒塔婆小町の間で交わされております。

「詩人 いや、今僕の頭に何かひらめいた。待って下さい。(目をつぶる、又ひらく)ここと同じだ。こことまるきりおんなじ
    ところで、もう一度あなたにめぐり逢う。
 老婆 ひろいお庭、ガス燈、ベンチ、恋人同士……
 詩人 何もかもこことおんなじなんだ。そのとき僕もあなたも、どんな風に変わっているか、それはわからん。
 老婆 あたくしは年をとりますまい。
 詩人 年をとらないのは、僕のほうかもしれないよ。
 老婆 八十年さき……さぞやひらけているでしょうね。
 詩人 しかし変わるのは人間ばっかりだろう。八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。
 老婆 そのころこんな静かなお庭が、東京のどこかに残っているか知らん。
 詩人 どの庭も荒れ果てた庭になるでしょう。
 老婆 そうすれば鳥がよろこんで棲みますわ。
 詩人 月の光はふんだんにあるし……
  老婆 木のぼりをして見わたすと、町じゅうの燈(あか)りがよく見えて、まるで世界中の町のあかりが見えるような気がす
    るでしょう。
 詩人 百年後にめぐり会うと、どんな挨拶をするだろうな。
 老婆 「御無沙汰ばかり」というでしょうよ。
    (二人、中央のベンチに腰かける)
 詩人 約束にまちがいはないでしょうね。
 老婆 約束って?
 詩人 百日目の約束です。」(傍線筆者)

1956年、三島由紀夫31歳のときの、この会話に、既に『豊饒の海』があると、わたしが言っても、誰も反対はしないでありましょう。また、「八十年たっても菊の花は、やっぱり菊の花だろう。」という菊の花は、これも勿論、我が国の国民が外国に出かけるときに持参する旅券に日本人としての国籍と身分を保証し、実際に其の命を保障してくれている天皇家の家紋であることも、いうまでもないことでありましょう。

大切なことは、何故詩人が卒塔婆小町である老婆と、このような会話を交わすのかということなのです。



『花ざかりの森』が、その延長上にある『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』において、前者の消極的な過去の時間への態度を、後者では積極的な未来の時間の切断に極端に論理を走らせたということは、『花ざかりの森』での高台からの見物、その眺めることを放棄して、逆に低い位置から景色を眺めることを決心して、後者を書いたということになります。

いや、もっと正確に言えば、殺人を犯すことによって、主人公は最低の地位に(もしそれがなんらかの地位であるならば)至ることができるのです。そうしてその最初に、最高位にある征夷大将軍たる「室町幕府二十五第の将軍足利義鳥を殺害」するのです。

それゆえに、二日目の日記には、「殺人ということが私の成長なのである。殺すことが私の発見なのである。忘れられていた生に近づく手だて。」以下の文章が成立するのです。(この殺人は、『花ざかりの森』の主人公の思い同様に、「忘れられていた生」を追憶することに変わりはないのです。)

二日目には、北の方瓏子を殺し、三日目には、美を殺害する。また同じ日に乞食百二十六人を殺害する。そのあとは、能若衆花若、遊女紫野、肺癆人(はいろうじん)を殺害する。

しかし、最後から二人目の遊女と最後の肺癆人の間に、殺人者の主人公は湊(みなと)へ行き、旧知の海賊頭と出逢い、ある会話を交わします。この海賊頭との会話を読むと、殺人者の殺人の動機がよく判ります。

その動機は、他者との距離である其の差異を0にするために殺人を犯すということです。即ち上で見たように征夷大将軍から始まってすべての階層の職業人たち、社会的な身分のものたちを、果ては最底辺の乞食に至るまでの差異を0にする。そうして乞食を大量に殺戮したということは、この殺人者は乞食以下の人間になったということを意味しているのです。

この殺人者は、こうしてみますと、安部公房の世界でいうならば、1973年に発表した『箱男』の主人公、箱男という乞食以下の、社会の法律の外に棲む主人公に相当するでしょう。

そうして、海賊は未知へ向かい、殺人者は未知へとは向かわない。何故ならば、他者との距離があり、殺人者は「そこから」「始まるから」です。そしてこの他人との距離、即ち差異こそが、「世にも玄妙なもの」であり、梅の香の匂うものであり、その「薫りこそは距離なのである」から。その他者との距離を、差異を一挙に0にするために殺人を犯すのです。これが、この殺人者の論理です。

しかも、この殺人者の論理は、『花ざかりの森』の消極的な未来への論理から此の小説の積極的な未来の簒奪の論理へと、やはり幾ら変形しているとはいえ、「未知」なるものへとは向かわないのです。

この対立する対照的な二人の人物の造形のうち、海賊頭は海へと未知へと向かう。この未知という言葉の意味には、時間と空間の中での未知なるものが含まれているでしょう。作者は特にその未知なるものが何かを、海を越えて永劫回帰すべき場所としてしか書いていない。殺人者はやはり人を殺して他人との差異を最上位の階層の人間から最低の下層の人間までを殺しても、空間と時間の未知の未来には赴かないのです。

この海賊によれば、未知とは失われたという意味だと言っているので、未知なる空間といえば、それは失われた空間(場所)という意味であり、未知なる時間といえば、それは失われた時間という意味になります。

こうして、三島由紀夫の十代において、十代の詩の表している言葉の根底にあるのは、時間との関係では、未知の未来という時間への恐怖だということが、十代の散文の主人公の動機と主題を考察すると、できるのです。

未知の未来という時間への恐怖を克服したときに、殺人者は行動家になることができるのです。これが、18歳の殺人者を造形した三島由紀夫の論理です。しかし、これは、本人があとがきでいっているように「後年の私の幾多の長編小説の主題の萌芽が、ことごとく含まれていると云っても過言ではない」という小説であれば、この小説の根底にある感情と論理は、一生の範型であるということができます。

この未知の未来への恐怖心が一体何に由来するものかは問わず、しかし、今ここまで十代の詩と小説を読んで間違いなく言えることは、殺人者の動機が他者との距離にあるということから、やはり他者との差異に恐怖心の発露があるのだということです。

これは、他者に対する恐怖心なのです。

この他者との距離、他者との差異が、三島由紀夫の馥郁たる修辞の生まれる、即ち「源泉の感情」が生まれ(『豊饒の海』全四巻の中に感情という言葉はよく出てきます)、その感情から華麗なる修辞の生まれる場所、三島由紀夫の言葉の生まれる場所なのです。

これは、安部公房の場合と全くといっていいほどに共通していることです。安部公房はその恐怖心を克服するために、これを主題として『他人の顔』を書きました。勿論この作品ばかりではありません。同様の視点から見ると、三島由紀夫は何という小説をものしたのでしょうか。

三島由紀夫の詩を読んで、もうひとつ言うべきことがあります。この虚構の世界の造形された殺人者の持つ他者との距離は、三島由紀夫が『木枯らし』や『蛾』や『凩』で歌った対象との距離に覚える悲しみという感情と裏腹だということです。

殺人者の論理としては、殺人によってその人間を救うわけなのですが、他方、感情の問題としては、その悲しみの距離を一挙に0にしたいという欲求がこの殺人という行為なのです。殺人をすれば他者に覚える悲しみも0になり、上に述べた他者への恐怖心も0になり、無くなるのです。

としてみれば、この殺人者の悲しみの原因は、外界にある木々が木枯らしによって気が狂っている状態にさせられているということであり、その様を救うという動機が、殺人者の動機であることが判ります。

それ故に、戦乱の激しい、木々が気違いの冬の風に揺れに揺れている室町時代の、しかし二十五代将軍足利義鳥という架空の人物でなければならなかったのです。足利将軍家は十五代まで続いたというのが史実ですから、二十五代というのは、未知の未来の話です。その未知の未来の時間においた人物を、今度は過去の室町の時代に置くということは、安部公房の世界の論理と全く同じです。三島由紀夫は二十五代将軍足利義鳥という人間を置きましたが、安部公房は同じ論理で「明日の新聞」を発行しました。

安部公房の読者は、このことを思い出せば、この二人に共通の源泉の論理と感情が同じであることを知ることが出来るでしょう。

実は時間の処理については、この二人のこのふたつのものの造形は、全く同じく、時間の無化という技術であり、或いはこれこそ藝術という言葉の術なのです。(この藝術という高度の言語技術の駆使によって二人が終生求めたものは、時間の無い静寂の空間、即ち三島由紀夫ならば静寂の庭であり、安部公房ならば存在の部屋であるのです。)

安部公房は、この同じことを時間の空間化と呼びました。上述しましたように時間の変化を関数関係の変化に変換して表すという方法の採用です。しかし、三島由紀夫の場合には、十代の二つの小説を読みますと、論理よりもやはり言葉が優先していて、隠喩の後を論理が従いて来ています。

この三島由紀夫の生来の言葉の才に対して、安部公房の苦労苦心は、これもまた対照的に生来の数学の才によって奉天の窓の論理を如何に言葉としての隠喩に変換するかという苦心と苦労であったかは、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』で論じた通りです。

ここでも、対照的な二人です。後者の時間の空間化が、やはり自分の未来へと向かう未知のものへの恐怖を克服する手立てであったことはいうまでもありません。それは、安部公房の戯曲論、小説論、そして言語論にみづから明らかにして、繰り返し言われております。

さて、このようなこころが、『太陽と鉄』の冒頭で、三島由紀夫が自分は二十歳までは叙情詩人であったという状態であるのです。

この後小説家として身を立てようとしている23歳の時に、三島由紀夫は安部公房に会う機会を得ます。後者の設立した「世紀の会」の第一回目の読書会で、この会のたった二人の共同創始者のうちのもうひとり中田耕治が三島由紀夫の当時出た短編集から作品を選らんで読書会を開くことで、そこでふたりは初めて顔を会わせますが、安部公房がそのとき自分の担当として選んだ三島由紀夫の小説を何故可能性のない小説だと全面的に否定をし、後者が前者を凄い奴だと思ったのかは、また稿を改めて論じます。

ここまで論じて参りますと、わたしも両者の小説の本質論(関係論)も容易にできるように思います。

さて、もう一つ11歳のときの詩を読んで終わりにします。『父親』という詩です。


7。『父親』という詩を読む
これまでの考察では、三島由紀夫の詩文と散文の叙述の根底には次のことが伏在していることがわかります。

(1)夜である。恰も夜である。
(2)木枯らしという強風が吹きすさぶ
(3)それが原因で、木々が狂っている
(4)冬の木枯らしは気違いであるり、木々を気違いにしてしまう
(5)蛾である、夜に生きる命あるものもふるえている
(6)その震えるものを助けたい、窓を開けて、解き放してやりたい、自由にしてやりたいという思い
(7)その思いの本は、「可哀さうにな」感情を持ったからであること
(8)そうして、上記の酷い状態を解決するのが雪であって、例え木枯らしが冬の気違いであって、強く吹いていても、雪を呼んでくれば、救われるということ。何故ならば、雪の白は、夜の黒とは違って、清浄であり、そのような酷い狂気を浄化して救ってくれるからでありましょう。

この8つのことは、やはりこの詩にも伏在しているに違いありません。


「父親

母の連れ子が、インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。

母の連れ子の脳裡に恐ろしい父の顔が浮び出た。

書斎のむち、今にもつぎはぎだらけのシャツを脱がされて、むちが……
喰ひ附くやうに、

母の連れ子の、目の下に、黒いじゆうたんが、わづかな光りに、ぼやけてゐる」

この詩では、気違いのように、木枯らしに揺さぶられている対象が木ではなく、「ころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた」インク瓶になって歌われております。

その原因をなすのが、母の連れ子ですから、この連れ子は狂気を宿した子供なのでしょう。これは、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』にそうであったように、このまま殺人者の持つ他人との距離を表しています。その距離という差異は、母の連れ子と其の子のことを語る話者、即ち普通に考えれば、11歳の三島由紀夫の持つ差異です。この距離、この差異が、三島由紀夫が作中人物と持つ距離であり、作中人物の狂気であるのです。

この詩で三島由紀夫は、話者としての立場を手に入れて、話を仮構することができています。このことは重要なことです。

これを言葉の技術の進歩と呼んでもよいし、詩の中へ、『花ざかりの森』と『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』で明瞭に自覚をした、三島由紀夫という人間の高みの位置を、初めて獲得したのが、この『父親』という詩であることになるからです。

即ち、この三島由紀夫独自の高みを肯定しようが(『花ざかりの森』)、否定しようが(『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』)、この高みのある限りにおいて、三島由紀夫のこころと意識の中では、詩はそのまま散文なのであり、散文はそのまま詩の延長であるということになるからです。

「母の連れ子」という、話者にとっては血縁ではない、三島由紀夫の源泉の感情の発露する距離(差異)を持った赤の他人であるという設定をしたことが、11歳の少年三島由紀夫のこころと意識をそのまま物語っております。

その詩の題名が『父親』であるというのも、誠に興味深い。

赤の他人の連れ子が、(木枯らしの詩での木々のように)気の狂ったように散乱するインク壺の破片を拾い集めても元には復元できず、父親の罰が待っているという此の仮構の設定は、表面上の人物関係は横においていたとしても、三島由紀夫の小説や戯曲の仮構の才能そのものを示しているのだと、わたしは思います。

これは恐らくは、父親に文学的な作品の執筆を酷く否定された経験を言葉に変換して、高みの位置を得ることを知って、人間関係を変形させて仮構して、自分のこころを救うために書いた、そのような詩であるのです。

(安部公房の夢にも同じ事情があったことを思わせる『思い出』という短い文章があります。両親から罰としてもらった鉛筆を削ると、削る端から、鉛筆がばらばらになり、折れてしまったという幼年の思い出を夢として書いています。この二人は本当によく似ています。(全集第4巻、312ページ))

さて、この11歳の詩にある話者の、この詩を歌う話者のこころは、間違いなく18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の殺人の論理です。それ故に、

「母の連れ子の脳裡に恐ろしい父の顔が浮び出た。

書斎のむち、今にもつぎはぎだらけのシャツを脱がされて、むちが……
喰ひ附くやうに」

と書くことができるのですし、書かねばならないのです。

「ペルシャ製だといふじゆうたんは、真ッ黒に汚れた」という其の絨毯は、木々が木枯らしに吹き荒さんで揺れに揺れてばらばらにはりそうな、いやばらばらになっている其の木々に相当する「ころがりころがり机から落ちて、硝子の片が四方に飛び散つた」インク瓶がある其の絨毯は、その色から言って、木々の揺れる狂気の夜の色と同じ色なのです。

これが、三島由紀夫が、『太陽と鉄』の冒頭に、すでに十五歳の私は次のような詩句を書いていたと言っていることに通じていることなのです。

「それでも光は照ってくる
  ひとびとは日を讃美する
  わたしは暗い坑のなか
  陽を避け 魂(たま)を投げ出(い)だす」

なんと私は仄暗い室内を、本を積み重ねた机のまわりを、私の「坑」を愛していたことだろう。何と私は内省を楽しみ、思索を装い、自分の神経叢の中のかよわい虫のすだきに聴き惚れていたことだろう。

太陽を敵視することが唯一の反時代的精神であった私の少年時代に、私はノヴァーリス風の夜と、イエーツ風のアイリッシュ・トゥワイライトとを偏愛し、中世の夜についての作品を書いたが、終戦を堺として、徐々に私は、太陽を敵に回すことが、時代におもねる時期が来つつあるのを感じた。」と、率直に語っている十代の時代の詩と真実であるのです。


しかし、最後の最後に、死の1週間前に、古林尚によるインタビューの中で次のように「十代の思想への回帰」を言う、これも率直なる三島由紀夫がいるのです。このインタビューは三島由紀夫の死後一週間後に記事となって図書新聞の掲載されましたので、当然のことながら、安部公房も読んでいることは間違いがありません。


8。十代の詩のこころへの永劫回帰
「ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、ワーッと出てくるんです。だから、ぼくはもし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、またどんなに悪口をいわれようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と思うようになりました」

とすれば、ここまで考察して来たところに従い、二十歳までは叙情詩人であったといい、散文家として身を立てるために、上の言い方からして恐らくその自分の中に棲む抒情詩人を否定して散文家になった三島由紀夫は、以下の8つの要素からなる詩の世界に回帰したということになるでしょう。

(1)夜である。そして、恰も夜である。
(2)木枯らしという強風が吹きすさぶ
(3)それが原因で、木々が狂っている
(4)冬の木枯らしは気違いであるり、木々を気違いにしてしまう
(5)蛾である、夜に生きる命あるものもふるえている
(6)その震えるものを助けたい、窓を開けて、解き放してやりたい、自由にしてやりたいという思い
(7)その思いの本は、「可哀さうにな」感情を持ったからであること
(8)そうして、上記の酷い状態を解決するのが雪であって、例え木枯らしが冬の気違いであって、強く吹いていても、雪を呼んでくれば、救われるということ。何故ならば、雪の白は、夜の黒とは違って、清浄であり、そのような酷い狂気を浄化して救ってくれるからでありましょう。

この8つのことは、やはりこのハイムケール(帰郷)の事情にも伏在しているに違いありません。

例えばこのような読み替えが可能ではないでしょうか。

戦後の、特に1960年代という高度経済成長の時代は、日本人は真昼間だと思っているが、実は夜である、恰も夜である、木枯らしが吹きすさんで、みな正気を失っている、狂気の中にあって揺れている、夜の窓辺の蛾のように震えている、この日本人の一人一人である生き物を、その姿が夜の生物の奇怪な姿であれ、それは可哀想であり、わたしは悲しい、その何とか震えるものを助けたい、窓を開けて、解き放してやりたい、自由にしてやりたい、そうして、木枯らしが強く吹きすさんでいても、この木枯らしが雪を生じ入れるのであれば、その木枯らしは清浄無垢な、そのような日本の国に、そのような日本語の世界に、そのような日本人のこころに、それらの狂気を正気に変ぜしめることを信じている、雪よ降ってくれ、そのような酷(ひど)い狂気を浄化して救ってくれ。

『豊饒の海』の第一巻が『春の雪』であるのは、そのような十代の三島由紀夫のこころの与えしめた書物の名前でありましょう。

時節は、冬という気違いの木枯らしの吹く冬ではなく、春風駘蕩たる其の春の雪でなければならなかった。

そうして『天人五衰』の延々と続く、灯台の高い位置から孤児の主人公が眺める海の景色、船の出と入りの情景そのものは、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』で一度全面的に否定をすることによって造形した極端なる論理から生まれた殺人者を再度否定をして、いや否定をしなくともそのままにしておいても、この小説家になるための基礎をなした「後年の私の幾多の長編小説の主題の萌芽が、ことごとく含まれている」この小説を離れて、十代の詩の世界へと回帰して行き、戦時下の少年であったかの如くに、夜の世界に棲むことに戻り、それゆえに、その全四巻の小説の全体の名前は『豊饒の海』という、太陽ではなく、夜に輝く月の地形の名前でなければならず、そのまま真っ直ぐに『花ざかりの森』に、率直に回帰をして、無理をすることなく、小学生のときに二階の校舎の窓から眺めた帝都の景色を眺める其の高みの位置に戻ったということを、上の死の直前のインタビューの言葉の通りに十代の思想にハイムケール(帰郷)したということを、『豊饒の海』という虚構の海の名前で、示しております。

この『豊饒の海』という海の命名は、しかし、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の旧知の海賊頭が、主人公の殺人者に語る「未知」なるものなのであり、「失われた王国」なのであり、「海を越えていつでもそこへ帰る」場所(原文傍点)なのであり、「無他」なのであり、殺人者たる主人公が逃れ得なかった「他者との距離」、三島由紀夫のそれまでの馥郁たる修辞を生んだ感情の源泉であった其の差異を0にすることを、この18歳の小説の上にそれまでのすべの小説を建立した三島由紀夫が、それらを捨てて選択したということなのであり、殺人者としてのこちら岸から海賊頭の彼岸へと渡る決心をしたということなのであり、もう一人の三島由紀夫の理想の化身であった此の行動家の海賊の友人の命令の言葉、即ち「海であれ、殺人者よ」という言葉を受け容れて、それに従ったということを意味しているのです。

三島由紀夫は最後まで、バルザックのように自分の創造した小説の登場人物と現実の友人とを混同することなく(『小説とは何か』)、明晰に意識の上に於いて、自分のあらゆる修辞の能力の限りを注ぎ込んで、この、この世での最後の作品を、現実と夢との間に掛ける夢の浮橋を、身命を賭して、掛けたということなのです。

『奔馬』をなさしめた心は、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』を書かしめた心でありましょう。この作品の主人公のこころには、殺人者の心も、海賊頭のこころも生きております。

『暁の寺』は、やはりその転生輪廻の主題と動機は、『花ざかりの森』の最初のところで主人公が語る、

「追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純するぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつようなものである。泉のうえにおちちらばっていたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。」

と書いた其の十代のこころに、即ち現在に生きることは過去を追憶して自己の純潔を証明するためであり、そのことを意味するのだという少年のこころに回帰したということなのです。

この思想は、いつも自己の純潔を証明するために、その現在に戻って来るために、繰り返し過去を追憶するのだという思想です。

これが、三島由紀夫の永劫回帰であり、それが唯識という仮構虚構の意匠をまとって仏教の唯識の理論として『暁の寺』に登場していたとしても、そしてだからといって仏教の唯識論を幾らサンスクリット語で読んだとしても、それでは三島由紀夫の思想を理解することができないことでしょう。既に、三島由紀夫の唯識論と永劫回帰たる転生輪廻の論理は、『花ざかりの森』に書かれているからです。

しかし何故三島由紀夫はこの小説の最後に至って、

「すなわち、『暁の寺』の完成によって、それまで浮遊していた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し、閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかった。それは私にとっての貴重な現実であり人生であった筈だ。」と書き、また、

「私はこの第三巻の終結部が嵐のように襲って来たとき、ほとんど信じることができなかった。それが完結することがないかもしれない、という現実のほうへ、私は賭けていたからである。この完結は、狐につままれたような出来事だった。『何を大袈裟な』と人々の言う声が再びきこえる。作家の精神生活というものは世界大に大袈裟なものである。」

と言ったのでしょうか。

この言葉は、それまで修辞の殺人者であった三島由紀夫が、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』の旧知の海賊頭の命令に従って、この小説の殺人者たる主人公が逃れ得なかった「他者との距離」、三島由紀夫のそれまでの馥郁たる修辞を生んだ感情と論理の源泉であった其の差異を0にすることを、この18歳の小説の上にそれまでのすべの小説を建立した三島由紀夫が、それらを捨てることを選択し、勇を鼓して殺人者として現実(他者)と距離のあるこちら岸から海を越えて彼岸(未知)へと渡る決心を選択して、もう一人の三島由紀夫の理想の化身であったこの行動家の海賊の友人の命令の言葉、即ち「海であれ、殺人者よ」という言葉を受け容れて、現実の自分自身が、その虚構の人物の命令に従って第一巻、第二巻と書いてきて、第三巻を書いたところが、「それまで浮遊していた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し、閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になった」と言っているのです。

三島由紀夫と小説とは何かという議論をしたときの安部公房の数学の譬喩(ひゆ)を使って言えば、三島由紀夫はそれまで自分が現実と虚構との間の関数(媒介)として、ユークリッド幾何学の世界にいて、「浮遊していた二種の現実」の双方を互いに交換し、変換して、その真ん中で、その差異の間で、その源泉の感情の生まれる他者との距離、それは(上の『父親』という詩で考察した)小説の人物との仮構した距離でもまたあったことでしょうが、その二つの距離、差異が一挙に0になって、三島由紀夫の修辞の生まれる感情である源泉が、従い源泉の論理も同時に、消滅してしまったということを率直に言っているのです。

即ち、安部公房の譬喩を再度使えば、非ユークリッド幾何学の世界に足を入れて、現実と虚構(夢)とが、それまで永遠に平行線を描いて交わらないと思っていた平行線が交差してしまったということを意味しているのです。

何故そのようなことが起こったのでしょうか?


9。何故『暁の寺』が完結したら「それまでの作品外の現実が紙屑になった」のか
「それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になった」という意味は、現実と言葉による虚構の交差によって、そのまま、そうであれば、「それまでの現実外の作品」も紙屑になったということ、虚構である小説の世界も紙屑になっってしまったという意味になります。

『暁の寺』の最後に、『金閣寺』の最後と同様に、やはり火事が発生致します。しかし、この火事は『金閣寺』の火事とは全く質(quality)の異なる火事です。

後者では、その炎の中を寺の三階から火をかいくぐって駆け下りて外へと脱出をして、自殺をするために持っていた小刀とカルチモンを裏山で、遠くに金閣寺の炎の上がるのを見ながら、それらの自殺の手段を放り投げて、社会の中で、どんな辛いことがあっても、たとえ犯罪者と言われようとも、これからの未来の時間に生きようと主人公は決心するところで終わっております。

しかし、前者では、それは単なる火事であって、『金閣寺』の火事のような主人公の社会と未来という時間に対して生きるための深い決意は、誰も登場人物たちは、しないのです。ただ火事を傍観していて、消火を外で待っている。

それに此の小説には、主人公のいる気配がありません。普通小説の主人公は表向きは主役のように読者には見えますが、実際には狂言廻しの役を演じているものです。その狂言廻しの役を演じている主人公の姿が見えません。

このことは、この小説の転生輪廻の主題と動機は、『花ざかりの森』の最初のところで主人公が語る、

「追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純するぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつようなものである。泉のうえにおちちらばっていたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。」

と書いた其の十代のこころに回帰したということであったとすれば、そうして実際に死の直前の三島由紀夫の言葉のように其の通りでありましょうから、『暁の寺』の最後の結末部が「嵐のように襲って来」て、「一つの作品世界が完結し、閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になった」とすれば、次の二つの結論のいづれかがやってきたのだということになります。

(1)『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということが、現実の世界でも実現してしまった。
(2)『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということが現実の世界では実現しなかった。

これら二つの文は、また同時に次の文と裏腹にあります。

(1)『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということが、『暁の寺』の世界でも実現してしまった。
(2)『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということが『暁の寺』の世界では実現しなかった。

このことは、

「追憶は「現在」のもっとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純するぎるような感情は、追憶なしにはそれを占ったり、それに正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつようなものである。泉のうえにおちちらばっていたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。」

と『花ざかりの森』で主人公の思っているこの追憶が、それまでの小説はみな殺人者の修辞によって書いてきていたものを、『豊饒の海』では(未知なる未来への恐怖を克服するために)海賊頭の命令に従って「未知」へと渡る決心をして同類の行動家になったために、この追憶という過去の時間に対する距離のない十代の(恐怖心のない幸せな)関係に戻っても、もはや三島由紀夫は十代の少年ではなく、たとえ修練を重ねた言語藝術家であろうとも43歳の大人である人間には、もう過去の時間に対する距離のない十代の(恐怖心のない幸せな)関係は失われてしまい、追憶に頼っても虚構の「現在」は戻ってこなかったということを意味しています。

それが、三島由紀夫が「しかし私は実に実に実に不快だったのである。」と書いた理由です。

安部公房が「三島君はもう書くことがなくなったんだよ。作家にとって、書くことがないほどつらいことはないからね」という安部公房の言葉は肯綮に当たっているのではないでしょうか。つまり、あれほど三島由紀夫の嫌っていた、現実と虚構とのそれぞれの平行線が交わってしまったという、これも安部公房の譬喩(ひゆ)を使った指摘は正しいのではないでしょうか。

ということは、

(1)『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということが現実の世界では実現しなかった。三島由紀夫という生きている人間において。
(2)『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということが『暁の寺』の世界では実現しなかった。(一体どの登場人物において、実現しなかったのだろうか?)

安部公房は三島由紀夫との共通の認識として「言葉によって存在する」ことを挙げています。

この言葉を頼りにここを考えますと、上記(2)の結末が最初にあって、上記(1)のことが起きたという順序になります。

やはり、三島由紀夫の言葉は率直な言葉で其の通りのことを言っているのです。

『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということが『暁の寺』の世界で実現していたら、その結末は一体どうであったでしょうか。

やはり、『花ざかりの森』と同じ、次のような結末が来たことでしょう。言葉による形象(イメージ)とは、安部公房の奉天の窓を考察して来たように、虚構の物語をつくる上で、作家にとっては極めて本質的なものなのです。

(1)主人公が、何か高台、例えば小学生のときの9歳の三島由紀夫の二階の教室の窓から眺めたような眺望と景色の描写
(2)まろうどという客人が「ふと振りむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーっと退いてゆく際に、眩くのぞかれるまっ白な空」、「「死」ととなりあわせのようにまろうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに」とある静謐

この二つが、『暁の寺』の最後に来れば、平行線は交わらなかったのです。

しかし、交わってしまった。

三島由紀夫は、この事実を勿論作者として知っていたことでしょう。それ故に、『天人五衰』の冒頭には、最初から徹底した高さを灯台として表した。最後に静謐を、三島由紀夫が十代のときからの静謐を置いたのです。

しかし、いや、その二つはやはり最終巻である第四巻におかれるべきであったのだから、それでいいのだという反論があるでしょう。『花ざかりの森』の上の二つの結末の特徴は、『春の雪』の結末にもなり得ないし、『奔馬』の結末にもなり得ない。

しかし、それ故に、その反論がそれが正しいと考えると、第三巻の『暁の寺』の結末はどうなるか。

やはり、火事が起きるのですから、『金閣寺』のような強い性格の主人公を必要としたことでしょう。この場合、転生輪廻のために必要とされて、ジン・ジャンが自殺をしてもよかったのかも知れない。しかし、『春の雪』や『奔馬』の主人公のような強い性格の主人公は登場しなかった。

この『堤中納言物語』のなかの『虫めづる姫君』を変形させた少女は、成熟して同性愛者として大人になって成長しても、転生輪廻の物語の主人公にはならなかった。勿論、本多繁邦も主人公足り得ない。

ジン・ジャンは、『花ざかりの森』の主人公のこころ、この絶えず現在に回帰するということ、追憶によって過去を回想して、それによって現在に生きる自己の純潔を証明する登場人物ではなかった。この『花ざかりの森』の純潔のこころがなければ、三島由紀夫の登場人物は転生輪廻をすることができません。

やはり、この小説の結構には、何か根本的な矛盾があるということになります。

それは、次のような矛盾です。

再度『金閣寺』の最後と『暁の寺』の最後を比較します。

金閣寺の場合には、主人公が火をつけて、そこから脱出を図り、自殺するために持っていた小刀とカルチモンを投げ捨てて、例え犯罪者としてであろうとも、社会の中に生きてゆく決心をすることろで小説は終わりました。そうして、この虚構の中の主人公も、現実の中の三島由紀夫も、それぞれの世界で生きていくことができた。

しかし、『暁の寺』では、そうではなりませんでした。

『金閣寺』と同様に火事が発生しますが、それは『金閣寺』の主人公の起こしたような強い意志による火事ではない。

そのあと何の脈絡もなく火事が起きて、あの『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』を書いた18歳の三島由紀夫の修辞の源泉である両極端の論理を展開する作者の分身の一人である今西が、自分の強い意志によるのではなく、「多分寝煙草による」という曖昧な原因で、焼死する。

虚構の炎の中でその論理が、消極的な理由で消失してしまう。

三島由紀夫の言葉の、修辞の美を生み出した当の論理を担う登場人物が、誰の登場人物の手を借りるでもなく、自失し自焼してしまう。その修辞の美の源泉が、炎によって焼け滅んでしまう。

そうなれば、もはや三島由紀夫には、虚構の世界を描く理由がなくなり、他方、もはやそのような源泉の感情と論理から生まれる修辞を弄する登場人物も現れない。

従い、そうして、その先には、ジン・ジャンの唐突の死が書かれる以外にはないことになってしまう。

この「なってしまう」というこの展開が、三島由紀夫が「この第3巻の終結部が嵐のように襲ってきた」と言っている結末の理由だと、作者の虚構への意志による制御が全く効かなかったのだと、そう、わたしには思われる。

それが、三島由紀夫にとっては「実に実に実に不快だった」理由、即ちユークリッド幾何学の平面上での二本の平行線が交差してしまった、自分自身が現実と虚構の間の関数として全く機能しなかったこと、それが「実に実に実に不快だった」。

そうしてみると、『天人五衰』で、主人公は松枝清顕の贋者とならざるを得ず、とすれば、この一連の物語は、最初の二巻で実質的には終わっているということになります。第三巻はかろうじて、しかし作者の企図を裏切って「終結部が嵐のように襲ってき」て、書き終わった。第四巻は、構想とは全く別の物語になった。そうして、上述した通りの小学生の時代以来三島由紀夫にとって極めて大切な高みと静寂の空間を、再度『花ざかりの森』のessense(本質)を、『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』に還るのではなく(何故なら、その極端な論理展開は、三島由紀夫の強い意志、その無理を三島由紀夫に強いるから)、ハイムケール(帰郷)の思いで、後者以前の前者に戻り、最初構想した枠組みの中において、最後の力を振り絞って、前者と同じこころを、書いたのではないでしょうか。

最後の情景の、月修寺の急坂をよろぼえて登りゆく本多繁邦の姿は、三島由紀夫の渾身の最後の力の現れた姿ではないでしょうか。この姿は、忘れがたい。

そうして、遂に本多繁邦は、松枝清顕の恋人に会うことができて、寺の庭前に静寂の空間を目の当たりにするのです。この女性が全く松枝清顕を忘却し、従い自己の人生を忘却し、自己を喪失することによって、物語がまた第一巻の『春の雪』の最初の一行、即ち「学校では日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もっとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえているだけであった。」という、やはり松枝清顕の記憶の忘却の一行に永劫回帰する此の最後の一行は素晴らしい。[註5]

以上述べ来たった此れらのことの意義と意味を更に一層詳細に論ずるのは後日と致します。

[註5]
『東文彦作品集』の序文の最後に三島由紀夫は次のように書いております。そうして、この心は、全く安部公房の世界に通じているのです。何故ならば、安部公房は十代で知ったリルケの純粋空間、その無音の時間のない静寂と静謐の沈黙の空間、余白の空間、「……」と符号で表す以外にはない純粋空間に憧れ続け、数々の、やはり此れも三島由紀夫と同様の、傑作群を書いたからです。(死後ワープロのためのプロッピイーディスクの中に発見された遺作『さまざまな父』と『飛ぶ男』は、その究極の、詩文によるのではなく、散文による、安部公房自身の独自の純粋空間、三島由紀夫の場合であれば『天人五衰』の最後の庭前の純粋空間となっています。)

それほどに、この静寂と静謐は、人間と言語と文学という藝術にとって、そうして文化にとって本質的なことなのです。この静寂と静謐を求めることが、それほどに先の戦争の後の、日本の歴史と伝統を忘れ浮かれ呆けた、文化的には軽佻浮薄の時代の中では、誠に反時代的なことでありました。

(安部公房も三島由紀夫と同様に、戦後の時代の中で孤立することを選択します。1980年から、三島由紀夫の死の直後に創設した自分の劇団安部公房スタジオの総合的な舞台藝術の追求においても其の精神は然り、また三島由紀夫の死後10年目からは特に物理的にも、箱根に隠棲して執筆に専念します。ある時には、最初の作品集を出版するときに23歳で自費出版した詩集『無名詩集』を入れるように出版社に言われても頑なに拒絶した安部公房は、この詩集が如何に時代に理解されていないかを確かめるために、武田勝彦という文藝評論家との、『無名詩集』を主題にした対談に応じております。何という時代に対して持つ安部公房の辛辣なる逆説(アイロニー)でありましょうか。)

勿論、三島由紀夫の場合、この静寂と静謐は『花ざかりの森』の最後にも書かれている同じ静けさであることは言うまでもありません。

「現在の藝術全般には、あまりにも「静けさ」が欠けている。私は静けさの欠如こそ、ヒロイズムの欠如の顕著な兆候ではないか、と考える者である。戦時中の病める一青年作家が書いたこの静かな作品集が、必ずや現代の青少年の魂の底から、埋もれていた何ものかを掘り起こす機縁になることを、私は信ずる。

昭和四十五年十月二十五日」(『東文彦作品集』序)


(終わり)


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