2010年3月31日水曜日

To Brooklyn Bridge (3) (1/2)

今日は、思い出すように理解したCraneの第1連の追加の註釈を書くことから。

(1)最後の行の"Over the chained bay waters Liberty"の"chained"は、
その次の"Liberty"との縁語。しかし、今日あらためてこのブルックリン橋の写真を日本語圏のウエッブサイトで見ると、遠くにリバティー島があり、そこに松明を右手で高く掲げた自由の女神像が見える。自由の女神像の完成した歳は、1886年(起工は1876年)、ブルックリン橋の完成した歳は、1884年(起工は1870年)。こうして見ると、これはニューヨークという、従って、米国が19世紀の後半に、その経済力と政治力を世界史の中に大きく表してきた時代なのでしょう。世界の企業で、最初に法務部門を専門に設けたのが、米国のデュポン社で、これが19世紀の後半も20世紀に近い1890年代であったとものの本で読んだ記憶がありますので、これは、もう、戦後の日本ならば1960年代の熱狂(といはむや、僕は白い狂気だと思うけれど、それ)を思ってみると少しは雰囲気が伝わるでしょうか。つまり、当時の米国の大きな財閥が、古い産業の種目の名前の世界で、諸国に覇を唱えはじめた時期なのだと思います。

と、こう書いてきて、そういえば、フランツ・カフカも同時代、同時期に生きたのでは無かったかと思って、調べると、生年は1883年、没年は1924年。Craneは、生年1899年、没年1932。ふたりとも、このような米国の世界史上の急成長の同じ時代の空気を吸っていました。そうか、そうすると、これはニューヨークも群集の、この漢字通りに群れ集う、大都会であったのですね。

(2)と、このように考えて来ると、"Over the chaned bay waters Liberty"の訳も、「Bayというのは、本来は港が在って、そこから帆船、船が広い海原、自由の世界の水平へと出帆して行く場所だのに、世界中の"bay waters"(港湾の水という水)は、牢獄にあるように鎖に繋がれていて、そのような数々の水面の上に、白い鴎の群れ飛ぶその翼で出来た自由の女神が立っている」という解釈も可能かも知れません。Craneは、Libertyと書いていて、これはリバティ島でもなく、Statute of Libertyでもない、そうは文字で書いていないので、このLibertyという神は、現実のBrooklyn Bridgeから見える建築物では、既にして、ないのです。ですから、いかようにでも、このように重層的に解釈することはゆるされるのではないでしょうか。しかし、この鴎の群れは、詩の現実の中では、ブルックリン橋の上へ下へと旋回するのですから、これは、やはりその名前に敬意を表し、米国なるブルックリン橋を詠ったものと理解しましょう。勿論、全く詩化されたブルックリン橋であるのですけれど。

(3)つまり、chainとLibertyも、縁語です。あるいは、連想語。
(4)このように言葉を自在に使うドイツ語圏の散文家がいます。Jean Paul(僕の20代にこの散文家の文章に鍛えられ、しごかれたことが今こうしてみると、不思議なことに、詩人の言葉を理解する礎(いしづえ)となったのかー我が宏壮にして手狭なる書斎の書棚の鎮座ましますJean Paul全集全10巻に拍手(かしわで)を打たむやー)。こうなると、もう、詩も散文も変わらない。概念の階層の,言葉の宇宙の遊戯です。僕の足の指先をもう少しつま先立てて、(自由の女神のように)右手を伸ばせば、Craneのお蔭で松明(たいまつ)不要で、あるいはCraneという松明のお蔭で、もう宗教の世界へと触れそうな気配だ。

さて、今日の本題に入ります。いままでの何日かの中で説明が足りないかもしれないので、もう一度、この詩の時間に触れますが、この詩が詠っている時間は、dawn or dawns、日本語で言う夜明けです。

と、こうして考えてくると、第1連は、夜明けの朝、第2連は、仕事の昼から夕方、今日の第3連は、夜ということになります。第4連は、夜の次のまた夜明けという順序になっています。第5連は、第4連を承けて(第5連目は如何にと言葉を調べていたら、第2連のあの男色の対象たるpage、騎士のお小姓の縁語をまたひとつ見つけました。それは、tiltingです(これは中世の騎士が試合で槍の試合で相手を突くこと)。この解釈は、また第5連で致すとして)、朝の大都会のラッシュアワーの時間の叙述(当時のニューヨークも相当早くひとも自動車も出始めるのだな),第6連では、まだアセチレンンランプの火を空の比喩に使って、時間は直ちにお昼(noon)と午後(afternoon)に変化する。第7連では、これは時間そのものを扱っている(きっと、ここの言葉には聖書の引用があるのだぞ。生徒としては用心用心なり。なまけごころは禁物)、そうしてブルックリン橋をハープ(この橋は吊り橋故、鉄の竪琴、鉄のハープに見立てられて来たそうですから、ーその伏線は、既に第4連にあって”Implicititly thy freedom staying thee”と詠われて、その”staying”にあるのですがーその見立て)を使い、、第1連からの文脈(そうか、文も脈々と流れるのだ、その脈)が、ここで詩の中に間歇泉のように吹き出て来て、ブルックリン橋(という鋼鉄製の竪琴)が祭壇をもった大伽藍であることを思い出し、第8連は、第3連(のagainに最初のagainが連なり、そこ)では、また夜が明けて、忙しい一日が始まり、とはいえ、この第8連は、時間を捨象した夜に夜が変形(transform)され、それを承けて、そのまま第9連は、詩化された夜を詠い、第10連は、その夜の中のブルックリン橋の影を詠い、そうして,第11連が2日目に訳したところ、夜も昼もなく("sleepless"とは眠る暇なくというばかりではなく、時間の無いという意味でもあるのでしょう)仕事をする労苦に満ちたthe curveshipの幸いを神に祈る連に至り、、第10連の真っ黒なブルックリン橋の影の表象(そして、その中にいる詩人を意味する1人称)から、これがそのとき先日解釈しましたように、最初の、第1連の真っ白な神の指環を嵌めたブルックリン橋の形象へ、あの鴎の群れ飛ぶ翼の、自由の女神へと戻って行くのです。黒から白へと。White building!(なるほど、このように詩を造型すると、僕は時間の軛(くびき)を脱する、つまりCrane流に言えば、over the chained bay watersの上に、自由の像が立つのであるな。概念は時間がない、しかし、概念の連鎖で人に伝えるには、どうしても時間の因子が必要だ、それをひっくり返すのは、このようにするものなのか。古代と古典の言葉の力を借りることの素晴らしさよ、しかし、それだけではなく、やはり、Craneのこの詩の造型力の素晴らしさを。なんだか、僕は、詩の本質、言語の本質、詩の方法論(methodology)と方法(methods)をCraneからこうして教わっているようだ。しかし、こうして頭で解るのと実際に書くのとは別だからなあ。芥川龍之介に教わった言葉、眼高手低。練習する以外にはない。)

(なるほど、この詩は、THE BOOK OF THE JOBだ。蕃さんに教わった通りに、これはヨブ記と仕事の記と、ふたつの言葉遊びの掛け言葉。ということは、僕はまだ読んでいないが、最初の日に目次として挙げた8つの詩は、みなこのヨブの仕事の記、ジョブのヨブの記なのであるな?)

ここに至って、わたしは、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」の第何版であったか、著者の言葉を思い出しました。わたしの作品は、体系的に叙述しているので、つまり一個の、言語によって叙述されたシステムなので、最初から最後まで1度読むだけでは足りず、2度読んでもらいたい、何故なら、全体ば部分からなるのは勿論のこと、全体は部分に顕われており、部分は全体を顕しているからだという言葉です。Craneの詩も一度通して最後まで読み、そうしてまた最初に戻って来て、最後を知った上で、最初から読むということなのでしょう。

さて、思い掛けなくも、すべての連を時間という観点、色彩と言う観点、最初と最後のwhite buildingという構築の、詩化の観点から、眺めました(詩化された1個のシステム、1個の言語宇宙、意識宇宙、文字と概念で編まれたtextile, texture, context、文脈ーええい、もっとよい的確な日本語はないのか!ー、そうか、あったぞ、曼陀羅!仏教ならば涅槃図とか曼陀羅図というのだろうな。Craneのは庶民の、個人の涅槃図、言葉の曼陀羅)。

さて、さて、今度こそ本当に本題に入ります(しかし、逸脱こそ我が人生)。この第3連を書いている内に、以上の本日の枕の長さよ、単なる詩の解釈のみならず、語の解釈も入れた方が後々のために(何しろ僕は忘れ易い)、また読者のためにもよいのかと思い、縁語釈をつけることにしました。どの位うまくゆくかは、当たるも八卦当たらぬも八卦で、五郎二郎です(これは洒落)。

I think of cinemas, panoramic sleights
With multitudes bent toward some flashing scene
Never disclosed, but hastend to again,
Foretold to other eyes on the same screen;

僕は、映画を見ようかとも思ってみたが、しかし、それが何かを思ってみると
それは、敵の目を欺くための装置、見晴しはいいし、景色の眺めもいいが
しかし、それは監視者付で、或は監視者には見晴しのよい眺望を写している訳のもの
それを見ると、群集は、激しく点滅する映写画像の方に
面白いから、皆身を乗り出して、姿を曲げて歪めて夢中になるが
そうやって、正しい姿勢を失って、あの輝かしい帆船の帆を、わざわざ
ヤードにその美しい姿を折り曲げ歪めて縛り付けて仕舞うように
決して、群集は秘密も開示されることなく(そうさ、いづれにせよファイリングされる訳だからな)、
そのこころも開かれることないまま、だから、帆船の甲板のハッチを開けて
ブルックリン橋のあの空間に出ることも許されないままに、それゆえに、そうではなくて
夜明けが来て再び往来が騒がしくなり、あの、僕達の視線、白い鴎達の翼の群れ成す神の像に
揺れ動かされながらも祝福される視線とは別の目を持つ人間達の所へと、またもや、朝の到来で、急がされ、急(せ)かされて、
そうして、同じスクリーン、真理を欺き覆い隠すその戦闘的な同じ保護膜に頼って、しかし、監視者には絶景の眺めの中で、その目を持つ人間達に、はじめからその未来を見透かされ、握られて、先を読まれている
と、僕は思うのだ。


(10、000文字を超えてしまいました。これが今日の限界です。つづきは明日。)

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