2011年1月31日月曜日

ヘルダーリンの「生の半分」について

Facebookの中村剛彦君のページから、ミッドナイトプレスに同君の連載している「中村剛彦の「甦る詩人たち」」の最新題、「34.「終らないロマン主義」」にヘルダーリンの「生の半ば」と題した詩を見たので、興味を以て、ヘルダーリンの原文に当たってみた。

ヘルダーリンの原文、吹田さんの訳、そうして、いつもながら、散文訳と解釈という順序で書いてみようと思う。わたしの訳は、散文訳とあるように、吹田さんのように叙情的ではありません。

【原文】

Haelfte des Lebens
(人生の半分)


Mit gelben Birnen hänget
Und voll mit wilden Rosen
Das Land in den See,
Ihr holden Schwäne,
Und trunken von Küssen
Tunkt ihr das Haupt
Ins heilignüchterne Wasser.

Weh mir, wo nehm ich, wenn
Es Winter ist, die Blumen, und wo
Den Sonnenschein,
Und Schatten der Erde ?
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt, im Winde
Klirren die Fahnen

【吹田訳】

生の半ば     ヘルダーリン  吹田順助訳

黄色なす梨の實は
枝もたわわに、野薔薇水に映らふ
湖の岸べに立てば、
らうたき白鳥よ、汝達(なれたち)は
けうとしや、接吻(くちづけ)に醉ひしれつ、
頭(かうべ)をひたに浸すらし、
淨らにも冷たき水の中に。

悲しからずや、冬としなれば、
われはいづこに花を摘ままし、
いづこに日の光を、
地上の影をや求めえむ。
障壁(へき)は言葉なく、冷かに連なりて、
風吹くなべに風見(かざみ)ぞきしめく。

【散文訳】

黄色の梨とともに
そして、野生の薔薇で一杯になりながら
陸が、湖の中へと掛かっているよ
お前たち、わたしの好きな白鳥たちよ
そして、口づけに陶酔して
お前たちは、頭を
神聖に醒めている水に浸(ひた)しているのだね

ああ、わたしは悲しい、冬であれば
わたしはどこで花々を摘み、
どこで太陽の光を
そして、どこで地上の影を
とることがあるだろうか
壁が連綿と無言に冷たく立っていて、風の中には
旗という旗(風見の旗)が音を立ててはためいているのだ

【解釈】

この詩の第1連は、白鳥に呼びかけている、白鳥に語りかけています。

第1連の、白鳥のいる世界は、、実りのある浄福の世界です。

これに対して、第2連は、季節は冬、そこにいるこの話者、ああ悲しいと嘆ずる話者のいる世界です。

前者と後者は、互いに反対の世界です。

勿論、題にあるように、生の半分とは、後者の世界のことを言っています。

吹田さんという方の、生の半ばという題では、その詩の意図が伝わらない。

散文的に訳したように、これは、生の半分という意味です。

ひとつのコインの裏と表が、Haelfte、ヘルフテ、それぞれ半分と言い得るように、生の裏と表が、それぞれ、半分づつあるのです。

ひとつは、第1連。その裏は、第2連です。

第2連は、もしこういってよければ、1804年のこのとき、ヘルダーリンのいた世界の心象風景だと思う。

白鳥は、そのような神聖で豊かな世界にいるのに比べて、このわたしはと嘆いているのが第2連。

ヘルダーリンは、自分自身を、冬に寒風に晒されてはためいている旗に象徴させています。

第2連の「地上の影」とは、生きているものの影という意味でしょう。その影もないのだ。

話者の前に、あるいはぐるりに立っている壁は複数形で、幾つも幾つもあるように思われる。

それらの壁という壁は、もの言わず、無言であり、冷たい。

そうして、風の中には、風見の旗が音を立ててはためいている。

この旗は複数形です。

話者がたくさんに分裂しているように見えます。

いつも、こうだ。

権力、それは様々に、大なり小なりとあるが、その権力のひとつにと、今はいっておこう、それに頼った人間の言葉が、段々と、また日々、駄目になって行く、腐敗して行く様をみることは、つらいものがある。

直近の経験では、それはある若者の言葉であるが、これは、年齢を問わないことであると思う。(それ故に、若さを惜しめよ。)

言葉が古びないということ、即ち、ひとのこころに、どの時代の今も新鮮にいきいきとして響いて来るということ、これはどういうことであろうか。

このためには、どのような人生をそのひとは送るものだろうか、送るべきなのだろうか、或いは送ったのだろうか。

反権力もまた、権力に頼っているのである。反、であるが故に。

それは、愚かである。

わたしが、いいたいことは、最初の3行に尽きる。

権力とは何か。

政治的な権力を権力と今言うならば、それに一番近いのは、詩人である。詩人の名前が、民族、人種、地域で、何と呼ばれようとも。

こととものに、名前をつけて、ひとつの文を創造することのできるものが、権力者でないわけがあろうか。

いつも、こうだ。

権力、それは様々に、大なり小なりとあるが、その権力のひとつにと、今はいっておこう、それに頼った人間の言葉が、段々と、また日々、駄目になって行く、腐敗して行く様をみることは、つらいものがある。

直近の経験では、それはある若者の言葉であるが、これは、年齢を問わないことであると思う。(それ故に、若さを惜しめよ。)

言葉が古びないということ、即ち、ひとのこころに、どの時代の今も新鮮にいきいきとして響いて来るということ、これはどういうことであろうか。

このためには、どのような人生をそのひとは送るものだろうか、送るべきなのだろうか、或いは送ったのだろうか。

反権力もまた、権力に頼っているのである。反、であるが故に。

それは、愚かである。

わたしが、いいたいことは、最初の3行に尽きる。

権力とは何か。

政治的な権力を権力と今言うならば、それに一番近いのは、詩人である。詩人の名前が、民族、人種、地域で、何と呼ばれようとも。

こととものに、名前をつけて、ひとつの文を創造することのできるものが、権力者でないわけがあろうか。

2011年1月29日土曜日

Im halben Eise(半分の氷の中で):第6週

Im halben Eise(半分の氷の中で):第6週

by Rudolf Alexander Schroeder



【原文】

Blick in die Welt und lerne leben,
Bedraengt Gemuet;
Braucht nur ein Tauwind sich zu heben,
Und alles blueht.

Die Hasel staeubt, am Weidenreise
Glaenzt seidner Glast,
Schneegloeckchen lenzt im halben Eise
Und Seidelbast.

Braucht nur ein Tauwind sich zu heben. -
Verzagt Gemuet,
Blick in die Welt und lerne leben:
Der Winter blueht!

【散文訳】

世界の中を凝(じ)っとよく見て、そして、生きることを学びなさい
こころが、圧迫するならば
春風が立つだけでいいのだ
そうすれば、すべては花咲く

榛(はじばみ)が埃(ほこり)立ち、ヴァイデンライスの花には
絹の輝きが輝き
雪釣鐘草が、半分解けている氷の中で春めいている
そうして、西洋鬼縛りの花が咲いている

一陣の春風が吹くだけでいいのだ
こころが、落胆するならば
世界の中を凝(じ)っとよく見て、そして、生きることを学びなさい
冬は花咲いているのだ

【解釈】

この詩人の名は、ルドルフ・アレクサンダー・シュレーダー。

1878年から1962年までの人生を享受した詩人です。

このひとの名も、日本には知られていない。

世界と訳したdie Weltは、日本語ならば、世間と訳したくなるが、世間ではないのだ。

それは、世界である。

こころが、圧迫するならば、という言い方が特別である。

普通は、こころが圧迫される、何かで悩まされるものだと思うのだが。

こころの他に、このような詩を書く自分自身がいるということを意味している。

春風と訳したドイツ語のTauwindは、そのまま訳せば、氷や雪を溶かす風という意味です。氷や雪が溶けて露を結ばしめる風という意味です。Tauは露。だから、露風。

春風と訳すと、日本の風土に合わせて誤解が生じることを承知で、春風と訳しました。

ドイツ語でTauwindとあるように、それは厳しい冬の象徴である氷雪を溶かす風という意義が最初にあって、それならば、次に、それは春風と呼ばれていいだろうという順序なのです。

ヴァイデンライスがどのような植物なのか、もしおわかりのかたがいたら、ご教示下さい。

Weiden、ヴァイデンとあるので、柳の形をしているのではないかと思う。

埃(ほこり)立つHasel、榛の写真です。この写真を見ると、埃立つといってもよいが、煙立つといってもよいように思います。確かに、そのような花はあると思う。

http://tinyurl.com/4ookvx9

Schneegloeckchen、雪釣鐘草という花は、わたしの勝手なそのままの訳語です。次の画像を見てください。名前の通りです。

http://tinyurl.com/4joo6v4

Seidelbast、西洋鬼縛りという花は、次の画像を見てください。

http://tinyurl.com/4zkce93

冬から春の時期を歌って、冬には春が胚胎している。だから、冬が花咲いていると歌っている詩です。

それが、世界の内側を統べる摂理だと言っています。

生きることは、そのような摂理を知って、厳しい時節に堪えることであると言っています。

春は必ずやってくる。

というと、通俗に過ぎるでしょうか。

この詩のキーワードは、der Tauwind、雪解けの風、春風と、bluehen、花咲くという動詞だと思います。

最後の、冬は花咲く、冬は花咲いているのだという表現は、隠喩ですが、それは、そのまま事実であるかの如くに読むことができます。

題にもなっている、im halben Eise、半分の氷の中での氷は、雪の中でと解してもいい。氷のようになっている雪、氷となっている雪があります。詩の中では、半分解けている氷の中でと訳しました。真冬には100の量、100の高さで積もっていた雪や凍っていた氷が半分になっているということです。

半分の、という表現に実に実感があります。雪国に育ったひとならば、お分かりになるのではないでしょうか。

それでも、この時期、この詩は尚、冬の歌なのです。

2011年1月23日日曜日

泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て  杜国

昨日、このことを書こうと思ったのが、途中で焼き芋屋の声が聞こえてきたので、筆が逸れてしまった。

今日は、まだ明るいので、焼き芋屋の声は聞こえこない。

上に題としたのは、連句、冬の日の5つめ、最後の歌仙、田家眺望の中での杜国の句です。

この歌仙の杜国の句は、どれもいい。

その中でも感覚的にピンと来て、特に気に入ったのが、この句です。

そうしたら、banさんの註解に下記の荘子の典拠あることを示され、むべなるかな。banさん曰く、これを引用するとタクランケが喜ぶだろうということを知っていたと。率直に嬉しい。惹かれますよ、このエピソード。このものの考え方。

われは、塗中に尾を確かに曳いております。

詩は、尾を塗中に曳くものの最たるものだな。

俳句も全く然りであります。

高等な連想の芸術。この意義や深し。

以下、http://1st.geocities.jp/ica7ea/kanji/zhuangzi2.html からの
引用です。


【原文】  
 莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉,曰:「願以竟内累矣!」莊子持竿不顧,曰:「吾聞楚有神龜,死已三千歳矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者,寧其死為留骨而貴乎?寧其生而曳尾於塗中乎?」二大夫曰:「寧生而曳尾塗中。」莊子曰:「往矣!吾將曳尾於塗中。」

【読み下し】
 莊子、濮水に釣す。楚王、大夫二人をして往きて先(みちび)かしむ。曰わく、願わくは竟(境)内を以て累(わずら)わさんと。莊子、竿を持ち顧(かえりみ)ずして曰く、「吾れは聞く、楚に神龜あり、死して已に三千歳。王、巾笥(きんし)してこれを廟堂(びょうどう)の上に藏すと。此の龜は、寧(むし)ろ其れ死して骨を留(とど)めて貴(たっと)ばるることを為さんか、寧ろ其れ生きて尾を塗中に曳(ひ)かんか」と。
 二大夫曰わく、「寧ろ生きて尾を塗中に曳かん」と。
 莊子曰わく、「往け。吾れ將(まさ)に尾を塗中に曳かんとす」と。


【解釈】
 荘子が濮水のほとりで釣りをしていた。そこへ楚の威王が二人の家老を先行させ、命を伝えさせた(招聘させた)。
「どうか国内のことすべてを、あなたにおまかせしたい(宰相になっていただきたい)」と。荘子は釣竿を手にしたまま、ふりむきもせずにたずねた。

 「話に聞けば、楚の国には神霊のやどった亀がいて、死んでからもう三千年にもなるという。王はそれを袱紗(ふくさ)に包み箱に収めて、霊廟(みたまや)の御殿の上に大切に保管されているとか。しかし、この亀の身になって考えれば、かれは殺されて甲羅を留めて大切にされることを望むであろうか、それとも生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むであろうか」と。

 二人の家老が「それは、やはり生きながらえて泥の中で尾をひきずって自由に遊びまわることを望むでしょう」と答えると、荘子はいった。

「帰られるがよい。わたしも尾を泥の中にひきずりながら生きていたいのだ」

焼き芋

昨日は、banさん、蛙鳴さんと芭蕉七部集の読書会であった。

冬の日の最後の歌仙、田家眺望を読む。

杜国もよい。荷けいもよい。

こうして書いていると、焼き芋屋の声が聞こえる。

本当は、芭蕉の連句のことが書きたかったのだが、話が逸れます。

いつであった、最近に、夜、焼き芋屋が軽トラックを停めていて、買はうと思って、小銭を探したら、160円あった。

あるいは、160円しかなかったというべきか。

焼き芋屋のお兄さんに、160円で焼き芋が買える?と訊いたら、即座に買えませんよ、600円ですと言われて、愕然としたことがある。

今時、焼き芋はひとつ600円である。

高いものになったなあと、しみじみと思うのである。

2011年1月22日土曜日

Selbst(自己):第5週

Selbst(自己):第5週

by Hans Keilson


【原文】

die alte heilige sprache
der propheten
ist nicht mehr
wenn das auge versteint
die hand entkernt
in welcher sprache werden wir fluchen und beten

ich bin kein mensch
ich bin ein tier
das angst hat

fuerchtet euch nicht vor mir
gebt mir bei lebzeit
eine ruhstatt


【散文訳】

預言者の古い神聖な言葉は
もはやない
目が、見たものを石と化す場合には
手が、触れたものの芯を抜き取ってしまう場合には
どのような言葉でわたしたちは呪ったり祈ったりしたらいいのだろうか

わたしは人間ではない
わたしは不安を抱えている
一匹の動物である

わたしを恐れないでください
生きている間は
安息の場所を恵み給え


【解釈】

この詩人は、1909年の生まれ。

エリアス・カネッティ、小林秀雄、埴谷雄高と同じ世代のひとです。

他にも名のある芸術家はいると思います。

読んで、その通りの詩だと思います。

訳についていくつかのことを書いておきます。

「目が、見たものを石と化す場合には」と訳した「見たものを石と化す」の「石と化す」のドイツ語は、versteinen。これは辞書にはない言葉です。

語幹はstein、石なので、それに基づいて、そのように訳しました。

「石と化す」も「芯を抜き取ってしまう」も、これらの動詞は他動詞であるにもかかわらず、原文には目的語がありません。敢えて、目的語を補って、散文訳としました。

最後の連をなすふたつの文は、命令形です。

しかし、この詩全体が大文字を使わず、すべて小文字で書いてあるために、この命令形で命令している相手が、親称の複数形なのか(お前たちよと呼びかける)、敬称で祈っているのかが不明確です。

さらに、しかし、最後の連には、何か、この話者のこころのありかたが出ていると思う。

丁寧な、対象に敬意を払った願い。

それゆえ、後者、即ち敬称で訳しました。

しかし、なお、前者で訳すこともできると思う。

その場合の訳は、

わたしを恐れないでくれ
生きている間は
安息の場所を与えてくれ

と、こうして訳してみると、この話者の呼びかける相手のひとたちには、何かはっきりとしたイメージがあるのかも知れないと思われる。

2011年1月15日土曜日

無題の詩:第4週

無題の詩:第4週

by Alfred Brendel


【原文】

Es fuehlte die Maus
dass jenseits der Maeusewelt
eine andere
hoeheRe
tieFere
inneRe
Wirklichkeit
alles NAgendE
PFeiFendE ..
KAtziGeMAUSiGe
ueberragte
wie ein einziger unermesslicher Kaese
AnBetunGSWueRdiG
GelBliCh
mit SChoenen Loechern
ueber jeden Zweifel eRhABEn


【散文訳】
ねずみは感じたのだ
ねずみの世界の向こうに
何か他の
より高い
より深い
内面的な
現実があって
それが
すべての齧るものを
すべての笛を吹くように鳴き声をたてるものを
猫とねずみの因縁を
凌駕しているということを
それは丁度
唯一の物凄いチーズがあって
それは
崇拝の対象であり
黄色い色をしていて
美しい穴が一杯あいていて
どんな疑問の上にも
超然と聳(そび)えているようなものだ


【解釈】

この詩は、何故か無題です。

詩人は、1931年の生まれです。

このひとの名前をインターネットで検索すると、同じ姓名の音楽家が検索されます。

この詩人は、検索されません。

原文の詩行をご覧になるとおわかりの通り、大文字小文字が入り交じっている言葉があります。

これは、実際には手書きの文字でそのように書かれているのです。それ以外の文字はみな普通のタイピングの印刷文字で、ドイツ語の正書法に則っています。

手書き文字のところは、なにかそのことばの意味そのものを茶化しているように見えます。

より高い
より深い
内面的な

というところを、

よりてけえ
よりふけえ
内面(ねえめん)的な

と訳すとよいかも知れません。

あるいは、

すべての齧るものを
すべての笛を吹くように鳴き声をたてるものを
猫とねずみ因縁を

というところは、

すべてのガリガリと齧るものを
すべてのぴーぴー笛を吹くように五月蝿(うるさ)く鳴き声をたてるものを
猫とねずみのしっちゃかめっちゃかを

といったように訳し、

崇拝の対象であり
黄色い色をしていて
美しい穴が一杯あいていて
どんな疑問の上にも
超然と聳(そび)えているようなものだ

これを、

スーハイの対象であり
キイロい色をしていて
うっつくしい穴が一杯あいていて
どんな疑問の上にも
モッコリと聳(そび)えているようなものだ

とすると、まだその感じが出るかも知れません。

この詩のこころは、ねずみのことを借りて、人間のことを諷したところにあるのだと思います。

2011年1月9日日曜日

Wirsing(キャベツ):第3週

by Axel Sanjose

【原文】

So viel Wirsing auf der Welt,
so viel Vorstellung und Wille,
so viel Wahn, so viel Promille -
alles wegen Macht und Geld

Ach, es ist ein weites Feld:
So viel Wahl und so viel Wehe
So viel Wespen, so viel Ehe -
nichts dabei, das ewig haelt.

Wer hat alles das bestellt?
So viel Wermut, Waldorf, Wiener,
Widder, Wagen, Kleinverdiener -
So viel Wirsing auf der Welt.


【散文訳】
世界には、こんなに一杯のキャベツが、
こんなに一杯の表象と意志が、
こんなに一杯の狂気、こんなに一杯の千毎に、が、
すべては、権力と金のせいだ。

ああ、一面、広い畑だ。
こんなに一杯の選択と、そして、こんなに一杯の苦痛が
こんなに一杯の雀蜂、こんなに一杯の結婚が
そのくせ、永遠にもつものなんて、ひとつもありやしないのだ。

だれが、すべてこういったものを、こういう風にしたのだ?
こんなに一杯のニガヨモギ(苦痛の種)が、ヴァルドルフが、ウィーン野郎が
オチンチンピンピンの雄羊が、自動車が、小銭稼ぎが
世界には、こんなに一杯のキャベツが。


【解釈】

Wirsing、ヴィルシングをキャベツと訳しましたが、実際にはキャベツではありません。

その方がイメージが伝わると思って、そう訳しました。

キャベツに似ている、こういう野菜です。畑に一杯生えている。

http://de.wikipedia.org/wiki/Wirsing

日本名は、ちりめんたまな、と言います。

作者は、ちりめんたまな、ヴィルシングが畑一面に一杯あるのをみて、これらの連想を働かせたのだろう。

第1連の「千毎に」、それだけ多いので、千の単位で計らなければならないほど一杯だという意味でしょう。

第2連は、歌われている通り。雀蜂も視界に入って来たのでしょう。

第3連の最初の行の問いは、答えを期待していない。

原文3行目のWermutという言葉は、にがよもぎというヨモギを指すが、転じて苦痛の種という意味がある。

このにがよもぎから自動車まで、ドイツ語では皆、W、ヴェーという音で始まる連鎖、連続になっている。決して綺麗な音の連続ではない。

Wirsing、ヴィルシングがWで始まるので、それを意識無意識になぞったと思う。

Widder、ヴィッダーは、雄羊という意味。それも去勢されていない雄羊のこと。それで、こんな訳にしたが、訳し過ぎたかとも思わないでもないが、こうでも訳さないと繋がらない。雄羊は、そんな人間を指しているともとることができる。

Wagen、ヴァーゲンも、今なら自動車だが、もし古い時代ならば、幌馬車のような車も含めて、馬車という意味かも知れない。

いづれにせよ、これら第3連で挙げられているものは、こうしてみると、皆荒々しい、乱暴なものであると思われる。

Waldorfも同じイメージに連なるものだと思うが、これが何を指すのかわからなかった。わかる方はご教示下さい。

ウィーンの人間が荒々しいというのは、多分この詩人がドイツ語の詩人ではないからだと思う。

オーストリアと敵対的な関係にある国の詩人ではないだろうか。作品の書かれた年代がいつだったのか。

インターネットで調べたが、このひとの名前は出てこなかった。

Alex Sanjoseと書いたが、本当には、最初の名の最初のAの上と、Sanjoseの最後のeの上に、フランス語でいうアクサンテギュに似た記号がついていて、最初のものは、左上から右下に、後のものは、右上から左下に、線がチョンと降りている。

小銭稼ぎと訳した原語は、Kleinverdienerであるが、論理で解釈すると、小金持ち程度のある種の金持ちなのか、文字通りに小さく、少なく稼ぐものなのか、二通りあって、一寸わかりかねるが、多分、後者の意味だと思う。いや、前者の意味でも、やはり、面白いと思う。その方がよいか。

うまい日本語がないので、上のように訳した。

ひょっとしたら、場合によっては、安い棒給生活者をそう呼ぶことがあるかも知れない。

こうしてみると、Wirsing、ヴィルシングという野菜は、繁殖力旺盛な野菜なのだろう。

上のWikipediaの説明では、種類に違いはあれ、一年中採れる野菜と見えます。

追伸:今気が付きましたが、カレンダーの各詩の裏側に作者の生年月日が書かれています。それによれば、この詩人は1960年の生まれです。

2011年1月3日月曜日

Gedicht mit einer moralischen Tendenz (道徳的な傾向のある詩):第2週

Gedicht mit einer moralischen Tendenz
(道徳的な傾向のある詩)

by Gust Gils


【原文】

solltest du morgens vor dem Spiegel steh’n
und einen Kopf auf deinen Schultern seh’n,
der nicht von dir ist,

dann musst du darueber unverzueglich
dem Einwohnermeldeamt
deiner Gemeinde
Meldung erstatten,
die tun dann wohl das Noetige.

solltest an Stelle des Kopfes du den Koerper
nicht mehr als den von dir erkennen,
dabei helfen sie dir nicht,
“ach, Herr, so werden wir nie fertig”,
recht haben sie ja.

sei also vorsichtig
bei Partnertausch


【散文訳】

もしあなたが朝鏡の前に立って
そして、肩の上に乗っかっている頭を見て、
それが、自分の頭ではないとしたら、

その事態につき、速やかに
あなたの地区の戸籍役場に
報告しなければならない。
そうすれば、必要なることを間違いなくしてくれる。

頭ではなく、体の方が
もはやあなたのものであると認識できない場合には、
彼らは助けようがないし、
「あーあ、あなた、それでは、わたしたちも仕事が全然終わらないのですよ、
それでは、どうしようもありませんよ」
というだけ
確かに奴らのいうことは正しいのさ。

というわけで、
一緒に住む相手(パートナー)を取り替えるに際しては
くれぐれもご注意を


【解釈】

Gunst Gilsは、ベルギーの詩人、アントワープの生まれ。

20 augustus 1924 - 11 november 2002の時間を生きたひとです。

Wikipediaで調べたのですが、これがオランダ語でした。あるいは、ベルギー語なのかも知れません。

ベルギーとかオランダでは殊によく知られた詩人なのでしょう。

Googleで検索すると画像も載っているので、ご興味のある方は御覧ください。

もの静かなひとという感じがします。

とはいえ、これは役人への風刺の詩である。

そればかりではなく、自分自身というか、人間への風刺でもある。

そのような詩になっている。

この詩の解釈は幾つかあると思うが、あなたはどんな解釈をなさるのか。

この詩の呼びかけられている「あなた」は、役所の戸籍係の窓口の役人にHerrと呼ばれていることから、男だということがわかる。

最後の連は、そうすると、男が女の(同居する)パートナーを替えるときにはご注意という理解になる。

頭が違っていると役所は受け付けるが、頭ではなく、体が違っていても、役所は受け付けない。頭さえあればいいのだ。それが、その男がその男だという証明なのだ。

そういえば、証明写真は、どんな証明写真であれ、いつも、確かに顔、頭だけです。

体の証明写真など、撮ってみたらさぞおもしろいだろうに、そんな写真は、役所は必要としない。

確かに、このことを思うと、おかしい。ユーモラスである。風刺の毒もちょっぴり入っている。

でも、何故、「一緒に住む相手(パートナーの女性)を取り替えるに際しては/くれぐれもご注意を」なのだろうか。

上の論理から来ると、女である相手も別の男の体を求めて、あなたと呼ばれる男をその居住していると思っている家から追い出し、或いは、自分だと思っている男の頭は同一でも、体を別の好きな男の体と入れ替えてしまうからだろうか。

どうも、ここは謎の多い一行です。

どなたか、このような消息に通じている方、お教えください。

詩の題名も、こうしてみると、不道徳を歌っているので、反語的になっているのかと思うが、詩人がこれを反語的と思っているか、相手を取り替えることが不道徳と思っていないか、一寸わかりかねる、つかみかねるところがあります。

どちらの解釈も、ありかも知れません。

最後の連は、原文に忠実ならむとして、一緒に住む相手と訳したけれども、主人公が男なので、女を取り替えるときには要注意、と訳した方がすっきりしてよいかも知れない。

それから、「その事態につき、速やかに/あなたの地区の戸籍役場に/報告しなければならない。」というところは、ドイツ語は、役人言葉、役人の官庁言葉の文体を真似ていて、それがそのまま役人への風刺になっています。なるたけ、それがわかるように訳したつもりです。