2015年8月26日水曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』


三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』





「磔刑の基督」は、刑架がキュビズムの手法で描かれてをり、キリストも刑架も完全に空中に浮遊して、そこに神聖な形而上学的空間といふべきものを作り出してゐる。左下のマリヤは完全にルネッサンス的手法で描かれ、この対比の見事さと、構図の緊張感は比類がない。又、下方にはおなじみの遠い地平線が描かれ、夜あけの青い光が仄かにさしそめてゐる。
(三島由紀夫「ダリ『磔刑の基督』」)


ここで三島由紀夫の言つてゐることを箇条書きにして整理してみませう。

1。「刑架がキュビズムの手法で描かれて」ゐること。
2。「キリストも刑架も完全に空中に浮遊して」ゐること。それが、
3。「神聖な形而上学的空間といふべきものを作り出してゐる」こと。
4。「左下のマリヤは完全にルネッサンス的手法で描かれ」てゐること。従い、
5。キュビズムの手法とルネッサンス的手法の、「この対比の見事」であること。手法の対比のみならず、
6。この対比から生まれる、更にやはり対比的な、「構図の緊張感は比類がない」こと。また、
7。上方の闇に対して、「下方にはおなじみの遠い地平線が描かれ、夜あけの青い光が仄かにさしそめてゐる」こと。

この7つのことを、上の引用した短い文章の中に、実に凝縮して贅沢に、三島由紀夫は述べてをります。

この7つのことで、三島由紀夫が述べてゐることを、たつた一言でいふならば、それは、対比的な様式と其の緊張感いふことです。


もつと言へば、対比的な様式と其の緊張感の存在する只今、この時、この一点といふ意味です。或ひはまた、

対比的な様式と其の緊張感の均衡によつて生まれ、存在する此の只今の交点、交差点といふ、時差の交差点といふ意味です。

この交差点を、即ちザイン(存在、Sein)と呼んでもよいでせう。

この交点、交差点の生まれたときに、三島由紀夫は「比類がない」といふのです。この同じ「比類がない」といふことを、既に、学習院初等科に入学した6歳の平岡公威は、「面白い」といふ言葉を使つて、このダリの絵と同じ「比類がない」「対比の見事さと、構図の緊張感」の交差点を、初めて経験した小学校の運動会のこととして、次のやうに歌つてをります。


「ウンドウクヮイ

(一)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ

(二)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」


この詩を片仮名からひらがなに直して、もう少し文字として視覚的に分かりやすく変形させてみてから、考察に入ります。


「運動会

(一)
 一番後から二番目の十字綱引き
 面白い勝つと風船ふはりふはりふはり

(二)
 一番後から二番目の十字綱引き
 面白い百足のやうにゴロゴロゴロ」


この十字綱引きは、今でも運動会で行はれてゐます。その写真を掲げます。




ここで、上のダリの十字架と同じ評言にある、詩の構成要素をあげてみると、次のやうになるでせう。

(1)繰り返しによる様式の対比による対称性と対照性の効果を既に知っており、そのことに美と抒情と快感を覚えていること。この場合、
(2)様式との対比による対称性と対照性とは、風船と百足の対比によつて、次の対称性と対照性を表現してをります。

   1天と地(地面)
   2上昇と下降
   3軽さと重さ
   4勝ちと負け
   5始めと終わり((一)と(二)といふ配列によって意識される)

(3)交差点のある十字形に興味と関心を持っていること。
(4)現実の出来事に対して、面白いと(いふ言葉を使って)思ひ、表現していること。ダリの十字架に対する「比類がない」ことに相当する賛嘆の言葉であること。
(5)独特の数の数え方、即ち、最後から数えて、その最後の数を勘定に入れて、下る(降順の)数を数えること。即ち、数を勘定するときに、一番最後から引き算をして勘定するといふこと。[註1]更に、このことから即ち、
(6)最初に最後を考えた事

[註1]
『研究』といふ15歳の詩の最後の一行は、「老博士」が「時間と数がずれるのを、耳にされるのである。」(決定版第37巻、564ページ)とあり、同時に此の博士は生きながらに「御自身の顱頂骨(ろちやうこつ)から蹠(あなうら)へ、一本の鉄の焙棒(あぶりぼう)をつきさして」ゐる死者として歌はれてをり、また同様の主題で『美神』という短編小説にも、やはり「R博士」が、自分しか知らぬ数字の秘密の差異が、時間の中で意味を持つてゐると密かに思つてゐたにもかかはらず、話の最後に其れが否定されることによつて悶死するといふ話である。

また『近代能楽集』の中の『道成寺』にも、衣裳戸棚の競(せ)りの値段が、時間の中で時間とともに終局(最後)に向かつて数字が列挙されてゆくといふ比較的長い科白のやりとりがある。

決定版第37巻の詩群には、これらの他にも、雪の降り積む丈の数字を挙げてあるとか、その他数字と時差といふ主題と動機は幾つも歌われてゐる。三島由紀夫は、数字を列挙してゆくときに、その数字と数字の(時間の中での)差異に美と叙情を覚えるのです。




最後の(6)については、運動会のプログラムがこのとき幾つあつたものかはわかりませんが、仮に10の演目があったとして、最初から9番目というか、または最後から一つ目というのか(わたしならばかう言ふかも知れない)、はたまた三島由紀夫のように、最後の演目を勘定に入れて、最後から二つ目といふかによって、ものの考え方が異なります。

また、(二)の連の詩で、

「ムカデノヤウニゴロゴロゴロ」

と言っているのは、これは(一)の連では、勝つとどうも、勝ちを祝って風船が飛ばされたようですから、対比•対照的に、今度は負けた場合には、負けた組がごろごろごろと、地面に転がって「百足のやうに」負けを認める仕草を表したのではないでせうか。

しかし、芋虫ならば「ゴロゴロゴロ」と転がるという形容に相応しい。何故ならば、脚がないから。しかし、百足(むかで)では、脚がたくさんあるでせうから、果たして「ゴロゴロゴロ」と百足のやうに転がる事ができたものか。

と、このやうに考え参りますと、6歳の三島由紀夫が言い表したかつたことは、百足は脚が幾つもあって、本来は「ゴロゴロゴロ」と転がることのできない生きものであるにも拘らず、敢えてその脚をものともせずに、「ゴロゴロゴロ」と転がるといふこと、これが面白いと言つてゐるのかも知れません。

あるいは、さうやつて「ゴロゴロゴロ」と転がる子供達の全体の、そのたくさんの脚をばたばたさせる様を、一匹の百足に例えたと理解することもできます。『世界中の海が』(決定版第37巻、34~36ページ)という9歳のときの詩には、この発想がありますから、この解釈も現実的に可能でありませう。

とすれば、(一)の連の風船は、百足の脚のやうな障害もなにもなく、自然に楽々と天に昇って行けるといふことを、反対に、三島由紀夫は歌っていることになります。百足は地を這ひ、風船は天に昇る。

このやうな様式を支える対比•対照的な、或は両極端に論理を展開して言語に変換するといふものの考え方は、既にこの6歳の時には確立していたということができませう。

かうしてみますと、叙景の対象は運動会であり、小学生の子供の公の世界の催事(何故ならば昔は家族総出で重箱なども持参して見物にも来た事でありませうから)であつて、それがいかにも経験的には狭く幼い感じがするやうに此の詩を読む大人である読者の目には見えませうが、しかし、そのやうに、この詩はもはや既にして相当に高度な詩なのです。

高度なといふ意味は、様式化されてゐて、一つの言葉に幾つもの関係が掛けられてゐて、従い連想が連想につながつていて高度であり、詩になつてゐるという意味です。

一つの言葉に幾つもの関係が掛けられてゐとは、つまり、通り一遍の叙景ではなく、実に立体的な叙景になっているといふこと。のみならず、6歳の少年平岡公威の対比•対照的な両極端の論理も盛つてゐて、さうなつてゐるといふ、そのやうな高度な詩になつてゐるのです。

たつたの4行で、これだけの論理と感情を盛つた平岡公威といふ子供の言語能力は、当時傍にいた大人達にも知られることはなかつたのではないでせうか。あるいは、大人たちは、冒頭に引いた三島由紀夫のダリの十字架への評言の本質が、この詩に既にあるとは、勿論、少しも気がつかなかつた。

この詩の持つ以上のような素晴らしさ、即ち論理的な骨格(構造)と感情の移入は、いや此の二つによる感情の発露、即ち三島由紀夫にとつての現実感ある現実は、その後の一生を貫いて、作品の中に現れてゐるのです。

全く同じことが安部公房についても言ふことができます。

安部公房の一桁の学齢の小学生のときに奉天で書いた詩が、安部公房の読者のために、今二つ残つてをります。やはり、安部公房の場合も、これらの詩は、一生の安部公房の死後の遺作に至るまでの作品群を貫いて生きております。今、『夜』と題した詩を再度引いて、解説を致します。

上で三島由紀夫の詩の特徴として挙げたことはみな、そのまま安部公房の詩の特徴として当て嵌まります。


「夜

「クリヌクイ クリヌクイ」
  カーテンにうつる月のかげ」


この安部公房の詩が三島由紀夫の詩と異質であるのは、後者が、

「オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ」とか、
「オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」

といつたやうに、音と言葉の繰り返しに、安部公房のやうな一文字の空白がなく、連続していて継ぎ目がないといふことです。

この違いは、これから先々に述べるところで段々とお分かり戴けることと思ひますが、二人の本質的な相違を其のまま示してゐるのです。何か先の戦争の後に登場したふたりは、誠に運命的な相補的な、補完関係にある典型的なふたりであるといふ以外にはないやうに思はれます。

勿論、安部公房も、この「クリヌクイ クリヌクイ」に、美と叙情を感じてをり、この繰り返しを呪文だと考へ、この呪文を唱へることによつて空間的な差異(隙間や歪み)の中に存在を招来し、次に此の存在の方向へと読者が向ふように立て札を立て(さうして実際に立て札を絵や写真として作品中に置いて)、さうして主人公は存在の迷路をさ迷い、最後には人攫(さら)ひにあつて、その存在の次元から失踪して、次の次元へと姿を消してしまふといふのが、すべての安部公房の作品の物語の組み立て(構造)なのです。

この場合、上の二行の詩の示す通りに、安部公房の世界は時間を捨象した空間的な、部屋という空間の存在論の世界です。さうして、「クリヌクイ クリヌクイ」といふ繰り返しに、美と叙情と呪術性を感ずる。[註2]


[註2]

「クリヌクイ」の詩の他に、もうひとつの詩が現存してをります。それは次の『風』と題した詩です。ここには、安部公房の繰り返しがあります。以下、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する(後篇)』(もぐら通信第33号)より引用してお届けします。:


「 風
 
 風が
 僕のほうぺった なで ゆく
 凍ったお手で なで ゆく」

この書き方は、小学校時代の恩師である宮武城吉という先生という方の教えであるのでしょうか、或いは当時の国語の教科書が其のように文字を表記していたのでしょうか、句点を使わずに、一文字空白をおいていて、これはこのまま十代の安部公房の詩の書き方になっているばかりではなく、1947年の『無名詩集』を通り、例えば1962年の小説『砂の女』へ、更に1967年の戯曲『友達』の中で歌われる「友達のブルース」の歌詞の書き方にまで遠く及んでいます。傍線筆者。

ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
 何んの音?
 鈴の音

 ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
 何んの声?
 鬼の声」
(『砂の女』全集第16巻、156ページ)

「夜の都会は
 糸がちぎれた首飾り
 あちらこちらに
 とび散って
 あたためてくれたあの胸は
 どこへ行ってしまった
 迷いっ子 迷いっ子
(『友達』全集第20巻、425ページ)


この一文字の空白を空けて同じ言葉を繰り返すという安部公房の一行は、次のことを示しています。

1。同じ言葉の繰り返し(循環)のときに使うこと
2。その空白の両端に配置される言葉は、等価であること。従い、
3。この空白は、一種の接続詞、見えない透明な上位接続の機能を果たしているということ
4。その透明な上位接続による繰り返しに、安部公房は叙情を感じていること

『砂の女』の「ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ」という繰り返しを、このようにして眺めてみると、

5。この一文字の空白を間に挟んだ繰り返しは、呪文であること

そうして、このように考えることができるであれば、1991年最晩年の小説『カンガルー・ノート』の最後にある次の詩も、呪文なのであり、呪文である以上、この繰り返しによって、安部公房は何かを呼び出そう、招来しようとしているということになります。

「(オタスケ オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」(全集第29巻、188ページ)

この小説の結末部を読むと、これはこの括弧の中の繰り返しの直前にある詩の内容からして、主人公が人さらいにさらわれることを願っている繰り返しであり、人さらいを呼び出そう、招来しようという呪文であることが解ります。

そうして、実際に最後は、時間のない上位接続(論理積:conjunction)の場所、即ち「北向きの小窓の下で/橋のふもとで/峠の下で」人さらいにさらわれて、最後のページをめくると、そこには存在の方向への立て札である「新聞記事からの抜粋」が、死亡記事として引用されているという趣向になっています。




これに対して、三島由紀夫の場合は、二連の詩の、特に「一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ」(一番後から二番目の十字綱引き」)といふ行が示す通りに、時間の中での数字の勘定の差異、即ち数字を勘定することによつて生まれる時差に、三島由紀夫の世界は生まれる、さういふ意味では、時間的な認識論の世界です。さうして、フハリフハリフハリ」とか、「ゴロゴロゴロ」といふ繰り返しに、美と叙情と呪術性を感じ、それを「オモシロイ」、「比類がない」と感じるのです。

十代の詩人三島由紀夫が、ヘルダーリンとリルケの詩に惹かれる理由は、これらのドイツ語の詩人の詩は、上の三島由紀夫の言葉と詩の特徴をすべて備えているからです。何故なら、リルケの詩は、存在と其の存在への循環(繰り返し)を歌ひ、ヘルダーリンの詩は、三島由紀夫の詩がさうであるやうに、自然の諸要素を歌ひ上げて、さうして、其の生命の源への還流(繰り返し)を歌ふからです。

さうして、三島由紀夫と安部公房を比較して興味深いのは、前者はヘルダーリンを相対的に好んで、自分の作品の中にも引用して表立てるほどであるのに対して、後者はリルケを相対的に好んで、自分の作品の中には引用もせず表立てずにゐたほどに(例外は『名もなき夜のために』ですが)、それぞれに深くそれぞれの詩人の世界に互ひに一層深く親炙してゐたといふことです。ここでも対比・対照的な二人です。

さて、二人の比較論は、取り敢へず此処までと致しませう。これからも比較する機会は訪れませうから。

以下に、決定版第37巻に十字、十字形、十字架、交差点など、総てこれらを両極端の切り結ぶ差異と云ふならば、明瞭に表立つてまた一見隠れてしかし露わに此の差異の形象の出てくる詩を、思ひつくままに列挙して、後日此の形象を、また此の形象との関係で別の三島由紀夫の主題と動機を、詳細に論じるための備忘と致します。

十字の交差点の形象の他にも、繰り返しそのものは、三島由紀夫の詩には、無数に無数に出て参ります。いや、十字の交差点は、上のやうに繰り返しの交点であると考へれば、ダリの十字架もまた静寂の時間の無い空間の中の繰り返しの形象であるのです。その他にある無数の、繰り返しによつて生まれる交差点の言葉が、さうであるやうに。

安部公房ならば、ザイン(存在、Sein)の十字路に立つてゐると、間違いなく言ふところです。

以下ページ数は、その形象の出てくる決定版第37巻のページ数です。細かく拾いますと、まだ他にもあることは間違いありません。

1。『ウンドウクヮイ』:17ページ:6歳
2。『高庇塚塋歌(かうひちようえいのうた)(長編叙事詩)』:135ページ:12歳
3。『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』:207ページ:13歳
4。『三 十字路の吐息』:286ページ:13歳
5。『独白 廃屋の中の少女』:296ページ:14歳
6。『誕生日の朝』:328ページ:14歳
7。『風と私』:330ページ:14歳
8。『美の五つの二行詩』:338ページ:14歳
9。『轢死 《モンタアジュ型式》』:472ページ:15歳
10。『風の日 〈童謡〉』:475ページ:15歳
11。『さびれた愛へ』:503ページ:15歳
12。『研究』:564ページ:15歳
13。『石切場』:566ページ:15歳
14。『美神 古典の形を借りて』:588ページ:15歳
15。『馬』:691ページ:16歳

2015年8月23日日曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発


三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1)

三島由紀夫研究家でゐらつしゃる岡山典弘さんに最近教へられて、三島由紀夫はダリが好きだといふことを知りました。

安部公房もシユールレアリスムに集中した若年の時期があり、さうして実際に芥川賞を受賞した『壁』という小説集は、シユールレアリスムの作品ですから、この藝術上の思潮について、ふたりは熱心に、そして本質的な議論と意見の交換をした筈です。その場所の一つは、わたしの知る限りは、六本木のキャンティであり、三島由紀夫邸の太陽の部屋(サンルーム)であつたことでありませう。

以下、わたしの『安部公房の変形能力14:シユールレアリズム』(もぐら通信第15号)より引用して、この藝術思潮が何かをお伝へします。:

「岩波文庫版『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』(アンドレ•ブルトン著。巌谷國士訳)を参照することにします。

アンドレ•ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が理論篇とすると、その実践篇である『溶ける魚』の冒頭を見て、その思潮が如何なる思潮であるかを読み取ることにします。冒頭は、次のように始まります。

「公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。意味のない城がひとつ、地表をうろついていた。神のそば近く、その城のノートは、影法師と羽毛とアイリスをえがくデッサンのところでひらかれていた。〈若後家接吻荘〉というのが、自動車のスピードと水平の草のサスペンションとに愛撫されているその宿の屋号だった。そんなわけで前の年にはえた枝々は、光が女たちをバルコニーにいそがせるとき、ブラインドに近づいて身じろぎひとつしなかった。若いアイルランド娘は東の風の泣きごとに心みだされながら、乳房のなかで海の鳥たちが笑うのをきいていた。」

以下、このような調子の文章が延々と続きます。

これは、言葉の眼、即ち言語の観点、そして譬喩(ひゆ)の視点からみると、この思潮は、隠喩(metaphor)の文を生成する運動と解することができます。しかも、意味のある言葉と意味のある言葉を掛け合わせて隠喩を作ることによって、無意味を創造する運動、有意味の言葉を掛け合わせて言葉に無意味という意味を割り当てる運動です。

無意味とは、non-sense(正確には無意義というべき)であるということを意味しますから、non-senseということから言っても、ここからそのまま、ルイス•キャロルの世界に通じています。

そして、このnon-senseということから、シュールレアリズムの言語世界は、時間の捨象がなされていて、空間的な造詣性を有します。即ち、関係の総体として、空間的にその関係が表されているのです。それは、勿論、non-senseということから、無関係な意味の総体です。

しかも尚、執拗なことに、その思潮の根底には、美への憧憬が隠れているとわたしは思います。この美は、シュールレアリズムにおいては、時間の捨象ということから、静寂な空間の創造ということに最初から至っています。ポール•デルヴォーの静寂な絵画、ダリの運動の静止した画像を思い出して下さい。これらの絵画には時間が存在しません。絵画という芸術の形式が、そもそもそのような性格のものだとしたとしても。」

ダリの絵は、まさに此の通りに、時間の存在しない静寂の空間、無意味の空間を常に描いてをります。この有名な垂れ下がつた時計の在る絵は、その空間を如実に、典型的に表してをります。



ダリに関する三島由紀夫の評言は、岡山さんに教わるところによれば、二つあり、ひとつは、評論「ダリ『磔刑の基督』」(『決定版 三島由紀夫全集』の第32巻102頁)であり、もう一つは、評論「ダリの葡萄酒」(同じ全集の第35巻143頁)にあるとのことです。今岡山さんに教へて戴いたところを、そのまま転載します。

「三島は、ダリの絵が好きでした。
わけてもワシントンのナショナル・ギャレリーの「最後の晩餐」と、ニューヨークのメトロポリタンの「磔刑の基督」を鍾愛しました。

「磔刑の基督」は、刑架がキュビズムの手法で描かれてをり、キリストも刑架も完全に空中に浮遊して、そこに神聖な形而上学的空間といふべきものを作り出してゐる。左下のマリヤは完全にルネッサンス的手法で描かれ、この対比の見事さと、構図の緊張感は比類がない。又、下方にはおなじみの遠い地平線が描かれ、夜あけの青い光が仄かにさしそめてゐる。
(三島由紀夫「ダリ『磔刑の基督』」)




ダリの「最後の晩餐」を見た人は、卓上に置かれたパンと、グラスを夕日に射貫かれた赤葡萄酒の紅玉のやうな煌めきとを、永く忘れぬにちがひない。それは官能的ほどたしかな実在で、その葡萄酒はカンヴァスを舐めれば酔ひさうなほどに実在的に描かれてゐる。
(三島由紀夫「ダリの葡萄酒」)」




[註1]
何故三島由紀夫が特に此の二つの絵を好んだかといふことは、この二つの絵を見ることから判る通りに、やはり対称性と対照性を重んじて描かれてゐるからです。この様式美は、何故三島由紀夫が、、その小説(『絹と明察』)の中に取り入れるほどに、また後年てづからドイツ語から訳してみるほどに、ヘルダーリンの詩を好むかといふ理由に通じてをります。ヘルダーリンの詩と三島由紀夫については、また稿を改めて論じます。



上の岡山さんより戴いた二つの文章を読んでみますと、わたしが思い出すのは、三島由紀夫が書いた『ワットオの《シテエルへの船出》』というエツセイの文章です。ダリについての上の引用は、このエッセイの文章にとてもよく似ています。このエツセイは、昭和30年、30歳、西暦1955年の発表。

ここで考えるべきは、三島由紀夫は、

1。絵画に何を見たのか、ということと、
2。絵画のどのような主題に惹かれたのか、ということ、

そして、

3。それ(上の1と2)は、そのことは、一体何であったのか、何であるのか、ということ(これは、そもそもの本質論)、更に、
4。それは、そのことは、三島由紀夫にとつて一体何であつたのか、何であるのか、何を意味してゐたのか、何を意味してゐるのかといふこと(これは、三島由紀夫にとっての個別の、しかし普遍的な、その文学との関係に於ける本質論)

この四つでありませう。

この問ひに答へるべく、三島由紀夫の言葉を考察し、さうして、上の四つの問ひ答へ、更に、詩と、もし出来うれば今のわたしの能ふる限りに小説や戯曲についても、論じることに致します。

この目的のために、『ワットオの《シテエルへの船出》』というエツセイに目を転じてみませう。ダリについての上の引用は、このエッセイの文章にとてもよく似てゐるのです。このエッセイは、新潮文庫『小説家の休暇』に収められてをります。



このエッセイによれば、ワットオは、ヨーロッパの17世紀のバロック時代と19世紀の時代の間の18世紀のロココ時代の画家です。ロココ趣味は、三島由紀夫に如何にも相応しいやうに思はれる。これに対して、安部公房は徹底的に、あらゆる点でバロックの藝術家です。誠に対照的な二人です。

三島由紀夫は此のエッセイの中で17世紀をワットオのこととして「制作者と鑑賞家との幸福な存在した古典主義の時代は、十七世紀とともに去つた」と言つてをります。これは、さう言ふことで、自分自身の十代の詩の世界のことを述べてゐるやうに、わたしには思はれる。何故なら、17世紀のバロックの時代は、決して三島由紀夫の趣味と好みの世界ではないから。更に、何故なら、それは安部公房好みの、怪奇と歪みと変形と螺旋と空間的な差異(即ち、三島由紀夫の源泉の感情の活き活きと生きる時間の差異、時差ではなく)と、ワットオの此の絵画の示すやうな、最初から目的地の明確な旅なのでは全くなく、尋ねれども尋ねれども果てのない旅であり、到達したその新しい現実もまた既に最初から贋物であることを出立前に知つてゐる其のやうな精神から生まれた趣味と感覚と形象が、バロック様式だからです。

この一文で判ることは、30歳の三島由紀夫が、「制作者と鑑賞家との幸福な存在した古典主義の時代」を虚構の中に求めてゐたといふことですし、実際に、この連載の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く6:三島由紀夫の小説と戯曲の世界の誕生2:三島由紀夫の人生の見取り図3(一層詳細な見取り図)』で年表を製作して述べましたやうに、このエッセイを書いたときは、「1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間」に当たるのですし、まさしくSollenの時代の三島由紀夫の意志として、森鷗外やトーマス・マンを模範として精励刻苦して、自分固有の文体を培つてゐたときでありました。

30歳の三島由紀夫は、或いは此処に描かれてゐる世界が「人間感情を直接にえがくことと同等の意味があつた」といふ自分の思ひから、この画家の絵を寓意画と呼ばうか、それともやはり此はこの世界そのものではないかと、「彼のえがく世界のこの二重構造を、どう呼んでよいか迷っ」てゐることを、第3章の最後に、率直に語つてをります。

さうして、続けて、第4章の最初に、「古典主義の時代のあの普遍への欲求、あらゆる情念を個性から離れた情念それ自体として描きうると考えた抽象精神、さういふものから一人の画家の天才が見事に身をかわした。」と書くときに、それが三島由紀夫自身についての言葉と解すれば、三島由紀夫はみづから、その Sollen(ゾルレン)の時代を否定しているやうに見えますが、しかしまた、その表面上の考への発言とは別に、その内面にある実際の感情をやはり率直に吐露してゐるのだと思はれます。何故ならば、三島由紀夫の後年のエッセイ『太陽と鉄』によれば、このエッセイを書いた時期は「古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳」である筈のことだからです。これを矛盾と呼ぶべきかどうか、軽率な判断は差し控へます。

さて、しかし、ワットオについて、三島由紀夫が「彼は見えるままの幻を、構成し、画布の上に定着する。」と同じ章で書くとき、この心は、このエッセイで書いた古典主義時代であれ、晩年に過去を追想し追憶して『太陽と鉄』で書いた古典主義時代であれ、いづれにせよ、言葉の世界のことに置き換えれば、この言語藝術家の求めたことを書いてゐるのであり、この限りに於いて、三島由紀夫の求めたるものは変わらなかつたといふことができませう。従ひ、そこに、矛盾を感ずることは、三島由紀夫は、ないのです。

第4章の最後に、やはり三島由紀夫は、この画家を詩心ある人間として、従いほとんど自分自身のこととして、次のやうに語つてをります。

「衣裳の下から、重い鬘(かつら)の下から、この画家の手によつて消し去られた情念のあとの空白を、総括する画家の詩心は、そのあらゆる空白に詩を漲らす。それは画中の画、詩のなかの詩ともいふべきもので、ワットオは決して抒情的に詩情を詠つたりしたのではなくて、画家の目を以つて、まさに詩----、光のやうな透明な藝術作品----、を描いたのである。十九世紀末の象徴派詩人がワットオに共感を寄せたのは、理由のあることである。」(引用中「----」は原文は実線)

そうして、更に最後の第5章を次の言葉で始めます。

「(略)重要なのは、彼が詩のやうな画を描いたことではなくて、詩そのものを描いたことにあると云つたはうがいい。
 セザンヌの描いた林檎は、普遍的な林檎になり、林檎のイデエに達する。ところがワットオの描いたロココの風俗は、林檎のやうな確乎たる物象ではなかつた。彼はそのあいまいな対象のなかから、彼の林檎を創り出さなければならぬ。ワットオの林檎は、不可視の林檎だつた。」

やはり、ここでも此言葉を、最晩年の43歳のときのエッセイ『太陽と鉄』にある林檎論と引き比べてみませう。さうすると、Sollen(ゾルレン)の時代の三島由紀夫の林檎とDasein(ダーザイン)の時代の三島由紀がどのやうに違ふかといふことが解ります。Dasein(ダーザイン)の時代の『太陽と鉄』で、三島由紀夫は次のやうに言つてゐます。

「(略)、厳密に言つて、「見ること」と「存在すること」は背反する。
 自意識と存在との間の微妙な背理が私を悩まし始めた。
 (略)
 だが、世には、ひたすら存在の形にかかわる自意識といふものもあるのだ。この種の自意識にとつて、見ることと存在することとの背反は決定的になる。」

この背理を解決する考え方として、三島由紀夫は、「ひたすら存在の形にかかわる自意識」が、「そのやうな紅いつややかな林檎を外側から見る目が、いかにしてそのまま林檎の中へもぐり込んで、その芯となり得るかといふ問題である」と考へ、「林檎の内側は全く見えない筈だ。そこで林檎の中心で、果肉に閉ぢ込められた芯は、蒼白な闇に盲い、身を慄はせて焦燥し、自分がまつとうな林檎であることを何とかわが目で確かめたいと望んでゐる。林檎はたしかに存在してゐる筈であるが、芯にとつては、まだその存在は不十分に思はれ、言葉がそれを保証しないならば、目が保証する他はないと思つてゐる。事実、芯にとつて確実な存在様態とは、存在し、且、見ることなのだ。しかしこの矛盾を解決する方法は一つしかない。外からナイフが深く入れられて、林檎が割かれ、芯が光りの中に、すなはち半分に切られてころがつた林檎の赤い表皮と同等に享ける光りの中に、さらされることなのだ。そのとき、果たして、林檎は一個の林檎として存在しつづけることができるだらうか。すでに切られた林檎の存在は断片に堕し、林檎の芯は、見るために存在を犠牲に供したのである[註2]
 一瞬後に瓦解するあのやうな完璧な存在感が、言葉を以てではなく、筋肉を以てしか保障されないことを私が知つたとき、わたしはもはや林檎の運命を身に負ふてゐた。」(傍線筆者)

[註2]

この三島十代詩論の第1回の「1。安部公房と三島由紀夫の言語能力について」で、わたしの次のやうに書きました。下線部にご注目下さい。

「隠喩は従い、掛け算ですので、時間が存在しないのです。上のような言葉の無限、言葉の数かぎりない列挙、言葉の果てしなさを見て、その本質(関係、差異)を抽象化して、一つの名前で呼ぶこと、これが、全く異なる二つのものを接続する(積算:conjunction)ことの意義(sense)なのです。

さて、その名前を言うことによって、或いは名付けることによって、あなたは対象と自分との距離(差異)を0にすることができると思っているのです。それが、わたしの言い方で言えば、対象の名前を言えば、それは自分の延長(extension)であることを意味するという言葉の意味です。

一次元の時間の中で、即ち日常の生活の中で生きている私たちは、そのように思っているのです。

このこと、即ちこの足し算の世界の論理と感覚を、哲学の世界では外延(extensive)、即ち普通の言葉では延長と言い、掛け算の世界を内包(intensive)と言います。

内包とは、上の説明でお分かりの通り、果物という言葉、上位概念、即ち意義(sense)の発見です。この内包である意義(sense)に対して、足し算の和、外延のことを意味(meaning)と言います。(肯定する世界では、結局、掛け算か足し算しかないのです。)

言い換えれば、内包、即ち積算とは、この日常からの脱出であり、非日常と非現実の創造なのです。

わたしたちは、りんごを食している一瞬一瞬にはりんごを食べていると思っているのであって、果物を食べていると感じているのではないということです。

もしりんごを食べながら、これは果物であって、わたしが一瞬一瞬食しているのはりんごではない、果物(という何ものか)を食べているのであり、食べながら既にして食べ終わっているのだと思う少年がいたとしたら、それが三島由紀夫であり、また同時に安部公房という少年なのです。



ここに書かれてゐること、即ち見ることと見られることの関係の統合または融合は、『文化防衛論』の「国民文化の三特質」といふ章で書かれてゐる文化の「連続性と再帰性」の問題として、さうして『日本文学小史』で最後に歌物語としての、従い詩文としての源氏物語を引き合いに此の章でも主題として語り、この文脈で「文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなく「見る」者として見返してくる、といふ認識に他ならない。」と主張する三島由紀夫の考え其のものなのです。

この林檎の譬喩(ひゆ)は譬喩以上の詩であり、詩そのものになつゐて、この見る者と見られる者と更にまた後者が見返す者といふ此認識と人間の在り方は、何故三島由紀夫が市ヶ谷で切腹の古式に敢へて則らずに、深く腹部を刺し貫いたのかといふ疑問に対する、三島由紀夫自身による明らかな説明になつてをります。

安部公房ならば、思考論理と生理感覚の問題として、さうして人間にとつての真理の問題として、存在の外部と内部、現存在(ダーザイン)の外部と内部を交換する、ひっくり返すこととして行ひ、事物を変形させたところを、三島由紀夫は自己の肉体の外部と内部を交換して、その双方を一致させ、安部公房の言葉に拠れば、次のことを三島由紀夫は図つたといふことになります。この安部公房の言葉は既に1966年のこのとき、三島由紀夫の死を予見し予言した言葉となつてをります。それは映画『憂国』の映画評です。

「(略)作者が主役を演じているというようなことではなく、あの作品全体が、まさに作者自身の分身なのだ。自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆にこの作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。
 むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、おそらくその不敵な野望のせいだったに違いない。
 いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、ともかくぼくは脱帽を惜しまない。」(『映画「憂国」のはらむ問題』安部公房全集第20巻、176ページ)

安部公房の世界の言葉で言へば、三島由紀夫は存在に、存在自体にならうとしたのです。現存在(ダーザイン)にゐるままで。

さて、かうして、「不可視の林檎」である詩そのものとして存在する透明なる林檎を、自己の筋肉と其れによつて構成された肉体の問題として、(それは同時に美の問題でもありませうが、)白木の柱である肉体を白蟻として硝酸のやうに腐食作用を働かせる其のやうな言葉と一線を画するために、さうして其の言葉の「羽虫の群れのやうに襲いかかつて」来て「私の個性をとらえ、私を個別性の中へ閉ぢ込めようと」する言葉の其の腐食作用(『太陽と鉄』)に侵されない肉体そのものとしてあらしめるために、またそのやうな「言葉の機能に関するわたしの病的な盲信」を「取り除」くために、肉体を鍛えた三島由紀夫は、最晩年のダーザインの時代には、上のワットオの絵画にある此方(こちら)の岸辺からシテエル島へと旅立つたのです。

『太陽と鉄』には、『エピロオグ---F104』といふ最後に配置されたエッセイに、詩人としての此の出発の感覚と感動が、F104ジェット戦闘機の搭乗記録の言葉として、すべての点検が座席にあつて終わつた後にF104が大空を急上昇してゆく其のときに、次のやうに書かれてあります。

「わたしは幸福に充たされる。日常的なもの、地上的なものに、この瞬間から完全に訣別し、何らそれらに煩わされぬ世界へ出発するといふこの喜びは、市民生活を運搬するにすぎない旅客機の出発時とは比較にならぬ。
 なんと強く私はこれを求め、何と熱烈にこの瞬間を待つてゐたことだらう。私のうしろには既知だけがあり、私の前には未知だけがある。ごく薄い剃刀の刃のやうなこの瞬間。(略)
 私は久しく出発といふ言葉を忘れてゐた。致命的な呪文を魔術師がわざと忘れるやうと努めるやうに、忘れてゐたのだ。」(傍線筆者)

この時、三島由紀夫は、間違いなくシテエル島に旅立つたのです。三島由紀夫が詩人であるためには、高みを必要としたことは、この連載の第1回で詳細に論じた通りです。

さて、この久しく忘れてゐた出発といふ言葉について、『小説家の休暇』では、三島由紀夫は次のやうに書いてをります。それは、アラン・フウルニエの書いた『モオヌの大将』といふ小説を評したところです。

「七月四日(月)
 (略)
 私はこの小説を読んで、ひさびさに「出発」といふ言葉に、胸のときめきを感じた。
 「モオヌは突然立ち上がつて、……
  ―――さあ、出発だ!と叫んだ」
 私はあの短い世界一周旅行のこのかた、出発といふ言葉の語感に、うとくなつてゐた自分を恥じた。」(傍線筆者)

三島由紀夫は『小説家の休暇』を書いてゐたときは、1955年、30歳。『エピロオグ---F104』といふエッセイを書いたときは、1968年、43歳。

さうして、その前の出発、即ち古典主義とSollenの時代に入るために、ギリシャへと旅行をするために上の日記で「あの短い世界一周旅行」へと書いた出発をしたのが、1951年、26歳。かうしてみますと、

1。1951年:26歳:Sollen(ゾルレン)の時代、古典主義の時代
2。1955年:30歳:同上
3。1968年:43歳:Dasein(ダーザイン)の時代、ハイムケール(帰郷)の時代

この3度、三島由紀夫は出発を思ふたといふことになります。

この3度の出発が、それぞれどのやうな意義を三島由紀夫の人生に持つてゐたかは、やはりその人生に於いて何か歴然たるものがあります。

1は、ギリシャの旅へ出発して、森鷗外とトーマス・マンに習つて、その文体を確立したいと決心したとき。
2は、肉体を、上述の理由から鍛錬したいと決心したとき。
3は、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』の海賊頭の命令に従って、未知なる海へと跳躍し、出帆しようとしたとき。

といふことになります。

さて、三島由紀夫が十代の詩人の時代から、詩人としてあるためには高みを必要としたといふことは、既に此連載の第1回の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く』で詳細に論じた通りです。最晩年のこのときにも、詩人としての三島由紀夫が、今度は成層圏にまでの高みに昇つて、未知の世界へ出発したといふことになります。その瞬間を、三島由紀夫は「熱烈に待つてゐた」。一体いつからでありませう。

いふまでもなく、18歳のときに、16歳の小説『花ざかりの森』の発展形として、その過去を追想し追憶する人間の持つ論理をすべて逆転させ転倒させて創造した二人の登場人物、即ち『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』の中に造形したあの殺人者(藝術家の範型)に対して、同じ作者である三島由紀夫自身が其の地の文に於いて其の対極の人間として造形した海賊頭をして「海であれ、殺人者よ。海は限界なき有限だ。玲瓏たる青海波(せいがいは)に宇宙が影を落とすとき、その影は既にあつたのだ。」と言はしめ、また「何を考えてゐるのか、殺人者よ。君は海賊にならなくてはならぬ。否、君は海賊であつたのだ。今こそ君はそこへ帰る。それとも帰れぬと君はいふのか。」(傍線は原文傍点)と言はしめる其の当の海賊頭の命令に、F104に搭乗した三島由紀夫は、従つたのです。

青海波の青は、十代の詩で数多く歌つたあの大空の青であり、『花ざかりの森』の最後の数行で、水面に映つて空の青を浮かべたあの泉の青でありませう。

上で引いた『太陽と鉄』には、十代の詩に深く関わる言葉が幾つも書かれてをります。曰く、詩人としての高みを保証する部屋(搭乗機の空間)、従い窓、再帰的な蛇、既知と未知、太陽や雲や空やの自然の、生命の構成要素、そして、庭、静止等々。これらの主題と動機については、ひとつづつ論じて参ります。

さて、大空高く舞い上がつて見たものが、「それは死よりも大きな環、かつて気密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやくて天空の彼方にあつて、われわれを瞰下してゐる統一原理としての蛇だつた。」と書いた以上、詩人三島由紀夫は、ここからは、天から落下し、失墜する以外にはありません。

それ故に書かれ、最後に置かれた『イカロス』といふ題名の詩であるのです。この詩の最後の4行は、やはり三島由紀夫の十代の詩人の時代からの一生涯の主題であつた次の言葉で終わつてをります。

「未知へ
 あるひは既知へ
 いづれも一点の青い表象へ
 私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?」

さて、以上のことから判りますやうに、ここでは充分には論じ得てゐないものの、しかし、『太陽と鉄』『文化防衛論』『日本文学小史』は、三つながら一体として論せらるべきものです。

随分と遠廻りを致しました。最初のことに戻りませう。何故三島由紀夫はダリの『磔刑の基督』が好きなのかといふ問ひです。

三島由紀夫は平岡公威といふ名前の6歳の少年であつたとき、やはり既にして十字形を歌つた詩を歌つてをります。それは、学習院初等科の最初の歳に経験した運動会を歌つた詩です。この連載の第8回『三島由紀夫の十代の詩を読み解く8:三島由紀夫の『文化防衛論』と安部公房』にて引用した次の詩です。


「ウンドウクヮイ

(一)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ

(二)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」


いや、この詩に潜む十字形を論ずる前に、冒頭にわたしの掲げた次の問ひに答へませう。

「ここで考えるべきは、三島由紀夫は、

1。絵画に何を見たのか、ということと、
2。絵画のどのような主題に惹かれたのか、ということ、

そして、

3。それ(上の1と2)は、そのことは、一体何であったのか、何であるのか、ということ(これは、そもそもの本質論)、更に、
4。それは、そのことは、三島由紀夫にとつて一体何であつたのか、何であるのか、何を意味してゐたのか、何を意味してゐるのかといふこと(これは、三島由紀夫にとっての個別の、しかし普遍的な、その文学との関係に於ける本質論)

この四つでありませう。」

と、わたしは書きました。

さうであるならば、

1。絵画に何を見たのか

ワットオの絵画に詩そのものを見た。透明な林檎を見た。その林檎の中には、シテエル島といふ「「その島に在るものが、「秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽(けらく)」の他のものではない」と、三島由紀夫が此のエッセイの最後に書いた通りのものを見たといふことになり、その島に向かつて、30歳の三島由紀夫は出発しようと思つてゐた。

2。絵画のどのような主題に惹かれたのか

やはり出発といふ主題に惹かれた。それも、人間同士の会話の無い静寂の空間の中で[註3]永遠に出発する人間たちを描いたといふ其のことと、海を渡るといふことと、その海の向かふに未知の島があり、その島に存在するものが上の1に引用した「秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽(けらく)」であるといふ主題に惹かれた。

[註3]
三島由紀夫は『ワットオのシテエルへの船出』の中で次のやうに此の絵画の画面にある静寂を述べてをります。

「溺れるばかりに同じ黄昏の光線に涵(ひた)つてゐるけれど、人々はほとんど語り合はない。ワットオの絵に耳をすますがいい。音楽や歌は聞こゑてくるが、会話は決して聞こゑて来ない。啞(おし)の身振で、思ひをこめて、男は女を見つめ、女はあらぬかたを見つめてゐる。ワットオは言葉を描かなかつた。このクレビーヨン・ル・フィスの同時代人は、言葉だけが嘘をつくことを知つてゐたから。」


この静寂は、十代の初期から最晩年の『天人五衰』に至るまでにも、三島由紀夫が其の名を生まれた無名の時と、其の後に平岡公威と名付けられ、更に人に名付けられて三島由紀夫と呼ばれた人間が、最晩年の死に至るまで、求め続け、願い続けた静寂であることは、読者承知のことでありませう。



3。それ(上の1と2)は、そのことは、一体何であったのか、何であるのか、ということ(これは、そもそもの本質論)

それは、1955年、三島由紀夫30歳のときに当たつて、最晩年に『太陽と鉄』で論じるやうな出発の契機、即ち「人々の信じてゐるあいまいな相対的な存在感覚の世界を、その見えない逞しい歯列で噛み砕き、何らの対象の要らない、一つの透明な光のやうな、力の感覚の只中に」三島由紀夫を「ゐ」せしめる筋肉を獲得するための出発であつたといふことになります。

この引用を読みますと、18歳の『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』の海賊頭に変身しようと、三島由紀夫は考へたことが判ります。何故ならば、「俺たち」海賊にとつて、「未知とは失はれたといふことだ。俺たちは無他だから。」であり、「何らの対象の要らない」人間であるからです。この海賊頭といふ登場人物は、十代から三島由紀夫のこころの中に棲むもうひとりの三島由紀夫自身です。

4。それは、そのことは、三島由紀夫にとつて一体何であつたのか、何であるのか、何を意味してゐたのか、何を意味してゐるのかといふこと(これは、三島由紀夫にとっての個別の、しかし普遍的な、その文学との関係に於ける本質論)

三島由紀夫の生涯を振り返へれば、以上1から3の回答で回答したところのものを、またこの論考の本文で見たところのものを意味してゐたといふことになりませう。

三島由紀夫は、15歳の少年平岡公威として、既に詩として最晩年の『太陽と鉄』を歌つてをります(決定版第37巻、500ページ)。

「太陽の含羞(はぢらひ)

太陽はお納戸と鉄の青だ
  ああ輪廓は静寂そして若さ激しさ


長くみつめると太陽は
  黄色フィルタァを我が目に据ゑる


雲のさなかに黄色い丸
  青空にきいろい丸
  日の含羞(はぢらひ)のしるしでせうか


太陽の色は


お納戸と鉄の青だ

(十五・四・十五)」


この詩で歌はれてゐますのは、F104に搭乗して大空に上昇して行き到達する、其の「小部屋」といふ「お納戸」に存在する「静寂」の空間であり、そしてまた同時に其処に至らしめることを可能にした、後年の三島由紀夫の上述の筋肉からなる肉体が三島由紀夫に授ける「若さ激しさ」でありませう。

さて、この15歳の詩で歌つた「黄色い丸」は、死を間近にした最晩年に於いては、「それは死よりも大きな環、かつて気密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやく天空の彼方にあつて、われわれを瞰下してゐる統一原理としての蛇だつた」其のやうな黄色い蛇に変じるのです。いや、黄色い蛇が、それであつたといふべきでありませう。三島由紀夫一生の、これは、探究であります。[註4]

[註4]
もつと、この蛇のことを続けますと、次のやうに44歳の三島由紀夫は、15歳の「黄色い丸」を、F104搭乗記の最初の一行で「私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を噛みつづけることによつて鎮める蛇」と散文で書いてをります。

さうして、次のやうに続けます。傍線筆者。

「すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
 相反するものはその極致にをいて似通い、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘儀を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、この地球からやや離れ、白い雲の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方にをいてつながるだらう。
 私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
 縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。」

この散文を書いた三島由紀夫は44歳であり、1970年に亡くなる1年前の文章です。この同じことを、20歳の三島由紀夫は、次のやうに、『もはやイロニイはやめよ』と題した詩で歌つてをります。最後の7行に注目下さい。傍線筆者。

「もはやイロニイはやめよ
 イロニイはうるさい
 巷には罹災者のむれ
 大学は休講つゞき
 大学生はやたらに煙草を吹かす
 湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく
 檣灯のやうに
 来ぬ教授を待ちながら
 大学生は煙草を吹かす
 もはやイロニイはやめよ
 もはやイロニイは要らぬ 
 急げ今こそ汝の形成を
 汝の深部に於いてより
 汝の浅部に於いて
 ああ汝の末端に
 急げ汝の形成を
(決定版第37巻、749~750ページ)

先の戦争の終わつたのが、1945年、昭和20年の8月15日とすると、この詩は、6月と日付があるので、その2ヶ月前に書かれたことになります。

大学の授業に出席しても、授業が成り立たなかつたのでありませう。何か少し捨て鉢な、やけな気分のある詩です。

しかし、いづれにせよ、何があつたにせよ、三島由紀夫はが決心したことは、若いくせに大人の真似をして煙草を吸ふやうな、世間に楯突いて嫌ふやうな態度、即ちイロニイはやめて、何故ならそんなことは、煙草の煙で自分の周りに煙幕を張つて人を遠ざけて「湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく/檣灯のやうに/来ぬ教授を待」つやうなものであるから、さうやつて煙幕をはつて、待てど来ぬやうな知識をあてどなく待つのではなく、もっと現実に触れて、現実を見て、即ち「急げ今こそ汝の形成を/汝の深部に於いてより/汝の浅部に於いて/ああ汝の末端に/急げ汝の形成を」と、20歳の三島由紀夫は決心したのです。

この20歳の決心は、F104搭乗記の冒頭を読む限り、このときまで、全く変はることがなかつたことを意味してゐます。即ち、『三島由紀夫の人生の見取り図』による下記の25年の間、この二十歳(はたち)の決心は、変わることがなかつたのです。この間、三島由紀夫は散文家であつたといふことになります。

2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』

3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間

4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間


この縁と縁の探究者であるといふ三島由紀夫の考えと実践は、その方向が正反対であつたとはいへ、全く安部公房と共有する接点でありました。何故ならば、これは、安部公房の思考論理でもあるからです。それ故に、後者は「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」(「『対談』[対談者]大江健三郎、安部公房」安部公房全集第29巻、73ページ下段)と回想してゐるのです。どのやうに「全部うらがえしになっている」かは、三島由紀夫の十代の詩を論ずる中で、自づと出て参りませう。



44歳の三島由紀夫は、15歳の「お納戸」を「気密室」と呼んでをります。この閉鎖空間の中にあると、三島由紀夫は「ほのかに」死の匂ひを嗅ぐのです。

わたしの天才概念の定義は、次のやうなものです。

天才とは、十代に(或いは一桁の年齢のときに「既にして」)自分自身の人生の未来を予見し、予言してゐる者である。

安部公房然り、三島由紀夫然り、後者の好きであり古典主義時代に範としたドイツの文豪トーマス・マン然りであります。

次回は、掲題に名前を挙げたダリの十字架と三島由紀夫の十代の詩を論じます。










2015年8月22日土曜日

Der Schmerz des Wanderers(旅人の苦しみ):第35週 by Giesela Winterling(1963 ~ )


Der Schmerz des Wanderers(旅人の苦しみ):第35週 by Giesela Winterling1963 ~ )  



【原文】

Der Schmerz des Wanderers
Ist der Meine. - Ach was,
Komm, süsser Nachtlied Lust!
Bin von Schmerzen Doppelt,
Doppelt müde. Alles Treibens
Leid füllest, stillest du. Und
Bist der Brust Erquickung
Und all dem Elend Friede!
Ach, komm, in den Himmel!
Soll ich mit?



【散文訳】

旅人の苦しみは
わたしの苦しみだ。ああ、だから何だといふのだ
来い、甘い夜の歌の喜びの何ものかよ!
わたしは、二倍苦しみ、
二倍疲れてゐる。全てを追い立てる(衝動の)
悲しみを、お前は満たし、鎮静する。そして
お前は、胸の慰安であり
そして、悲惨のすべてにとつては、平和である!
ああ、来い、天国の中へと!
わたしも一緒に入れといふのか?



【解釈と鑑賞】


この詩人は、ドイツの詩人です。Wikipeidaはありませんでした。

しかし、ヘッセン州の首都ヴィースバーデンの近傍のコストハイムといふ町に住んでゐて、このやうな文学館を開館したとの記事が、土地の新聞に掲載されてをりましたので、ご紹介します。


この文学館の名前は、『マッチ箱』といひます。


わたしは、二倍苦しみ、
二倍疲れてゐる。


とあつて、何故この話者の苦しみと疲れが二倍であるのか、その理由は、次に続く、


全てを追い立てる
悲しみを、お前は満たし、鎮静する。


とあるやうに、この話者も此の旅人と同様に、普通ならば、悲しみがお前を満たすのであるのに対して、逆方向に、お前が悲しみを満たし、加へて鎮静までするからでせう。

使はれてゐる語彙は、Schmerz(苦しみ)、Wanderer(旅人)、Nachtlied(夜の歌)、Lust(喜び)、Treiben(衝動)、Leid(悲しみ)、Brust(胸)、Erquickung(慰安)、Elend(悲惨)、Friede(平和)、Himmel(天国)といふやうな語彙であり、これらは皆、古典的な語彙ばかりです。

それで簡潔な表現で短い詩になつてゐて、しかも何か複雑な事情を感じさせます。その複雑さは、


Ach was,
Komm, süsser Nachtlied Lust!
ああ、だから何だといふのだ
来い、甘い夜の歌の喜びの何ものかよ!


と訳したところにあります。

何度原詩を読み返しても、綴りに誤りはなく、この文字列のままで、この詩人は歌つてゐるのです。

従い、Nachtlied Lustを一語と解し、この文字のひとまとまりを、was(何だ)といふ語に二格として掛けました。









2015年8月18日火曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く8:三島由紀夫の『文化防衛論』と安部公房



三島由紀夫の十代の詩を読み解く8:三島由紀夫の『文化防衛論』と安部公房


三輪太郎氏が『群像』(9月号)に小説『憂国者たち』を発表したとことを聞きました。

この方は、四半世紀前に同じ群像にて、森孝雄名にて『豊饒の海』を論じて群像新人賞を受賞、それだけの時間を沈黙しての、今度は評論ではなく、小説での、しかも別名での登場といふことです。

わたくしは此の小説は未見ですが、既に読んだ友人の言によれば、三輪氏も三島が絶対自決できるとは思つていなかつた、という論点に立つてゐるとのことです。

これは、その読者が一体何歳のときに出逢つた三島由紀夫であり、そのときに得た三島由紀夫像であるのかといふことにかかつてゐるのではないでせうか。

還暦を過ぎたわたしが足を踏み入れた三島由紀夫の世界の三島由紀夫像は、この年齢の像ですから、大方の早熟な三島由紀夫読者とは当然のことながら異なることでせう。

わたしには、三島由紀夫の切腹は、かうして此の世界に足を踏み入れますと、詩人から小説家にならうとした時に、さうして三十代の初めに肉体を鍛え始めたときに、既に定まつていたのだと思はれます。

それは、『太陽と鉄』の冒頭に書いているやうに、言葉が言葉に対して其れ自体が白蟻であつて、胃酸や、銅版画をおかして線刻する再帰的な硝酸の作用を持つといふ考への中にあります。

三島由紀夫が十代で知つた此の言語の(華麗な隠喩を生んだ)本質である再帰性は、そのまま晩年の『文化防衛論』に語る3つの分類の第一に挙げる文化の再帰性となつて現れてをります。

この言葉と文化の再帰性は、同様に『日本文学小史』に詩論としての古代日本文学史に論ぜられている通りです。

すなはち、6歳の運動会を歌つた詩にある繰り返しが、これらの晩年の論考には、そのままあるのです。この6歳の詩『ウンドウクヮイ』を引いて、あなたの解釈と鑑賞に供します。


「ウンドウクヮイ

(一)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ

(二)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」


この詩については、後でもつと、44歳の戯曲『癩王のテラス』や詩集としての『近代能楽集』を論ずるときに引用して、解析します。

さて、この繰り返しの言葉の狭間に存在する美を肯定するか否定するか。もちろん肯定するわけですが、それを三島由紀夫は如何に肯定したかといふことなのです。そして、また、何を如何に否定したのか。

また、この6歳の詩を読みますと、実は繰り返しと繰り返しの間には一文字分の空白が無く、連続した意識のままに繰り返されてゐることが判ります。これが、平岡公威といふ少年の言葉に対する感覚の本質(関係)であるのです。

他方、ここが、安部公房の、恐らくは同じ一桁の年齢のときに詩『夜』とは異なつてゐるところであり、二人の言語藝術家としての違ひを分けたところなのです。勿論、安部公房の場合も、この詩の繰り返へしは、最晩年の『カンガルー・ノート』や、ワードプロセッサーのためのフロッピーディスクに死後見つかつた遺作『飛ぶ男』や『さまざまな父』にまで及んでゐることは、『奉天の窓の暗号を解読する』(もぐら通信第32号及び第33号)で詳細に論じた通りです。

三島由紀夫とは誠に対照的なことに、安部公房の繰り返しには、その間にいつも例外なく一文字分の空白があるのです。


「夜

「クリヌクイ クリヌクイ」
  カーテンにうつる月のかげ」


この「クリヌクイ クリヌクイ」といふ、秋冬の焼き栗の呼び声は、ヨーロッパ大陸の西端ポルトガルからユーラシア大陸の東の端の当時の満洲までに亘つて、その季節の風物である栗売りの声なのです。「栗温い、栗温い」といふ此の声が、どのやうに安部公房のその後の作品で、異界へと誘ふ人攫(さら)ひの声で当時からあつたかは、既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』で詳細に論じましたので、ご興味ある方は、この論考をお読み下さい(もぐら通信第32号及び第33号)。

従い、この言葉の再帰性といふ三島由紀夫の文学での論点は、全くそのまま、安部公房の文学に通じてゐることなのです。

三島由紀夫を一度好きになつて別れるためには、三島由紀夫と同質の虚構の世界を創造しなければなりません。三輪さんといふ方の小説の最後は、「三島さん さようなら」と結んでゐるさうですから、これが、この三輪さんといふ方の四半世紀の間堪えた沈黙の意味なのでせう。

それは、小林秀雄の読者が、批評文を書こうとするとぶつかる壁と同じ壁です。小林秀雄も三島由紀夫同様に、詩人です。

『金閣寺』刊行後の対談で、小林秀雄がこの作品を詩だと言つている通りではないでせうか。

何故ならば、主人公は吃りであり、吃りは同じ言葉を繰り返し発声する人間であり、そこに美を主人公は感ずるのであり、或いはそのやうな吃りの主人公を書く三島由紀夫が美を感ずるのであり、そこに叙情が生まれる、それ故のその人物の造形だからです。

三島由紀夫の十代の詩には、鸚鵡や九官鳥や梟といふ、言葉を繰り返す鳥が登場しますし、またその他数多(あまた)の言葉の繰り返へしが、大変よくうたはれてゐるのは、このためです。

閑話休題。

わたしは、安部公房の世界の読者ですので、安部公房の文学の再帰性(形、フォルム)、全体性(本物複製の無分別)、自主性(文化の生命の連続性)をよく知つてをりますので、『文化防衛論』の三島由紀夫のこの分類を、三島由紀夫の死後三島由紀夫とのことを回想して、安部公房は、次の二つの言葉で表してゐることを知つてをります。

1。文化の自己完結性の確信
2。言葉によって存在すること

この二つを、安部公房は三島由紀夫と共有していたといつてゐるのです。[註]

1と2は同じことの言い換へであつて、前者が成り立つためには、後者でなければなりませんし、後者であることによつて、前者が成り立ちます。即ち、言葉は言葉からしか生まれず、従い、文藝は文藝からしか生まれないのです。文藝は、政治からも経済からも生まれるものではありません。

従い、安部公房の此のふたつのいづれに焦点を当てるにせよ、このふたつは、そのまま三島由紀夫の分類になつています。次のやうに考へて下さい。

1。文化の自己完結性の確信(形、フォルム、本物複製の無分別、文化の生命の連続性)
2。言葉によって存在すること(形、フォルム、本物複製の無分別、文化の生命の連続性)

さて、このやうに、安部公房と三島由紀夫の間を行き来するといふことが、既にして安部公房的であることに、わたしは気づきます。

わたしの身の回りにゐる安部公房の読者は、三島由紀夫を読んでをりますし、その作品を素晴らしいと言つてをりますが、しかし、他方、私のお会ひする三島由紀夫の世界の読者の方々は、どうも安部公房の読者ではないやうです。

それは、何故かを考へることは、これはこれで興味ふかいことだと思はれます。

誤解を招くことを承知であへて譬(たと)へれば、先の戦争の後、丁度ふたりはそれぞれの人生に於いて詩人から小説家に変貌しようと苦心をしてをり、このことに成功した時から、三島由紀夫は戦後の時間を右脚だけで歩き、他方、安部公房は戦後の空間を左脚だけで歩かうとしたやうに見えます。

勿論、前者の左脚は透明に存在し、後者の右脚も透明に存在したのです。

この透明なそれぞれの右と左の脚を一つにして共有してゐたことの事実の表明が、安部公房の上に引用したふたつの事実であるのだと、わたしは思ひます。

この連載の第5回と第7回で、わたしは、

「これは何か、三島由紀夫の或る種の跛行を思わせる。即ち、小説の淵源に小説を持たずに、やはり詩を持つてゐるといふことから、このやうに考えてくると、その事情はそのまま、安部公房の小説群に通じるものを考えずにはいられない。この二人の大才が、先の戦争の後の時空間に生きて此の跛行を共に強ひられた」

といふことは何故だらうかといふことについて言及してをります。

これは、第7回の「個体発生は系統発生を繰り返す」といふ回答の他にある、もうひとつの、文化と言葉の視点からの、回答であるといふことになりませう。



[註]
以下『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、このふたつのことをお伝へします。少し長い引用となりますが、お読み下さい。:

[註24]
三島由紀夫の場合には、三島が現実に対して起こることを期待していたのは、左翼の過激派が暴徒化し警察力で抑えられない場合、自衛隊が治安出動することであり、更に、治安出動した自衛隊は憲法9条の改正を撤兵条件にし、国軍の地位を獲得するというシナリオでした。楯の会は警察力が潰えて自衛隊が治安出動するまでの間隙を自らの命を張って埋めるという目的を持って訓練していたと聞きます。そして、暴徒に素手で立ち向かい殺されることを本望としていました。

これが、三島由紀夫の描いたシナリオでした。

安部公房の場合には、安部公房が現実に対して起こることを期待していたのは、1957年に日本に革命が起きるという幻想でした。当時安部公房と親しかった画家、池田龍雄は、次のように回想しています。

「「もうすぐ、革命は近いよ」と、それが起こる可能性の年まで示して囁かれたときには、さすがに眉に唾を付けたものである。しかし、どこかでその気になっていたらしく、「1957年」という数字を読み込んだ暗号めいた文言が、わたしの当時の日記に残されているのは可笑しい。」(『安部公房を語る』所収の「詩的発明家--安部公房」、144ページ。あさひかわ社刊)

安部公房にも、同様にシナリオがありました。それは、専ら言語の側から描かれた革命のシナリオでした。

しかし、わたしが思わずにはいられないことは、このような天才と呼ぶべき、当時も今でも日本を代表する言語藝術家たちが、揃いも揃って、現実を信じすぎて、藝術の世界を踏み出して、現実と生きた人間に裏切られ、その命を喪い、また喪う危機に遭うことを承知で、みづから求めて死地に向かうということです。

このような三島由紀夫を自分の同類、即ち「戯曲以前に」「俳優が言葉による存在(原文傍点)でなければならない」(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)ということを十分深く理解していた三島由紀夫に対する安部公房の言葉が、やはり『反政治的な、あまりに反政治的な』にありますので、これを引用して、紹介します(全集第25巻、374下段~375ページ)。これは、三島由紀夫の死後6年経って、やっと書くことのできた、安部公房による鎮魂の文章です。

「ふと思う。ぼくらには案外根深い共通項があったのかもしれない。文学的にも思想的にも違っていたし、日常の趣味も違っていた。ぼくがカメラ・マニヤなら、彼は時計マニヤだった。ぼくが大の蟹好きなら、彼は大の蟹嫌いだった。しかし、ある種の存在(もしくは現象)に対する嫌悪感では、完全に一致していたように思う。いつか銀座のバーで飲んでいたとき、とつぜん二人同時に立ち上がってしまったことがある。同時にトイレに駆けこもうとしたのだ。理由に気付いて、大笑いになった。某評論家が入って来たところだった。
 ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。それが有効な武装だったかどうかは、今は問うまい。安易な非政治的文化論の臭気に耐えるほど、鼻づまりの楽観主義者になるには、いささか純粋すぎたのだ。文化的政治論も、政治的文化論も、いずれ似たようなものである。

 反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない。((以上傍線筆者)




2015年8月15日土曜日

tauben⚫︎⚫︎au(鳩の⚫︎⚫︎色):第32週 by Sabina Naef(1974~ )

tauben⚫︎⚫︎au(鳩の⚫︎⚫︎色):第32週 by Sabina Naef(1974~ )  



【原文】

vielleicht genügt es
dass meine Fragen schöner sind
als eure Antworten

wer kennt den Unterschied
zwischen taubengrau und taubenblau



【散文訳】

ひよつとしたら、これで十分
わたしの問ひが、あんたたちの答へよりも
美しいということで

誰が其の違ひを知らうか
鳩の灰色と鳩の青色の違ひを



【解釈と鑑賞】


この詩人は、スイスの詩人です。


あんたたちと訳しましたが、あなたたち、お前さんたちと、日本語ならば色々な訳があり得ませう。

それは何かと詩人が質問して、世間の人間はあれやこれやと答へるが、しかし、鳩の色は何色と訊いて、いや其れは灰色だ、いやさうではない、鳩の色は青色だと答へて、その違いを述べ、争つても、詮なきこと。

そんな答へよりも、わたしの問ひが、鳩の問ひのやうに美しくて多彩多様であれば、それで十分といふこと。



Wenn einer fortgeht(もし立ち去るならば):第31週 by Ingeborg Bachmann(1926~1973 )


Wenn einer fortgeht(もし立ち去るならば):第31週 by Ingeborg Bachmann1926~1973 )    



【原文】

Wenn einer fortgeht, muß er den Hut
mit den Muscheln, die er sommerüber
gesammelt hat, ins Meer werfen
und fahren mit wehendem Haar,
er muß den Tisch, den er seiner Liebe
deckte, ins Meer stürzen,
er muß den Rest des Weins,
der im Glas bliebe, ist Meer schütten,
er muß den Fischen sein Brot geben
und einen Tropfen Blut ins Meer mischen,
er muß sein Messer gut in die Wellen treiben
und seinen Schuh versenken,
Herz, Anker und Kreuz,
und fahren mit wehendem Haar!
Dann wird er wiederkommen.
Wann?
      Frag nicht.



【散文訳】


もし誰かが立ち去るならば、帽子を
夏中かけて集めた貝殻と一緒に、海の中に投げなければならない
そして、風になびく髪をして、車で行くのだ
愛する女性のために用意をした食卓を
海の中に突き落とさなければならない
グラスに残つた葡萄酒の残りを
海に振り撒かなければならない
魚たちに、自分のパンを与へなければならない
そして、一滴の血を、海の中に混ぜなければならない
自分の持つてゐるナイフを、きちんと波々の中に追ひやつて
そして、自分の靴を沈めなければならない
心臓(こころ)、錨(希望の象徴)と十字架
そして、風になびく髪をして、車で行くのだ!
すると、もう一度戻って来ることになる。
いつ?
  尋ねるのは野暮な話だ。




【解釈と鑑賞】


この詩人は、1926年生まれのオーストリアの詩人です。


20世紀のドイツ語圏の最も重要な抒情詩人であり、散文家であるとあります。

1977年より、この詩人を祈念して、インゲボルク・バッハマン賞が創設されてゐます。


もし誰かが立ち去るならば、といふ最初の条件文に対する主文が、~ねばならないといふ文として、幾つも詠まれてゐます。そのやうな形式の詩となつてゐる。

主文の行為は、みな出発するために捨てたり、誰か(魚)に施したりするといふ与へるだけの無償の行為です。

これらの行為は、みな、「心臓(こころ)、錨(希望の象徴)と十字架」を以つて、これらのために行はれ、「風になびく髪をして、車で」出発するのは、そのためであるのです。或いは、立ち去るといふことが、これら3つを必要とするといふこと。

最後の3行、

すると、もう一度戻って来ることになる。
いつ?
  尋ねるのは野暮な話だ。

といふ此の3行に、話者の、旅に出て生きることの確信があるのです。

必ず戻つて来るといふこと。いつといふ未来の時間は確約できないといふこと。それを尋ねることは野暮だといふこと。

これが、立ち去るといふ意味である、と。

してみると、海に捨てたすべての物たちが、帰つて来た時には、再びいつか蘇るかの如くに思はれる。いつとは確約はできないが。


2015年8月13日木曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く7:個体発生は系統発生を繰り返す


三島由紀夫の十代の詩を読み解く7:個体発生は系統発生を繰り返す


三島由紀夫の十代の詩を読み解き、その詩から小説と戯曲への発展生成といふことを思ふと、これが、日本の藝道の歴史を体現してゐるやうに思はれる。何故なら、日本の藝事は、いつもその全体の中の一部が分かれて、独立して出来てきたやうに見えるからです。

この考察の結果からみますと、次のやうに三島由紀夫のジャンル(genre)の創造がなされてゐることが、判ります。

1。詩から、その詩の認識、即ち、繰り返しと其の繰り返しの間に生ずる時差(時間)に美を感じ、叙情を感じたことから、『花ざかりの森』という小説が生まれた。
2。詩『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』という叙事詩から、『花ざかりの森』の論理をすべてひつくり返した『中世の一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』が生まれた。
また、その他の科白を含む複数の詩から、その散文的な会話の在り方から、小説が生まれた。
3。詩『日本的薄暮』から、その歌舞伎的な科白を含む一部が独立して、戯曲が生まれた。

これらのことをもっと簡明に書くと、次のやうになります。

詩=抒情詩→叙事詩→小説
詩=抒情詩→歌舞伎的な科白→戯曲

他方、わたしの狭い知見の範囲ではありますが、日本の藝道を見てみませう。

1。和歌(万葉集)→和歌物語(大和物語、伊勢物語)→源氏物語→物語(小説)
2。連歌→俳諧→俳句
3。仏前に供えるお花→華道
4。薬としての喫茶→茶道

このやうに、日本の藝道は、前の藝術の一部が独立して、一つの新しい藝術のジャンル(genre)が生まれます。

このやうに考へますと、わたしは生物学で教はつた、個体発生は系統発生を繰り返すといふ生物学の法則を思ひます。即ち、生まれる前の赤ん坊が、母なる人の体内で、その個体の上で生物のすべての系統発生を一度くり返して体現するのだといふ法則です。

文学の世界で、三島由紀夫一身の身の上に、この個体発生は系統発生を繰り返すといふ生物学の法則が発現したかのやうに思はれるのです。つまり、三島由紀夫の藝術家としての人生そのものが、日本の文藝の発生の歴史を一身上で繰り返してゐる。それ故に、最晩年の『日本文学小史』(1969年)といふ日本文学史を詩文(和歌)の歴史として、また歌物語の歴史として、自分の言語藝術家の人生のあり方として論じたのではないでせうか。それ故に、最初の章に方法論を置いたのではないでせうか。

この、今私が述べて文字にしてゐる考へそのものは、三島由紀夫は自分では文字にはしてゐないものと思はれますが、対して、安部公房は初期の名作『名もなき夜のために』(1948年)で、三島由紀夫の此の同じ一身上に起る経験を我が事として、次のやうに書いてをります(安部公房全集第1巻、553ページ)。勿論、三島由紀夫の場合と同じ、これは詩人の話です。

「(略)気をつけて見れば、どんな傷からでも、生と死を含めた全存在の傷が成長するのに気づくはずだ。これが貧しい僕にはせい一杯の贈物であるらしい。
 そしてもしそれが役立つものだとすれば、負数の時間を歩むことは丁度人間が胎児のあいだに生物の全歴史を繰返すように、すべての人に繰返される物への復帰の道だと考えてみたらどうだろう。死は生の終わったところにあるのでなく、その二つは常に等量に保たれていてそのあいだの振幅が現世であるように、正数の時間は等量の負数によって僕らを絶えず脱皮させるのではないかと……。この負数の道が、物への没落が、単に傷つき破れた少数のものだけの道ではなく、実に人間そのものが大きな傷であり、その道だと考えるのはもう傷ついたものの自己弁護になってしまうであろうか。僕は知りたい。ものに落ちてゆき、あるいは高まった人びとの叫びが、もう現世にはどどまり得ぬ儚いものにすぎなかったか、ほんとうに現世にとどまることがなかったか?そして反省や疑いや批判や、または嘲りや自虐がもうついて来られぬほど深い物の世界を予感し、無名になった部分だけであえてその中へ落ち沈み、融け去り、いままで自己の外部だとおもっていたものが、突如自分自身であることを主張しはじめるのに驚いた人の、例えば詩人たちの声が、ほんとうに傷ついた人びとの心を覆ってやる力を持たなかったかどうか、知ってみたい。」(傍線筆者)

この連載の第5回で、わたしは、

「これは何か、三島由紀夫の或る種の跛行を思わせる。即ち、小説の淵源に小説を持たずに、やはり詩を持つてゐるといふことから、このやうに考えてくると、その事情はそのまま、安部公房の小説群に通じるものを考えずにはいられない。この二人の大才が、先の戦争の後の時空間に生きて此の跛行を共に強ひられた」

といふことは何故だらうかといふことについて言及してをります。

これは丁度、この二人の若者が、三島由紀夫は20歳で、安部公房は21歳で大日本帝國の敗戦を迎えたといふこと、この事実が大変な事実であつたこと、この事実に堪えることが非常な困難を此の二人の大才に強ひたといふことを意味してゐると、わたしには思はれます。

この敗戦の時期は、丁度ふたりがそれぞれに、詩人から小説家に変貌しようといふ時期に当たつてをります。

その時に、小説から出発せずに、詩人として詩文から出発しなければならなかつたこと、そして詩では現実に対処して、それを美しい言語表現に隠喩(metaphor)を使つて表すことができなかつたといふこと、これがこのふたりの苦難であり、跛行の原因であつたのではないでせうか。勿論、ふたりがさうならば、その他の詩人たちも同様であつた筈です。

この苦しみのときに当たつて、私事を安易に語ることは、安易な人間には容易なことです。

ここに、非常に逆説的に、戦後の詩人たちが戦前との歴史を断ち切つて、私によつて書く私詩を「戦後詩」と呼びました。勿論、すべての詩人たちが安易な詩を書いたとは思ひません。しかし、他方これに反して、徹頭徹尾、ふたりの詩は全くそれを全面的に徹底的に否定する詩であり詩観であつたといふことが、非常に象徴的な戦後の文学の在り方を示してゐます。安部公房がリルケならば、三島由紀夫はヘルダーリンなのですから、それは当然のことといへませう。[註1]

そして、しかし、安部公房の小説は、めづらしくはないことに、往々に小説の中に詩が挿入されて、また写真といふ(安部公房にとつては)詩相当のものが挿入されることによつて、安部公房は日本の歴史と伝統に則つた歌物語(小説)を書き、三島由紀夫は、叙事詩としての小説を、抒情詩としての戯曲を、それぞれ散文の形式を借りて、書いたといふことになります。

「戦後詩」という私詩の詩人たちが詩を書き、他方、戦前に其の独自の詩の世界に閉ぢ籠つて決して私事を歌わなかつたふたりの詩人が、戦後に徹底的に私小説を否定した(今度は)虚構に満ちた小説を書き続けたといふこと、この事実は、日本の敗戦後の日本人の生活意識の、即ち常識の歪みと捻れを表してゐるのではないでせうか。この健康である筈の常識の歪みと捻れは、21世紀の今の世相にまで及んでゐるでありませう。

それ故に、ともに孤立を選び、常に反時代的であり続けたふたりであつたのです。

これが、言語と詩の世界から眺めた、ふたりの戦前戦後の、戦争を境にした二人の姿であり、ふたりに共通する人生の姿であるといふことになります。[註2]


[註1]
1958年10月1日の柾木恭介との対談「詩人には義務教育が必要である」(全集8巻、178ページ)では、安部公房は戦後の詩を読んでゐて、「詩というジャンルはすでに死滅したジャンルだね」と厳しく断言してゐます。それは、リルケの詩とは全く反対に、戦後詩の詩人たちは、形象(イメージ)を私のものだと考へ違いをして詩を書いたからです。リルケにならった安部公房にとつて、言葉によつて生まれる形象(イメージ)は私のものなどでは決してなく、それは生命そのものであり、それを表すのが(実体の無い)関数としての言葉でありました。

[註2]
安部公房は、三島由紀夫とは「言葉による存在」という考えを共有してをりました。これは、1973年に立ち上げた安部公房スタジオ創設時に、三島由紀夫を思ひ出しての前者の演劇論、演技論についての言葉でありますが、当然のことながら、小説もまた言語藝術である以上、同じ考えをふたりは共有してゐたのです。以下、拙論『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、三島由紀夫の世界の読者の理解に供します。

安部公房は、演劇論について、三島由紀夫と交わした議論を次のように話しています(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)。

「俳優が、言葉による存在(原文傍点)でなければならないのは、戯曲以前の問題なのである。と言っても、べつに驚く者はいないだろう。大半の俳優たちが、戯曲がなくても俳優は俳優だと信じ込んでいる。たしかに、言葉によって存在する(原文傍点)という条件さえ問わなければ、彼らもまた俳優にちがいない。この楽天主義が、ぼくを絶望させてしまうのだ。

 この問題を考えるたびに、しばしば三島由紀夫とかわした演劇論(というほど改まったものではないが)を思い出す。多くの面で、対立することの方が多かったが、言葉を喪った俳優に対する絶望という点では、いつも奇妙なくらい意見の一致をみたものだ。彼は、俳優の舌足らずを戯曲で補おうとして、ますますその結果に絶望し、ぼくは俳優の言語障害をパロディとして利用しようと試み、やはり絶望した。ぼくらはその絶望を酒の肴にして、大いにたのしみ、そのうち彼は演劇そのものに絶望してしまったようだが、ぼくは生きのびて、演劇のグループ結成という自己矛盾にまで足を突っ込んでしまう結果になった。彼が生きていたら、さぞかしあの高笑いを聞かせてくれたことだろう。」

これは俳優に求めた考えではありますが、しかし「言葉による存在」であること、そして「言葉によって存在する」こと、特に後者は戯曲と舞台の、前者は戯曲と舞台のみならず、そのまま小説についての、この二人の言語藝術家の共有する言葉と存在に関する考えであり、接点でありました。小説とは「言葉による存在」を創造すること、戯曲(drama、劇)と舞台は、役者が舞台の上で「言葉によって存在する」こと、そしてシナリオの執筆は、この二つの小説と戯曲について存在を媒介(函数)にして、この二つの領域を接続することだったのです。このことの、この時期の安部公房にとっての意義については、[註6]の安部公房の座談会での発言と[註17]の安部公房の書棚の写真をご覧ください。


さうして、安部公房は、終生、上の引用に書いた胎内から出ることなく(但し、日本共産党員であつた時代の最初の5年間が言語藝術家としての命の危機でした)、(当然私事である筈の全くない)存在(ザイン)の希求と存在への永劫回帰を、空間的に、また存在論的に、生涯繰り返したのに対して、三島由紀夫は、太陽と鉄の時代(古典主義の時代)に、小説家になると共に、その胎内から外に出て、従い時間的に、(小説『仮面の告白』の最初の一行にある)生まれる前の記憶の美と叙情と其れらの永遠の蘇生と新生を、現実の時間の中にゐる私の現在(ダーザイン)から過去を追想する時差の中に求め、それを(私事ではなく)虚構として繰り返へし表したといふことになります。[註3]

[註3]
胎内にとどまり続けることを、十代の安部公房は「未分化の実存」と呼び、さうして一生涯、このことを考えました。そのやうな私は、存在の中に存在するのです。生きた人間として存在に存在するといふ再帰的な人間のあり方としてあること、これが未分化の実存の人間の生き方です。他方、三島由紀夫は、詩人としては、既に学習院初等科に入学したときに、上の段落に書いた通りの、さうして後年20歳を超えて『仮面の告白』の冒頭の一行に書いた通りの人間であつたわけですから、これを何といふ言葉で、三島由紀夫は呼んだものか。

その人生の最後に『文化防衛論』を著し、「国民文化三特質」の第一番として、三島由紀夫は再帰性を挙げてゐることは、上に述べたことに深く関係してをります。再帰性(形(フォルム))、全体性(本物複製の無分別)、主体性(文化の生命の連続性)。これを、国民に対してではなく、三島由紀夫自身の文学に対して適用すれば、安部公房が「未分化の実存」と呼んだことを、日本の文化の此の三つの特質として三島由紀夫は挙げてゐるばかりではなく、自分自身の文学の特質として、さう呼んでゐるといふことになります。

この最初に挙げられてゐる再帰性こそは、この連載の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の人生の見取り図2』の「1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材」で述べましたやうに、

「三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴は、6歳のときに書いた最初の『ウンドウクアイ』(決定版三島由紀夫全集第37巻。以下「決定版第37巻」と略称す。同巻17ページ)に既にあるやうな、言葉、即ち音声と文字の繰り返しによる様式化です。

言葉の繰り返しと、そこに現れる時間の差、即ち時差に美を感じ叙情を感じてゐるのです。」

と書いた、この繰り返しの様式化が、三島由紀夫にとつての再帰性、即ち形であり、フォルムであるのです。いつも此の追憶の時差から生まれる、源泉の感情から湧き出る言葉によつて構成される様式に再帰するのです。

さうして、それがそのまま、全体性(本物複製の無分別)、主体性(文化の生命の連続性)に通じてゐるのです。


このことが、それぞれの人生に於いて、それぞれの一身上で、詩人としての個体発生が藝術の複数のジャンルの系統発生を繰り返したことの、二人の大才に苦痛に満ちた負荷を掛けた原因であり、また同時に結果であり、しかし、その負荷に絶えぬいて全うした二人の人生であつたのだといふことになります。