2011年5月28日土曜日

Mittags um zwei(いつものお昼の2時に):第23週

Mittags um zwei(いつものお昼の2時に):第23週

by Guenter Eich (1907 - 1972)


【原文】

Der graue Spitz des Pfarrers
an der Sakristeituer.
Vor seinen erblindenden Augen
schwirren im Sand die Fluegel der Sperlinge.

Er spuert wie Erinnerungen
die Schnur des Fasanenbuendels,
die in der Friedhofsmauer als Riss erschien,
das Beben der Grabsteine,
wenn die Raupe buckelt vorm laehmenden Stich,
die Verfaerbung der Ziegel
beim Schrei des sterbenden Maulwurfs.
Gelassen vernimmt er
das Geruecht aus den Waeldern,
die Tore des Paradieses wuerden geoeffnet.


【散文訳】

牧師の飼っている灰色のスピッツが
祭具室の傍にいる。
その失明している目の前
砂の中で、雀の翼が音を立てて廻っている。

犬は、思い出のように
雉の羽を束ねている紐を感じていて、
紐は、墓地の壁の中で、割れ目として現れている
墓石が振動する
芋虫が、麻痺させる一突きの前で背中を丸める度に
煉瓦が変色する
死につつあるモグラの叫びで
冷静に、犬は、
森の中からやってくる匂いを知覚する
天国の扉が開かれると思う


【解釈】

ドイツ人と日本人では、お昼の感覚が違うのだろう。

午後の2時も、Mittag、ミッターク、日本語に当たる言葉では「お昼」なのだろう。

明るい時間帯の中核の時間帯を、お昼といっているのかと思われる。

この詩人のドイツ語のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/G%C3%BCnter_Eich

ドイツのラジオドラマの作者にして、抒情詩人とあります。

確かに、これは叙情詩なのだと思う。

何か、現代詩らしい、あるいは20世紀の現代詩らしい詩という感じがします。

これは、味わってもらう以外には、註釈は不要ではないかと思います。

Mittagsとあるので、このお昼は、ある一日なのではなく、毎日この時間が繰り返すという意味。

この詩の出来事も、毎日繰り返される。

午後2時に。

2011年5月21日土曜日

Der Lackbaumgarten(漆の木のある庭園):第22週

Der Lackbaumgarten(漆の木のある庭園):第22週

by Wang Wei (701 - 761)


【原文】

Kein aufgeblasener Beamter war jener Mann des Altertums,
Er hielt sich fern von allen Staatsgeschaeften.
Sein unbedeutend Poestchen verpflichtete ihn nur,
Im Auf-Und-Ab-Schlendern die Baumstaemme zu zaehlen.


【散文訳】

高慢な官吏はだれも、古代のあの男ではなかった、
この男は、すべての国家の仕事から遠く身を遠ざけていた。
その取るに足らない軽少な地位は、彼に、
行ったり来たり、ぶらぶらとしながら歩いて、ただ、
樹木の幹の数を数える義務を課しただけであった。


【解釈】

中国の詩人です。

生年と没年がカレンダーと次のWikipediaでは数年違っていますが、これは、王維のことだと思います。

王維の詩は、いい。わたしの好きな詩人のひとりです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Wang_Wei_%288th_century_poet%29

原詩は、どういう詩なのか。

ご存じの方がいらしたら、お教えください。

古代のあの男というのは、誰のことであろうか。

わたしは、こういう人生に惹かれる。

それは、無名に徹した人生であるからでせう。

それは、どのような人生でせう。

1,2,3、..と数を数える人生です。繰り返し、繰り返し。

普段わたしたちは全然意識していませんが、数を数えるということは、重要です。そのことによって、人間は何か宇宙の本質に関わることをしている。あるいは、宇宙の秘密を実は知っているということを表している。

1,2,3と数を数えると、限りがない。(あるいは、どういう順序で、1,2,3と数えるのか?)限りがないということを知る。そうすると、次元という概念に至るでしょう。

この詩に詠われたような人間が、実は文明の根底に生きている。

と、わたしは、そう思います。

王維の日本語のWikipediaです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B6%AD

王維の詩を以下に。

鹿柴

空山不見人
但聞人語響
返景入深林
復照靑苔上


送元二使安西

渭城朝雨裛輕塵
客舍青青柳色新
勸君更盡一杯酒
西出陽關無故人


追記:



2011年05月21日
10:09

ban

もう(車に網の旁)川集という連作の一首。

漆園

古人非傲吏
自闕経世務
偶寄一微官
婆娑数殊樹

古人(荘子)は傲慢な官吏ではない
彼は自ら世を治める仕事を避けたのだ
私もまたささやかな官職にこの身をあずけ、
荘先生の哲学にあやかって、何本かの庭の木の下で気ままにぶらぶらする。



2011年05月21日
10:42

タクランケ

banさん、

引用、ありがとうございます。

この古人は、荘子でしたか。

同じ漢詩から訳して、ほぼ意はともに尽くしてはいるものの、
微妙に違うところが面白いですね。

漢詩最後の行は、やはり数えるという動詞があって、これを字義通りに
解したか、また譬喩的に、その転義で解したかの違いが、ドイツ語訳と日本語訳には、ありますね。

いづれも可也だと思いますが、わたしは、やはり、字義通りに、数を数えたいところです。

2011年5月14日土曜日

Der Aromat(芳香発生器):第21週

Der Aromat(芳香発生器):第21週

by Christian Morgenstern (1871 - 1914)


【原文】

Angeregt durch Korfs Geruchs-Sonaten,
gruenden Freunde einen >Aromaten<.
Einen Raum, in welchem, kurz gesprochen,
nicht geschlueckt wird, sondern nur gerochen.
Gegen Einwurf kleiner Muenzen treten
aus der Wand balsamische Trompeten,
die den Gaesten in geblaehte Nasen,
was sie wuenschen, leicht und lustig blasen.
Und zugleich erscheint auf einem Schild
des Gerichtes wohlgetroffnes Bild.
Viele Hunderte, um nicht zu luegen,
speisen nun erst wirklich mit Vergnuegen.


【散文訳】

コルフ作曲の匂いのソナタに触発されて
友人たちが芳香発生器を建設する。
これは、簡単に言うと、その空間の中では、
喉を通してのみ込むのではなく、ただ匂いがするだけのもの。
小銭を入れると、壁の中から、香油の香りの高らかに匂い立つ
トランペットの音が現れ、顧客の鼻の中に
望むものを、軽やかに、そして陽気に吹き込むのだ。
そうして、同時に料理の盾の上には
快感に訴える(料理の)絵が現れる。
何百人ものひとが、嘘ではないのだが、
こうしてやっと本当に満足しながら
食事をしているのだ。


【解釈】

何か、古典的なSF小説の一場面を読んでいるような気のする詩です。

このひとについてのウエッブサイトを見つけました。

なるほどそうだ。これによれば、この詩人は、こういう風体の詩を書いた詩人のようです。

ユーモア、諧謔、グロテスク、SFの詩。

http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/Deutsch/miyauchi/morgenstern.html

こういうタイプの詩人は、日本にはいないと思います。

日本の詩人は、皆、こうしてみると真面目すぎると思う。

わたくしなどのトーシローも、詩を書こうとすると、案外こういう方面に活路があるのかも知れないと思いました。(こんな変な詩なら、一杯書けそうな気がする。)

一寸、この詩人を読んでみよう。

つまり、この世にない物事を詩にするということ。

2011年5月7日土曜日

今日の一日(ドイツ語、ファウスト、ドラえもん:三題噺)

今日、関口存男のドイツ語大講座下巻を読了す。

裏表紙に読了の年月日を書き入れる。

また次回読むときの感慨を、これらの文字が、催せしめることであらう。

ゲーテのファウストを、昨日に続き、今日も読む。

正確に言えば、いわゆるファウストではなく、その前のUr-Faust、ウルファウスト、原ファウストである。

ファウストとメフィストーフェレスの関係で、よく似た関係があったな、あれだれだったけかなあと、頭の中であれこれ思い出してみて、想到したのが、何あらう、のび太君とドラえもんの関係である。

これは、現代のファウスト、現代のメフィストーフェレスなのではないだろうか。

相当デフォルメされていて、つまり、それだけ、堕落した典型ではあるのだが。(その分、読者、観客には心地がいい。)

現代のファウスト、のび太は、しずかちゃんの寝室のクローゼットに、見えないようにして、忍び込ませろとは、ドラえもんには決して命令しないのである。そうして、のび太は、しずかちゃんが夜、その部屋で着物を一枚また一枚と脱いでゆく姿をみることはないのであるが。しかし、ファウストは、命令し、その姿を見るのであるが。

(ああ、わたしにもメフィストーフェレスがいればなあ。と思はしめるところ
が、この作品の普遍性の、即ちエロスの宿るところであろう。

このウルファウストを読むと、グレートヒェンは、処女ではなく、既に一子をなしている。これは、言わば現代風に言えば、不倫の関係である。

しかし、ゲーテというひとは、女の恋情というものを巧みに言葉にするものだ。やはり、女が好きだったのであるなあ。わたくしも、この歳になって、よくその気持がわかるのである。)

これは、戯曲であるので、ドイツ、ヨーロッパの、既に読者や観客の無意識に持つ、ある了解を前提に、組み立ててあると思う。

しかし、メフィストーフェレスが悪魔といっても、悪魔という形姿は、なかなか、日本人である我々の日常の中には思い浮かばれないのである。芥川龍之介の作品の中に煙草と悪魔というのがあって、ここに出てくるが。

ウルファウストを読んで、ファウストのフルネームが、ハインリッヒ・ファウストであるということを知った。

ファウストとは、拳骨(げんこつ)という意味であるが、ハインリッヒとはまた平凡な名前を付けたものだと思う。

ここにも、ゲーテの思慮は働いているのだろう。

明日中には、ウルファウストを読了することであろう。

Raps(ラップミュージック):第20週

Raps(ラップミュージック):第20週

by Marcel Beyer (1965年生まれ)


【原文】

Auf einer leeren Landstrasse sitzt du am Mittag hinterm
Steuer, zwei polinische Sender wechseln sich ab, in
dir spricht nichts, du meinst schon bald, du bist ganz
ohne Woerter aufgewachsen, und dann das: Raps,

hart gezeichnet, klare Linie, gestreute, dichte Rapsarbeit,
das Feld laeuft an, das Bild laeuft voll mit Raps, Raps
bis zur Kante, bis zum Haaransatz, randvoll mit Raps,

Rapsauge, Rapskopf, Rapsgeraeusche, kein Presszeug,
keine Margarine, nichts als Raps.


【散文】

ある人通りのない、車も走っていない国道で、君は、お昼に
ハンドルの前にいて、ふたつのポーランド語の放送が交互に聞こえて、
君の中では話すものは何もなく、君はもうじきこう思うのさ、お前は
全く言葉無しに大きくなったんだぜ、そうして、すると、これだ:ラップ!

がっつりラップ印で、くっきりラインに、バッチリ撒(ま)き散らした濃密なラップ仕事、
目の前が滑走し、見るものがラップで一杯に満たされて走っていて、ラップなんだ
隅から隅まで、髪の毛の先まで、目一杯ラップなんだ

ラップ目玉、ラップ頭、ラップ雑音、抑えつけるものじゃ全然なくて、
マーガリンではなくて、ラップ、ただただラップだけなんだ

【解釈】

この詩人のWikipedia(ドイツ語)です。こんな詩人。

http://de.wikipedia.org/wiki/Marcel_Beyer

これは、ラップすることの体験をそのまま詩にした詩だと思います。

冒頭のイントロダクションは、ラップする若者の雰囲気をよく表している。

「ふたつのポーランド語の放送が交互に聞こえて、」というのは、ひとりでに放送が切り替わるように書いているところに、感覚的な表現があると思います。たとえ、実際には、運転席にいる若者が
チャンネルを切り替えているとしても。

「お前は全く言葉無しに大きくなったんだぜ」というところが、ラップの精神、真髄を表していると思います。ラップは、言葉を介さない。もっと直接的なものなのだと歌っているのです。

「バッチリ撒(ま)き散らした濃密なラップ仕事」と訳したところは、普通の仕事をラップでやっつけると、ラップの仕事になるともとれるし、もともとラップが仕事だともとれます。

これは、註釈は不要の詩ではないでしょうか。

最後の、マーガリンではなくて、という言葉の意味は、紛(まが)い物、偽物、二流品という意味ではないという意味だと思います。つまり、バターの代りではない、ラップは本物だと歌っている。

この詩は、そのままドイツ語でラップの歌詞になっているのではないかなと思います。

日本語にも、その調子を写したかったけれども、難しいものでした。