2015年9月26日土曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く24:詩論としての『絹と明察』(7):余話:何故日本の経営者には風雅(みやび)が無いのか?


三島由紀夫の十代の詩を読み解く24:詩論としての『絹と明察』(7):余話:何故日本の経営者には風雅(みやび)が無いのか?


1。何故日本人の経営者には風雅が欠かけてゐるか

三島由紀夫が『絹と明察』の第1章を「駒沢善次郎の風雅」題し、その最初に此の創業者である事業者の風雅を書いて小説を始めるのは理由のあることでありませう。

これは、1964年、三島由紀夫39歳のときに、この作家は、その問題を見抜いてゐたといふことを示してゐます。即ち、最初から、先の敗戦の後に日本にはゐない経営者を、知つてゐて、主人公に仕立てたといふことになります。

勿論、日本の戦後の経済の興隆に従ひ、金にあかせて、個人の金ではなく、会社の金で美術品を購入する経営者はゐたでせう。しかし、わたしが此処で風雅といつてゐるのは、詩のこころがあるかどうかといふことなのです。これは、三島由紀夫が『文化防衛論』や『日本文学小史』て論じた詩のこころのことです。今この詳細には、後日を期して、立ち入りません。

しかし、日本の国にとつての第一の「断絃の時」、即ち明治の時代には、やはり創業型の事業家には、詩文のこころ、即ち風雅があつた。さうして、昭和の初期まで、それは続いてゐた。

益田鈍翁、松永耳庵、原三渓の名を挙げれば、説明は無用でありませう。松永安左衛門は、1971年、昭和46年に没してをりますから、この時までは、日本の経営者にも風雅が生きてゐたといふことができます。

電力の鬼と呼ばれた此の茶人が、三島由紀夫の自決の年の一年後に没してゐるといふことは、やはり歴史が、わたしたち日本人に、否応なく、語りかけて来るものがあります。

さて、現実の世界のことは、さうだとして、虚構の世界では、通俗的に見える駒沢善次郎の風雅と、それに批判的な岡野の好む詩のこころとは、一体どれだけの隔たりがあるでせうか。

日本人の散文詩、即ち1917年(大正6年)32歳で、第一詩集『月に吠える』を自費出版して萩原朔太郎の打ち立てた口語自由詩の世界の詩人たちを知つてをり、また社会の中で、実業の世界で、創業者である複数の経営者たちを間近に見たわたしの眼には、この二人の相反は、全く敗戦後の第二の「断絃の時」から21世紀の今に至るまでも尚、日本の国での、風雅と商業的な人間との相反そのものであると思はれます。

しかし、わたしの経験によれば、イギリスやドイツでは、さうでは全くない。人間の商業的経済的な活動の根底に風雅が生きてをります。イギリスとドイツがさうであれば、フランスもまた、さうではないかと思はれる。ヨーロッパの主要な3国であるイギリスとドイツとフランスがさうであれば、その他のヨーロッパの諸国もさうではないかと思はれる。

何故ならば、これらの諸国のそれぞれの歴史は連綿と続いてゐて、絶えることなく、首尾一貫してゐるからです。

わたしが高級車を製造するドイツの有名な製造会社の日本の子会社に職を奉じてゐたときの話です。

2011年3月11日に、三陸沖を震源とした大地震と大津波が起こりました。さうして、4月の末から5月の初旬にかかる連続的な休日を前にして、その前日に、当時の社長職の、営業一筋のイギリス人の経営者は、一体どのやうな言葉を、社内のメーリング・システムを使つて、社員に送つたか。

イギリスの桂冠詩人、テニスンのUlyssisの詩を引用して、落胆し、苦しみながら毎日会社のために働く勤勉なる日本人たちへの慰労と感謝と、古代ギリシャの神話の世界の英雄、ユリシーズのやうに、航海の船が荒海で難破をして、戦友を喪い、船も壊れて、波打ち際に打ち上げられ、しかしそれでも尚、不撓不屈の精神を以つて立ち上がる、その神々しい英雄の姿を歌ふ自国イギリスの詩人の詩を以つて、さあ、日本人よ立ち上がれと呼びかけ、日本人と日本の国の再生復活を願ふ言葉としたのです。わたしは、感動しました。

そのメッセージは、最初に3月11日の大災害で被災した人たちへの運命と苦しみに対する心配の言葉で始まり、今回の悲劇から得た教訓は「人生は脆く、寿命を延ばすより、生きている間に如何に充実した時間を過ごすかに重点をおくべき」といふことであるといひ、バランスのとれた人生が大切であるから、会社として社員にお願ひしたいのは家族、友人と共にそしてご自身のために時間を費やしてもらひたいということ、休暇もそのように取り計らつたとふこと、さうして、この数週間、社員が果敢に困難に立ち向かつたことに今一度感謝の言葉を述べ、「日本および日本人の勇気と人間味あふれる国民性に触れることができ」、自分にとつては「精神的に高揚感を覚えることができた貴重な体験」(a spiritually uplifting experience to witness the courage and humanity evident in this nation and its people)となつたといふことを述べてから、今後は、社員と日本が示した勇敢な姿勢を励みに将来に目を向けて行かう、そのために、ここに19世紀イギリスの詩人アルフレッド・テニスンの詩を紹介しますと言つて、「疲弊し、傷ついた旅人たちとその精神を表わした「ユリシーズ」という詩の最後の部分」を引用するのです。


「今の我々にかつて天と地を行き来した力強さはない 
 時代と運命により弱くなれど 
 英雄的な心は今も等しく抱き、 
 意志は強い 
 戦い、求め、 
 決して屈服しない!」

“Though we be not now of that strength that in days of old Moved earth and heaven,
That which we are, we are:
One temper of heroic hearts, made weak by time and fate,
But strong in will:To strive, to seek to find
And not to yield”

さうして、この引用の後に続けて、このユリシーズの姿は毎日目にする今の日本国民の精神に大変近いと思ふと言ひ、この精神は、「今後も大切にして育むべきもので、残酷なまでの運命に直面した時に拠り所となる心構えです。」と言ひ、今回社員と経験を共にし、その精神に触れ、活気あふれる日本への復興に貢献できることは、私にとって誇りであり、栄誉に感じてゐると続けて、社員の休日が平穏で、くつろぎをもたらし、楽しい日々でありますようにと願ふ言葉で結んでをります。

今読んでも素晴らしい文章であり、言葉の力です。

また、このイギリス人の経営者の引用したテニスンの詩を読むと、詩人の能力とは、平時にあって難事を想像する能力、即ちこれがそのまま詩人の譬喩(ひゆ)の能力であると、これも改めて思わざるを得ません。

震災時の日本人のただ情緒的に反応するだけではない、さうではない理性のある人間の言葉であると思ひます。

大震災の後、今、この引用の詩を読むと誠に感慨深いものがあります。

これを思ひ見ますと、自国の民族の詩人の詩を引用するという行為に、詩の社会的な、重要な役割があると、改めて思います。

ヨーロッパでの詩人の地位は、勿論社会的に高い地位なのであり、尊敬されるべき藝術の仕事の一つなのです。

日本の詩人の書く詩が、社会にそのように大切に遇せられてゐるだろうか?さうでないとしたら、それは何故であらうか?

今回の大震災で、多くの日本の詩人が発言もし、詩も発表したやうですが、国が危機のとき、ひとが、個人が、難事に直面したときに、果たして引用に足る詩を書いたのかどうかといふことは、このやうに考えて来ると、それは、日本人の書く詩に対する、ひとつの試金石、ひとつの評価尺度になると、わたしは思ひます。

かうしてみると、日本の詩のありかたも、経済社会のありかたも、お互ひに非常に偏つてゐるやうに思はれる。


2。仕事の中の詩

ドイツ人の社会に接してみて驚くのは、このゲルマン民族のビジネスマン、ビジネスウーマンたちは、自分の職業人としての節目節目に自国の詩人の詩を引用して関係各位に挨拶をするということです。勿論、100人が100人ではないにせよ。

これは、礼儀でもあり、習慣でもあり、社会に生きて教養のある人間の文化なのでせう。さう思ふ以外にはありません。

三島由紀夫が『文化防衛論』で、日本人の教養を論じてゐたことを思ひ出さずにはゐられない。その評言は、日本の敗戦後の軽佻浮薄の欠陥を正確に言ひ当ててゐます。

わたしの経験では、ドイツ人のみならず、一度も面識のない、しかし日常メールで仕事の上でやりとりをしてゐたインド人も同じように詩を引用して、自分の人生と自分の其の時のこころの在り方の文脈にあつた詩を選び、世界中の同僚に発信をして、その職場を離れていつたことを思ひ出します。

ドイツ人の同僚が、職場を離れて配属の変わるときに、2008年2月29日18:45にドイツからメールで寄越した送別の詩をごらんください。仕事の中の詩、ビジネスの中に生きてゐる詩といふことができませう。

当時のわたしのメモ書きを引用します。それは、

「この年の1月にドイツのワークショップであつた女性から、招待状といふ件名のメールがドイツ語で届いたので、見てみると、配属が3月1日付けで変はり、新しい職場は北ドイツのブレーメンで、これまでの国際的な部門から国内部門に転属するといふことで、その心境を、ドイツ語の詩をひとつそのまま引用して、文章の締めくくりとしていたメールであつた。

日本語の世界を顧みて、こんな事件が起こることは、決してあるまいと思つた次第。しかし、かう書いてみて、俳句や川柳ならば、十分あり得るとも思つた。それは、わたしの、この詩に対する返歌ともいうべき反応にも、かうして今思ふと、現はてゐる。原語を掲げ、訳してみる。

Die Ameisen

In Hamburg lebten zwei Ameisen, 
Die wollten nach Australien reisen. 
Bei Altona auf der Chaussee
Da taten ihnen die Beine weh, 
Und da verzichteten sie weise
Denn auf den letzten Teil der Reise.
So will man oft und kann doch nicht
Und leistet dann recht gern Verzicht.
(  1912, Joachim Ringelnatz)

二匹の蟻

二匹の蟻がハンブルグに住んでゐた。
オーストラリアに行つてみようと思つた。
街道を行くと、アルトーナのあたりで
脚が痛くなつたので、賢明なことに、
そこで旅の最後の旅程を諦めた。
このやうに、同様に、よく、さうしたいと思つても、
しかし、どつこい、さうはできないで、やつとこどつこい、
諦めを成就するといふのが、ひとの常。


ハンブルグといふのは、ハンザ同盟の大きな有名な港で、そこからオーストラリアへ行くには、ドイツからみると一番チャンスの多い、最高の土地であるのに、世間知らずの小さな蟻2匹は、(この2匹という言い方にも、既に意味が有ると思う。つまり、仲の良い友達、内輪の世間知らずの関係と行ったような意味が)、内国の街道を渡って、多分このアルトーナとは、内陸にある町なのだろう、それも有名ではない。これは、ドイツ人が読んだら、多分吹き出すのではないかと思はれる、道中の描写なのだ。街道と、わたしは訳したが、Chauseeといふのは、整備され、両側に高い木々の聳え立つ、国家が手を入れた立派な道路。Chauseeとは、ドイツ語ではなく、フランス語。きっと、フランス人に倣つてつくつた交通網なのだらう。

自分が北ドイツのハンブルグ方面にゆき、ブレーメンに行き着いた、ハンブルグに行きたいと思つて出発したのに、途中で頓挫して、ここが新しい仕事場だといふときに感じた、今の自分の気持ちを、この詩に託して、世界中の同僚に発信したのだらう。つまり、ハンブルグといふ素晴らしい国際的な職場に自分はゐたのに、内国の職場に転じてみて、初めて、その良さがわかつたといふ、そのやうな気持ちも託してゐるに違ひない。」

わたしは、この詩のお返しに、松尾芭蕉の『奥の細道』の有名な最初の句、行く春や鳥啼き魚の目は泪、この一句を少し解説し、日本語のままの詩とともに、ドイツ語に訳して、お返しとした。

こういう餞(はなむけ)の言葉は、詩ではなく、俳句だということが、面白く思はれる。

日本の詩人達は、商売の世界に詩があるということを、真剣に考へたこと、想像したことがあるだらうか。

もちろん、このやうな詩を掲げる女性と、その会社のドイツ人達の文学的な教養の高さといふものは、間違ひなくあるにしても。


3。ドイツの日常生活にある詩

以下、ドイツで直かに見聞した詩の話を致します。これも、興味深い。詩文が日常に生きるには、如何に歴史と伝統の継続が、三島由紀夫ならば「再帰性、全体性、自主性」が不可欠であり、大切かといふことを教へてくれる、国立市の図書館の月報に掲載された私の体験記です。

「ドイツとのご縁は、わたくしが学生のときに第2外国語にドイツ語を選んだときから始まります。もう35年も前の話になります。それ以来仕事の都合でドイツへ行くこともあり、あちこちの町を訪ねることもあつて、さういつた町のひとつハイデルベルクは何度も訪れました。そのそばを流れるネッカー河とともに、さうしてまたその美しい中世の町でドイツ人の友、ハインツの知遇を得たことからも、既にわたくしの人生の一部となつてゐます。

さて、ドイツを旅したときの見聞もまじえて書いてみます。わたしがこの3年程公民館主催の詩のワークショップに参加して、詩について考へてきましたので、シュツットガルトという町を旅したときの詩のお話をひとつ当時のメモのまま引用してみたいと思ひます。それは、今は昔、二〇〇七年十月二十七日のこと。

シュツットガルトの旧市街Alte Kanzelei(アルテ・カンツェライ)というレストランにて食事をする。ドイツ人二人に、同行の日本人の女性、計4名。食事をしてゐると、3人の若者がやってきた。いづれも大きな、ツバの広い黒い帽子をかむり、後ろの尻の辺りに、肩から下げたずた袋とでもいふやうな袋を2つ3つぶらさげてゐる。

 ひとりはベルリンから、ふたりはハンブルクから、三人目はどこの町であつたか、いづれも修業中の大工の徒弟である。中世以来の慣はしではあるが、後でこの話をハインツにしたら、これは全く今では珍しい、稀なことといふことであつたから、いい経験をしたものだと思ふ。

 ベルリンから来た若者が、突如として声をあげ、客に向かつて、道中の懐が寂しくなつたので、喜捨を御願いしたいといふ。これは、ドイツ語でabgebrannt(アプ・ゲブラント)といふのを耳にした。これは、すつからかんの一文無しになつたといふ意味。

 すばらしかつたことは、この若者は右手に杖を持ち、口上のリズムに合はせて、床を突いて音をたて、喜捨を乞ふ言葉が、そのまま一篇の即興の詩になつていたといふことだ。あるいは、即興ではなく、伝統的な様式であつたのかも知れない。

 客のテーブルを回つて喜捨をうけ、私達のテーブルに来たので、同行のドイツ人とのやりとりを聞いてゐると、3年と1日の修業期間で、その間自分の故郷の町の15キロメートル四方から、いわばところ払ひで、入ることができない掟なのださうだ。3人は偶然に、旅の途次、この町であつたのださうである。

 ドイツの中世の風情を彷彿とさせる、ここにも詩が生きている一幕であつた。

と、わたしは書いてゐますが、このやうな場合だけではなく、普通に地下鉄に乗つてゐても、その車両に、丁度広告を張るような窓の上のところに、ドイツ人の詩人の詩が掲示されてゐるのです。ハインリッヒ・ハイネやヘルマン・ヘッセの詩が掲示されてゐます。詩が日常生活にある。

日本語の詩もそのやうでありたいと思ひます。

さて、ハイネの詩集に「歌の本」という詩集があります。これは、わたしたちに知られたローレライといふ詩の収められた素晴らしい詩集です。ご興味のある方は、岩波文庫にありますので、お読みいただけたらと思ひます。

書店から、ドイツ文学の棚が消滅していく昨今、少しでもドイツの詩に接してくださる方がいればと思つてゐます。」

ハイネは、十代の三島由紀夫がドイツ語で引き写したほどに好きな詩人でした。

また、この三島由紀夫十代詩論で、論ずることになりませう。

2015年9月25日金曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く23:詩論としての『絹と明察』(6):ヘルダーリンの『追想』


三島由紀夫の十代の詩を読み解く23:詩論としての『絹と明察』(6):ヘルダーリンの『追想』


【原文】

Andenken
                             
Der Nordost wehet,
Der liebste unter den Winden
Mir, weil er feurigen Geist
Und gute Fahrt verheißet den Schiffern.
Geh aber nun und grüße
Die schöne Garonne,
Und die Gärten von Bourdeaux
Dort, wo am scharfen Ufer
Hingehet der Steg und in den Strom
Tief fällt der Bach, darüber aber
Hinschauet ein edel Paar
Von Eichen und Silberpappeln;

Noch denket das mir wohl und wie
Die breiten Gipfel neiget
Der Ulmwald, über die Mühl',
Im Hofe aber wächset ein Feigenbaum.
An Feiertagen gehn
Die braunen Frauen daselbst
Auf seidnen Boden,
Zur Märzenzeit,
Wenn gleich ist Nacht und Tag,
Und über langsamen Stegen,
Von goldenen Träumen schwer,
Einwiegende Lüfte ziehen.

Es reiche aber,
Des dunkeln Lichtes voll,
Mir einer den duftenden Becher,
Damit ich ruhen möge; denn süß
Wär' unter Schatten der Schlummer.
Nicht ist es gut,
Seellos von sterblichen
Gedanken zu sein. Doch gut
Ist ein Gespräch und zu sagen
Des Herzens Meinung, zu hören viel
Von Tagen der Lieb',
Und Taten, welche geschehen.

Wo aber sind die Freunde? Bellarmin
Mit dem Gefährten? Mancher
Trägt Scheue, an die Quelle zu gehn;
Es beginnet nämlich der Reichtum
Im Meere. Sie,
Wie Maler, bringen zusammen
Das Schöne der Erd' und verschmähn
Den geflügelten Krieg nicht, und
Zu wohnen einsam, jahrelang, unter
Dem entlaubten Mast, wo nicht die Nacht durchglänzen
Die Feiertage der Stadt,
Und Saitenspiel und eingeborener Tanz nicht.

Nun aber sind zu Indiern
Die Männer gegangen,
Dort an der luftigen Spitz'
An Traubenbergen, wo herab
Die Dordogne kommt,
Und zusammen mit der prächtigen
Garonne meerbreit
Ausgehet der Strom. Es nehmet aber
Und gibt Gedächtnis die See,
Und die Lieb' auch heftet fleißig die Augen,
Was bleibet aber, stiften die Dichter.


【散文訳】

追想
                             
北東の風が吹く
数々の風の中でも最も愛する風が、
わたしに吹く、何故ならば、この風は、歓びの精神を
そして、良き船旅を、船たちに約束するからだ。
さて、かうして(過去を振り返つて)みれば、しかし、行け、そして挨拶せよ
美しいガロンヌ河が
そしてボルドーの果樹園の数々が
あそこ、其処では、鋭い岸辺に
小道が先へと行き、そして、河の流れの中へと
深く、川が落ちて、その先を、しかし
高貴な一組の、
柏とぎんどろの木々が、見遣つてゐる。

もつと、これを考へてもらいたい、そうして、どのやうに
幅広い梢を傾けてゐるのかを
楡(にれ)の森が、水車小屋を超えて、その向かふに、
町の庭には、しかし、無花果(いちぢく)の木が成長してゐるのかを考へてもらひたいのだ。
祝祭の日々に行くのは
陽に焼けた女たちであり、其処でこそ
絹の大地(地盤)の上で、
春の時季に、
仮令(たとへ)、夜でも昼でも、
そして、ゆくり行く小道を通つて、
黄金の数々の夢で重くなつて、
物事を揺すり寝かしつける、鎮痛の、鎮静の風といふ風が吹くのだ。

しかし、渡すがよい
暗い光に満ちて
誰かが其の香り立つ杯を私へと
さすれば、私は安らふことができようものを、といふのも、甘いだらうからだ
影たちの下の微睡(まどろ)みは。
良くはない、
魂も無いままに、死のことをあれこれと思ふのは。しかし勿論良いことは
会話であり、そして、真心(まごころ)の意見を云ひ、愛の日々のことを
たくさん聞くことであり、
さうして、起こり行く行為について、たくさん聞くことである。


しかし、どこに友垣はゐるのだ?あのお伴の者がいつも一緒であつた羨やましきベラルミンは?
大勢のものたちは
源泉へと向かひ、それに触れることを厭ふこころを持ち歩いてゐる。といふのも、
つまり、富といふものが始まるのは
海の中でだからだ。あなたは、
画家のやうに、集めるのだ
地上の美を、そして、辱めることはしないのだ
神聖なる(天使の)翼の生えた戦争を、さうして
孤独に住まひするのだ、何年も何年も、
落葉した帆柱の下に、其処では、夜を光で貫き輝かせることはない
町の祝祭の日々が、
そして、琴の弦の演奏も、血沸き肉踊る土地の踊りが、夜を光で貫き輝かせることはない。

さて、かうして(過去を振り返つて)みれば、しかし、インド人たちのところへと
男たちは行つてしまひ
あそこの、空に接した先端
葡萄の山々に接してゐる其処では、
ドルドーニュの土地が下(くだ)つて来て
さうして、壮麗なるガロンヌ河と
一緒になつて、海の幅のままに
大河は、外へと出て行く。海は、取りもするが、しかし、
そして、記憶を与へもし
そして、愛もまた、勤勉に両眼を捉へるのであるが、
変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなのである。



【解釈と鑑賞】

三島由紀夫が『絹と明察』で『追想』といふ訳語を採用してゐるので、追想といふ訳語を採用しました(第3章「駒沢善次郎の賞罰」)。

ドイツ語では、Andenken(アンデンケン)といひます。この言葉は中性名詞で、その意味は、手元においていつも御世話になる木村・相良の独和辞典によれば、追憶、回想、記憶、記念と類義語が並んでゐます。

現在に立つて単に過去を思ふといふ意味のみならず、記憶の憶、即ち憶えるといふこと、忘れないといふこと、記憶の記、即ち記するといふこと、即ち記(しる)すといふこと、記して残して記念とするといふこと、これらの日本語での種概念を総て統合して積算した類概念がAndenken(アンデンケン)なのです。日本語一語では、なかなか其の意の総てを尽くしません。これは、翻訳の宿命です。

ここに歌ふことは、記念碑を建てるが如くき追憶であり、追想なのだと、ヘルダーリンは言つてゐるのです。それは、記念碑のやうに、永く人々に記憶され、忘れられることがないほどに堅牢堅固なもの、即ち最後の連でいふやうに「変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなのである」からです。

さて、第1連のボルドーを流れるガロンヌ河の写真です。確かに美しい。[https://fr.wikipedia.org/wiki/Garonne



この河の流れは、スペインとフランスの境をなすピレネー山脈に源を発する河です。同じWikipediaより、その地図を以下に示します。地図の下方に青い筋のひかれてゐるのが、この河です。この流れを、ヘルダーリンは歌つてゐる。



また、柏の木と一組になつてゐるギンドロの木とは、次のやうな樹木です。



第2連には、「陽に焼けた」健康な、それもドイツ語でFrauen(フラオエン)と呼ばれる、従い乙女ではなく、既に婚姻をなした成熟した女たちが歌はれてをります。

この健康な生命の女たちは、「絹の大地(地盤)の上」を行くのであり、その女たちの生命の萌え初める「春の時季」にこそ、「ゆくり行く小道を通つて、/黄金の数々の夢で重くなつて、/物事を揺すり寝かしつける、鎮痛の、鎮静の風といふ風が吹く」のです。

その風が、第一連に歌はれる北東の風である。

第3連のベラルミンといふ王者、君侯は、優れた友のものを連れて、源泉へと、富のある海へと向かつた者でありませう。この者は、『ヒューペリオン』という詩的散文で、話者たる主人公の追想の中に登場する人物です。

しかし、普通の者はさうではない。源泉へ、海へと向かふことを嫌い、厭ふのが人の常。しかし、お前は、「地上の美を」「画家のやうに、集める」、「神聖なる(天使の)翼の生えた戦争を」「辱めることはしないのだ」。


このやうな者は孤独であり、「町の祝祭の日々が」「夜を光で貫き輝かせることはな」く、「琴の弦の演奏も」「血沸き肉踊る土地の踊りが、夜を光で貫き輝かせることはない」。
この孤独の者は、「落葉した帆柱の下に」ゐて、その船の上で「何年も何年も」「孤独に住まひするのだ」。

最後の第5連の第一行で、何故「男たちは」「インド人たちのところへと行つてしま」つたといふかといへば、これは「絹の大地(地盤)の上」で商売をする男たちはみな、インドへ行つて、麝香や香辛料やらの珍奇高貴の諸物を商ひのために、商業的な富を得るためにみな出帆してしまつてゐるといふことなのです。

しかし、真の富は、陸にではなく、源泉たる海にあるといふのです。

ここにも、三島由紀夫が何故『絹と明察』と題したのかの、その絹の意味が明らかでありませう。駒沢善次郎は、「絹の大地(地盤)の上」で商売をする男たちの一人です。

この第5連で、ヘルダーリンは、第1連で使つた、「さて、かうして(過去を振り返つて)みれば」といふ意識を表すドイツ語の副詞nun(ヌーン)を再度使つて、読者の意識もまた過去を追想するやうに誘つてをります。

一言で云へば、文法的にみても、この詩は、nunで始まり、nunで終わる、即ち追想で始まり、追想で終わる詩だといふことができます。それ故に、この詩の題名は、Andenken(アンデンケン)、追想といふのです。

かうしてみますと、最後の二行、即ち、

「そして、愛もまた、勤勉に両眼を捉へるのであるが、
変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなのである。」

とは、愛もまた、そのやうな詩人と同じやうに、移り変わり流れる河のやうな時間の中の現実をよく捉えて、よく両目でみるのであるが、しかし、愛だけでは、記念碑は立たないのだ、記念碑、即ち「変わらずに留まるものを、しかし、建立(こんりゆう)するのは、詩人たちなの」だ、といふ意味でありませう。

この詩の様式を眺めれば、他の詩と同様に、ヘルダーリンの様式の感覚が、恰も隠れた美であるかのやうに、隠れてをります。

この様式の美しさは、『帰郷』といふ詩で、

「最良のもの、神聖なる平安の穹窿(きゆうりゆう)の下にある掘り出し物、
これが、老いにも若きにも貯えられてある。」

と歌はれてゐる、この「神聖なる平安の穹窿(きゆうりゆう)の下にある掘り出し物」でありませう。この「掘り出し物」を、三島由紀夫は岡野にハイデッガーの言葉を引用して、次のやうに言はせてをります。

「岡野はハイデッガーがあの「帰郷」に註して、「宝、故郷のもつとも固有なもの、『ドイツ的なもの』は、貯へられてゐるのである。……詩人が、貯へられたものを宝(発見物)と呼ぶのは、それが通常の悟性にとつて近づき難いものであることを知つてゐるからだ」と書いたときに、見かけは清澄な言葉で語りながら、実はもつとも不気味なものに行き当たつたのではないかと疑つた。」

この近づき難さは、この『帰郷』の詩が、その第4連で言つてゐる難しさでありませう。即ち「絹の大地(地盤)の上」を離れ、出帆して、海にすべてを委ね、奪はれるものを総て奪はれ、与へられる記憶を与へられることを受け容れられるか、一個の人間として孤独に、といふ近づき難さでありませう。

この記憶こそ、「建立(こんりゆう)」された「追想」であり、Andenken(アンデンケン)なのです。

この「神聖なる平安の穹窿(きゆうりゆう)の下にある掘り出し物」は、

1。陸(おか)と海
2。陸と風
3。海と風
4。祝祭日の、健康な、生命の、成熟した女たちと同じ絹の大地で働く男たち
6。商業(経済)の男たちと詩人たち
7。祝祭の昼と帆柱の夜:昼と夜
8。商業の富と隠れたる富
9。経済の戦争と「神聖なる(天使の)翼の生えた戦争」
10。町の門の外に育つ楡の木と町の中の庭に育つ無花果の木
11。山と川
12。川と河(大河)
13。果樹園と川
14。「落葉した帆柱」:陸の(動かぬ)樹木と海の(動く)帆柱
15。奪ふことと与へること
16。記憶と忘却(記憶の喪失)
17。愛の変と詩人の不変

この言葉による対比的な様式は、三島由紀夫を魅了しました。何故ならば、この様式が美を生むからです。

これらの対比対照を列挙してみれば、三島由紀夫が6歳のときに書いた『ウンドウクヮイ』が、既に此の対比対照の様式美を備へてゐることに驚くでありませう(決定版第37巻、17ページ)。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』』より引用します。[http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html

「この交点、交差点の生まれたときに、三島由紀夫は「比類がない」といふのです。この同じ「比類がない」といふことを、既に、学習院初等科に入学した6歳の平岡公威は、「面白い」といふ言葉を使つて、このダリの絵と同じ「比類がない」「対比の見事さと、構図の緊張感」の交差点を、初めて経験した小学校の運動会のこととして、次のやうに歌つてをります。


「ウンドウクヮイ

(一)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイカツトフウセンフハリフハリフハリ

(二)
 一バンアトカラ二バンメノ十ジツナヒキ
 オモシロイムカデノヤウニゴロゴロゴロ」


この詩を片仮名からひらがなに直して、もう少し文字として視覚的に分かりやすく変形させてみてから、考察に入ります。


「運動会

(一)
 一番後から二番目の十字綱引き
 面白い勝つと風船ふはりふはりふはり

(二)
 一番後から二番目の十字綱引き
 面白い百足のやうにゴロゴロゴロ」


この十字綱引きは、今でも運動会で行はれてゐます。その写真を掲げます。





ここで、上のダリの十字架と同じ評言にある、詩の構成要素をあげてみると、次のやうになるでせう。

(1)繰り返しによる様式の対比による対称性と対照性の効果を既に知っており、そのことに美と抒情と快感を覚えていること。この場合、
(2)様式との対比による対称性と対照性とは、風船と百足の対比によつて、次の対称性と対照性を表現してをります。

   1天と地(地面)
   2上昇と下降
   3軽さと重さ
   4勝ちと負け
   5始めと終わり((一)と(二)といふ配列によって意識される)

(3)交差点のある十字形に興味と関心を持っていること。
(4)現実の出来事に対して、面白いと(いふ言葉を使って)思ひ、表現していること。ダリの十字架に対する「比類がない」ことに相当する賛嘆の言葉であること。
(5)独特の数の数え方、即ち、最後から数えて、その最後の数を勘定に入れて、下る(降順の)数を数えること。即ち、数を勘定するときに、一番最後から引き算をして勘定するといふこと。[註1]更に、このことから即ち、
(6)最初に最後を考えた事」

最後の(6)は、ヘルダーリンが此の詩で最初と最後に配した副詞、nunに相当するでありませう。

かうしてみますと、三島由紀夫は本当にヘルダーリンが、我が事のやうに、我が事として、好きだつたのです。

この一連の考察の最後に、三島由紀夫に『絹と明察』を書かせ、『豊饒の海』全四巻を書かしめる力を授けたドイツの詩人、ヘルダーリンの写真を掲げます。1779年の、まだ狂気に陥る前の詩人です。





三島由紀夫の十代の詩を読み解く22:詩論としての『絹と明察』(5):ヘルダーリンの『ハイデルベルヒ』


三島由紀夫の十代の詩を読み解く22:詩論としての『絹と明察』(5):ヘルダーリンの『ハイデルベルヒ』




ヘルダーリンの見た1800年頃のハイデルベルク
Friedrich Rottmann作

【原文】

Aglaia-FassungAglaia版)

Heidelberg

Lange lieb’ ich dich schon, möchte dich, mir zur Lust
Mutter nennen, und dir schenken ein kunstlos Lied,
Du, der Vaterlandsstädte
Ländlichschönste, so viel ich sah.
Wie der Vogel des Walds über die Gipfel fliegt,
Schwingt sich über den Strom, wo er vorbei dir glänzt,
Leicht und kräftig die Brüke,
Die von Wagen und Menschen tönt.
Wie von Göttern gesandt, fesselt’ ein Zauber einst
Auf die Brüke mich an, da ich vorüber gieng,
Und herein in die Berge
Mir die reizende Ferne schien,

Und der Jüngling, der Strom, fort in die Ebne zog,
Traurigfroh, wie das Herz, wenn es, sich selbst zu schön,
Liebend unterzugehen,
In die Fluthen der Zeit sich wirft.

Quellen hattest du ihm, hattest dem Flüchtigen
Kühle Schatten geschenkt, und die Gestade sahn
All’ ihm nach, und es bebte
Aus den Wellen ihr lieblich Bild.

Aber schwer in das Thal hing die gigantische,
Schicksaalskundige Burg nieder bis auf den Grund,
Von den Wettern zerrissen;
Doch die ewige Sonne goß

Ihr verjüngendes Licht über das alternde
Riesenbild, und umher grünte lebendiger
Epheu; freundliche Wälder
Rauschten über die Burg herab.

Sträuche blühten herab, bis wo im heitern Thal,
An den Hügel gelehnt, oder dem Ufer hold,
Deine fröhlichen Gassen
Unter duftenden Gärten ruhn.


【散文訳】

長いこと、云ふまでもなく、わたしはお前を愛した、お前を、戯れに、
我が母とまで呼びたい、さうして、お前に技巧のない歌を贈りたいのだ、
お前、祖国の町々の中で
その土地の最も美しいものとしてある町よ、わたしの見たなかで。

森の鳥が、山巓(さんてん)を超えて飛ぶやうに、
鳥がお前を輝きながら飛び過ぎるところで、河の流れを超えて其の身を生き生きと揺り動かすのは、
軽妙に、そして力強く斯くあるのは、橋だ、
馬車と人間たちの音の鳴り響く橋だ。

神々によつて送られて来るやうに、魔法が、かつて捕へたのだ
この橋へと、この私を、といふのは、わたしが通り過ぎ、
そして山々の中へと入ると、
私に、優美な遥けき距離が輝いたから。

そして、若者が、即ち河の流れが、前へ、平野の中へと行つた
悲しみの喜びを以つて、心臓が、もし心臓が、自分自身に対して美し過ぎる余りに
愛しながら沈み、没落すること、即ち、
時代の数々の上げ潮(満潮)の中に身を投じる其の心臓のやうに、悲しみの喜びを以つて。

数々の源泉を、お前は若者に、この逃亡者、儚き者に
冷たい数々の影を贈つた、そして、岸辺はみな
この若者を見遣り、見送つた、そして、大きく激しく動いたのだ
波々の中から現れて、お前たちの愛すべき像が。

しかし、重たく谷の中へと、巨大な
運命に精通してゐる城が、下へと、地上に至るまで、掛かつてゐる
雷雨に引き裂かれて
しかし勿論、永遠の太陽は注いでゐた

お前たちの若返らせる力を持つ光を、老いゆく
巨人の像の上に注いでゐた、さうして、周囲は、より生き生きと
木蔦(きづた)が緑をなしてゐた。親しい森といふ森は
城を超えて、下方へと、さやけき音を立ててゐた。

潅木は下方へと向かつて花咲いてゐた、明るい谷の中で
その丘に寄りかかつて、または岸辺に優しく
お前の快活な路地といふ路地が
香り高く匂ふてゐる数々の庭の下で、安らふところまで。



【解釈と鑑賞】

ハイデルベルクは、ドイツの町の中で、わたしの一番好きな町、中世街並みの古き町です。ハイデルベルクの在るバーデンヴュルテンベルク州の今の首都がシュトゥットガルトでなければ、中世以来の古都とすら呼びたい、それほどに美しい、ネッカー河にある町です。今のハイデルベルクの写真です。




『絹と明察』第5章「駒沢善次郎の洋行」で、菊乃から、大槻といふ若者の動静を伝へる手紙を読んで思ひ出す此の詩の「第四聯」、

そして、若者が、即ち河の流れが、前へ、平野の中へと行つた
悲しみの喜びを以つて、心臓が、もし心臓が、自分自身に対して美し過ぎる余りに
愛しながら沈み、没落すること、即ち、
時代の数々の上げ潮(満潮)の中に身を投じるならば、その心臓のやうに、悲しみの喜びを以つて。

といふ此の聯を改めて読みますと、ヘルダーリンといふ詩人は、河そのものを若者と呼び、従ひ、若者は流れ行く河であると考へてゐたことが判ります。

これは、このまま三島由紀夫の河であり、三島由紀夫が河といふときには常に、この詩に歌はれてゐるやうな若者の形象があるといつてよいでせう。

従ひ、第5聯で、「逃亡者、儚き者」ともまた呼ばれるのでせう。

河は、流れ行き、時間の中に身を投じる若者であり、常に別れゆき、別れを告げる者である。

第6聯の「巨大な/運命に精通してゐる城」とは、上の写真のハイデルベルク城のことです。長い人間の歴史を、この山の頂上から見下ろして、また我が身自身の塔もナポレオン軍の砲弾に一部を崩落せしめられて、土地の運命も人間の運命も、よく知つてゐるが故に、そのやうに歌はれてゐるのです。それ故に「重たく谷の中へと」この城は「下へと、地上にまでに、掛かつてゐる」。

第7聯の「巨人の像」とは、このやうなハイデルベルク城か、またはハイデルベルクのこの景観を構成する自然と町のことでありませう。

何故「巨人の像」かといへば、「親しい森といふ森は/城を超えて、下方へと、さやけき音を立ててゐた」からです。この「さやけき」と訳したドイツ語のrauschen(ラウシェン)といふ動詞の持つ音は、ドイツ人の詩でも散文でも、使はれるときには、何か神聖なるものの気配を表はしてゐます。日本語ならば、さやけさの「さ」、早乙女の「さ」、皐月の「さ」といへばお解りでせう。

このやうに此の聯と次の最後の第8聯は、誠にハイデルベルクの自然と町を、その通りに美しく歌つてをります。


第8聯の「潅木は下方へと向かつて花咲いてゐた、明るい谷の中で/その丘に寄りかかつて、または岸辺に優しく」とあるのは、お城の対岸の、川縁にある、例えば次の写真のやうな景色なのです。



ヘルダーリンは、このハイデルベルクとネッカー河を共有する近傍の町、Lauffen(ラウフェン)で生まれましたので、このハイデルベルクの土地と其の景観は、ヘルダーリンの故郷といふことになります。

ヘルダーリンに関する日本語のWikipeidaです:https://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒ・ヘルダーリン
ヘルダーリンに関する英語のWikipeidaです:https://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Hölderlin
ヘルダーリンに関するドイツ語のWikipeidaです:https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Hölderlin

第2聯で、

神々によつて送られて来るやうに、魔法が、かつて捕へたのだ
この橋へと、この私を、といふのは、わたしが通り過ぎ、
そして山々の中へと入ると、
私に、優美な遥けき距離が輝いたから。

と歌つたのは、ヘルダーリンが、この土地の者として近傍の山歩きをし、ハイデルベルク城の後ろの道からか、または反対側の岸辺の上の山を歩き、その途上で遥か下方に、美しいカルステン門のある橋を見たからでありませう。町の対岸から見た橋の景色です。前者からの景観では、橋は足下にありますから、やはり後者の景観といふべきでせう。この橋が、ヘルダーリンを魅了したのです。


橋といふ動機(モチーフ)と形象は、三島由紀夫の十代の詩の中に出てくる大切な形象の一つです。

今その詩のうちの一つを挙げれば『馬』といふ16歳の詩では(決定版第37巻、691〜693ページ)、緋色をした美そのものである奔馬が狂奔して向かつて駆けてくるさまを、「骨だけになつた橋梁(はし)」の上にゐて見るのです。骨だけになつた橋梁(はし)」とは、既に死の橋、好きだつたあのダリの十字架の交差点なのです。詳細を論ずるのは、稿を改めます。(ダリの十字架については、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』[http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html]と『三島由紀夫の十代の詩を読み解く10:イカロス感覚1:ダリの十字架(2):6歳の詩『ウンドウクヮイ』』[http://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_26.html]を参照下さい。)

さうしてまた、この詩には、自分の詩の源泉である塔の、しかし毀損された塔の形象もあつて、しかし、その塔は、ヘルダーリンに歌はれて救はれてゐる。

このやうな意味でも、この美しい古都を歌つたヘルダーリンの詩を、三島由紀夫は愛したのです。

最後に付言すれば、三島由紀夫が何故ヘルダーリンをこれほどに愛好し、愛誦し、ハムケール時代の最初の歳、即ち1964年、39歳にヘルダーリンの詩と詩想を根底に置いた『絹と明察』を書かうと思つたかといひますと、その理由の一つは、詩想は勿論ですけれども、それ以外にも、ヘルダーリンといふ詩人は、狂気に落ちた1807年以降1843年までの36年間を、チュービンゲンの指物師、エルンスト・ツィンマーの家に寓居し、その家にある次のやうな、後世「ヘルダーリンの塔」と呼ばれる塔の中で死ぬまで、生きたからです。


             ヘルダーリンの塔


この塔を、三島由紀夫は『絹と明察』で何度か登場する彦根城の天守閣として表したものでありませう。その天守閣といふ塔をどのやうに書いたか、また登つた登場人物たちをどのやうに書いたかを、改めてお読みになることは、興味深いことではないかと思ひます。

当然のことながら、天守閣といふ塔には四方に窓があり(十代の三島由紀夫ならば、窗(まど)と書き、または高窓と書いたでありませう)、この窓からの眺望は、天守閣の出てくる度に飽きることなく書かれてゐることは、最後の作品『天人五衰』の冒頭の、灯台から孤児安永透が眺めて延々と叙述される海の景色に通じてをりませう。

32歳のときの『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』といふ詩で、あの自分の十代の詩の源泉である命の塔を刈り取つてしまつた三島由紀夫が、こころ密かに再生を期して十代にハイムケール(帰郷)したいと切に願つた39歳のこころを、このやうに、私事を語らず、作品にひそませたといふことではないでせうか。

もう一度、そのやうなことを念頭に置きながら、次の年表(『三島由紀夫の人生の見取り図(version 4)』)を眺めると、誠に感慨深いものがあります。

「4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代):ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間
(1)1964年:39歳:『理髪師』の殺人者を『絹と明察』(ハイデッガー哲学とヘルダーリンの詩を下敷きにした世界)に登場させたハイムケール(帰郷)の時代の最初の歳
(2)1964年:40歳:『豊饒の海』の第1巻『春の雪』を書き始める。
(3)1970年:45歳:『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』を書き終へる。」

勿論、三島由紀夫にとつては、この『ハイデルベルク』の詩を流れる美しきネッカー河もまた、さうして、次に読む『絹と明察』にも引用される『追想』といふ詩の「壮麗なるガロンヌ河」の場合と同様に、遂には『豊饒の海』へと、流れ入るのでありませう。


2015年9月24日木曜日

三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』


三島由紀夫の十代の詩を読み解く21:詩論としての『絹と明察』(4):ヘルダーリンの『帰郷』



【原文】

Heimkunft

An die Verwandten

1
Drin in den Alpen ists noch helle Nacht und die Wolke,
   Freudiges dichtend, sie deckt drinnen das gähnende Tal.
Dahin, dorthin toset und stürzt die scherzende Bergluft,
   Schroff durch Tannen herab glänzet und schwindet ein Strahl.
Langsam eilt und kämpft das freudigschauernde Chaos,
   Jung an Gestalt, doch stark, feiert es liebenden Streit
Unter den Felsen, es gärt und wankt in den ewigen Schranken,
   Denn bacchantischer zieht drinnen der Morgen herauf.
Denn es wächst unendlicher dort das Jahr und die heilgen
   Stunden, die Tage, sie sind kühner geordnet, gemischt.
Dennoch merket die Zeit der Gewittervogel und zwischen
   Bergen, hoch in der Luft weilt er und rufet den Tag.
Jetzt auch wachet und schaut in der Tiefe drinnen das Dörflein
   Furchtlos, Hohem vertraut, unter den Gipfeln hinauf.
Wachstum ahnend, denn schon, wie Blitze, fallen die alten
   Wasserquellen, der Grund unter den Stürzenden dampft,
Echo tönet unher, und die unermeßliche Werkstatt
   Reget bei Tag und Nacht, Gaben versendend, den Arm.

2
Ruhig glänzen indes die silbernen Höhen darüber,
   Voll mit Rosen ist schon droben der leuchtende Schnee.
Und noch höher hinauf wohnt über dem Lichte der reine
   Selige Gott vom Spiel heiliger Strahlen erfreut.
Stille wohnt er allein und hell escheinet sein Antlitz,
   Der ätherische scheint Leben zu geben geneigt,
Freude zu schaffen, mit uns, wie oft, wenn, kundig des Maßes,
   Kundig der Atmenden auch zögernd und schonend der Gott
Wohlgediegenes Glück den Städten und Häusern und milde
   Regen, zu öffnen das Land, brütende Wolken, und euch,
Trauteste Lüfte dann, euch, sanfte Frühlinge, sendet,
   Und mit langsamer Hand Traurige wieder erfreut,
Wenn er die Zeiten erneut, der Schöpferische, die stillen
   Herzen der alternden Menschen erfrischt und ergreift,
Und hinab in die Tiefe wirkt, und öffnet und aufhellt,
   Wie ers liebet, und jetzt wieder ein Leben beginnt,
Anmut blühet, wie einst, und gegenwärtiger Geist kömmt,
   Und ein freudiger Mut wieder die Fittige schwellt.

3
Vieles sprach ich zu ihm, denn, was auch Dichtende sinnen
   Oder singen, es gilt meistens den Engeln und ihm;
Vieles bat ich, zu lieb dem Vaterlande, damit nicht
   Ungebeten uns einst plötzlich befiele der Geist;
Vieles für euch auch, die im Vaterlande besorgt sind,
   Denen der heilige Dank lächelnd die Flüchtlinge bringt,
Landesleute! für euch, indessen wiegte der See mich,
   Und der Ruderer saß ruhig und lobte die Fahrt.
Weit in des Sees Ebene wars Ein freudiges Wallen
   Unter den Segeln und jetzt blühet und hellet die Stadt
Dort in der Frühe sich auf, wohl her von schattigen Alpen
   Kommt geleitet und ruht nun in dem Hafen das Schiff.
Warm ist das Ufer hier und freundlich offene Tale,
   Schön von Pfaden erhellt grünen und schimmern mich an.
Gärten stehen gesellt und die glänzende Knospe beginnt schon,
   Und des Vogels Gesang ladet den Wanderer ein.
Alles scheinet vertraut, der vorübereilende Gruß auch
   Scheint von Freunden, es scheint jegliche Miene verwandt.

4
Freilich wohl! das Geburtsland ists, der Boden der Heimat,
   Was du suchest, es ist nahe, begegnet dir schon.
Und umsonst nicht steht, wie ein Sohn, am wellenumrauschten
   Tor' und siehet und sucht liebende Namen für dich,
Mit Gesang ein wandernder Mann, glückseliges Lindau!
   Eine der gastlichen Pforten des Landes ist dies,
Reizend hinauszugehn in die vielversprechende Ferne,
   Dort, wo die Wunder sind, dort, wo das göttliche Wild
Hoch in die Ebnen herab der Rhein die verwegene Bahn bricht,
   Und aus Felsen hervor ziehet das jauchzende Tal,
Dort hinein, durchs helle Gebirg, nach Komo zu wandern,
   Oder hinab, wie der Tag wandelt, den offenen See;
Aber reizender mir bist du, geweihete Pforte!
   Heimzugehn, wo bekannt blühende Wege mir sind,
Dort zu besuchen das Land und die schönen Tale des Neckars,
   Und die Wälder, das Grün heiliger Bäume, wo gern
Sich die Eiche gesellt mit stillen Birken und Buchen,
   Und in Bergen ein Ort freundlich gefangen mich nimmt.

5
Dort empfangen sie mich. O Stimme der Stadt, der Mutter!
   O du triffest, du regst Langegelerntes mir auf!
Dennoch sind sie es noch! noch blühet die Sonn' und die Freud' euch,
   O ihr Liebsten! und fast heller im Auge, wie sonst.
Ja! das Alte noch ists! Es gedeihet und reifet, doch keines
   Was da lebet und liebt, läßet die Treue zurück.
Aber das Beste, der Fund, der unter des heiligen Friedens
   Bogen lieget, er ist Jungen und Alten gespart.
Törig red ich. Es ist die Freude. Doch morgen und künftig
   Wenn wir gehen und schaun draußen das lebende Feld
Unter den Blüten des Baums, in den Feiertagen des Frühlings
   Red' und hoff' ich mit euch vieles, ihr Lieben! davon.
Vieles hab' ich gehört vom großen Vater und habe
   Lange geschwiegen von ihm, welcher die wandernde Zeit
Droben in Höhen erfrischt, und waltet über Gebirgen
   Der gewähret uns bald himmlische Gaben und ruft
Hellern Gesang und schickt viel gute Geister. O säumt nicht,
   Kommt, Erhaltenden ihr! Engel des Jahres! und ihr,

6
Engel des Hauses, kommt! in die Adern alle des Lebens,
   Alle freuend zugleich, teile das Himmlische sich!
Adle! verjünge! damit nichts Menschlichgutes, damit nicht
   Eine Stunde des Tags ohne die Frohen und auch
Solche Freude, wie jetzt, wenn Liebende wieder sich finden,
   Wie es gehört für sie, schicklich geheiliget sei.
Wenn wir segnen das Mahl, wen darf ich nennen, und wenn wir
   Ruhn vom Leben des Tags, saget, wie bring ich den Dank?
Nenn ich den Hohen dabei? Unschickliches liebet ein Gott nicht,
   Ihn zu fassen, ist fast unsere Freude zu klein.
Schweigen müssen wir oft; es fehlen heilige Namen,
   Herzen schlagen und doch bleibet die Rede zurück?
Aber ein Saitenspiel leiht jeder Stunde die Töne,
   Und erfreuet vielleicht Himmlische, welche sich nahn.
Das bereitet und so ist auch beinahe die Sorge
   Schon befriediget, die unter das Freudige kam.
Sorgen, wie diese, muß, gern oder nicht, in der Seele
   Tragen ein Sänger und oft, aber die anderen nicht.




【散文訳】


帰郷

血族の者たちに宛てて

1

そこ、アルプスの山中では、まだ明るい夜があり、雲は、
歓ばしきことを詩に吟じながら、欠伸(あくび)する谷を覆ふてゐる。
彼方の、彼処(あそこ)では、戯れを言つてゐる山の気が立ち騒ぎ、そして、墜落する。
樅木々を通つて険しく降りて来て輝き、消えるのは、一条の光だ。
歓び身震ひしてゐる混沌が、ゆつくりと急ぎ、そして、闘つてゐて、
姿は若く、とはいへ強く、混沌は、岩々の下での、愛してゐるが故の戦いを祝福し、永遠の岩棚といふ岩棚の中にあつて発酵し、そして、ゆらめく、
といふのは、バツカス神の様により一層酩酊し騒ぎ狂つて、その中では、朝が、次第に立ち昇るからだ。
といふのは、そこにあつては、際限なく一年が成長し、さうして、神聖なる時間といふ時間が、日々が、これらが、より一層大胆に秩序立てられ、混交されてゐるからだ。
しかしながら、雷雨を告げる鳥は、その(雷鳴の)時に気づき、さうして、山々の間に
空中高く其の鳥は留まり、そして、その日を叫び、呼ぶのだ。
今や、また、深みに、その中に、小さな村が眠らずに起きてゐて、さうして見上げるのだ
恐怖心なく、高きものに親しく、数々の山巓(さんてん)の下より。
成長を予感しつつ、もう既にかうなつたのであるからには、雷(いかづち)の如くに、古い
(水の)源泉といふ源泉が落流し、墜落して行くものたちの下の地面が水煙を上げ、木霊が周囲に響き渡り、さうして、この測り知れぬ仕事場は、
夜も昼も、賜物の数々を送り届けながら、その腕を動かすのだ。

2

さうしてゐる内に、安らかに、数々の銀の高みが、彼処(あそこ)に輝いてゐる。
たくさんの薔薇の花に満ちて、既に、あの上方には、光輝く雪がある。
そして、更にまだ高くあの向かふには、その光の上には、神聖なる光線たちの遊戯の神、純粋なる至福の神が、喜び住まふてゐる。
静かに、この神は、一人で住まふてゐて、そして、明朗に、その顔(かんばせ)は姿を現はし、
エーテルである此の神は、生命を与へることに好意を持つてゐるやうにみえ、
私たちと一緒に、それがよくあるが如くに、歓びを創造することに好意を持つてゐるやうにみえる、もし尺度と節度に精通して、
呼吸するものたちに精通して、躊躇もしながら、いたはりながら、この神が、
よく堅牢なる幸福を町々と家々に送るときには、、さうして、柔らかな雨を町々と家々に送つて国を開くときには、開くことを待つて抱卵して凝つと覆ひかぶさる雲々を町々と家々に送り、さうならば次に、お前たちに、
最も信頼する空気を送り、お前たちに柔らかな春の数々を送るときには、
そして、ゆつくりとした手つきで、悲しむものたちを再び歓ばせるときには、
この神が、数々の時代を新たにするときには、この創造主が、
老いて行く人間たちの静かな心臓を恢復させ、そして掴んで、
そして、深みの中へと働かせて、此の神が其れを愛するままに、
開き明るくするときには、そして、この神が今や再び一つの生命を始めるときには、
嘗てのやうに典雅が花咲くときには、そうして、現前する精神が来るときには、
さうして、歓びの勇気が再び翼を膨らませるときには。

3

多くのことを、わたしは、現前する精神に話した。といふのは、詩作するものたちもまた思ふのであり
または歌ふのであるからであり、多くの場合、天使たちと現前する精神にあつては、その通りであるからだ
多くのことを、わたしは請ひ求めた、祖国のために、それによつて
請ひ求められることのない者たち、即ちわたしたちに、いつか突然に、精神が命令をすることがないようにと
多くのことを、祖国で世話をされてゐる御前たちのためにもまた多くのことを、
神聖なる感謝が微笑みながら亡命者を連れて来る其の御前たちのために、(わたしは請ひ求めた)
祖国の人々よ!御前たちのために、その間、湖は私を揺すり
さうして、舟子(かこ)は安らかに坐して、舟の航行を賞(ほ)めた。
遥か、湖の水面の中に、一つの歓びの波立ちが在つた
帆柱といふ帆柱の下で、そしてその波は今や花咲き、そして町は
そこ、その朝早くに、明るくなり、間違ふことなく、影を帯びたアルプスの山々から此方(こちら)へと
随伴され導かれて、港にかうして今安らふのは、船である。
ここの岸辺は暖かく、そして、親切に開いた谷といふ谷は、
数々の小径(こみち)に美しく明るくされて緑をなし、わたしを仄(ほの)かに光らせる。
庭といふ庭は、仲良く集(つど)ひてあり、そして、輝く蕾は既に始まつてをり、
そうして、鳥の歌が、旅人を招く。
全ては親密に見え、行き過ぎて急ぐ其の挨拶もまた
数々の歓びに輝き、どの表情も血縁のものであるやうにみえる。

4

勿論、さうさ!これが生まれた国だ、故郷の大地(地盤)だ、
お前が探し求めてゐるもの、それは近くに在り、お前に必ず巡り逢ふのだ。
さうして、一人の息子が、波が周りを音立てて洗ふ門のところに
立つてゐることは無駄ではく、そして、一人の息子が、お前(生まれた国)のために、愛する数々の名前を見、探し求めることは無駄ではないのだ
詩歌を歌へば、放浪する男よ、そこに、至福の町リンダウがあるではないか!
この土地の客人用の小門の一つが、これだ、
優美に外へと出て行くこと、たくさんの約束をしてくれる遥か彼方の中へと、
遥か彼方とは其処、数々の奇蹟のある其処では、其処、神々しい雌鹿が
高くあつて、その高みから平野の中へと降りて来るとライン河が冒険的な向こう見ずの軌道を開く其処であり、
さうして、岩々の中からは、ヤッホーと叫ぶ谷は立ち上がり、
其処へと入り行くと、明るい山脈を通り抜けて、コモへと旅するために、
または、その谷は、其処へ下方へと、日が移り変はるに従つて、開けた湖を引き寄せる。
しかし、わたしにとつてもつと優美なのは、お前だ、清められて神聖なる小門よ!
故郷へ帰るということ、其処では、よく知られて花咲く道々が、わたしのためにあり、
其処を訪れるといふこと、あの土地を、そしてネッカー河の美しい谷の数々を(訪れるといふこと)、
そして、数々の森を、聖なる樹木たちのあの緑を、其処では、喜んで
柏の木が寄り集ふ、静かな白樺と山毛欅(ぶな)の木たちと、
そして、山々では、ある場所が親しくわたしを捕まへるのだ。

5

其処では、これらのものたちが私を歓迎する。おゝ、町の声よ、母なる町の声よ!
おゝ、お前はぴたりと当てたな、お前は、わたしが長いことかけて学んだことを、鼓舞するといふのだな!
(こんなに長いこと故郷を離れてゐたのに)それでも尚、これらのものはたちは、まだ在るのか!まだ太陽は花咲き、そして歓びがお前たちに花咲いてゐる、
おゝ、最愛のものたちよ!さうして、以前と変わらずに、眼に著(しる)く全くといつていい位に一層明るくなつてゐる。
さうだ!老いといふものが、正(まさ)しく未だこれなのだ!繁茂し、成熟し、しかし
ほら其処で生き、そして愛するものは何も、後悔を後に残さないのだ。
しかし、最良のもの、神聖なる平安の穹窿(きゆうりゆう)の下にある掘り出し物、
これが、老いにも若きにも貯えられてある。
愚かにも私は饒舌だ。それは歓びだ。しかしながら、明日と未来に
もしわたしたちが出かけて、そして外に生きてゐる野原を見るならば
樹木の花々の下に、春の祝祭の日々に
わたしは饒舌に話し、希望する、お前たちと一緒に多くのことを、お前たち愛する者たちよ!、そのことについて。
偉大なる父親について多くのことを、、わたしは聞いた、そして
わたしは、父親のことについて長い間沈黙してゐた、父親は、放浪の時間を
あの上、数々の高みの中で恢復してくれ、そして山脈と山々を支配する父親のことについて
わたしたちに、間も無く、天の賜物を授けてくれ、さうして
より明るい者たちに歌を叫び、たくさんの善き精霊(精神)を送つてくれる父親にのことについて。おゝ、躊躇(ためら)ふてはならぬ、
来るのだ、お前たち!、一年の天使たちよ、そして、お前たち、

6

家の天使たちよ、来るのだ!生命の総ての血管の中へ、
総ての者を同時に歓ばせながら、そこで(お前は)天上的なものを分かち合ふがいいのだ!
(お前は)高貴なものとなせよ!若返へらせよ!それによつて人間的に善であるものはなにも、それによつて一日の一時間も、この陽気なくしてはまた今のやうな此の歓びなくしては、適切にまた礼儀作法に適つて清められて神聖であることはないのだ、もし愛する者たちが、その者たちにとつて当然のことのやうにして、再びお互いを見つけるのならば。
もしわたしたちが食事を言祝(ことほ)ぐのであれば、わたしは誰の名を挙げようか、そしてもしわたしたちが一日の命の栄光について話すとすれば、わたしはどうやつて感謝を運んで来たら良いのだらうか?
そのときには、わたしは高みにゐる男、高き男の名を挙げるのだらうか?不適切なもの、無作法で見苦しいものを、神は愛することはないのだし、
高き男をとらへ理解すること、それは、わたしたちの歓びとするには余りにも小さ過ぎるからである。
沈黙を、わたしたちはしばしばせねばならぬ。といふのは、聖なる数々の名前が欠けて足りないからだ。
心臓が打ち鳴り、そしてそのくせ、話は先へと進まぬといふのか?
しかし、竪琴の弦の演奏は、どの一時間にも数々の響きを貸与する
そして、ひよつとしたら、近づいて来る天上人たちを歓喜させるかも知れない。
これが準備をするのだ、さうしてまたほとんど憂慮は
歓びの下にやつて来た憂慮は、既に満たされてゐるのだ。
数々の憂慮を、この憂慮の通りに、好まうが好まなからうが、魂の中に
歌を歌ふ一個の者(詩人)は運ばねばならぬ、そしてしばしば、しかし、(この詩人は)それ以外の憂慮を運ぶ必要はないのだ。



【解釈と鑑賞】

これは、キリスト教圏の聖書の話として読むと、旧約聖書の時代からの放蕩息子の話に連なる詩だといふことができませう。

同じこの主題は、終生、安部公房もまた三島由紀夫と共有をしてゐた主題です。既に『三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎』の[註3]に書いた通りに、三島由紀夫の家長像は、仮令この小説では疑似家族であらうとも、陽画の家長像であり、対して、安部公房の家長像はすべて陰画の家長像です。

更に、安部公房の描く家族もまたすべて例外なく、その処女作『終わりし道の標べに』以前の習作時代の最初の作品以来、すべて疑似家族なのです。例えば、1962年の『砂の女』も男と女の疑似家族であり、1964年の『他人の顔』も仮面を被つた夫と其の妻との疑似家族の話であり、1967年の『燃えつきた地図』に至つても、主人公の探偵は離婚話を進めてゐる妻と別居してをり、赤の他人同然の疑似家族なのです。1970年に三島由紀夫が自決してからの後期20年の作品『箱男』『密会』『方舟さくら丸』『カンガルー・ノート』、遺作の『飛ぶ男』『さまざまな父』もみな、その父と息子の関係も含めて(何しろ「贋の父親」と呼ばれる父親や父親たる「贋の医者」が頻出する)、疑似家族といふ三島由紀夫と同じ観点から論じることができます。

これは何か、この大才ふたりの小説が、同じこれらの特徴を抱えてゐるといふことは、非常に奇妙なことではないでせうか。

明治維新といふ近代の最初の「断絃の時」以来、先の敗戦の二つの目の「断絃の時」をも経て、日本の男は家長であることを、しかし独身者として其の役割を並行して果たすこと、即ち血縁共同体原理から毟(むし)りとられるやうに我が身を傷つけられて生きることを強ひられて生きて来たのではないでせうか。これについては、森鷗外の初期のドイツでの話を書いた『舞姫』以下の3部作その他を稿を改めて論じたいと思ひます。

さて、掲題の『帰郷』といふ詩を一読しますと、これが何故三島由紀夫が愛好し愛読したものかがよく解ります。

1。自然を歌つてゐる。しかも、
2。歌はれてゐる自然は単なる叙景叙情に留まる自然ではなく、もつと奥深い生命そのものである言葉の命を体現してゐる。
3。長いこと旅に出てゐた家長たる男が、再び其の古里である美しい、自分の象徴的な意味での血族の棲む故郷へと還つて来る。(長の古典主義の時代を離れて、再び詩に戻らうと決心した三島由紀夫の詩情に訴へる詩でありませう。)そして、
4。その故郷の町は、三島由紀夫が『絹と名刹』で「父なる自然」と呼んだ「愛の鞭」打つ自然であるのに対して、「母なる町」であり、「私を歓迎する」生きた象徴的な血族の住まふ場所である。[註1]
5。詩人の高みがあり、
6。詩人は家長として、その高みにあり、さうして、
7。詩人は故郷の憂慮を魂の内に運び
8。竪琴の弦の演奏の音があり(「断絃の時」は無い)、また、
9。源泉があり、うみ(湖)があり、船があり、河があり、
10。町の小さな門を潜って、自然の中へと入り行くことの優美があり、
11。老いと永遠の若さがあり、
12。沈黙がある。

[註1]
全部で6章からなる此の詩でヘルダーリンが歌ひたい帰郷の場所は、頻出して出てくる「其処」といふ場所なのです。「其処」が、放蕩息子の帰還する「ある場所」(第4章)なのです。



これらの詩行を書くために、ヘルダーリンは、掛詞や縁語を幾つも使つてをります。これもまた、浄瑠璃や歌舞伎や能を愛好した三島由紀夫の趣味に誠に適つたことでありませう。

ここで『三島由紀夫の十代の詩を読み解く5:三島由紀夫の人生の見取り図2』で最初に紹介した十代の三島由紀夫の詩の特色を再掲しますので、ご覧ください。ヘルダーリンの詩は、その様式美と相俟つて、実に三島由紀夫に通つてをり、この言語藝術家を魅了したことがお判り戴けるのではないでせうか。

1。三島由紀夫の詩の特徴:様式と素材

三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴は、6歳のときに書いた最初の『ウンドウクアイ』(決定版三島由紀夫全集第37巻。以下「決定版第37巻」と略称す。同巻17ページ)に既にあるやうな、言葉、即ち音声と文字の繰り返しによる様式化です。

言葉の繰り返しと、そこに現れる時間の差、即ち時差に美を感じ叙情を感じてゐるのです。

これが、三島由紀夫の十代の詩の際立つた特徴であり、特色です。

さうして、この様式化された様式は、強い対比と対照によつてなされてゐますが、その後小学校に入りますと、その様式化された音声と文字の対比の構図の中に、更に次のやうな自然の素材、もつといへば、自然の構成要素が歌はれるやうになるのです。曰く、

海、山、川、空、鳥、森、泉等々。

詩を読むと直に伝わつて参りますが、これらの形象には、三島由紀夫といふ少年の持つ、生命への強烈な憧れと渇仰があります。

自然の中に、鷲、梟等々の鳥が住み、空を飛んでゐる

さうして、春夏秋冬といふ四季の循環があり、その時間の永遠の繰り返しと其の季節の間(差異)の中で、これらのものが歌われてゐる。

さうして、この自然と四季との関係で、その中にあるのが、三島由紀夫の対比的な様式であつて、それは、これらの自然の構成要素の中に、また外に、生と死、昼と夜、光と闇といつた組み合わせを歌つてゐるのですし、更に、これらの生命に関する対比的な言葉(概念)の配置に加えて、その中に、その外に、金、銀、黒、白、青、赤、臙脂色等々のきらびやかな色彩が、更に廃墟の城やその他の事物が、数多く歌われてゐます。

少年三島由紀夫は、このやうに自分の詩の、言葉の世界を創造したのです。」


また、このヘルダーリンの詩を読んで思ふことは、三島由紀夫の終生の重要な主題の一つは、放蕩息子といふ主題から言つても、血族といふ自然の関係も含めての、自然との和解ではなかつたのだらうかといふことです。

それ故に、『絹と明察』の最後には、仮令疑似家族としてではあれ、妻の房江との経済的な紐帯によつて、駒沢善次郎を見舞つた石戸弘子といふfull nameを作者によつて与へられた娘が、この疑似家長としての経営者を訪ね、女性として、母なる自然として、和解をするのではないでせうか。(大槻といふ若者の子供を堕胎させられた女性といふ残酷な作者の企みがあるとはいひながら。)

わたしが此の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論としての『絹と明察』(1):殺人者たち』で書いたやうに、

「full nameがきちんと文字で最初から明示されてゐて、そのfull nameを読者が知ることのできるのは、

1。駒沢善次郎
2。石戸弘子

といふ、この二人だけといふことになります。

この小説は、疑似家族としての父と娘の物語なのです。

いや、もう一人、駒沢善次郎の妻房江は、駒沢善次郎の妻ですから、作中で呼ばれるときにはいつも房江とのみあるけれども、読者が頭の中で、房江のfull nameは駒沢房江だと形づくることはできるのだから、房江を入れれば三名ではないかといはれれば、三名といふことになります。

かうして考へると、この小説は、

1。駒沢善次郎
2。駒沢房江
3。石戸弘子

といふ三人の、父と母と娘の疑似家族の物語だといふことになるでせう。」

といふ推論は、間違つてはゐないのではないかと思ひます。

『絹と明察』は、父親と子供との和解の物語であるのです。或ひはまた、母娘の和解の物語。

『近代能楽集』の中の『道成寺』にも、踊り子が、女性としての美である自分の顔に硫酸をかけて、美しさといふ、さうして若さといふものに自然が与へる美といふものを否定して醜い顔にしようと思ふて、若い恋人が年上の人妻に殺されて血を流した合わせ鏡の部屋ともいふべき衣装箪笥の中に籠りますが、それをせずに外に出てきてからの、踊り子の科白のある骨董屋の主人との次の会話があります。

清子 いいえ。我に返つて、また小瓶の蓋をしめたの。勇気がなくなつたからではないは。そのとき私にはわかつたの。あんな怖ろしい悲しみも、嫉妬も、怒りも、悩みも、苦しみも、それだけでは人間の顔を変えることはできないんだつて。私の顔はどうあらうと私の顔なんだつて。
主人 ごらん、自然と戦つて、勝つことなんかできやしないので。
清子 いいえ、負けたのぢゃありません。私は以前と和解したんです。
主人 都合のいい口実です。
清子 和解したんです。(その手から小瓶がポロリと落ちる。主人はあはてて、それを蹴とばす)......今は春なのね。はじめて気がついたは。永いこと私には季節がなかつた。あのひとがこの箪笥に入つてから。(略)」

ここに書かれてゐることは、若い美しい女が、愛する男に合わせ鏡の空間に入られると、時間といふ繰り返しが奪はれてしまひ、季節がなくなつてしまふといふことです。その男を合わせ鏡の(これもまた時間の無い無限の空間的な繰り返しの世界の)世界から取り戻し、自分の季節の繰り返しを取り戻すには、自分の美を醜いものに、美の対極のものにしなければならないといふ考へです。これを徹底することが、時間の繰り返しのある自然に対抗して生きることです。

しかし、自然と和解をすれば、即ち自分の美を自分の美であると知ることができれば、即ち此の再帰的な一行の文をこころの中で書くことができて、それを認めることができれば、自己を取り戻し、世界の季節といふ繰り返しも取り戻し、思ひ出すことができる。つまり、自分自身が繰り返して自分自身に再帰する人間であるといふことを思ひ出しさへすれば、即ち自己の若さの再帰的な美を否定さへしなければ、喪はれた愛する男も不要であり(何故なら、再帰的人間として自足してゐるから)、次の男のところへ行つても、「平気だは。どんなことになつても平気。誰がこのさき私を傷つけることができるでせう。」「でももう何が起こらうと、決して私の顔を変へることはできません。」といふのです。

一言で言へば、美しいものは、自己が再帰的なものであることを知り(或ひは思ひ出し)、自然と和解しさへすれば、即ち時間の繰り返しといふ再帰性の中に生きることを決心すれば、その美は不変であり不壊であるといふ思想です。[註2]

[註2]

禁色に次の箇所がある。
「悠一君、この世には最高の瞬間というものがる」――と俊輔は言った。「この世における精神と自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ」



この一節を見ますと、(精神、自然、美)がやはり一式の概念連鎖に、三島由紀夫にあつては、なつてゐることがわかります。

さうして思ふべきことは、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く20:詩論としての『絹と明察』(3):駒沢善次郎』でいひましたやうに以下に引用すれば、三島由紀夫のいふ自然とは、普通わたしたちが思ふ母なる自然、地母神ではなく、父親である自然ではないかといふことです。

「それから、経営環境を取り巻く自然を「父なる自然」と呼び、そのもたらす恵みを「父なる自然の恵み」と呼んでゐる(第8章「駒沢善次郎の憤怒」)ことも、やはり此のわたしの考へを裏付けるものです。

普通には、自然といふものを、わたしたち日本人は、母に喩へるものではないでせうか。父に喩へるとしたら、それは過酷な自然環境に生きて来た民族でありませう。勿論、日本には台風も来れば、地震も起きるとはいいながら。

この「心は一方通行で足り、水は低きへ流れる。それが自然といふものだ。」といふ自然観、「父なる自然」といふ駒沢善次郎の考へは、三島由紀夫の自然についての考へ方なのではないでせうか。」

さうすると、自然と和解するための上の概念連鎖の一式は、次のやうに増築することができます。

{両親(父、母)、[(精神、自然)、美(肉体)]、血族共同体}

三島由紀夫の十代の15歳の詩に、踊り子の出てくる『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』と題した詩があります(決定版第37巻、552ページ)。この踊り子も、美しいのでありませうが、しかし、『道成寺』の踊り子と同様に貧しい踊り子です。傍線筆者。

「「夕暮は煙草のやうな匂ひがしますね
 ……どつか、とほい、……あのピアノの音は
 ドとファがぬけてゐます
 古いピアノのある、……褪せたカァテンの……古い家、
 大きなおほきな木彫の卓子(テーブル)がおいてあるのぢゃありませんか?
 (樅がなゝめになつて……梢に夕陽のもえのこりをとまらせて……)
 明取(あかりと)りのうへの空は」
 ひらたい……ひらたい……なんて扁たいんでせう
 みどろの一種のやうに、もつれたまゝ動かないのでせう……

 ああ あなた こゝにゐらして下さい、
 どこへいらつしやるんです
 (おのがれになれないのですよ)
 孤独はこゝろのなかにはゐません、
 あなたをとりまくみえない帷(とばり)です
 かはいさうに……さびしいので……こゝろははしやぎまは
  るでせう
 みすぼらしい踊り子のやうに
 でもそれにつれて、孤独は厚くなるばつかりです、
 シイツの皺にも
 夜が訪れてきたのですね、」
 そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひた
  され始める

煙草の匂ひを嗅いで過去を追想するところから、この詩は始まります。煙草がそのやうな作用をもたらすことを、15歳の少年は知つてゐたことになります。

追想でありますから、「……」といふ点線による過去の追憶が始まり、この詩が過去の時間のなかで歌はれることになります。[註3]

[註3]
「……」といふ点線の詳しい意味については、『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11: イカロス感覚2:記号と意識(1):「………」(点線)』(http://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html)を参照下さい。



 
それも、「ドとファが抜けた」といふ、その抜けた空虚の音が響く時差の存在する古い家の中の空間が舞台です。時刻は夕暮れである。

さて、その追想の過去の時間のなかで、この詩の話者が自分の姿を現して、作中の「あなた」に、このピアノの空虚の時差の響く空間へと誘ふように呼びかけます。この「あなた」は、「踊り子のやうに」と直喩で言はれてゐますので、顔も体も若い美しい女性なのでありませう。これを今「踊り子」と呼ぶことにして論を進めます。

また、最後の二行を読みますと、どうもこの部屋は鏡の部屋、即ち壁面四面が鏡であるか、天井も床も鏡の張つてあるか、いや、それらをひつくるめても、部屋は「鏡の内部」を持つ空間であると想像されます。

この鏡の内部を備へた空間に入ると、そこには孤独がなくなるのか、または孤独になるのか、二つに一つでありませう。

「孤独はこゝろのなかにはゐません」といふ一行を考へれば、孤独は、あたなの心の中にではなく、この部屋に「あなたをとりまくみえない帷(とばり)」としてあると読むことができます。この部屋は、「鏡の内部」ですから、この部屋の「鏡の内部」にやつて来ると、踊り子は孤独になり、踊り子は「孤独は」自分の「こゝろのなかにはゐ」ないことを知るのでせう。

「シイツの皺にも/夜が訪れてきたのですね」といふ言葉には、何か非常に性愛の気配が濃厚にあります。それ故の踊り子でもあるのでせう。

この踊り子を美しい踊り子だと仮定すると、この「鏡の内部」にゐることは、実は「孤独は」自分の「こゝろのなかにはゐ」ないことを知ることであると知れば、夜が訪れるのですから、暗闇になりますので、鏡には自分の(不変の)美しい顔や肢体も映ることはなく、自己への再帰性をみることができなくなりますから、『道成寺』の踊り子のやうに鏡の部屋の外部に出て(自分の美を時間の再帰性の繰り返しの中において)積極的に自然と和解し、美としての自己を傷つけることなく男と性愛を交わすことを決心するわけではありませんが、しかし、「鏡の内部」にゐたまま消極的に、「夜が訪れてき」てみえないベッドの「シイツの皺」の上で、男と性愛を交わす準備はできてゐるといふことになります。

何故ならば、夜が訪れると、「そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひたされ始める」からです。即ち、このとき、この踊り子の美は、夜の水の流れ、といふことは夜の河の流れと言ひ換へてもよく、更に言ひ換へれば、夜の時間の河の流れに浸されて、その時間の再帰性(繰り返し)に身を委ねて、自分の顔の美を毀損することなく、男との性愛を交わすことができる。

これが、15歳の三島由紀夫の早熟の論理であつたのではないでせうか。

この夜の論理をひつくり返すと、『道成寺』の昼間の衣装箪笥の「鏡の内部」での、踊り子の心変わりの説明になります。何故ならば、衣装箪笥の「鏡の内部」には、夜の時間の浸潤はないからです。

清子といふ踊り子は、昼間に「鏡の内部」から外に出て、そこが夜である思つてゐる若い女であるといふことになりませう。春の季節の時間の循環、その季節のたびに咲き誇る桜もまた、これらは皆夜の季節であり、夜の桜なのです。清子の叫ぶ「春はかうしてゐても容赦なく押しよてくるんだはね。こんなにおびただしい桜、こんなにおびただしい囀(略)」といふ科白に、15歳の詩の「そのとき鏡の内部(なか)には滔々と水が流れてくる、部屋はひたされ始める」といふ言葉と同じ調子を、同じ時間といふ河の水の浸潤をみることができます。

それ故に、この劇は最後に清子が「でももう何が起らうと、決して私の顔を変へることはできません。」とふ一言で、この芝居は幕になるのです。

確かに、『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』と此の詩の副題にあるやうに、三島由紀夫は、ハイムケールの時代の初年に当たつて、この詩の主題を戯曲に仕立てたのです。

さうして、この「孤独はこゝろのなかにはゐません、/あなたをとりまくみえない帷(とばり)です」と歌はれる鏡は、14歳の次の詩にも、やはり同じ鏡として歌はれてをります。これが、おそらくは終生変わらぬ、三島由紀夫の鏡の形象であり、鏡の概念であつたのでありませう。

その詩は、『或る朝』といふ詩です(決定版第37巻、424ページ)。

「まつ白な裾長い闊衣で
 彼女は芝生を駆けて行つた。
 なにかすらつとした鳥たちは
 透明な肉体のまゝ、
 朝霧を切つて行く。
 あらゆる鬱金色の花のおもて、
 すべての森や湖や、
 噴水や糸杉(サイプラス)を包んで、
 目に見えぬ鏡があつた。」

『道成寺』も『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』も部屋の中の鏡ですが、この詩を読みますと、これは世界が鏡であるといつてをります。

世界は目に見えない鏡に包まれてゐる。さうして、その中にゐるものは、白い色であつたり、すらつとしてゐたり、透明であつたりしてをり、また、さうして自然を包んでゐる。

自然が鏡を包むのではなく、鏡が自然を包んでゐるそのやうな鏡、そのやうに「あなたをとりまくみえない帷(とばり)」である鏡はいつも女性と性愛と孤独と時間の再帰性(自己への、また自己の繰り返し)と、そして夜と、連鎖してゐる。

これが、鏡との関係では、14歳の三島由紀夫の世界認識でありました。

このやうに考へて参りますと、三島由紀夫にとつての自然との和解とは、鏡の世界との和解といふことになります

即ち、自己との、自分自身との和解です。一体三島由紀夫は自己の何を赦し難いと思つたのでありませうか。

さうしてみますと、わたしの思ひ描いた『三島由紀夫の世界像』は、見えない帷としての鏡に包まれてゐるといふ世界像になります。

『絹と名刹』の作中に、岡野が「自然との和解」といふことを思ふ箇所がありました。今探しても見つかりません。透明な姿となつて、世界の鏡の中に消えたのでせうか。

しかし、このヘルダーリンの詩を読んでわかつたことは、『絹と明察』で岡野がこの詩人の詩を引用する場面では、必ず作者と、此の駒沢善次郎といふ「父なる自然」を考える経営者に対抗して、これを否定して、岡野が思ふ「世界は目に見えない鏡に包まれてゐる」といふ認識にどこか触れたときであることになりませう。

さう考へて、例へば、今『絹と明察』のページを無造作に開いて目に入つたヘルダーリンの『ハイデルベルヒ』を岡野が引用する、その詩の「第四聯」の詩行は、全く15歳の『孤独(『夕暮は……』ある戯曲の一節)』といふ第2連の最後の数行の詩行と同じであることに、あなたは驚くでありませう。或ひは、その踊り子の夜の鏡を踊り子の昼の鏡に論理を交換したといふべきでせう。しかし、ただ、この詩には、同じ鏡といふ一文字が隠れてゐて、文字にはなつてゐないのだと、三島由紀夫は思つたことでありませう。

「青年の河は平野の懐深く進んで行つた、
 悲しくもよろこばしく。
 恋に死ぬには美しすぎる気高すぎる心臓が
 時代の潮(うしほ)に身を投げ入れる時のやうに。」


以下、第1章にあるder Gewittervogel(雷雨を告げる鳥)の写真をお見せします。これで、このアルプスの麓(ふもと)の景色が想像されるでせうか。


また、YouTubeで、そのアルプスの朝を告げる、歩きながらの繊細な啼き声を聴くことができます。


また、第4章のLindau(リンダウ)といふ町は、スイスの対岸にボーデン湖を挟んで位置するドイツの町で、有名な島を有する町です。島があり、また港があり、船があり、灯台もある。この景色を歌つたといふこともまた、三島由紀夫好みの要素でありますから、愛誦したものでありませう。確かに、さうして、美しい町です。