2014年9月27日土曜日

【西東詩集88】 HatemとSuleikaの詩


【西東詩集88】 HatemとSuleikaの詩


【原文】

Hatem

Möge, Wasser, springgend, wallend,
Die Zypressen dir Gesten:
Von Suleika zu Suleika
Ist mein Kommen und mein Gehen.


Suleika

KAUM dass ich dich wieder habe,
Dich mit Kuss und Liedern labe,
Bist du still in dich gekehrte;
Was beengt? und drückt und störet?



【散文訳】

ハーテム

水よ、迸(ほとばし)り、膨れ上がれ
糸杉がお前に告白することを願う
ズーライカからズーライカへと
それが、わたしの往路であり、そしてわたしの復路である。


ズーライカ

わたしがあなたを再び抱くや否や
あなたを口づけと数々の歌で慰め、楽しませましょう
あなたが、静かに、ご自分の中へと還っていらした
何が窮屈にしたのでしょう?そして、何が圧迫し、邪魔したのでしょうか?


【解釈と鑑賞】

水よ、迸(ほとばし)り、膨れ上がれ

というハーテムの詩の第一行は、ズーライカの前の詩の冒頭の二行

陽気な泉の縁(へり)、
数々の水糸の中に遊んでいるその縁に凭(もた)れて

この二行を受けています。

第2行目に、

糸杉がお前に告白することを願う

とあるのは、前のーライカの詩の後半の連に、

ここ、この運河の終りで
並べて置かれた主街道の並木道の終りで

とあり、街道の並木道の樹木が糸杉であるからでしょう。

ハーテムは、この街道の往来をズーライカからズーライカへの往復に譬(たと)えたのです。

このような相聞歌は、お互いに楽しい経験であったことでしょう。実際の70歳を過ぎたゲーテ自身と、10代後半の恋人、マリアンネのこの相聞歌は。直接ではなく、ハーテムとズーライカに変身して、歌えばこそ尚のこと。


最後の一行には、恋人を思う、深切なこころが現れております。

Immer mehr Bettler(益々乞食が):第40週 by Friedrich Christian Delius(1943~ )


Immer mehr Bettler(益々乞食が):第40週 by  Friedrich Christian Delius1943






【原文】


IMMER mehr Bettler,
immer mehr Millionäre.

Wenige Toren,
die sich die Augen reiben;
Welches Land und welche Zeit?



【散文訳】

益々乞食と貧乏人が多くなる
益々百万長者と金持ちが多くなる

数少ない馬者達が
眼を擦(こす)って、こう言うのだ;
どの国のことだ、そして、どの時代のことだ?、と




【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたウエッブ頁です。



イタリアのローマに生まれて、ドイツ語の詩人です。

乞食も貧乏人も百万長者も金持ちも馬鹿者たちも、皆、救いようの無い人間であるという詩です。

今の日本に当て嵌めて考えてみると、もっと情趣の湧くことでしょう。





【Eichendorfの詩85】Glückliche Fahrt (幸福な旅)


Eichendorfの詩85Glückliche Fahrt (幸福な旅) 
  

【原文】

Wünsche sich mit Wünschen schlagen,
Und die Gier wird nie gestillt.
Wer ist in dem wüsten Jagen
Da der Jaeger, wer das Wild?
Selig, wer es fromm mag wagen,
Durch das Treiben dumpf und wild
In der festen Brust zu tragen
Heil’ger Schoenheit hohes Bild! 

Sieh, da brechen tausend Quellen
Durch die felsenharte Welt,
Und zum Strome wird ihr Schwellen,
Der melodisch steigt und fällt.
Ringsum sich die Fernen hellten,
Gottes Hauch die Segel schwellt―
Rettend spülen sich die Wellen
In des Herzens stille Welt.


【散文訳】

数々の願いで、我が身を打擲することを願い
そして、この渇望は、決して鎮まることがない。
誰が、この荒涼たる狩りにおいて
するとほら直ぐに、狩人だというのか、野生の動物(獲物)とは誰の事だ?
神聖なのだ、敬虔に敢えて危険を冒す者は
この衝動、衝迫を通じて、鈍く、そして野生の者として
堅い胸の中に運んでいるという危険を
神聖なる美の高潔なる像を運んでいるという危険を!

見よ、すると途端に幾千もの泉が迸(ほとばし)る
巌の固さの世間を穿(うが)って
そして、嵐に、その泉が膨れ上がって成り
嵐は、旋律を奏でて登り、そして落ちる。
周囲には、数々の距離が、明るく輝いていた
神の吐息が、鏡を膨らませ、高める―
大波が、洗い、救済しながら
心臓(こころ)の中の静かな世界で


【解釈と鑑賞】

自らを狩人に譬えている詩です。それも世間からの通俗的な狩人の像を否定して、詩人としての像を打ち立てています。

その衝動を神聖な衝動と呼び、美の像を胸中に運ぶものという詩人の形象は、他の詩とともに、変わりません。

第2連は、その詩人の胸中の出来事でありましょう。しかし、大切なことは、最後の一行にある通りに、それは「心臓(こころ)の中の静かな世界で」起きているということなのです。


2014年9月23日火曜日

Der Fremdling(余所者):第39週 by Charles Baudelaire(18821~ 1867 )


Der Fremdling(余所者):第39週 by  Charles Baudelaire(18821~ 1867 )






【原文】


Der Fremdling

Wen liebst du am meisten, raetselhater Mann, sag?
Deinen Vater, deine Mutter, deine Schwster oder deinen Bruder?
Ich habe weder Vater, noch Mutter, noch Schwester,
noch Bruder.
Deine Freunde?
Sie gebrauchen da ein Wort, dessen Sinn mir bis zum
heutigen Tage unbekannt geblieben ist.
Dein Vaterland?
Ich weiss nicht, unter welchem Breitengrad es liegt.
Die Schönheit?
Gern möchte ich sie lieben, sie, Göttin und
unsterblich.
Das Gold?
Ich hasse es, wie Sie Gott hassen.
Ei! Was liebst du denn, seltsamer Fremdling?
Ich liebe die Wolken … die Wolken, die
vorüberziehen dort. … die wunderbaren
Wolken!



【散文訳】


余所者

お前はだれを一番愛しているのだ?謎めいたお前、言ってみろ、どうだ?
お前の父親か、お前の母親か、お前の姉妹か、はたまたお前の兄弟か?
わたしには、父親も母親も姉妹も兄弟もいない。
お前の友達はどうだ?
奴らは、ほら、一つの言葉を使うだけで、その意味は、わたしには今日の日まで、知らないままだ。
お前の祖国はどうだ?
わたしは、どの緯度に、祖国があるのか知らないのだ。
美は、美人はどうだ?
喜んで、それを愛したいものだ、美、女神を、そして
不死のままで
黄金はどうだ?
わたしはそれを憎む、お前が神を憎むように。
やれやれ!それでは一体、お前は何を愛しているのだ?奇妙な余所者よ
わたしは、雲を愛するのだ、雲の数々を
あそこに通って行く、素晴らしい
雲を!



【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたウエッブ頁です。



フランス文学史に、いうまでもなく、有名な詩人です。


題名のder Fremdlingとは、英語で言えばstranger、その土地に入って来た余所者、その土地の者の知らないものという意味です。

従い、この余所者は、旅の者として、雲を愛するというのでしょう。

勿論、この雲は、詩人のこころを表しています。




【西東詩集87】 Suleika


【西東詩集87】 Suleika


【原文】

Suleika

AN DES lustgen Brunnes Rand
Der in Wasserfaeden spielt,
Wusst ich nicht was fest mich hielt;
Doch da war von deiner Hand
Meine Chiffre leis’ gezogen,
Nieder blickt ich , dir gewogen.

Hier, am Ende des Kanals
Der gereihten Hauptallee,
Blick ich wieder in die Höh,
Und da seh ich abermals
Meine Lettern fein gezogen.
Bleibe! bleibe mir gewogen!



【散文訳】

ズーライカ

陽気な泉の縁(へり)、
数々の水糸の中に遊んでいるその縁に凭(もた)れて
わたしは、何がわたしを引き止めるのかを知らなかった
しかし、ほら、お前の手によって
わたしの暗号は、微かにそっと、その線を引かれたのだ
下を、わたしは見た、お前に好意を持って

ここ、この運河の終りで
並べて置かれた主街道の並木道の終りで
わたしは再び高みを見る
そして、そこに、わたしはまたしても
わたしの文字が、繊細にその線を引かれているのをみるのだ。
そのまま動くな!わたしに好意を持ったままでいよ!



【解釈と鑑賞】

後半の連の

Hier, am Ende des Kanals
Der gereihten Hauptallee,
Blick ich wieder in die Höh,
ここ、この運河の終りで
並べて置かれた主街道の並木道の終りで

というところは、運河の終点と、主要な街道の並木路の終りでと解しました。

「並べて置かれた主街道の」と訳したドイツ語は、

der gereihten Hauptallee

ですが、これの意味は、

(1)複数の主たる街道(実際並木路です)が、設計によって整然と配置されている、そのような街道か、または、
(2)単数のそのような主たる街道が、整然と配置されてそのようにあるそのような街道

という意味か、いづれかです。

この語の前の「運河」が単数なので、後者(2)の解釈がよいかも知れません。しかし、これも絶対ではなく、前者(1)の意味として解釈し、陸路も幾つも、数々通って、運河も通って、最後に辿り着いたここで、という解釈もあり得ます。

つまり、どこまで行っても、どこに行っても、ハーテムの賛美して歌う、ズーライカについての詩の言葉とその文字が、ついて廻るのでしょう。

前半の連の、

AN DES lustgen Brunnes Rand
Der in Wasserfaeden spielt,
Wusst ich nicht was fest mich hielt;

陽気な泉の縁(へり)、
数々の水糸の中に遊んでいるその縁に凭(もた)れて
わたしは、何がわたしを引き止めるのかを知らなかった

とあり、次に、

Doch da war von deiner Hand
Meine Chiffre leis’ gezogen,
Nieder blickt ich , dir gewogen.

しかし、ほら、お前の手によって
わたしの暗号は、微かにそっと、その線を引かれたのだ
下を、わたしは見た、お前に好意を持って

とあるのは、泉の水の中をみて、ハーテムの書いた恋の暗号があるのを見るからでしょう。

かうしてみると、前半の連は、静かに泉にいるときに、後半の連は、反対に動いてその行きつくところまで遠くに行ってもという意味になります。

とすると、後半の主要な街道の解釈は、前者(1)の意味として解釈がよいということになります。






【Eichendorfの詩84】Dichterglück (詩人の幸福)


Eichendorfの詩84Dichterglück (詩人の幸福) 
  

【原文】

O Welt, bin dein Kind nicht von Hause,
Du hast mir nichts geschenkt,
So hab ich denn frisch meine Klause
In Morgenrot mir versenkt.

Fortuna, streif nur die Höhen
Und wende dein Angesicht,
Ich bleibe im Wald bei den Rehen,
Flieg zu, wir brauchen dich nicht.

Und ob auf Höhn und im Grunde
Kein Streifchen auch meine blieb,
Ich segne dich, schöne Runde,
Ich habe dich dennoch so lieb!


【散文訳】

おお、世界よ、わたしは、生来お前の子供ではない
お前は、わたしに何も贈らなかった
だから、そうなると、わたしは新鮮に、わたしの庵室を
燭光の中で、自分自身の許で沈めたのだ。

幸運の女神よ、ただ高みのみを巡察するがよい
そして、お前の顔を向こうに向けるがよい
わたしは、森の中に、野呂鹿の許に留まる
飛んで行くがよい、わたしたちはお前を必要としない。

そして、高みであれ、そして地の底であれ
どんな巡察も、わたしの巡察ではなかった
わたしは、お前を祝福する、美しい円環よ
わたしは、お前を、それでも、かくも愛しているのだ!


【解釈と鑑賞】

この詩の題を「詩人の幸福」と訳しましたが、ドイツ語は、詩人と幸福が一語になった造語ですから、ひとつの意味は、詩人の所有する幸福という意味もあれば、詩人の与える幸福という意味にもなります。

この詩を読むと、解釈は、前者です。

この詩の最初の一行の、おお世界よと呼びかけるこの出だしをみると、やはりアイヒェンドルフは、中世の感覚を活き活きとその身内に持っていることがわかります。

So hab ich denn frisch meine Klause
In Morgenrot mir versenkt.
だから、そうなると、わたしは新鮮に、わたしの庵室を
燭光の中に、自分自身の許で沈めたのだ。

とある箇所は、多分ドイツ語の原文の誤植ではないかと推察します。原文は、

So hab ich denn frisch meine Klause
In Morgenrot mir verschenkt.
だから、そうなると、わたしは新鮮に、わたしの庵室を
燭光の中で、自分自身に贈ったのだ。

というのであれば、詩の題名とも、詩の全体やこの連の脈絡とも一致するのです。


最後の連で「美しい円環」と呼ばれているのは、詩であり、詩の世界のことでありましょう。

2014年9月20日土曜日

【西東詩集86】 BUCH SULEIKA


【西東詩集86】 BUCH SULEIKA


【原文】

BUCH SULEIKA

ICH moechte  dieses Buch wohl gern zusammenschürzen,
Dass es den andern wäre gleich geschnürt.
Allein wie willst du Wort und Blatt verkürzen,
Wenn Liebeswahnsinn dich ins Weite führt?


AN VOLLEN Bueschelzweigen,
Geliebte, sieh nur hin!
Lass dir die Früchte zeigen
Umschalet stachlig-gruen.

Sie haengen laengst geballet,
Still, unbekannt mit sich,
Ein Ast der schaukelnd wallet
Wiegt sie geduldiglich.

Doch immer reift von Innen
Und schwillt der braune Kern,
Er moechte Luft gewinnen
Und saeh die Sonne gern.

Die Schale platzt und nieder
Macht er sich freudig los;
So fallen meine Lieder
Gehaeuft in deinen Schoss.



【散文訳】

ズーライカの巻

わたしは、この書物を、きっと喜んで、糸を通して一つに結びたいのだ
即ち、他のひとたちには、恰も一本の糸で結ばれているかのように。
しかし、お前は、どのように、言葉と紙を切り詰めるつもりなのか
愛の狂気が、お前を遥か彼方へと連れて行くならば?

一杯に満ちた灌木の枝々に
愛する者よ、ただあそこを見てご覧!
お前のために果実の数々を示させよう
刺のある緑色に外皮で包まれている果実を。

それらの果実は、長いこと、丸くなったまま、枝に下がっている
静かに、自分自身のことにも無知のままに
一本の大枝、左右に揺れ乍ら膨らむ大枝が
果実を忍耐強く、揺籃している。

勿論、いつも熟れるのは、内側からなのであり
そして、茶色の芯が膨れ上がり
それは、(外の)空気を獲得したいと思い
そして、太陽をよろこんで見ることになるだろう。

外皮が、音立てて割れ、そして下へと
芯は歓びながら、我が身を放って落とすのだ:
かのように、わたしの歌の数々も、下に落ちて
お前の膝の中に、堆積するのだ。


【解釈と鑑賞】

最後の連の最後の二行の、

So fallen meine Lieder
Gehaeuft in deinen Schoss.

かのように、わたしの歌の数々も、下に落ちて
お前の膝の中へと、堆積するのだ。

と歌われる、お前の膝、ドイツ語のSchossは、他の詩でもそうですが、性的な含意があって、お前の性愛の中へと、わたしの詩が実り落ちて堆積するのだと理解しても、いつも、間違いではありません。


September(9月):第38週 by Guillaume Apolinaire(1880 ~ 1918 )


September(9月):第38週 by  Guillaume Apolinaire(1880 ~ 1918 )





【原文】


Wie ein schwermütiger Späher
Belausche ich die Nacht und den Tod



【散文訳】

憂鬱な探偵のように
わたしは、夜と死に聞き耳を立てる



【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたウエッブ頁です。



フランス文学史に有名な詩人です。

原文のドイツ語の挿絵には、



原文のドイツ語の挿絵には、医療機器の画面に映る心臓の脈拍の、黒地に緑色の、上下する鋭い線の波で、次の様な文字を書いています。

und du mein Herz warum pochst du

そして、お前、わたしのこころ(心臓)よ、
何故にお前は脈打つのか?

とあるので、これがこの詩の題名であるのかも知れません。

取りあえず、この詩の上辺にある9月という季節の文字を、そのまま今回の題名としました。

探偵と訳した語は、スパイ、spyeということです。

やはり、スパイでは形象は豊かではなく、漢語を使って探偵とした方が、わが日本文学史の歴史の文脈の中では、豊かさを備えると思いましたので、この訳語を選択した次第です。例えば、萩原朔太郎の『殺人事件』という、朔太郎の詩のうちで最もわたしの好きな詩の一つを:


殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。

またぴすとるが鳴る。

ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、

こひびとの窓からしのびこむ、

床は晶玉、

ゆびとゆびとのあひだから、

まつさをの血がながれてゐる、

かなしい女の屍體のうえで、

つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつけ上旬(はじめ)のある朝、

探偵は玻璃の衣装をきて、

街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。

十字巷路に秋のふんすゐ。

はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、

曲者はいつさんにすべつてゆく。

【Eichendorfの詩83】Zweifel(疑心)


Eichendorfの詩83Zweifel(疑心) 
  

【原文】

Könnt es jemals denn verblühen,
Dieses Glänzen, dieses Licht,
Das durch Arbeit, Sorgen, Mühen
Wie der Tag durch Wolken bricht,
Blumen, die so farbig glühen,
Um das öde Leben flicht?

Golden sind des Himmels Säume,
Abwärts ziehen Furcht und Nacht,
Rüstig rauschen Ström und Bäume
Und die heitere Runde lacht,
Ach, das sind nicht leere Träume,
Was im Busen da erwacht!

Bunt verschlingen sich die Gänge,
Tost die Menge her und hin,
Schallen zwischendrein Gesänge,
Die durchs Ganze golden ziehn,
Still begegnet im Gedränge
Dir des Lebens ernster Sinn.

Und das Herz denkt sich verloren,
Besser andrer Tun und Wust,
Fühlt sich wieder dann erkoren,
Ewig einsam doch die Brust.
O des Wechsels, o des Toren,
O der Schmerzen, o der Lust!


【散文訳】

いつか、それでは、凋(しぼ)んでしまうのだろうか
この輝き、この光は
労苦と、心配と、努力を通って
日が雲々の間を通って破るように、破るこの光輝は
花々、かくも色彩豊かに輝く花々を
荒涼たる人生を巡って編む、この光輝は?

黄金色をしているのは、天の縁飾りであり
下方に向うのは、恐怖と夜であり
敏捷にさやけく音立てるのは、河の流れと木々であり
そして、明朗な一座は笑い声を立て
ああ、これらは、空しい夢ではない
胸の中に、ほら、目覚めるものなのだ!

色彩豊かに縺(もつ)れ絡(から)み合うのは、歩行であり
有象無象どもは、あちらへこちらへと、(波風のように)立ち騒ぐ
その間へと鳴り響くのは、歌の数々であり
それらは、全体を通って、黄金色をして往き
静かに、群衆の押し合いへし合いの中でお前に出逢うのは
生の真剣な意義だ。

そして、こころは、自らの身には、考えることを喪(うしな)い
よりよくは、他の者達の身には、その行いと塵埃のことを考える
再び、すると選ばれたと感じて
永遠に孤独に、しかし、胸はあるのだ
おお、その変転の、おおその愚か者の
おお、その苦しみの、おおその悦びの(胸は)!


【解釈と鑑賞】

第2連にあるように、わたしの読む限り、すぐれた詩人はどの詩人も、この「縁飾り」或いは飾り縁(ふち)を歌います。それから、必ずと言っていいほど、庭を歌います。そして、母屋は歌わない。ここに、詩人の言葉の秘密があると、わたしは思っています。この秘密は、わたしにとっては、謎ではありません。もう十分によく知った論理と感情です。詳しく論ずることがあるでしょう。

第2連の、森の中か自然の中で、笑い声を立てる「明朗な一座」は、人間ではなくこの連に歌われた河や、樹木やらの、いつものアイヒェンドルフの詩におなじみの一座です。

さて、アイヒェンドルフも、第2連にそのようにある縁飾りの自己が、世俗の塵埃の中でどのようにあるかを第3連で、そうして、その詩人のその胸が、世間のものたちとの関係ではどのようであるのかを、そして自分自身は何であり、何の苦しみであるのかを、第4連で歌っております。

かうして考えて来てから、最初の連を読み返しますと、一度目に読んだときには、何か弱々しい感情と思ったものが、何か強い感情に変じ、反語的な疑問文であることに気付きます。

疑心は、疑心ではなかったということです。


2014年9月15日月曜日

Rudolf Borchardt(1877〜1945)の詩を読む

詩を読む:Rudolf Borchardt

この詩人についての詩を読んでみたい。Pause、休憩、休止という題名の詩。
これは1907年に書かれた。

Fritz Martiniのドイツ文学史(Deutsche Literaturgeschichte)を読むと、1900年頃の叙情詩を代表するドイツの詩人達のうちのひとり。ホフマンスタール、ゲオルゲ、リルケの次に、名前の挙げられる詩人。1877年生まれ、1945年没。ダンテの神曲をドイツ語に訳した翻訳者、中世の詩の翻訳者。ゲオルゲの詩のサークルに入っていたが、後にゲオルゲのサークルの持つ詩形式の技工・技術上の理由から、サークルを追われる。叙情詩人であり、エッセイストでもある。ホフマンスタールの重要なる同行者。

また、Wikipediaのドイツ語版によれば、この詩人は、次のような詩人である。

1877年6月9日ケーニヒスブルグ生まれ、1945年1月10日チロルなるシュタイナーハの近隣Trinsにて没す。その言語の力を以て、しかしまた自ら選択した結果として、その弧絶の故に、20世紀の詩人達のうちにあっては、孤独者として終始した。東プロイセンのユダヤ人の商人の息子。ボンとゲッティンゲンにてギリシャ・ローマの古典学を学び、その研究の印影あり。またゲオルゲとホフマンスタールの詩を通じても影響を受ける。旅と危機の年月を閲した後、1903年以来トスカーナに定住、この巨匠的な叙情詩人は、古代ヨーロッパの伝承・伝統の宇宙に関する包括的なビジョンを展開する。中心にあるのは、古代とダンテであり、この詩人においては、このふたつが同格の位置を占める。後者の神曲を、何十年もかけて、独自のドイツ語に訳す。

記述の全体を読むと、19世紀末のヨーロッパを忌避し、古典古代のヨーロッパに範を求め,憧れたひとのようである。当時のヨーロッパを破壊することを考え、それ故に、政治的には保守的であり、第1次世界大戦時にも戦争に賛意を表し、第2時世界大戦時には独伊のファシズムの支持者となった。しかし、古典古代のヨーロッパの賛美者ということから生ずる、その時代的な詩人としての矛盾をみると、それは包囲された要塞に喩えられる。詩人自身の好んだいいかたによれば、“コーナーに追い詰められている”。ここで、アドルノによる言葉を日本語でいえば、一筋縄ではいかない詩人ということだろう。

このような詩人についての意識と経歴をみると、訳は次のようになるだろう。呼び掛けの対象は、ざわめく音ではなく、古代の精神というものであろうか。題のpauseは、こうして読んでみると休憩ではなく、音楽の休止という訳になるのだろう。詩中にでてくるTonの縁語ゆえ。休止の中で聞く音は苦痛だ。普通に音の進行の中でこそそのTonを聞きたいのに。


Pause

Hinter den tiefsten Erinnerungen
Verwaechst die Zeit;
Die alten Wege waren frei und breit.
Nun hat die Welt sie ueberdrungen.
"O Rauschen tief in mir,
Was aber hast du, das ich gerne hoerte?
Ist denn ein Ton in dir,
Der mich nicht stoerte?"
"Ich habe nichts als Rauschen,
Kein Deutliches erwarte dir;
Sei dir am Schmerz genug, in dich zu lauschen."

(Gedichte. Textkritisch revidierte Neuedition der Ausgabe von 1957. Hrsg. von Gerhard Schuster und Lars Korten. Stuttgart: Klett-Cotta 2003 S. 39)

[訳]
最も深い数々の記憶の背後で(そのような記憶と正面から向き合わずに)
今の時代は歪んで成長する;
古代の道々は、自由で広かった
ところが、今や、世界はそのような道々をなぎたおしてしまった。
“ああ、我が身の内に、深くざわめきの音をたてよ、その音よ
わたしが好んできいたもの(その音)を、お前はどうしたのだ
わたしの邪魔をしなかった(聞いてここちよかった)音(トーン、しらべ)がお前の中に一体今はあるのだろうか“とお前に尋ねると
 “わたしは、ざわめきの音以外には何ももってはいない
明瞭なざわめきの音などというものはなく、そんな音はあったとしてもお前のことなど考えてもいない;
お前の中にそっと聞き耳をたてて、そのことだけで十分に生れる苦痛を味わうがいい。“とお前は答える。



2014年9月13日土曜日

【西東詩集85】 Suleika


【西東詩集85】 Suleika


【原文】

Suleika

NIMMER will ich dich verlieren!
Liebe gibt der Liebe Kraft.
Magst du meine Jugend zieren
Mir gewaltiger Leidenschaft.
Ach! wie shmeichelts meinem Triebe
Wenn man meinen Dichter preist:
Denn das Leben ist die Liebe,
Und des Lebens Leben Geist.

LASS deinen süßen Rubinenmund
Zudringlichkeiten nicht verfluchen,
Was hat Liebesschmerz andern Grund
Als seine Heilung zu suchen.

BIST du von deiner Geliebten getrennt
Wie Orient vom Okzident,
Das Herz durch alle Wüste rennt;
Es gibt sich überall selbst das Geleit,
Für Liebende ist Bagdads nicht weit.

MAG sie sich immer ergänzen
Eure brüchige Welt in sich!
Diese klaren Augen sie glänzen,
Dieses Herz es schlägt für mich!

O! DASS der Sinnen doch so viele sind!
Verwirrung bringen sie ins Glück herein.
Wenn ich dich sehe wünsche ich taub zu sein,
Wenn ich dich höre blind.

AUCH in der Ferne dir so nah!
Und unerwartet kommt die Qual.
Da hoer ich wieder dich einmal,
Auf einmal bist du wieder da!

WIE sollt’ ich heiter bleiben
Entfernt von Tag und Licht?
Nun aber will ich schreiben
Und trinken mag ich nicht.

Wenn sie mich an sich lockte
War Rede nicht im Brauch,
Und wie die Zunge stockte
So stockt die Feder auch.

Nur zu! geliebter Schenke,
Den Becher fuelle still.
Ich sage nur: Gedenke!
Schon weiss man was ich will.

WENN ich dein gedenke,
Fragt mich gleich der Schenke:
》Herr! warum so still?
Da von deinen Lehren
Immer weiter hören
Saki gerne will.《

Wenn ich mich vergesse
Unter der Zypresse
Hält er nichts davon,
Und im stillen Kreise
Bin ich doch so weise,
Klug wie Salomon.



【散文訳】

ズーライカ

決して、わたしはお前を失いはしない!
愛は、愛に力を与えるものだ。
お前が私の青春を飾ってくれますように
わたしに、この激しい情熱のために。
ああ!世間が、わたしの詩人を次のように云って賞賛すると
それが、どんなにわたしの衝動をくすぐることか:
何故なら、生命は、人生は、愛だからだ
そして、生命の生命は、精神だからだ、と。

お前の甘い紅玉の唇に
押し付けがましいことを呪はせぬようにしなさい
愛の苦痛に、その治癒を探す以外の
別の理由があるだろうか。

お前が、お前の愛する者(女性)と分たれるならば
丁度東洋と西洋のように
心臓は、総ての荒野を通り抜けて走るだろう
至る所に、護衛者さへもが居るのだ。
愛する者にとって、バグダッドは、遠くはないのだ。

彼女がいつも修繕することを願う
お前達の綻(ほころ)んだ世界を、自らの内で!
この澄んだ眼が、彼女を輝かせ
この心臓が、わたしのために脈打つのだ。

おお!感覚の、これほど多くの感覚のあることよ!
混乱を、感覚は、幸福の中へと持ち込む。
もしわたしが、お前を見るならば、わたしは聾(つんぼ)でありたい
もしわたしが、お前の声を聞くならば、わたしは目暗(めくら)でありたい。

遠くにあっても、お前はかくも近いのだ!
そして、思いがけずに、苦しみがやって来る。
すると、わたしは再びお前の声をもう一度聞くのだ
突然に、お前は、再びここに居るのだ!

わたしは、どのように明朗であり続けるべきなのであろうか
昼と光から遠く離れて?
しかし、こうしてみると、わたしは書きたいと思う
そして、わたしは酒を飲みたくはない。

彼女がわたしを誘惑して、その胸に抱いてくれるたびに
議論は必要がなかったし、
そして、舌がもつれれば
筆もまたもつれる。

ただ注ぐのだ!愛する酌人よ
杯を、静かに満たせよ。
わたしはただかく云うのみ:思い出せ!
既に、わたしが何をしたいのかを世間は知っている。

もしわたしがお前を覚えているならば
直ちに、酌人は、わたしに尋ねるのだ:
旦那!何故そんなに静かなんだい?
あんたの教えについて
もっともっと聞きたいと
サーキー(水運び)は云っているよ。

もしわたしがわたしを忘れるならば
あの糸杉の樹の下で
酌人は何とも思わない
そして、静かな円環の中で
わたしは、なんと言っても、このように智慧があり
ソロモンのように賢いのだ。


【解釈と鑑賞】

題名はズーライカとありますが、詩を読むと、ズーライカが歌うのではなく、これはハーテムが、いやゲーテが、この女性を歌った詩だということがわかります。

解釈無用の、実によい詩だと思います。

最後の連の、静かな円環の中で、わたしがそのようであるという行は、いいものです。円環という言葉の意味は、深いでしょう。そうして、静かなという形容詞の意味もまた。何故ならば、この静かな円環は、この連の第一行にあるように、自己の忘却によって生まれているからです。

ゲーテもまた、藝術を言葉で産み出すときの機微とその真理をよく知っていたのです。



Delfin(海豚):第37週 by Jeffrey Yang(1974~ )


Delfin(海豚):第37週 by  Jeffrey Yang(1974~  )





【原文】


Delfine waren einmal Menschen,
so die Griechen. Der Flussdelfin―
in China eine Göttin.
Nur ein paar Gene neu sortiert
und schon, laut Forschung,
würden wir Delfine. Ein
wahrer Fortschritt wäre das!



【散文訳】

海豚(いるか)は、嘗て人間だった
と、ギリシャ人は言っている。河に棲む海豚は
支那では、女神だ。
たった一組の遺伝子が新たに選別されていれば
そして、既に、研究によれば
わたしたちは、海豚になるのだ。ひとつの
真の進歩ではないのか、これは!


【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたウエッブ頁です。



原文は英語で、英語からの訳です。

平明な、解釈の必要のない詩であろうと思います。



【Eichendorfの詩82】Rückblick(回顧)


Eichendorfの詩82Rückblick(回顧) 
  

【原文】

Ich wollt im Walde dichten
Ein Heldenlied voll Pracht,
Verwickelte Geschichten,
Recht sinnreich ausgedacht.
Da rauschten Baeume, sprangen
Vom Fels die Baeche drein,
Und tausend Stimmen klangen
Verwirrend aus und ein.
Und manches Jauchzen schallen
Liess ich aus frischer Brust,
Doch aus den Helden allen
Ward nichts vor tiefer Lust.

Kehr ich zur Stadt erst wieder
Aus Feld und Wäldern kühl,
Da kommen all die Lieder
Von fern durchts Weltgewueht.
Es hallen Lust und Schmerzen
Noch einmal leise nach,
Und bildend wird im Herzen
Die alte Wehmut wach,
Der Winter auch derweile
Im Feld die Blumen bricht―
Dann gibt’s vor Langeweile
Ein überlang Gedicht!


【散文訳】

わたしは森の中で詩作したいと思った
壮麗で一杯の英雄の歌を
込み入った歴史や物語を
正に意味深く考え出したそれらの話を
そこでは、木々がさやけき音を立てた
岩から、幾つもの川が、その中へと飛び込んだ
そして、千の声が鳴り響いた
混乱させながら、出たり入ったりして
そして、幾多のヤッホーという声が鳴り響かせた
わたしの新鮮な胸の中から
しかし、とはいへ、英雄皆の中からは
深い悦びの余り、何も生まれなかった。

わたしは、やっと再び、町に戻る
涼しい野原と森の中から
するとそこに、すべての歌がやって来る
遠くから、世間の雑踏を通して
陽気と苦痛とが残響する
もう一度微かに
そして、こころの中では、何かを造形しながら
古い哀愁が目覚める
冬もまた、その間に
野原で花々を折る
すると、退屈の余り
長過ぎる詩が生まれる!


【解釈と鑑賞】

やはり、アイヒェンドルフの詩作をするのは、森の中でした。他の詩の中では、森の大広間とも言っておりました。

木々はさやけき音を立て、小川は流れ、木々の音と交わる。

前半の連の最後に、深い悦びの余りに、英雄達の中からは何も生まれなかったというこの二行と、後半の連の最後の、退屈の余り長過ぎる詩が生まれるという二行は、対応し、照応し合っています。

前半の最後の二行は何を言っているのでしょうか。自分の詩の中に登場する英雄達の中からは、深い悦びの余り何も生まれなかった、或いは、無が生まれた。と、日本語では言い換えることができます。

後半の連では、冬が来て、野原の花を折るのですが、ここでは、やはりドイツの中世の町の城郭の外に、野原があるという景色を想像して下さい。町との対比で歌われる野原は、いつもこの景色の中で歌われるのです。

他の色々なこの詩人の詩を読むと、町の中に詩人が戻っていると、そうして野原へ出て、このような哀愁を思い、詩が生まれるようです。

しかし、その詩は長過ぎると言っているので、やはり森の中での詩とは違って、良い詩ではないのでしょう。或いは、そこまでは、言っていないのかも知れません。








2014年9月6日土曜日

【西東詩集84】 Hatem


【西東詩集84】 Hatem


【原文】

Hatem

LOCKEN! haltet mich gefangen
In dem Kreise des Gesichts!
Euch geliebten braunen Schlangen
Zu erwidern hab’ ich nichts.

Nur dies Herz es ist von Dauer,
Schwillt in jugendlichstem Flor;
Unter Schnee und Nebelschauer
Rast ein Aetna dir hervor.

Du beschämst wie Morgenröte
Jener Gipfel ernste Wand,
Und noch einmal fühlet Hatem
Frühlingshauch und Sommerbrand.

Schenke her! Noch ein Flasche!
Diesen Becher bring ich Ihr!
Findet sie ein Häufchen Asche,
Sagt sie: der verbrannte mir.


【散文訳】

誘惑!これがわたしを虜にし続けるのだ
あの顔の円環の中に!
お前達に、愛された茶色の蛇に
答えるべき何ものも、わたしは持ってはいない。

ただ、この心臓だけが、続いていて
最も若い花盛りの中で膨(ふく)れ上がる
雪と霧の驟雨の下で
一つのエトナ火山が、お前の前に現れ、憩っている。

お前は、朝日のように、恥ずかしめ、赤面させる
あの山頂の真剣な壁を
そして、もう一度、ハーテムは感じるのだ
春の息吹と夏の情熱を

さあ、酒を注(つ)げ!もう一壜を持って来い!
この盃を、わたしはズーライカに持参するのだ!
ズーライカは、小さな灰の一山を見つけて
こう言うのだ:あの人は、わたしのせいで灰になり、
わたしのものになった、と。



【解釈と鑑賞】

「愛された茶色の蛇」には、論理的に解釈をすると、ふたつあり得て、ひとつは、顔の中にこれらの「愛された茶色の蛇」が居るということ、もうひとつは、「愛された茶色の蛇」とは、前の詩で歌いかけて来た娘達であるということです。

後者の意ととることにします。

しかし、何故これら娘である蛇達の色が茶色なのでしょうか。それは、多分詩人の愛するズーライカの色とは違って、くすんだ色をしているからでしょう。ズーライカに劣っているといいたいのです。

Das ist Liebe(これが愛だ):第36週 by Chirikure Chirikure(1962ー )



Das ist Liebe(これが愛だ):第36週 by  Chirikure Chirikure(1962ー  )





【原文】


Gift
     dagegen hätte es ein Mittel gegeben
Durst
     ein Glas Wasser hätte ihn mit Sicherheit gelöscht
Suende
     ich hätte sie bekannt
ein raschsuechtiges Gespenst
     ich haette es beguetigt
aber das hier
     das, mein Freund, ist Liebe



【散文訳】

 これに対しては、ひとつの手段があったであろうに
渇き
 一杯のグラスの水があれば、渇えを間違いなく癒したであろうに
 わたしならば、それを告白したであろうに
性急に放埒な亡霊
 わたしならば、その怒りを鎮めたであろうに
しかし、これなんだ
 これが、わが友よ、愛なんだ


【解釈と鑑賞】


この詩人のことを書いたWikipediaです。



アフリカのジンバブエの詩人です。

小さな説明を読むと、英語からの重訳のようです。

しかし、それでも、このアフリカ大陸の詩人の、全く西洋の白人種とは違い、また東洋の詩人とも全く違った感覚が、よく伝わって来ます。





【Eichendorfの詩81】Lockung(誘惑)


Eichendorfの詩81Lockung(誘惑) 
  

【原文】

Hörst du nicht die Bäume rauschen
Draussen durch die stille Rund?
Lockt’s dich nicht, hinabzutauchen
Von dem Soeller in den Grund,
Wo die vielen Bäche gehen
Wunderbar im Mondschein
Und die stillen Schlösser sehen
In den Fluss vom hohen Stein?

Kennst du noch die irren Lieder
Aus der alten, schönen Zeit?
Sie erwachen alle wieder
Nachts in Waldeinsamkeit,
Wenn die Bäume träumend lauschen
Und der Flieder duftet schwül
Und im Fluss die Nixen rauschen―
Komm herab, hier ist’s so kuehl.


【散文訳】

お前は、木々が潺湲(せんかん)たる音を立てるのを聞かないか?
外で、静かな円陣を通って
水の中に潜って行くことは、お前を誘惑しないだろうか?
露台(テラス)から地中へと
そこでは、多くの川が往く
素晴らしく、月の光の中を
そして、静かな城たちが見ている
高い巌の上から河の流れの中を

お前は、さ迷う、気の狂った歌の数々をまだ知っているか?
古い、美しい時代からの歌を
それらの歌は、みな、再び目覚める
夜毎夜毎に、森の孤独の中で
もし、木々が夢をみながら、耳そば立てているならば
そして、にわとこが、鬱陶しく香り立っているならば
そして、河の流れの中で、水の妖精たちが、潺湲(せんかん)たる音を立てているならば
下に来い、ここは、こんなに冷たく、涼しいぞ。


【解釈と鑑賞】

第1連の「静かな円陣を通って」とあるのは、木々がそのような円を、円陣を構成しているのでしょう。それだけで、樹木の世界の何かを意味しています。

この詩にも、アイヒェンドルフの好きな言葉が散りばめられています。

潺湲たる音、円陣、川、河、月の光、城、巌、森、孤独、夢、夜、目覚め、妖精、耳そばだてること。

そうして、生まれる世界は、シュールレアリスムの絵画、例えばダリの絵やデルボーの絵の世界によく通じている。つまり、時間が無いのです。

これが、わたしのこの詩人を好きな理由なのだと思います。

詩の中に出て来るにわとこという名前の植物、ドイツ語でFliederの写真を掲げます。