2012年9月29日土曜日

第41週: Und als wir ans Ufer kamen (そして、わたしたちが岸辺に来た時に) by Wolf Biermann (1936 - )



第41週: Und als wir ans Ufer kamen (そして、わたしたちが岸辺に来た時に) by Wolf Biermann (1936 - ) 

【原文】

Und als wir ans Ufer kamen

Und als wir ans Ufer kamen
Und sassen noch lang im Kahn
Da war es, dass wir den Himmel
Am schönsten im Wasser sahn
und durch den Birnbaum flogen
Paar Fischlein. Das Flugzeug schwamm
Quer durch den See und zerschellte
Sachte am Weidenstamm
                       - am Weidenstamm

Was wird bloss aus unsern Träumen
In diesem zerrissnen Land
Die Wunden wollen nicht zugehn
Unter dem Dreckverband
Und was wird mit unsern Freunden
Und was noch aus dir, aus mir -
Ich moechte am liebsten weg sein
Und bleibe am liebsten hier
                       - am liebsten hier.


【散文訳】


そして、わたしたちが岸辺に来た時に

そして、わたしたちが岸辺に来た時に
そして、まだ長いこと小舟(ボート)に座っていたときに
そこで、わたしたちは、空が
最も美しく、水の中にあるのを見たのだ
そして、梨の木の中を
一対の魚が飛んで行くのを見たのだ。飛行機が泳いで
湖を横切って行き、そして、その音が響いて途絶えた
静かに、柳の幹のところで
        柳の幹のところで

わたしたちの数々の夢の中から一体何が生まれるというのだ
この分裂した国土の中で
傷口が、閉じたくないと言っている
この泥で汚れた同盟の下なんかでは
そして、わたしたちの友人達はどうなるのだ
そして、お前の中から、わたしの中から何が生まれるというのだ
わたしが、一番好きな事は、立ち去ることだ
そして、一番好きなことは、ここに留まることだ
         一番好きな、この場所に



【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Wolf_Biermann

これを読みますと、ハンブルクの生まれです。1953年に、敢えて当時の東ドイツに移住して、そこで文学活動をし、当局に睨まれて、弾圧を受け、市民権を剥奪されて、一切の文筆活動を、1965年に禁止されています。この迫害は、東西ドイツで、大きな反対運動を惹起したとあります。そうして、1976年にはまた西ドイツのハンブルクに戻っています。

今こうして書いていると、弾圧といい、市民権(東ドイツという共産党のファシズム国家ーこれが国家か?ーに市民権などという言葉があったのか?ちゃんちゃら可笑しいという気がします)、迫害といい、今のこの能天気な日本国民を前にすると、これは日本語が日本語としての意味が全然通じていないだろうと思うこと頻りです。勿論、わたしは、わたしが当時のそのような東ドイツに住んでいたという個人的な経験に頼って、この文章を書いているわけではありません。

第2連にあるVerband、同盟とは、東ドイツとロシアの同盟のことを言っている。同盟とは名ばかりの、圧倒的な武力を持ったロシア共産党による被支配国家であった東ドイツのこの名ばかりの同盟は、泥にまみれた同盟と呼ばれています。

この詩を書いて、密告され、告発され、市民権を剥奪され、一切の発言を封じるファシズム(全体主義)には、わたしたちは徹底して戦わなければなりません。それが、今の中国であり、北朝鮮です。

自由は、水や空気のように自然に与えられるようなものではない。人間が戦って勝ち取り、それを大切に維持し、養生しなければ、容易に失われるものです。

ファシズムの典型的な特徴は、眼に見えない何かに気兼ねをして、自分の発言を自分で規制し、抑制することです。ファシズムの国家は、これを密告の奨励と、個人の死が無意味な死となることを強制をすることによって(即ち、共同体、communityのために死ぬことを徹底的に破壊することによって)、それらに対する恐怖を煽ることによって、なすのです。

能天気な今の日本国民が、この詩を読む価値は、むしろこの詩によって嗤われることにあるのだと、わたしは思っています。

この詩人のこころが、どれだけ、あなたに伝わるか。

追伸:
Wolf Biermannのこの詩は、共産党の一党独裁主義、全体主義、ファシズムの恐ろしさを知らぬ、知ろうとしない夢見る愚かなる日本人に読んでもらいたい。






2012年9月22日土曜日

【西東詩集14】Dreistigkeit(不遜な態度)


【西東詩集14】Dreistigkeit(不遜な態度)


【原文】

Dreistigkeit

Worauf kommt es überall an
Dass der mensch gesundet?
Jeder höret gern den Schall an
Der zum Ton sich rundet.

Alles weg was deinen Lauf strört!
Nur kein düster Streben!
Eh er singt und eh er aufhört
Muss der Dichter leben.

Und so mag des Lebens Erzklang
Durch die Seele dröhnen!
Fühlt der Dichter sich das Herz bang
Wird sich selbst versöhnen.


【散文訳】

不遜な態度

一体何に拠るのだろうか
人間が健康だということは?
誰もが、響きを聴きたがる
丸くなって、音になっている響きを

お前の道を邪魔するものは、みな失せろ!
暗い、陰気な努力だけは、やめろ!
歌を歌う前に、歌をやめる前に
詩人は生きなければならないのだ。

そして、生きることの鉱石の響きは
魂を通って、轟(とどろ)き渡るがいい!
詩人がこころを不安に感じているならば
自分自身と和解をすることになるだろう。


【解釈】

この詩の題は、詩人の態度が不遜だということを言っているのです。

次回の詩の第1行が、詩作するとは高慢なことだという一行がありますので、この辺りは、世間の何かしらの圧力から我が身を護ろうという詩人の意識を読むことができます。

この詩も、その意識の中で書かれた詩です。

世間の人間からみれば、詩を書くという行為は、不遜な行為に見える。

世間の人間は、丸くなった音を聴きたがるが、詩人は今そんな音を創造することもできないし、そもそもそんな音を狙って詩は書くものではない。

第3連にあるように、鉱石、原石、あらがねに戻って、そのこころ、魂を通じて、生きること、これが最初にあるべきものだ。そうして、詩人は、そのような生を生きるのだ。それから歌を歌い、詩が生まれる。

自分自身と和解することがなければ、詩人は詩を書く事ができない。

このような態度が、世間からは不遜に見えるということです。

最後の一行は勿論ですが、この詩そのものは、現代の詩人たちにも、そのまま通用する詩だと、わたしは思います。


第40週: Gut und Böse (善意と悪意) by Alfred Brendel (1931 - )



第40週: Gut und Böse (善意と悪意) by Alfred Brendel  (1931 - )  

【原文】

Gut und Böse

Als die künstlichen Menschen gelernt hatten
sich wie Du und ich zu benehmen
wussten wir
dass unser Spiel verloren war
Da sitzen sie
etwas zu glatt im Gesicht
und trinken Tee
blicken einander tief in die Augen
oder krümmen sich vor Lachen
Unfehlbar
und doch mit größter Zartheit
spielen sie Klavier
reproduzieren sich diskret im Nebenzimmer
und schiessen die Vögel vom Dach
während wir
Veteranen der Natürlichkeit
von den Umständen zum Aeussersten getrieben
keinen anderen Ausweg sehen
als engelhaft gut zu werden
oder vielleicht doch lieber
ueber die Massen boese


【散文訳】

善意と悪意

技巧的な(人工の技を巧みにする)人間達が
君や僕と呼び合う関係であるように振る舞うことを学んだ時に
僕たちの遊戯が失われたことを
僕たちは知った
そうなると、技巧的な人間達は
何かつるつるし過ぎているという風に
見えていて
そして、お茶を飲み
互いの目の中を深く覗き込むか
または、笑いの余り、体を屈して
間違えることなく
しかし、最大の優しさを以て
ピアノを弾き
離れて、隣りの部屋で、自分自身を再生産して
そして、屋根の上の鳥達を鉄砲で打つのだ
これに対して、他方、わたし達
自然の性質を持ったヴェテラン達は
周囲の状況に極限まで追い立てられて
天使的に、善良になる以外の
逃げ道をみることはなく
或はまた、ひょっとしたら、いや、むしろ
群衆(有象無象の人間ども)に悪意を抱く以外の
逃げ道をみることはないのかも知れない


【解釈と鑑賞】

Alfred BrendelでGoogleの検索をすると、次のWikipediaが出て来ます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/アルフレート・ブレンデル

これをみると、この人はピアニスト、音楽家です。

この詩を書いた同名の詩人と同一人物なのかどうか。しかし、詩の中にピアノを弾くという一行があって、ひょっとしたら、この音楽家の書いた詩なのかも知れません。去年のドイツ語詩53週に、やはりその詩を書いた人物が音楽家だという例がありましたので、この撰集の選者の好みなのかも知れないと思い、敢えて上のURLアドレスを記載するものです。

技巧的な、というか、社交的な技術を持った人間と、そうではない自然でいる、いたいという人間の対比として、この詩が歌われています。

reproduzieren sich diskret im Nebenzimmer
und schiessen die Vögel vom Dach
離れて、隣りの部屋で、自分自身を再生産して
そして、屋根の上の鳥達を鉄砲で打つのだ

とある2行に、わたしは、ある種の憎悪を感じます。自分自身を再生産するという言葉の選択に、何か非人間的な、暖かみの欠落を表すものがあると思います。

あなたの周りに、天使的な人間がいたら、そのひとは、この詩に歌われているような状況にあるのかも知れません。

あなた自身は、どちらの人間であるのでしょうか。


2012年9月21日金曜日

ドイツ語の音をつくるということについて





ドイツ語の音をつくるということについて

大風呂敷という、詩人根石さんの英語塾の掲示板(http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs)に書いたことに補足説明をしようと思い、掲題につき、以下の文章を書きました。

これは、語学習得論であるとともに、言語とは何か、言葉とは何かの一端に触れていると思いましたので、またわたしがドイツ語の詩をどのような考えと順序で翻訳しているかを率直に述べておりますので、この詩文楽にも投稿して、後日の習いと致します。


根石さんへ、

前回のわたしの回答の【岩田4.4】で、音をつくることについて書きましたが、後で考えて一寸まだ言葉が足りなかったかなと思いましたので、補足を致します。

わたしが最初に考えたことは、ドイツ人の音と同じ音を発音するということでした。

それは、まづ、A,B,C、アー、ベー、ツェーという、ひとつひとつの文字単独としての音の発音から始まりました。

その次に、単語という、ある意味のあるまとまりのアルファベットの集合を発音するという訓練をしました。

このとき、既に音を円滑に発音するということに気をつけました。即ち、例えば、Hund、これは英語でdog、犬という意味のドイツ語の名詞ですが、これを発音するのに、Huという音を発声(ここは何故か発声ということになる)することが、次のndに滑らかに繋がること、即ち、音の連続も自然に滑らかに、また口、あるいは口唇の動きも連続して滑らかになることを意図して、そのようになるように努力をしました。

そのような連続的な、発声として自然な音を生み出すために、わたしは毎朝、自分では顔面体操と名づけた体操を致しました。

それは、次のことからなる発声のための準備運動です。

1.複式呼吸をする。
2.唇をへの字にして、唇の縁(へり)を下に下げる訓練をする。
この唇の形が、連続的にUの音を出したり、Tschという音を出したり(唇を突き出す)
Rという音を出したりする(喉でRの音を響かせる)ときなど、また、そのほかの音への自然な展開(連続)への最初の原型の働きをするのです。
  これは、顔の表情としては、誠に変な顔なのです。ドイツ人は、そんな変な顔を普段していないし、話しているときにも、無理にそうしているわけではありません。日本人が発音し、発声しようとすると、そのようにしなければ、ドイツ人の音を真似て、音をつくることができないということです。

あるとき、アメリカで買った語学教材で、学習者の発声をオシロスコープで波形にして、アメリカ人の発音と比較ができるように表示してくれる教材を買ったことがあります。

これを使って、自分の波形を見てみましたが、アメリカ人と同じ波形にはなりませんでした。

やはり、発声のタイミング(音への入り方、出方)、その強さと弱さのポイント、ひと息の長短が違っているのだということがわかりました。

ですから、わたしのドイツ語の発声も、やはり日本人の発声なのです。これは、肉体が違うので、いかんともしがたいし、わたしは、それはそれで何ということはない、そのことを知っていれば、それで十分であると思っています。

さて、そうした上で、

1.発声と発音
2.文法(根石さんの言葉で言えば、シンタックス)
3.言葉の意味をとること(これは、単語の接続を理解する、語順、語の配置の列または行に並んでいる順序で理解をするという意味です。)

この3つのことを、文章を読みながら、バランスをとって、理解できるようになることが目標になります。

これを、最初の回答書に書きましたように、わたしはドイツ語の(根石さんのいう)磁場に、わざわざ身を置くこと、即ち直接ドイツ語とドイツ人の世界に身をおくことで、自分のものとしたいと思ったわけです。

今、毎週土曜日に、ドイツ語の詩を翻訳して、わたしの詩文楽というブログに上梓しておりますが、このとき、実際にわたしが詩を理解するために行っている順序を反省してみると、次のようになっていることがわかります。

1.まづ原語で書かれた詩をテキストエディター(わたしはMacユーザなのです)に転記をする。このとき、わたしは、綴りの正誤に注意を払い、日本人の意識、即ち外側から、更に即ち形式(文法)から、その語の正しさを見、また意味をとりながら読んでいます。このとき、意味のわからない言葉は当然のことながら、あるわけです。

2.次に、転記した詩を、最初から読み下して(言葉の順序のままで理解しようとして)、詩を通して読みます。このときは、外側(形式、文法)からではなく、意味の流れを理解しようとして、いわば言葉或いは文字(根石さんのいう言語)の内側から理解しようとしています。このときには、こころの中で、音として、自分の音声(voice)で、読みながら、理解をして行きます。

これで、外側と内側から、その詩を理解したことになります。勿論、不明の単語があれば、辞書にあたり、その概念を理解するようにします。この不明な単語をひくのは、次の3の段階です。

3.次に、実際に詩を翻訳しようとします。このときには、連ごとに訳して行きます。これは、最初の回答書に書いた通りですが、日本語の語順のゆるす限り(ということは、日本語の文法のゆるす限り)、ドイツ語の語順に従って、訳し下ろしてゆきます。

この3番目の段階が、わたしが一番愉悦、愉楽を覚える、至福のときです。

この翻訳という行為、即ち、言葉の意味を変形(transform)させるという仕事が、わたしに悦(よろこ)びを与えてくれるのです。これは不思議なことですが、いつもそうです。

それは、この翻訳、変形という仕事が、接続の仕事だからだと、わたしは思っています。さて、

3.最後に、ドイツ語の全体を黙読して、即ち、こころの中で音に出して読み、次に日本語訳との意味の整合性、意味の均衡を斟酌します。ドイツ語の言葉の中での整合性と均衡、それから日本語の言葉の中での整合性と均衡を、それぞれに考え、それから詩の全体同士を比較して、問題がないかを検査します。この場合、問題とは、意味のズレ、不整合性、不均衡、意味の過不足です。
このような訳は、詩行の行間を掘り起こして日本語にすることになりますので、わたしは、このわたしの翻訳を散文訳と呼んでいます。
この3番目のステップで、既に【解釈と鑑賞】の文章が、わたしの中に出来ています。

最後の方は、詩の翻訳の話になってしまいましたが、発声して外国語を読むということが、どのように、その言語で書かれた文章を読み、理解するのに役に立つのか、そのことをお伝えしたかったのです。

以上、補足説明と致します。


2012年9月19日水曜日

【Eichendorfの詩 9】Die Zigeunerin (ジプシーの女)


【Eichendorfの詩 9】Die Zigeunerin (ジプシーの女) 

【原文】

Am Kreuzweg, da lausche ich, wenn die Stern
Und die Feuer im Walde verglommen,
Und wo der erste Hund bellt von fern,
Da wird mein Braeut'gam herkommen.

>>Und als der Tag graut', durch das Gehoelz
Sah ich eine Katze sich schlingen,
Ich schoss ihr auf den nussbraunen Pelz,
Wie tat die weitueber springen!<< ---

's ist schad nur ums Pelzlein, du kriegst mich nit!
Mein Schatz muss sein wie die andern:
Braun und ein Stutzbart auf ung'rischen Schnitt
Und ein fröhliches Herze zum Wandern.


【散文訳】

十字路で、そこでわたしは待ち伏せをする、星々が
そして、森の中の火という火が徐々に消えてい行くならば
そして、最初の犬が遠くから吠える場所で
そこで、わたしの花婿はやって来る。

>>そして、日が陰ったときに、その森を通して
わたしは、一匹の猫が自分自身を飲み込むのを見た
わたしは、猫の胡桃色した茶色の毛皮の上を鉄砲で打った
と、奴は遥か向こうに飛び跳ねた<<

ただ毛皮だけを取ったのはお生憎さまでしたね、お前にはわたしを捕まえられないよ!
わたしの宝は、他の宝がそうであるように、
茶色をしていて、そしてハンガリア人風に刈ったちょび髭と
そして、旅をするという陽気な心に違いないのだ。


【解釈と鑑賞】

これは、題名からして、この詩は、ジプシーの女が歌っているということでしょう。

第1連で、十字路、即ち道が交差したところで、待ち伏せをするか、何か聞き耳を立てる。そうして、そのときには、いつも星が消え、森の中の火(焚火でしょうか?)が消えて行く。

十字路というところに、何かの不思議な力があるというのは、ゲルマン人でもそうなのかも知れない。わたしが思い出すのは、リルケの晩年のオルフェウスへのソネットの第1部ソネットIIIの第2連(http://shibunraku.blogspot.jp/2009/10/iii.html)や、第2部のXXIX(http://shibunraku.blogspot.jp/2010/01/xxix2.html)でも歌われています。


十字路、交差路とは、魔物の潜む場所、何か不思議な力の働く場所なのだと思います。日本人にも、そういう感じが、確かにあると思います。


さて、そうだとして、第2連が、これも異様な連です。

猫が自分自身を飲み込んでいるのを見て、鉄砲で打つ。猫は跳ねて逃げてしまう。

第3連を読むと、このわたしは毛皮だけを手に入れている。しかも、この第3連は、今度は猫が歌い手、語り手になって、ジプシーの女にいってるのです。

そうして、わたしの宝と言っているものは、自分の恋人のこと、花婿のことだと読むこともできます。

ジプシーの女と猫とが、花婿の取り合いをしているように読むこともできるかも知れません。

また、この先アイヒェンドルフの詩を読んで行くにつれて、この詩を想起させる詩が出て来るかも知れません。

そのときに、またこの詩に戻って、考えてみましょう。

2012年9月15日土曜日

【西東詩集13】Lied und Gebilde(歌と創造物)



【西東詩集13】Lied und Gebilde(歌と創造物)


【原文】

Lied und Gebilde

Mag der Grieche seinen Thon
Zu Gestalten druecken,
An der eignen Haende Sohn
Steigern sein Entzuecken;

Aber uns ist wonnereich
In den Euphrat greifen,
Und im fluessgen Element
Hin und wider schweifen.

Löscht ich so der Seele Brand,
Lied es wird erschallen;
Schöpft des Dichters reine Hand,
Wasser wird sich ballen.



【散文訳】

歌と創造物

あのギリシャ人が、自分の音を搾(しぼ)って
様々な姿に変えるとならば
自分自身の両手の息子に拠(よ)って
その音の魅了する力も高まることだろう。

しかし、わたしたちには、恵み豊かであるのだ
ユーフラテスの河に手を入れて、それを掴(つか)み
そして、流れる要素の中で
行ったり、来たりと、漂うことが。

わたしが、かくして、魂の興奮の炎を消せば
歌が必ず鳴り響き渡る
詩人の純粋な手が創造すれば
水は、自づと、ふくらんで、その姿を現す。


【解釈】

前のふたつの詩で、苦しんで凌(しの)いだゲーテは、ここで、やはり中東の詩の世界に戻って、その苦しみをユーフラテスの河に漂うことで癒しているようです。

その歌の世界を、ギリシャの歌の世界と比較して、前者をとっています。

An der eignen Haende Sohn
Steigern sein Entzuecken;
自分自身の両手の息子に拠(よ)って
その音の魅了する力も高まることだろう。

とある、両手の息子に拠って、という意味が不明です。

お解りの方は、ご教示下さい。

詩人の純粋な手という表現が、ゲーテの考える、詩人の詩の造形力の在り方を示していると思います。

第39週: PUK (通信セキュリティの秘密の番号) by Albert Ostermaier (1967 - )



第39週: PUK (通信セキュリティの秘密の番号) by Albert Ostermaier  (1967 - )  

【原文】

PUK

ich nehme dich ungeschminkt & sags
dir ins Gesicht ich lieb dich wie
du bist drum Kleid ich dich in Worte
ein & nehme sie dann zurück & rück
dir mit der Wahrheit auf den Leib
denn die ist nackt & doch geteilt
am schoensten


【散文訳】

PUK

ich nehme dich ungeschminkt & sags
dir ins Gesicht ich lieb dich wie
du bist drum kleid ich dich in Worte
ein & nehm sie dann zurück & rück
dir mit der Wahrheit auf den Leib
denn die ist nackt & doch geteilt
am schoensten
わたしはお前を、素面(スッピン)で取り&
お前の顔に言う、わたしはお前を愛していると、丁度
お前がそれ故に衣装であるように、わたしはお前を言葉の衣装を
着せ&わたしは次に言葉を取り返して&
お前の体の上に、真理を以て、ぐいっと動かす
何故ならば、真理は裸であり&しかし分かれているからだ
最も美しい姿をして


【解釈と鑑賞】

この詩人は、ミュンヘン生まれのドイツの詩人です。次のURLアドレスがあります。

http://de.wikipedia.org/wiki/Albert_Ostermaier

PUKとは、Googleのテクスト検索をすると、PUKとうのは、どうも携帯電話やスマートフォンの通信のためのセキュリティの番号のようです。

このPUKは、記号としては&で表されています。この&は、実際の記号は一寸キーボードにはない記号で、一番近い似た記号として&を選んで移しました。

&という記号を使って、この詩を暗号化された何か秘密の文章のようにみせています。

それから、言葉遊びをしていて、

du bist drum kleid ich dich in Worte
ein &
お前がそれ故に衣装であるように、わたしはお前を言葉の衣装を
着せ&

とある、kleidは、名詞としても使い、kleidの後の主語に対してはeinkleidenという動詞としても使っています。

最後の一行、

die ist nackt & doch geteilt
am schoensten
真理は裸であり&しかし分かれているからだ
最も美しい姿をして

という一行は、全くその通りだと思います。

真理がこの地上に、この世の中に現れる姿は、断片的であらざるを得ません。それは、時間の中に現れるから。そうして、この一次元の世界に現れざるを得ないから。

これは、この詩人の至った、言葉についての真理を歌ってもいるのです。

従い、言葉の衣装をお前に着せると歌うこの詩人は、実に言語と言葉の本質を認識するに至った詩人であることを示しています。

この詩から、この詩人による言語論があれば、それは間違いなく言語機能論だということがわかります。

即ち、言語、言葉は機能だという認識、これがPUK、通信のセキュリティの暗号だと言っているのです。

こんな、言語と言葉の本質に棲む詩人がドイツの現代にもいたのだ。他の詩も読んでみたいものです。

2012年9月12日水曜日

【Eichendorfの詩 8-6】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 6


【Eichendorfの詩 8-6】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 6

【原文】

Durch Feld und Buchenhallen
Bald singed, bald froehlich still,
Recht lustig sei vor allen
Wer's Reisen waehlen will!


Wenn's kaum im Osten glühte,
Die Welt noch still und weit:
Da weht recht durchs Gemuete
Die schoene Bluetenzeit!

Die Lerch als Morgenbote
Sich in die Luefte schwingt,
Eine frische Reisenote
Durch Wald und Herz erklingt.

O Lust, vom Berg zu schauen
Weit über Wald und Strom,
Hoch über sich den blauen
Tiefklaren Himmelsdom!

Vom Berge Voeglein fliegen
Und Wolken so geschwind,
Gedanken ueberfliegen
Die Vögel und den Wind

Die Wolken ziehen hernieder,
Das Voeglein senkt sich gleich,
Gedanken gehen und Lieder
Fort bis ins Himmelreich.


【散文訳】

野原とブナの回廊を通って
あるときは歌いながら、あるときは陽気に静かにしながら
誠に楽しくあれよかし、何よりも
旅する事を選びたいと思う者は!

東がほとんど輝かないならば
世界は、まだ静かで、そして広い、即ち
それ、そこに、ほら心地よい気持ちを通って
美しい花咲く時がそよいでいる!

雲雀(ひばり)は、朝の使者で
それが空中に鋭く飛び入り
新鮮な旅の音符が
森を抜け、心を抜けて、鳴り響く。

おお、歓びよ、山の上から観ることの
遥か、森を超え、そして河を超えて
高く、己れ自身を超えて、青い
深く清澄なる天の大聖堂を!

山の上から、小鳥が飛び
そして、雲が、かくも素早く飛び
考えが、飛んで超えて行く
鳥たちをも、そして風をも

雲たちは、下に降りて来る
小鳥は、同時に、降りて来る
考えは行き、そして歌たちは
更に前へ、天国の中へと入り行く。




【解釈と鑑賞】

この連作の最後の詩です。

Durch Feld und Buchenhallen
野原とブナの回廊を通って

という最初の一行を読むと、アイヒェンドルフは、森を回廊に譬えていることがわかります。この譬えは、前回の第5番目の詩にも出て来た譬えです。

森の中を歩く事が、丁度教会の回廊であるのか、何か神聖な場所を歩いているという感じがあるのだと思います。

夜明け前という時間の中で歌っている。

最後の2連は、考えについて、アイヒェンドルフは言いたいことがあるのだと思います。

わたしは、先週の週末に所用があって、京都に参りました。時間があったので、初めて大雲山龍安寺にお参りをし、有名な石庭を拝見しました。

しかし、わたしに感銘を与えてのは、石庭というよりも、玄関を入って正面にあった屏風に書いてある陶淵明の飲酒と題した漢詩でした。以下にひいて、お伝えします。


   飲酒  陶淵明

   廬を結びて人境に在り
   而かも車馬の喧かまびすしきなし
   君に問う 何ぞ能く爾しかるやと
   心遠ければ地も自ずから偏(たいらか)なり
   菊を采る 東籬の下もと
   悠然として南山を見る
   山気 日夕に佳
   飛鳥 相与ともに還る
   此の中に真意あり
   弁ぜんと欲して已に言を忘る


心遠ければ地も自ずから偏(たいらか)なり

とある一行に、ほとんど涙が出るかと思いました。

アイヒェンドルフの考えも、間違いなく、心遠くしてというのと同じ境地であるのかと思います。

ドイツと支那とでは言葉は違いますが、ものを考えるということは、遠くの物事を想像し、思うということに間違いありません。

このふたつの詩を読み比べることは、一時の閑雅なときを、あなたに齎すことと思います。

2012年9月9日日曜日

飲酒  陶淵明



土曜日に所用あり、京都へ参りました。

そうして、龍安寺というお寺へ参りました。

有名な石庭を拝見しましたが、しかし、わたしには、寺の玄関を入って直ぐ正面にある屏風に書かれた陶淵明の飲酒と題した詩の方に惹かれました。


   飲酒  陶淵明

   廬を結びて人境に在り
   而かも車馬の喧かまびすしきなし
   君に問う 何ぞ能く爾しかるやと
   心遠ければ地も自ずから偏(たいらか)なり
   菊を采る 東籬の下もと
   悠然として南山を見る
   山気 日夕に佳
   飛鳥 相与ともに還る
   此の中に真意あり
   弁ぜんと欲して已に言を忘る

第38週: Schildkroete (亀) by Jorge Carrera Andrade (1903 - 1978)



第38週: Schildkroete (亀) by Jorge Carrera Andrade  (1903 - 1978)  

【原文】

Schildkroete

Die Schildkröte in ihrem gelben Gehaeuse
ist die Uhr der Erde,
Stehengeblieben seit Jahrhunderten.

Zerbeult schon, mit Sternchen getarnt,
birgt sie sich vor der Zeit
im blauen Etui des Wassers.


【散文訳】


亀は、その黄色い容れ物の中にあって
地上の時計であり
何百年来、凝(じ)っとしてそこにいたままだ。

殴られて既に粉々のまま、石で姿を隠し
亀は自分自身を時間から身を護って隠している
水の青い小箱の中で

【解釈と鑑賞】

この詩人は、エクアドルの詩人です。次のURLアドレスがあります。


その死後、ボルヘスやネルーダらと並んで重要なラテンアメリカの詩人と認められたとあります。

この詩は、亀の詩ですが、この動きの遅い亀という動物と、過ぎ行く時間との関係を叙しただけで、何かこう、考えさせるものがあります。

多分、それは亀という動物の魅力によっているのだと思います。

Zerbeult schon, mit Sternchen getarnt,
殴られて既に粉々のまま、石で姿を隠し

の、殴られて粉々になってというところに、この詩人の知っている何か残酷さを感じるものです。

【西東詩集12】現前する過去の中で



【西東詩集12】Im gegenwaertigen Vergangnes(現前する過去の中で)


【原文】

Im gegenwaertigen Vergangnes

Ros' und Lilie morgentaulich
Blueht im Garten meiner Naehe,
Hinten an bebuscht und traulich
Steigt der Felsen in die Hoehe.
Und mit hohem Wald umzogen,
Und mit Ritterschloss gekroenet,
Lenkt sich hin des Gipfels Bogen,
Bis er sich dem Tal versoehnet.

Und da duftets wie vor alters,
Da wir noch von Liebe litten,
Und die Saiten meines Psalters
Mit dem Morgenstrahl sich stritten.
Wo das Jagdlied aus den Bueschen
Fuelle runden Tons enthauchte,
Anzufeuern, zu erfrischen
Wie's der Busen wollt und brauchte.

Nun die Waelder ewig sprossen
So ermutigt euch mit diesen,
Was ihr sonst fuer euch genossen
Laesst in anderen sich geniessen.
Niemand wird uns dann beschreien
Dass wirs uns alleine goennen,
Nun in allen Lebensreihen
Muesst ihr geniessen koennen.


【散文訳】

現前する過去の中で

薔薇と百合が朝露に濡れて
わたしのそばの庭で咲いている
後ろ直ぐには灌木が茂り、気持ちよく伸び伸びと
絶壁が高く聳えている。
そして、木々の高い森に囲まれて
そして、騎士の城を頂上に戴いて
山巓(さんてん)の弓なりの線は、続いている
絶壁が谷と仲良くなるところまで

すると、そこには、昔のように薫り立ち
わたしたちがまだ恋に苦しみ
そこでは、わたしの竪琴の弦が
朝日と争っていた。
狩りの歌が灌木の中から
満ち足りた丸い音を吐き出して
胸が欲し、必要とするままに
火をつけ、新たにした、そこでは。

こうして振り返ると、森という森は永遠に芽吹いたのだ
だからかくもこれらの森で勇を鼓せよ
お前達がかつては自分自身のために味わったことが
他の者たちの中で、享受されるのだ。
だれもだから、わたしたちのことを
自分たちだけに恵んでいるのだといって
罵り叫ぶことはないだろう
こうして振り返ると、すべての人生の順番で
お前達は味わうことができる筈なのだから。


【解釈】


何故か、この詩を思い出し、20代初めに読んで、意味の解らなかった連が、いよいよこの歳になって、実感として理解できるようになったということなのだと思う。

特に最後の連の最後の2行が思い出深い。

西東詩集を教わった当時の先生に、わたしがこの2行は今のわたしにはわからないなあと言ったら、そうだろうと返されたが、なに、その先生も、今思えば、まだ30歳を少し出ただけであったのにと、懐かしく思い出される。

Bill EvanceのBlue Monkを聴きながら訳してみる。

この西東詩集は、ゲーテの最晩年の詩集で、素晴らしい詩集です。中世のペルシャに詩人ハーフィスに我が身を仮託し、恋人のマリアンネをハーフィスの恋人ズーライカに擬して、ペルシャの世界と当時の現代の自分の人生を二重写しにしてみせた詩集です。

当時、全く散文的な世界に生きていたわたしが、唯一理解していた詩の世界です。

こうしてみると、詩文も散文もなく、やはり芸術のエッセンスが凝縮している世界であったからでしょう。

全く、人生は繰り返しています。

最後になりましたが、ゲーテのWikipediaです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

2012年9月5日水曜日

【Eichendorfの詩 8-5】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 5


【Eichendorfの詩 8-5】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 5

【原文】

Mürrisch sitzen sie und maulen
Auf den Baenken stumm un breit,
Gähnend Strecken sich die Faulen,
Und die Kecken suchen Streit.

Da komm ich durchs Dorf geschritten,
Fernher durch den Abend kühl,
Stell mich in des Kreises Mitten,
Grüß und zieh mein Geigenspiel.

Und wie ich den Bogen schwenke,
Ziehn die Klaenge in der Rund
Allen recht durch die Gelenke
Bis zum tiefsten Herzensgrund.

Und nun geht's ans Glaeserklingen,
An ein Walzen um und um,
Je mehr ich streich, je mehr sie springen
Keiner fragt erst lang: warum? -

Jeder will dem Geiger reichen
Nun sein Scherflein auf die Hand -
Da vergeht ihm gleich sein Streichen,
Und fort ist der Musikant.

Und sie sehn ihn fröhlich steigen
Nach den Waldeshoehn hinaus,
Hören ihn von fern noch geigen,
Und gehen all vergnügt nach Haus.

Doch in Waldes gruenen Hallen
Rast ich dann noch manche Stund,
Nur die fernen Nachtigallen
Schlagen tief aus naecht'gem Grund.

Und es rauscht die Nacht so leise
Durch die Waldeinsamkeit,
Und ich sinn auf neue Weise
Die der Menschen Herz erfreut.


【散文訳】

不機嫌に、彼らは座り、そしてふくれっ面(つら)をしていて
ベンチに座り、黙りこくって、だらしなく
あくびをしながら、怠惰な者達は手足を伸ばし
そして、無鉄砲な者達は、喧嘩を求める。

そこへ、わたしは村の中を歩調正しく通り来て
遠くから、こうして宵を通って冷静に
その円陣の真ん中に立ち
挨拶をして、そして、わたしのヴァイオリンを演奏する。

すると、わたしが弓を揺らすにつれて
その響きが、円座の中で
すべてのひとの関節を通って行き
一番深い心臓の底にまで至る。

さて、こうして、ガラスの杯が鳴り響くことになり
ワルツの踊りが始まり、それらが繰り返し、繰り返す
わたしが弓をひけばひくほど、一層彼らは跳ねる
誰も、これだけ時間が経っても、こう問う事がないのだ:それは何故だろう?

誰もが、ヴァイオリンの奏者の手に
こうして、自分の銅貨を握らせようとする
と、直ちに、その弓の動きは消え
そして、音楽家はいなくなってしまう。

そして、彼らは音楽家が愉快に昇って行くのを見るのだ
森の数々の高みの方へ、その外へと
そうして、皆の者は、満足して家路につくのだ。

しかし、森の緑の数々の回廊の中で
わたしは、そうすると、そのときには、まだ幾時間も(静かに)休んでいて
遠くにいる夜啼き鴬だけが
深く、夜の底から、(歌を)鳴り響かせるのだ。

そして、夜が、かくも微(かすか)かに、さわさわと音を立てる
森の孤独を通して
そして、わたしは、人間たちの心臓(こころ)を喜ばせる
新しい方法を志すのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩は、音楽家、この詩ではヴァイオリンひきですが、その旅の音楽家と、その音楽を聴く聴衆達と、それぞれの立ち場に立って、各連が歌われています。

この詩の語り手は、これらふたつの立ち場を往来している。

これが、この詩の特徴です。

聴衆を仮に村人、世俗のひと、町のひとと呼ぶ事にしましょう。そうすると、世俗のひとからは、音楽家は、森の木々の頂点高く、空へ向かって、それも愉快に昇って行くようにみえる。そうして、世俗のひとたちは、その音楽に満足して、諍(いさかい)をすることもすっかり忘れて、機嫌も直して、家路につく。

他方、音楽家は、実際には、森の中で、憩い、心身を休めて、休息をとっている。森の緑の(複数の)回廊という表現が、この回廊が、Halle、英語のhallですが、何か広い森の空間にひとりでいる様子が思われます。

森と夜啼き鴬と孤独と、これらの力を借りて、音楽家は、いや詩人といってもよいでしょうが、芸術家は、また新しい方法、それも世俗のひとのこころを慰める、慰撫し、苦しみや悲しみを静める方法を考えるのです。

確かに、これはどの時代にあっても、芸術家の姿だと、わたしには思われます。

あなたは、どう思うでしょうか。



2012年9月1日土曜日

【西東詩集12】Zwiespalt(分裂)


【西東詩集12】Zwiespalt(分裂)

【原文】

Zwiespalt

WENN links an Baches Rand
Cupido floetet,
Im Felde rechter Hand
Mavors drommetet,
Da wird dorthin das Ohr
Lieblich gezogen,
Doch um des Liedes Flor
Durch Lärm betrogen.
Nun floetets immer voll
Im Kriegeshunder,
Ich werde rasend, toll -
Ist das ein Wunder?
Fort waechst der Floetenton,
Schall der Posaunen,
Ich irre, rase schon -
Ist das zu staunen?


【散文訳】

分裂

もし左、川の縁(へり)で
キューピッド(愛の神)が笛(フルート)を吹いているならば
右手の野原には
マース(戦の神)がトランペットを吹き鳴らす
そうすると、そこへと、耳は
愛らしくも惹かれて行く
しかし、愛の花咲く周りには
騒擾によって騙されている。
こうして、笛(フルート)の音が、いつも満ちている
戦いの雷鳴の中で
わたしは怒り狂って、気が狂暴になって ー
これは奇蹟なのだろうか?
前へと、笛(フルート)の音が成長し続ける
トランペットの響き
わたしは迷い、既に怒り狂い、暴れ回っている
これは、驚くべきことなのだろうか?


【解釈と鑑賞】

前のLiebliches(愛らしいもの)という詩でも述べましたが、その前の詩とこの詩のゲーテは、何か相当苦しんでいます。

ひとごとのようにもし言ってよければ、前の詩と同様、戦さ(仕事をし、生きる事)と恋愛の間で苦しんでいる。

最後の方にある次の行、


Fort waechst der Floetenton,
Schall der Posaunen,
Ich irre, rase schon -
前へと、笛(フルート)の音が成長し続ける
トランペットの響き
わたしは迷い、既に怒り狂い、暴れ回っている


とある、最後の行、


わたしは迷い、既に怒り狂い、暴れ回っている


と言葉を発し、歌うゲーテは、髪を掻きむしっているように思われる。それほど苦しんでいる。

最後の一行、


これは、驚くべきことなのだろうか?


が、かろうじてゲーテの精神の平衡を維持しているのだと思う。

そうして、この詩に出て来る様々な譬喩(ひゆ)が、やはりゲーテを救っているのだと思われる。そのように歌い、書く事によって。

第37週: Heimische Kueche (故郷の料理) by Dieter Hoess (1935 - )


第37週: Heimische Kueche (故郷の料理) by Dieter Hoess  (1935 - )  

【原文】

Heimische Kueche

Der neue Spanier
ist schon wieder weg.
Der Grieche hat sich
auch nicht gehalten.
Sogar ein Italiener
hat dicht gemacht.

Der Tuerke hat
gar nicht erst Fuss gefasst.
Der Chinese hat sich
nicht durchgesetzt.
Der Thai hat gleicht
das Handtuch geworfen.

Zuletzt gab der
Mexikaner auf.
Jetzt eröffnet der Gasthof
ZM OCHSEN wieder
unter neuer Regie
mit veränderter Karte:

Tapas
Kalamaris
Lasagne
Sushi
Chop Suy
Chili con carne


【散文訳】

故郷の料理

あの新参者のスペイン人も
もうまた、いなくなってしまった。
ギリシャ人も
また、堪(こら)え性がなかった。
おまけに、イタリア人が
やり過ぎた。

トルコ人は
全然一歩をしるすにも至らず。
中国人は
やりおおせなかった。
タイ人は直ぐに
タオルを投げて降参してしまった。

最後にメキシコ人は
諦めた。
さて、今や、レストラン
雄牛亭が、再び開店します
新たな監督のもとに
違ったメニューで:

タパス
カラマリ
ラザニア
チョップ•スイ
チリ•コン•カルネ


【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaはありませんでしたが、その代わりに、次のウエッブサイトがありました。ドイツ語ですが、この詩人の略歴を読むことができます。


また、この詩人の生まれたAllgaeu、アルゴイのWikipediaです。ドイツの一番南辺です。


グラフィックデザイナーを10年やって、その間に文学的な試みをして、詩を書き始めた人です。
ひょっとしたら、この詩にもその経歴上の感覚が生きているのかも知れません。

風刺の詩を書いて、世に認められたとあります。

この詩は、雄牛亭というレストランの広告宣伝文という体裁をとっています。広告宣伝文も詩になるという見本でしょうか。あるいは、ひょっとしたら、本物の広告であるかも知れない。

こういう詩も楽しいものです。

試しにネット上で検索した、それぞれの料理の写真を、この機会にご覧下さい。この詩文楽の読者の中には外国の方たちもいるので、敢えて鮨の写真も引きました。

タパス:

カラマリ:

ラザニア:

鮨:

チョップ•スイ:

チリ•コン•カルネ: