2012年4月29日日曜日

第19週:April (四月) by Kay Ryan (1945 - )


第19週:April (四月) by Kay Ryan  (1945 -  ) 

【原文】

Eine zu dicht betrachtete Blume
erbluehen in der falschen Farbe.
Uebermass an Beachtung macht
die Narzisse zum Enzian. Blumen
brauchen Ruhe, um ihre richtige
Färbung zu bekommen. Manche
öffnen sich nur um Mitternacht.


【散文訳】

余りに濃密に観察された花は
間違った色で咲く。
注意が過ぎると
水仙を龍胆(りんどう)にする。花々は
正しい色を手に入れるために
休息が必要だ。幾つもの花は
真夜中にだけ花開くのだ。

【解釈と鑑賞】

この女性詩人のWikipediaです。アメリカの詩人です。

http://en.wikipedia.org/wiki/Kay_Ryan

間違った色、正しい色という言葉の使い方に、何かこの詩人の毅然としたものを感じます。

とは言え、歌っていることは、花に対する優しい気持ちだと思います。

水仙の花が、余りにも注視し過ぎると龍胆の花になってしまうという発想は、何か曰く言い難いものを伝えています。花々は深夜に咲くものだという言い方も、また同様に。

2012年4月21日土曜日

第18週:Schwung (躍動) by Ernst Jandl (1925 - 2000 )



第18週:Schwung (躍動) by Ernst Jandl  (1925 - 2000  ) 

【原文】

wenn fünf
gedichte
pro tag
schreiben
ich will
muesste
ich schon
einen ziemlichen
Schwung haben

manchmal
sieht es
danach aus

manchmal
sehen
die Gedichte danach aus



【散文訳】


もし詩を5篇
毎日
書きたいと思ったら
きっと
わたしは、もう
かなり
乗っているに違いない

時には
そう見えるということだし

時には
それらの詩が
そうみえるということなのだ


【解釈と鑑賞】

Schwungという名詞を久し振りで目にしながら、これを英語のswing、スウィングとカタカナに訳すと、また違った味ができるかも知れないと思いました。

スウィングという題の詩です。

この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Ernst_Jandl

オーストリアの詩人であり、作家です。ラジオドラマもよく書き、また劇作もふたつものしたとあります。

音楽家とのコラボレーションも多く、特にジャズの世界のミュージシャンとも一緒に仕事をしたとありますので、上記のようにスウィングと訳して、この詩を味わうことは、どうも、当たっていたようです。

このひとの伝記的記述を読むことは興味深い。

母親の早い死を歌った、この詩人の詩を掲げます。父親とともに、母親も芸術的な影響をこの詩人に与えましたが、また確執もあったとのことです。

„mutters früher tod
hat mich zum zweiten mal geboren
mit eselsohren
und der langen nase des pinocchio
so findet man mich leicht
ich bin verloren“

母の早い死のお蔭で
わたしは2度目の生を得た

ロバの耳を持ち
ピノッキオの長い鼻を持っているので
僕を駄目な奴だと
ひとは簡単に思ってしまうのだ

今日の掲題の詩と同じ調子があると思います。主題が何であれ。



2012年4月14日土曜日

第17週: 無題 (自分自身であることの証明) by Patrizia Cavalli (1949 - )



第17週:   無題 (自分自身であることの証明) by Patrizia Cavalli (1949 -    ) 

【原文】

Zeuge seiner selbst zu sein
immer in eigner Gesellschaft
nie unbeschwert alleingelassen
sich immer zuhören zu muessen
bei jedem physischen chemischen
geistigen Ereignis, das ist die grosse Prüfung
die Buse, das Uebel.



【散文訳】

彼自身のものであることを証明せよ
いつも、自分に固有の社会の中にいて
決して苦しむ事なくひとりで放っておかれ
いつも自分自身に帰属しなければならぬことを証明せよ
どんな物理的な、化学的な
精神的な出来事が起こっても、それが(そう証明することが)大いなる試練であり、
贖罪であり、悪であるのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩人のWikipediaです。イタリア語です。写真で姿をみることができます。

http://it.wikipedia.org/wiki/Patrizia_Cavalli

冒頭の一行、彼自身と訳したseiner selbstのseinerは、sが大文字ではないので、神様ではなく、そうでなければ、話者が話者自身に対して発した「彼のものであること」を証明せよという命令形でしょうか。

彼が恋人という解釈もありえるかも知れませんが、そうとる必要もないとも思います。

彼が、自分自身のことであると解釈することもできると思います。自己を客体化している。

しかし、この冒頭の一行は、何か、宗教的なものを思わせます。

その調子は、最後の2行に繋がっています。

そのようであることを証明することは、確かに大いなる試練でありましょう。

そして、それが贖罪で、同時にあり、また悪なのだという順序でやって来て、最後の悪という言葉は強烈です。

非常に魅力的な、その通りだと思わせる詩です。

善も悪も、人間との関係、従い、人間の社会との関係であるものです。自然は全く善悪とは無関係です。昨年の大震災と津波で、わたしたちが認識したこと、思い出した事の、大切なことのひとつは、このことであったと思います。

わたしは、この詩の歌っているように生きて来たように思います。

あなたは、どうでしょうか。

2012年4月7日土曜日

第16週: Auferstehung (復活) by Marie Luise Kaschnitz (1901 - 1974)



第16週:   Auferstehung (復活) by Marie Luise Kaschnitz (1901 - 1974) 

【原文】

Auferstehung

Manchmal stehen wir auf
Stehen wir zur Auferstehung auf
Mitten am Tage
Mit unserem lebendigen Haar
Mit unserer atmenden Haut.

Nur das Gewohnte ist um uns.
Keine Fata Morgana von Palmen
Mit weidenden Loewen
Und sanften Woelfen.

Die Weckuhren hören nicht auf zu ticken
Ihre Leuchtzeiger löschen nicht aus.
Und dennoch leicht
Und dennoch unverwundbar
Geordnet in gehemnisvolle Ordnung
Vorweggenommen in ein Haus aus Licht.


【散文訳】

復活

幾度か、わたしたちは立ち上がる
復活するために立ち上がる
昼の日中に
わたしたちの生き生きとした髪の毛を以て
わたしたちの呼吸する肌を以て。

当たりまえの物だけが、わたしたちの周りにある。
棕櫚の木のFata Morgana(蜃気楼)ではない
牧草を食む獅子達の映っている
そして、柔らかな狼達の映っている
(そのような蜃気楼ではなく)

目覚まし時計どもは、チクタクということを止めない
それらの時計の発光性の針は、消えない。
にもかかわらず、容易に
にもかかわらず、傷つくことなく
秘密に満ちた秩序の中に整理されて
予(あらかじ)め、光の中から出て、とある家の中に入るのだ。



【解釈と鑑賞】

この詩を朗読しているYouTubeを見つけました。

http://www.youtube.com/watch?v=j3LIs2mUtUc

また、いつもながら、この詩人のWikipediaです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Marie_Luise_Kaschnitz

また、Fata Morganaという名前で呼ばれる蜃気楼の写真は、次のURLアドレスです。

http://en.wikipedia.org/wiki/Fata_Morgana_(mirage)

復活とは、イエス•キリストの復活に象徴されるように意味での宗教的な復活を含めた崇高な意味を有する言葉ですが、そのことが日常生活の中にあることを歌った詩です。

復活するのは、わたしたち、普通のこうしている人間です。

第3連の最後の二行に、何故それが可能ということの理由が示されています。

いい詩です。

2012年4月1日日曜日

第15週: ツァハエウスのように by Eugenio Montale (1896 - 1981)



第15週: ツァハエウスのように  by Eugenio Montale (1896 - 1981) 

【原文】

Wie Zacheus

Es handelt sich darum, auf den Maulbeerbaum zu klettern
um den Herrn zu sehen, wenn er vorübergeht.
Leider bin ich kein Kletterer und auch
wenn ich auf den Zehenspitzen stand,
habe ich ihn nie gesehen.


【散文訳】
ツァハエウスのように

それは、もしイエスが通りかかるならば、
イエスをみるために桑の木に登ることである。
しかし残念ながら、わたしは木登りが達者な人間ではなく、
イエスが通りかかる度に、わたしはつま先立ちして
立ってはみたのではあるが、一度もイエスの姿を見る事がなかった。


【解釈と鑑賞】

この詩人は、イタリアの詩人です。

イタリア語のWikipediaがあります。

http://it.wikipedia.org/wiki/Eugenio_Montale

また英語でも伝記的な記述があります。

http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/1975/montale-bio.html

1975年のノーベル文学賞を受賞しています。

また、Zacheusについての、Wikipediaがあります。

http://en.wikipedia.org/wiki/Zacchaeus

これによれば、ツァハエウスとは、聖書に出て来る税吏で、イエス•キリストがエルサレムへ行く途中、物見にsycamore figに登って眺めた人物として出て来ます。

Sycamoreは、プラタナス、figはイチジクですが、イチジクの木に登ったということなのでしょうか。

自宅にイエスを呼んで、宴会を催したとあります。

ユダヤ人は税吏をローマ帝国の代表として冨を収奪するゆえに憎んでいた。

そのような仕事をしていた人物です。

イエスが饗応に応じたので、ユダヤ人は失望したと書いてあります。

イエスに諭されて、税吏としての仕事を悔い改め、ユダヤ人のために自宅で宴会を催したとあります。

さて、これがどのようなまとまりのある意味を持ったエピソードであり、またそのエピソードにちなんだ詩であるのか。

ご存知の方は、ご教示下さい。