(昨日の続きです)
別の言語システムに変換するときに、形だけ詩に似せても、変換したことにならないのだ。それは、必ず、言語の本質からいって(ここは、初等哲学と初等論理学。しかし、諸島哲学と諸島論理学といいたいところだ)、ある言語システムの一語に対するに、他の言語システムでは、常に複数の語が対することになるからだ(僕が散文に学んだことは、Hart Craneを知り、翻訳する上では、却って(これも還ってと書きたい位だ)幸いしているのかもしれない)。
だから、Craneの、このThe Bridgeというvisionも、それは、同様だ。僕は、Thomas Mann、18歳のThomas Mannに感謝しなければならないのだな(20年の労苦が報われる思いだ。ドイツ語ではなく英語圏で。なるほど、僕には僕のTHE BOOK OF JOBがあったのだ)。Craneも天才だから、最初に書いた詩、子供の時代に書いて残っている最初の詩を読めば、その後の全ての詩が理解できるということになると僕は思う。それは、何歳の少年が、何と言う題をつけた詩なのだろうか。きっと短いものだと思う。
さて、今日の訳にとりかかろう。
Under thy shadow by the piers I waited;
Only in darkness is thy shadow clear.
The City's fiery parcels all undone,
Already snow submerges an iron year . . .
お前の影の下、桟橋の並ぶ傍で、僕は待っていた
何故ならば、暗闇の中にあればこそ、そしてその時にだけ
お前の影は、明らかであり、透明だからだ。
遠く眺める、シティの夜景は美しいが、
お前の影の中から、眞に明るい闇に立って眺めると、対岸の
その燃えるような、摩天楼の電気的な光の粒子も要素も
すべてそもそも無かった状態に戻り
あの、ユダヤ人の聖書にある、罪人を赦すという古代の避難のシティ (The City of Refuge)の、またシティのオフィスで犯した僕の罪、あの灼熱の肛門性交も、そこでは赦されて、すべてはそもそも無かった原初の状態に戻り、戻れよ、
既にして、雪は、鋼(はがね)の1年を、洪水で罪を洗い流すがごとくに
その上を覆い、隠しているのだ、既にして。
[註釈]今日は註釈と語釈(というよりは、後者はほとんどWebsterの引用ですが、その位置を入れ替えます。
(1)シティは、ニューヨーク・シティ、その中心街区と、古代の、ユダヤ人の聖書にある避難の町のシティと、ふたつの掛け言葉。後者も罪を赦す町であるように、前者もそうであるという、そのような歌です。
(2)僕は、あることから、先生と呼ぶひとから、ポルノグラフィーの素晴らしい検索エンジンのあるウエッブサイトを教えてもらい(色事の先生ではありませんよ)、時折そこのお世話になるのですが、その中の短い映画(といっても、実写ですが、そこ)に、若い女性と姿は見えぬ男の出演者が英語でやりとりをする場面があり、勿論女性しか映っていない状態で(男を写しても仕様がない)、男がその女に話し掛ける言葉に、お前のpackageは、素晴らしいという言い方があったのです。これは、packageというのは、この場合明らかに女性の秘所をいう隠語ですが、これが何故packageなのかがずっと疑問でありましたが、Craneのこの連に来て、そうして、第2連とは同じfloor、同じclass、同じlevelの詩だということを念頭に措いて考えると、その謎が解けました。それは、packageは、その感触、感覚も、やはり何かが包まれているという感覚であり、そうして、何故女性の性器がpackageかというと、それは、男が開くものだから、そうして女が両脚を開いて、包まれている中身を見せるものだからです。これに対して、parcelは、小包ですが、しかし、男性がそのpenisを男性に包んでもらうもの、それは女性のようには開かれないで、包まれるものという感覚であり、意味なのだと思います。それが、fiery parcelなのです。それと、罪と、その浄めの祈りが、ユダヤ教の聖書という古典に分ち難く一体となって、詠われています。
何故、しかし、packageであり、parcelであり、このような郵便と関係のある言葉が性的な比喩に使われるのでしょうか。それも、嘘をつくことなく、こころから。嘘をつくことなく、こころからとは、その言葉とその指し示す行為との間に虚飾と誤解が一切入る余地がないという意味です。それは、郵便がコミュニケーションの手段であるからです。そうして、性的なcommunicationだから、これらの言葉を使い、全く実際の感覚と剥離することなく、隠語で、このように使われているのです。
Intercourseもそうですが、このアングロサクソン共は、communicationというと、このような伝達ですから、同じ精神状態や熱の状態や、それが病気であろうと、善きことであろうと、共有すれば、そのプロセスと結果状態を、communicationといっているので、この時に、性的な状態の共有もこの概念の中に最初から入っているのです。下の辞書の引用にもある通り、parcelはコミュニケーションの種概念として、companyでもあるのです。仲間、であり、会社です。Homosexualな人間同士の仲間という意味も、仕事をする仲間という意味もふたつが掛け合わされているのです。第2連にそのまま対応していることがお判りでしょう。
それから、更に付け加えれば、Craneは、ニューヨークという大都会を擁する米国の当時の郵便システムも、つまり近代国家の管理統制するコミュニケーション・システムも、こうして性的な比喩をそっと忍ばせることで、dallyingしているのです。8篇の詩の中に、Natinal Winter Gardenと言う題の詩がありますが、これもこの題からして、Nationalという形容詞がありますので、その中身は、同じ主題がthreadされている筈です。そうして、このproemと題されたTo Brooklyn Bridgeの中で使われた全ての階層の用語そのものか、それに連想の強い、関係濃度の濃い用語が使われている筈です。
(後の8篇の詩がお互いにどのような関係にあるのかは、このTo Brooklyn Bridgeの最後にお話します。実は、この詩と同じ構造で、残りの8篇の詩を構造化し、Brooklyn Bridgeを詩人はwhite buildingしたのです。だから、これらすべての構築物の題が、The Bridgeなのです。)
そうして、これらのすべての構造を、Hart Craneは、Brooklyn Bridgeという詩でwhite buildingしたのです、いや、white buildingすることによって、Brooklyn Bridgeを構造化したのです。Bridgeがtowerであり、towerがbridgeであるように、またbridgeがこうして帆船であり、帆船がbridgeであるよう、詩化すること、詩を書くこと、それがCraneの仕事だと、僕達日本語人は、このようにいうことができるでしょう。
そういえば、僕も最近近くの郵便局にいって、今日出すと川崎に明日の午前に着きますか午後に着きますかと確認までに質問したら、課長であろと思われる職位の40男は、部下の20代の女性に訊き、そうして、料金表にある文字で書かれた規則のせいにして、確かなことはいえません、川崎では、1日2回集配が行われるだけなのですという答えを返して平然としているような、そんなものの考え方で仕事をしていると勘違いをし、給料を都民と国民の血税で賄っているような、そんな奴こそ、ChaplinesqueにCraneが歌ったというか嘆いたる、that inevitable thumb、どうしようもない馬鹿でありましょう。もし僕がそのとき、ところでこの料金表には、小包とあるが、それはpackageのことparcelのことかと質問をしてやれば、まったく
We will sidestep, and to the final smirk
dally the doom of that inevitable thumb
That slowly(本当に仕事が遅いのだ!この男の場合は!)chafes its puckered index (これが郵便配達予定表であった!明治時代以来変わらぬ。)toward us,
Facing the dull squint with what innocence
And what surprise!
だから、クロネコヤマトよ、応援するから、頑張れよ!
こうしてこの経験から、またChaplinesqueに戻って、thumbの意味を考えてみると、5本の指の中で一番短く太く(腹も出ていて、全く管理職の典型的な様子だ)に、他の4本の指は、関節が2つあるのに、親指は1つしかなく、そのくせ(といおうか、それ故に)、他の4本と1対1で挨拶ができ、話もできて、また自分の指で試してみると、4本全部とまとめて会議もできるのだ。関節の数が1つということが、他の4本にはない、行為の上でのfreedom(!)を可能にしているのです。これがWebsterの定義だ。下にある語釈をそのまま読んでみてください。思わず、笑ってしまいました。これぞ風刺というものですね。ご自分の指で試してみて下さい。
(3)undoneと読んで、直ぐ思い出すのは、コンピュータのチェスの勝負で、いつも負けているときに、深切なことに、もう一度その一手がなかったことにできるのです(コンピュータの方が強いのです)。チャラにするというか、ガラガラぽん、御破算にして、元に戻して、罰則があるわけでもなく、規則、ruleとして、そのように最初からそのゲーム(また、gameだ、Chaplinesqueよ)が、世間周知の公認の規則として、設計されているのです。時間をもとに戻すのではなく、その時間がそもそも存在しなかったかのごとくにする規則です。罪を赦すというよりも、そもそもそのような罪などなかったのだ、その過ちはそもそもなかったのだ、undoneという意味です。ここでは、僕は、Craneの祈りの気持ちを感じました。Un-という接頭辞の、力です。
(4)Alreadyも既にしてと訳しましたが、これも、undoneを承けて、時間とは無関係な副詞です。あるいは、無関係にすることのできる副詞です。下にあるWebsterの転記をみて下さい。この詩では、現在完了形ではなく、現在形であるところに、Craneの意志、祈り、しかしそれ以上に、これが現実であるのだという詩そのものを見ます。雪は勿論、Craneの白です。白ですが、水の好きなCraneは、雪ですら、submergeという、overflow, flowという形象を持って来ています。これは、こうして書いてみると、最後の連、第11連の"Unto us lowliest sometime sweep"に呼応しているとも思います。すべてを一掃してくれ給えと。
(5)そうして、この連の最後の「. . .」も勿論意味があり、この連と同じレベルにある第2連の最後の同じ記号に対応しているのです。第2連は、エレベーターにのって地上へと、至福の場所から墜落するのですが、この第10連はどうでしょうか。後者は前者を救済していますね。「. . . 」、深い沈黙が在るのだと思います。第2連は、この沈黙の後に、エレベーターで堕ちていった第3連で世俗的な映画をみようかと「僕」は考えるのですが、第10連では、この沈黙の後には、第11連で逆の方向に昇って行き、しかし一番最下層の帆船の世界を詠って、下は上、上は下、橋は塔、塔は橋となって、この同じcellの形象をなす第1連、水平の橋と、垂直の女神の形象へと還って行くのです。前者には、fractionされ、flashingされたスクリーンの白(これは白ではない)、後者には、雪のunfractionedの純白の白を配して(片々ではない雪!)、Craneは、これはもう詠っているとしかいいようがない、そのように言葉を配置しているのです。つまり、第2連では、色彩が白から黒へ、第10連では、色彩が、黒から白へと移るのです。後者は、むしろ遷(うつ)るのです、というべきでしょう。それが、沈黙の「. . . 」の意味です。
(以下明日もこの連の註釈を続けます。語釈もまた。1万文字を超えました。残念。また明日。)
0 件のコメント:
コメントを投稿