2010年10月3日日曜日

芭蕉と西脇順三郎

ご縁があって、芭蕉七部集の冬の日を読むことになった。

誠にむつかしいが、また考えること、読み込むことが面白い。

例えば、冬の日の歌仙の3巻の発句:

つつみかねて月とり落とすしぐれかな

(しぐれは本来は雨かんむりの時雨を使っています。)

これは杜国(とこく)の句であるが、この最初からわからない。

というような調子で、冬の日の3巻と4巻を行きつ戻りつ日が暮れた。

俳諧、連句を読んでいて、はたと思ったことがある。

それは、西脇順三郎の詩に実によく似ているということである。

句と句の関係、繋がり具合が、とてもよく似ていいる。

句と句の呼吸といってもよいと思う。

あるいは、句から句への展開が。

西脇順三郎という詩人にとって詩を書くことは、一人で連句をするようなものだったのだと思う。

そうして、その詩を読むと、その句の連続がそのまま旅であったことも、旅であることもわかる。

今日西脇順三郎の書いた「はせをの芸術」というエッセイ(評論、批評)を読んだが、それによれば、芭蕉は老荘思想を学んだということである。

これは、ビジネス、business、忙しい状態というものの対極にある、全く無為なる境地である。しかして、美あり。文学とはそのようなものである。

追伸:境地! ヨーロッパの白人種たちであれば、認識というであろう。