2009年7月22日水曜日

リルケの空間論の一般論の部の続きをどうやって


リルケの空間論の一般論の部の続きをどうやって、どの方面から書いたら、一番解りやすく、整理されて、説明ができるだろうかということを考えている。リルケの考えるところに即して、無理なくということである。

今わたしの頭に浮かぶのは、次の2つの入り口から入ることだ。

1.Erkennen、エアケンネン、認識するという動詞と、zuschauen、ツーシャオエン、観るという動詞の相違から説明を始める。リルケは、前者ではなく、後者のひとである。事物の創造を認識にではなく、観る当の空間に求めるのである。
2.悲歌5番から始める。

上記2の場合には、この悲歌は、空間論または次元論をもちろん詩の重要な部分として含むが、その空間を歌うに際し、リルケは同時に(同時に、などといってよいものであろうか。リルケならば、空間を歌う場所で、というところであろうが)、die Liebenden、ディー・リーベンデン、愛する者たち、愛している者たちという人間の集合と、die Toten、ディー・トーテン、死者たちという人間の集合(これも人間といってよいであろう)について歌っているので、空間と、これらの人間の集合の関係を論じなければならないのだ。

しかし、そうなってくると、実は、悲歌1番と2番に、これらの人間群像が対比的に歌われているので、やはり、「リルケの空間論(一般論)」(2009718日)の追記にて触れたように、登場人物たちのうち、説明をまだしていない残りの関係を論ぜずには、悲歌5番の話も前に進まないということになるだ。さあ、どうするか。

登場人物相関論は、いづれ通おらねばならない関所であるから、やはり、そこを通ってから、悲歌5番を空間論の観点から論じることにしようか。この思考の順序だと、いやでもそういうことになりそうだなあ。

悲歌5番第1連は、人間の意志について歌っているが、この第1連をみるだけでも、リルケは、意志よりも空間が優先していて、空間の中で意志も動いているということになる。この場合の空間は、その歌い方からして、すぐさま宇宙空間の話になるのであるけれども。
このようなことを書いてきてわかることは、リルケは、悲歌1番と2番を最初に書き上げ、その後繰り返し繰り返しそれらを読み、熟考を重ねて、それ以外の悲歌を書いたということである。悲歌1番と2番がわかったならば、その他の悲歌のことも解ると、わたしは思うし、考える。

今日は、わたしの迷いをそのまま書いた。

2009年7月19日日曜日

リルケの空間論(個別論):悲歌2番第3連

リルケの空間論(個別論:悲歌2番第3連)

悲歌2番第3連だけが、リルケの空間論の特徴を示しているわけではなく、それは悲歌10篇に及ぶことなのですが、しかし、とりわけこの悲歌2番第3連は、その前の第2連が天使について、それがどのような存在かを実に明確に歌い上げていることから(「天使論」(200974日)参照)、その後に来る第3連で歌われている「わたしたち」については、第2連の天使との対比で、悲歌1番とは別の面からも「わたしたち」のことが一層よく解り、またリルケの空間論の具体的な例としてもおもしろく読むことができますので、この第3連を読解することにいたしましょう。

前の第2連の最後の3行では、天使たちが、この世で、無数にある、鏡の空間に変身してわたしたちの日常に存在しているのでした。悲歌1番第1連にあったように、天使は、das Schoenste、ダス・シェ-ンステ、最も美しきものでありました。それゆえまた、天使は、地上において、自分自身から流れ出た本来の美、美しさを、再び創造して、そのかんばせに汲み戻すということを絶えず行っているのです。

それから、わたしは、「天使論」(200974日)で次のように述べました。

「しかし、このようにploetzlich、プレッツリッヒ、突然、不意に、何の脈絡もなくという副詞を使うということは、リルケは、一つの空間に少なくとも一つの時間が存在していると考えていたことになります。これをどのような空間的な表象に転化するか、これがリルケの詩をむつかしく見えさせている原因だと思います。」

リルケは、時間的な現象を、一体どのように空間的な表象に転化しているか、このことに着目して下さい。

さあ、これらのことを念頭においた上で、第3連を読みましょう。最初に原文を示し、その後にわたしの散文訳をつけることにします。

Denn wir, wo wir fühlen, verflüchtigen; ach wir
atmen uns aus und dahin; von Holzglut zu Holzglut
geben wir schwächern Geruch. Da sagt uns wohl einer:
ja, du gehst mir ins Blut, dieses Zimmer, der Frühling
füllt sich mit dir... Was hilfts, er kann uns nicht halten,
wir schwinden in ihm und um ihn. Und jene, die schön sind,
o wer hält sie zurück? Unaufhörlich steht Anschein
auf in ihrem Gesicht und geht fort. Wie Tau von dem Frühgras
hebt sich das Unsre von uns, wie die Hitze von einem
heißen Gericht. O Lächeln, wohin? O Aufschaun:
neue, warme, entgehende Welle des Herzens -;
weh mir: wir sinds doch. Schmeckt denn der Weltraum,
in den wir uns lösen, nach uns? Fangen die Engel
wirklich nur Ihriges auf, ihnen Entströmtes,
oder ist manchmal, wie aus Versehen, ein wenig
unseres Wesens dabei? Sind wir in ihre
Züge soviel nur gemischt wie das Vage in die Gesichter
schwangerer Frauen? Sie merken es nicht in dem Wirbel
ihrer Rückkehr zu sich. (Wie sollten sie's merken.)

(天使という鏡が自身から流れ出た美を創造して自身の顔に汲み戻すということにつき、何故天使がそうするかというと)何故ならば、わたしたちが感じるところ、感じる場所では、わたしたちは、いつも何かを発散させ、揮発させて、減ってゆき、衰えて行くからだ。ああ、わたしたちは、自分自身を、呼吸をして吐き出し、そうして、彼方へ行く(年老いて、死んでしまう)。というのも、熾(お)き火から熾き火へと、火を熾(おこ)すために息を吹きかけて、息を吐いて行くごとに、わたしたちは臭いを発散させてゆき、その臭いは、段々と弱まってゆくからだ。だから、誰かが、わたしたちに向かって、こう言うだろう。そうさ、お前さんが、わたしの血の中に入ってゆく、この部屋の中にも、この部屋も、春も、お前で一杯になる、と。だから、どうなるというんだ。春も、わたしたちを同じ状態にとどめることはできないし、わたしたちは、春の中で、春をめぐって、小さくなり、減ってゆく、衰えて行く。そして、美しいひとたちは?ああ、誰がこのひとたちが美を失い、衰えてゆくのを抑えておくだろうか。(そんなことは、できない。)絶えず、美しいひとたちの顔の中には、それらしい様子、見かけが、立ち上がり、そして、先へとどんどん進んでゆく。(変化して行く。)早朝の草の露のように、わたしたちの私達であるものは、立ち上がる、熱い料理の熱気のように。あ、微笑んでいるのか、どこへ行くんだ?ああ、仰ぎ見てごらん。新しい、熱い、逃れ出てきた波、心臓、こころの波を。わたしには傷ましい思いがするが、わたしたちは、何と言っても、そのような存在なのだ。そうすると、この世界空間は、わたしたちは、その中にわたしたちを解きほどいているのだから、わたしたちの味がするのだろうか?天使たちは、本当に、自分たちのもの(*)だけを、自分たちから流れ出たものだけを、受けとめ、捕らえているのだろうか?それとも、時には、間違ったかのようにして、わたしたちの本質の少量が、その中に紛れ込んで、入っていることがあるのだろうか?

妊娠している女性たちの顔の中に曖昧なものが入って行くのと同じ位の量で、わたしたちは、天使たちの行列、隊列の中に、ただ紛れ込んでいるだけなのだろうか?天使たちは、自己、自分自身に帰還する(行列、隊列の)渦巻きの中にいて、そのことに気がつかない。(どうして、気のつかなければならないということがあろうか。そんなことはない。)

(*)わたしの当たったテキストは、みな大文字のIで始まるIhrigesで、これでは、あなたのものという意味になる。しかし、詩中の一人称のわたしは、目の前に天使をおいて呼びかけているわけではない。Iが小文字ならば、次の「彼ら(天使たち)から流れ出る」の「彼らから」の「ihnen」に平仄があっていて、問題はないのであるが。ここでは、大文字のIではなく、小文字のihriges、彼ら(天使たち)のものという訳にした。ここは、テキストを精査する必要あり。

さあ、一体、これは、何を歌っているのでしょうか。

リルケは、時間的な表象を、空間的な表象に転化して表現しているということは、おわかりでしょう。リルケは、儚くなるとか、年をとるとか、死ぬとか、そういう言葉は使わないのです。死ぬという言葉のことでいいますと、リルケは、この悲歌では、生きているとか、死んでいるとか、そのような識別、区分けを一度もしていません。悲歌の世界に生死の別はないのです。

さて、それでも、ここには、どういう考えが働いているのか、この第3連の中から解る限りのことを、抽出し、書き上げ、考えてみましょう。

「天使論」(200974日)の中で言いましたように、天使は、この世では、鏡に姿を変えている。そうして、天使は美しきものであるということから、そもそもの美、本来の美を創造して、自分の顔の中、鏡の中の空間へと汲み戻している。なぜ、自分の顔の中へ美を汲み戻すかというと、それが天使の顔から流れ出たからです。悲歌2番第2連にあるように、天使は、空間でした。ここで考えられていることは、ある空間からは、その中にある本来の性質、本質が流れ出して行くということでしょう。

わたしたちひとりひとりも空間ですので、わたしたちひとりひとりからも、それぞれの性質が流れ出すのでしょうか。わたしたちの場合には、リルケは、流れ出すとはいっていません。発散し、揮発する、臭いを発する(それも段々弱くなってゆく)といっています。これが、天使と人間の性質、本来の性質という意味ならば、本質の相違なのでしょう。

わたしたちの本来の性質を、リルケは、das Unsre von uns、すなわち、わたしたちの私達のものと表現しています。これは、やはりこのように理解し、訳出しなければならないと思います。どんなに奇妙に見えても。リルケは、わたしたちの中から、私達であるものを抽出しているのです。わたしたちの共通集合であるものを、空間を、場所を。そうして、それを、わたしたちの私達のもの、と呼んでいるのです。

リルケの空間は、移動する。上昇したり、下降したり(天からこの世へと)するので、これは、一体生きているのだろうか?と、考えることができます。天使は生きているのだろうか。でも、リルケはなんとも言っておりません。天使という空間の生死のことは、言っていない。また、思い出して、悲歌1番第1連の最後から2行目を読むと、わたしたちは、空間を呼吸することもできている。空間が、わたしたちひとりひとりの空間の中に呼吸を通じて入ってくる。

それに、上の第3連では、わたしたちの私達のものが、どうも微笑んでもいるらしい。どう考えても、そのものが、微笑んでいる。リルケの歌うものには、意志があるのでしょうか。それは、生き物なのでしょうか。生きているのでしょうか。どうでしょうか。

悲歌1番第2連5行目では、春との委託契約(春がわたしに委託する)が出てきますから、春という空間にも―上の悲歌2番第3連の春は、わたしという一人称で自らを満たす空間でした―何か意志があるのでしょうか。もの、空間、場所の意志の問題については、リルケは、悲歌5番で、第1連からそのことに触れていますので、この問題は、そこに至って考えることにして、ここでは、その問題は、頭の隅において、留めておくことにして、第3連に話を戻しましょう。

上の第3連にあることを、箇条書きに抽出してみると、次のようなことになります。

1.わたしたちの本質(本来の性質)は、空間を満たす。

2.わたしたちは、生きている間に徐々に、量として減ってゆく。

3.減った分の量は、わたしたちの体という空間から発散し、揮発し、上って行く。

4.減った分量の分だけ、わたしたちは、臭いを段々弱く発散してゆく。(普通の表現ならば、死に向かって弱ってゆくと書くところでしょう。)

5.このような減量は、感ずる場所、感ずるところで、生まれる。(リルケは、わたしたちが感じるときに、とは言っていません。あくまでも空間的に、感じるところ、場所で、なのです。)

6.人間の美は、ただ失われるだけである。天使のように創造して本来の美を汲み戻すことはできない。いや、人間の美は、本来の美ではないということだ。

7.わたしたちの共通集合部分、すなわち、わたしたちの私達のものが上に昇って行くことは、早朝の露や熱い料理の熱気と同じで、自然現象である。止めることはできない。

8.しかし、そのような上昇する自然現象には、同時に、心臓、こころというもの、こころという空間から生まれ出る、新しい、暖かい波、波動を生み出すか、伴っている。(この波動とは何だろうか。それから、リルケは、わたしたちの心臓とは言っていない。心臓であるもの、である。悲歌2番第1連の天使の心臓が、天使の個別の心臓、こころではなく、そもそもの、本来の心臓、こころであることに、人間としては(人間のレベルでは)、対応していると考えることができる。)

9.世界空間という空間も食べて味わうことができる、かも知れない。これは、リルケのユーモアだと思う。

10. わたしたちの本質が、上へと上昇してゆくときに、天使たちもまた、天にいる自分自身に帰還するために隊列を組み、行列をなして、渦を巻いて昇ってゆくので、間違って、わたしたちの本質も少量ではあるが、紛れ込んでしまうことがあるかも知れない。もしそうならば、わたしたちも、最上位の空間に到達して、天使の一部となるかも知れないのだ。そうだとして、勿論天使たちは、そのことを知らない。

以上10点を抽出しましたが、これから悲歌10篇の中で、これらがどのように関係しているのか、また表現されているか、気をつけてみてゆくことにいたしましょう。

このように書いてきて思うことは、リルケという人は、ただただ空間を純粋なものしたかったということです。時間的な表象を空間的な量的な表象に変換することによって。そして、その空間の中では、針一本落ちる音すらもしない。

最後に、もう一度、天使たちのことです。この地上に降り立ち、鏡に変身した無数の天使たちは、流れ出た本来の美を、本来の顔に汲み戻して、隊列を組んで、壮大な渦巻きとなって天上へと向かってゆくのですが、天上へ行って、一体どのような姿に戻るのでしょうか。無数の天使たちは、無数の天使たちのまま、天上に戻って、無数の天使たちでいるのでしょうか。そうではありません。

天使たちは、天上の空間に戻って、ひとつの、唯一の天使になるのです。それが、原文では、in dem Wirbel ihrer Rückkehr zu sich自己、自分自身に帰還する(行列、隊列の)渦巻きの中にいて、と訳したところです。この天使は、自分自身に戻って、一体どんな天使になるのでしょうか。それは、悲歌2番第17行目に歌われている唯一の天使に戻って、der Erzengel、大天使と呼ばれているのです。これは、悲歌1番第1連に出てくる天使同様、der gefaehrliche、危険なる天使と呼ばれていて、この地上にそのままの姿で現れたならば破壊的な力を発揮する。

リルケは、この悲歌2番第1連で何故、天使の具体的な名前を言わず、最も輝かしいもののうちのひとりが戸口に立ったと言ったのでしょうか。それは、トビアスの神話的エピソードを借りてはきても、この連に、従ってこの詩に登場する天使は、リルケの天使だからです。リルケは、ミヒャエル、ガブリエル、ラファエルと言った具体的な天使の名前を出しておりません。宗教の世界では、大天使という名のもとに、そういった複数の天使が存在するようですが、それらの天使ではありません。

「天使論」(200974日)で、次のように論じました。

奇妙なことですが、リルケは、決して、天使の個別の心臓、天使の個別の美、天使の個別の顔を歌っているのではありません。このように、所有代名詞を使わずに、つまり彼の手とか、彼女の脚といった、主語に関係のある指示をすることなく、そうはしないで、必ず、定冠詞と形容詞と名詞という組み合わせで、体の各部位の名を、そうして必ず、eigen、アイゲン、そもそもの、本来の、固有のという意味の形容詞をつけて呼ぶのです。これは一体どういうことなのでしょうか。リルケは何をいいたいのでしょうか。

リルケは、あくまでも天使の存在の完全性をいいたいがために、そのような表現をしたのだということです。天使は、もともとの、オリジナルの、固有の美をその身に備えているのです。

天使たちは、最上階の空間に戻って、そもそもの、本来の美を備えた唯一者、Erzengel、エルツエンゲル、大天使に戻り、なるのです。

さて、とはいえ、逆に、リルケの大天使も、次第に序列の階層を降りてくるにつれ、複数の天使に分身、変身、何かに化身をして、果ては、天使の序列の存在する空間をも越えて、この地上に無数の鏡の天使となって、舞い降りているのです。

悲歌1番第1連では、もしそのまま現前すれば、そのエネルギーの威力によって、わたしやわたしたちの身を滅ぼしてしまうほどの天使ですが、空間の階層を下ってくるにつれ、そのエネルギーも本来の美とともに、自分自身から流れ出て行くのでしょう、地上では、わたしたちの受け入れることのできる鏡の空間となって、日常生活の中に共存してくれているというわけです。この地上での、天使の働き、専ら美という関係において、天上と地上をつなぐ接続の機能については、既に述べた通りです。

何故、わたしが、こんな天使像を思い描くかというと、悲歌の中で、リルケが1、einsという名詞を主語にして文を作っているところが複数個所あるからです。1とは、全体の謂いです。それから、天使論で論じたこと、さらには、やはり、今までに述べてきた、悲歌の中にあるリルケの空間に対する考え方から推測、推論してみたことです。

さて、最上階にいる大天使の話ができましたので、次回は、リルケが、悲歌2番第3連に出てきた世界空間、Weltraum、ヴェルトラウムをどのように考えていたか。そのことを論じたいと思います。これは、「リルケの空間論(一般論)」(2009718日)の続きです。そこで論じたような、そのような空間がたくさんあるとして、それを無数に想像することができますが、それは一体結局、全体としては、どのような姿をしているのかということです。

リルケは、その全体の姿を薔薇に見つけ、薔薇に象徴させたのだと、わたしは思います。空間論の一般論の部の最後に、リルケの墓碑銘である薔薇の詩を解釈したいと思います。

2009年7月18日土曜日

リルケの空間論(一般論)


リルケの空間論(一般論の部)
リルケの悲歌の一番抽象的な見取り図、概観図を描きたいと思います。それが、リルケの空間論です。

もう、のっけから、結論から参ります。このようなことを思ってください。

リルケの悲歌の世界は、(もの、空間、場所)、これら3つの言葉とその概念で理解することができます。これらは、相互に交換概念です。そう思ってください。その抽象度が余りに高いので、(Ding, Raum, Stelle)、(ディング、ラウム、シュテレ)という、ドイツ語の言葉と概念に、そのまま、ほとんど、1対1で対応しています。

わたしたち日本人の世界に、相撲というものがあります。そこに土俵というものがあって、それは、土と四柱で(実際に国技館では、この四柱は取り払われていますが、しかし、本来ならば、そのように)構成されている空間があります。(そう、想像して下さい。)今、こうして書いていても、思わず使ってしまったように、ものと空間が、土俵という場所には関係があるのです。

まづ、場所という言葉で考えてみましょう。春場所、夏場所、秋場所、冬場所という場所があって、季節とともに、巡業の場所が巡って来るでしょう。実際には、名古屋場所とか、福岡場所というのかも知れませんけれども。

土俵と四柱からなる土俵があって、これは場所です。その場所には、お相撲さんや、行司や、呼び出しが、出たり入ったりします。それは、時間という季節の循環とは無縁に、いつも、そうなっている、そうである場所です。場所は、季節、時間とは無関係です。

その場所は、また同じ構成からなる空間と呼ぶことができます。その空間に、そのようなひとたちが出入りしていると考えることができます。そうしたならば、それはまた、場所というもの、空間というものであるとも、いうことができると、考えることができるでしょう。

ここまでは、どうでしょうか。そうであるならば、土俵というものの中と外を、お相撲さんや、行司や、呼び出しや、懸賞が、出たり入ったりすることができるのではないでしょうか。いかがでしょうか。

場所は、変わらない。しかし、その上で、その空間の中で、時間が過ぎてゆく。
さて、今、ひとが出入りするという空間ひとつの話をしましたが、これが、もうひとつ同じ空間があって、それがその空間に出入りすると考えたらどうでしょうか。あるいは、その空間の中に入ってしまう、逆にその空間が、もうひとつの空間の中に入ってしまう。そのようなところを想像してください。

それが、ものとものの関係、空間と空間の関係、場所と場所の関係なのです。あるいは、これらの互い同士の関係。

わたしたちは、相撲という丁度格好な文化を持っておりますから、このように説明すれば、リルケの空間をそのままに説明することができるのです。これが、リルケの空間です。
(ほかの文化圏、言語圏のひとたちは、一体どうやってこれを理解するのだろうか。)
それでは、実際に読むときはどうなるのかといえば、もしあなたが、原文であれ翻訳であれ、悲歌を読んでいて、どうもこの意味が解らないと思ったならば、その言葉、名詞の後に、「という空間」と挿入して読めばよいのです。そうして、もし「という空間」で、理解がうまく行かなければ、「という場所」と言い換えてみるのです。それでも駄目なら、「というもの」と言ってみるのです。これが、わたしの、悲歌を理解するための、一番抽象的で簡便なるアドヴァイスです。

さて、さらに論を一歩進めると「天使論」(200974日)で述べたように、リルケの空間は、少なくとも一つの時間を含んでいます。リルケのひとつの空間には、最低でも一つの時間が存在しています。

空間の中に時間が存在するのでしょうか。はたまた、時間の中にゆるぎなく変わらぬ、時間とは無縁の空間が存在するのでしょうか。素人目には、後者の答えは否。それでは、前者の答えは、どうでしょうか。そもそも、時間とは何で、空間とは何なのでしょうか。
この議論は、哲学的にも、数学的にも、物理学的にも、専門家の議論があるでしょう。その歴史に触れることも、それぞれの理論を理解して、比較し、構造的にその本質を論ずることは、わたしの能力を遥かに超えたことです。

わたしが言語の立場から言えることは、唯一つ、リルケが概念化したこの(もの、空間、場所)という概念、今これら3つのうち、空間という言葉で他のふたつを代表させていうと、その空間、Raum、ラオムとは、ドイツ語で空間、広がり、延長等々を表す最上位概念であることから、これ以上言いようのないことをリルケは、この空間、Raum、ラオムという言葉で言い表したかったということなのです。これ以上の言葉がないので、リルケも、これ以上、ドイツ語でいいようがない。

この空間、Raum、ラウムが、最低ひとつの時間を含むのであれば、その空間は、英語ではdimensionという言葉で呼ばれているのです。日本語で次元と訳され、使われている言葉です。このブログで、次元という言葉を今まで使ったことがありましたが、実は、わたしは、リルケの言うこの意味と同じ意味で使用してきたのです。

リルケはドイツ語圏の詩人ですから、英語をドイツ語の詩の中に入れるわけには参りません。それに、詩は科学そのものではない。おのづと異なります。詩は、連想の藝術です。
それに、dimensionは、数学や物理の用語ではないだろうか。

リルケは、空間、Raum、ラウムという概念を独自に概念化して、dimension、次元という概念と同じ概念に至り、これを創造したのです。

リルケの次元の数は、リルケの認識の及んだ限りにおいて、その数だけ階層化して、存在しているのです。

さて、以上が、リルケの空間論の一般論の部です。

リルケの空間論の個別論の部、あるいは詳細論は、悲歌2番第3連を論ずることで、次回、展開することといたしましょう。

追記:あと、悲歌を読んでいて明らかにしなければならないのは、登場人物達の関係である。

登場人物には、天使、(わたし、わたしたち)、若い死者たち、愛するものたち、活き活きとしているものたち(悲歌1番、悲歌2番)がいる。
天使と(わたし、わたしたち)の関係は既に「天使と使者を語る前に」(2009621日)で説明をしました。若い死者たちと(わたし、わたしたち)の関係も、そこで説明をしました。

後は、若い死者たちと活き活きとしているものたち(悲歌1番で)、愛するものたちと、天使・(わたし、わたしたち)・若い死者たちの関係を説明することになります。
それから、もうひとつ、英雄(悲歌1番、6番、)と若い死者たちの関係、類似性を論ずることも必要です。

これらを論じながら、リルケのその形象、表象を、悲歌10篇のあちこちを参照して、考えて参りましょう。

リルケの青春と謎の一行


リルケの青春と謎の一行

さて、悲歌2番第3連に行く前に、同じ悲歌第1連の次の句、主文となるべき言葉の集まりに動詞を欠いているので、文というよりは句というべきだと思うが、ここでは敢えて文ということにすると、その文が一体何を言っているのかを手短に考えたい。その文とは、次のようなものである。その下に逐語訳をつける。

(Jüngling dem Jüngling, wie   er  neugierig  hinaussah)
(若者が 若者に、    の通りに 彼が 興味津々と 外を眺めやった)

この両側にある括弧部分も含めて、この文は、一体何を言っているのだろうか。全体を俯瞰すると、この括弧の文は、その前の、

Da der Strahlendsten einer stand an der einfachen Haustuer,
zur Reise ein wenig verkleidet und schon nicht mehr furchtbar;

最も輝ける者のうちのひとりが、簡素な家の戸口に立っていた、旅の姿に身をやつして、従いもはやそれ以上恐ろしくはない姿になって。

という部分からの流れの中にあって、セミコロンを間に置いて、この括弧の文が置かれている。セミコロンでは、文意は連続しているので、セミコロンの前の文の意味を受け継いで、セミコロンを介して、この括弧も含めた文があるのだ。

まづ、この括弧は、何を意味しているのだろうか。悲歌全体で、この括弧を使った箇所は、上の箇所を含めて、全部で8箇所ある。その共通した使い方を見てみると、それが、芝居の脚本に書かれるト書きと一種似た役割を果たしていることがわかる。つまり、リルケとまでは言わないが、詩中の一人称が、その括弧の前の箇所について、説明的にものいうのだ。

そう考えた上で、括弧の中の文を考えることにしよう。

上の日本語の逐語部分を集めて日本語にすると、次のようになる。


彼が、興味津々と外を眺めやった通りに、若者が若者に。


この「若者が若者に」式の表現が、悲歌の中には、類似の表現をしている箇所が幾つかあります。類似の箇所を参照して、それが詩の中でどのような位置を占めているのか、考えて見ましょう。

次のような箇所が、悲歌6番第5連にあります。


O Mütter der Helden, o Ursprung
reißender Ströme! Ihr Schluchten, in die sich
hoch von dem Herzrand, klagend,
schon die Mädchen gestürzt, künftig die Opfer dem Sohn.

おお、英雄たちの母親たちよ、おお、引き裂き、もぎ取るほどに
烈しい流れの源流よ。お前たちの谷、峡谷よ、その中に心の縁の高みから、
嘆きながら、既に娘たちが落ちて行った、その谷間よ。娘たちは将来息子の犠牲に
なる。


ここは、若い娘たちと若者との間の関係を歌った箇所で、谷間とは、勿論女性の秘所を指しているわけですから、少しエロティックな箇所だと思いますが、そちらの方にはこれ以上筆を伸ばさずに、後でその箇所を読むときに論ずるとして、その最後の一行だけに着目すると、


Die Opfer dem Sohn
犠牲者たちが  息子に


とあります。

これは、文の流れから言って、これは、娘たちが、母親たちの息子である若き英雄に対して犠牲になるという意味であることがわかります。このようにわかるのは、ふたつの名詞がそれぞれ異なるからです。

もうひとつ、類似の、動詞のない、主格と与格とでできている表現を悲歌7番第1連から引用します。


deinem erkuehnten Gefuehl die ergluehte Gefuehlin
お前の大胆になった(男の)感情に、熱くなった(女の)感情が


この直前の文は引きませんが、この一句で充分明らかなように、ここでも性愛が歌われています。また、この句のすぐ後の連では、春が歌われています。

また、さらに、同じ悲歌7番第43行目から4行目にかけて、


oder dem Abfall Offene


という表現がありますが、これに上で見つけた規則を適用して訳すると、その意味は、


一言で言えば、頽落、堕落に対して、こころも体もひらいている娘たち


という意味になるでしょう。

こうしてみてくると、リルケは、男女の性愛を歌うときに、好んで、あるいは意図して、このような、動詞を省略をしたというべきか、あるいは時間という因子を含む動詞を捨象して、名詞だけで表現をしていることがわかります。

これに対して、上の「若者が若者に」は、双方が同じ言葉であるために、少し話しが複雑になっています。悲歌2番第1連のこの詩のなりゆきからいって、この二人の若者が、同性愛者であるということではありませんので(精神論的にリルケがそうであったということを論じることはできると思いますが)、これは、そうすると、リルケという詩人は、男女を問わず、若さ、青春について、それがどのような姿をとるかを問わず、それを歌うときには、悲歌では、主格と与格で表したということが言えるでしょう。

こうして考えてくると、


(Jüngling dem Jüngling, wie   er  neugierig  hinaussah)
(彼が、興味津々と外を眺めやった通りに、若者が若者に)


この括弧の持つ意味から言って、これは前の文意を受けていることから、この流れでこの一文を読むと、まづ、er、彼がとは、戸口に旅支度に身をやつした天使のひとりであるということになります。

(しかし、実は、リルケは天使という言葉は使っておりません。最も輝かしいものたちのひとりが、といっているだけなのです。天使という言葉は、Erzengel、大天使という総合的な名前で以って、「若者が若者に」の後に出てくるという順序になっています。何故リルケは、このような書き方をしたのでしょうか。これは、リルケの天使論の続きとなりますので、次回以降の稿で論じたいと思っています。)

さて、そうすると、戸口に天使が立ち、そこから外を眺めやっているところを想像しましょう。そうして、その見やる通りに従い、その向こうには、ふたりの若者の姿、旅行く姿が見える。ということになるのではないでしょうか。しかし、この二人の若者のうち、もう一人は、実は天使自身に他ならないのであれば、それはおかしなことではないでしょうか。

天使が戸口に立って、自分と一緒に旅するトビアスと行くところを眺めやるとは。

一寸寄り道をして、手塚訳、古井訳では、ここをどう訳しているかを覗いてみることにしましょう。

手塚訳は、こうなっています。


(好奇の眼でトビアスが見やったもの、それは青年に向き合う青年の姿であったのだ。)


Er、彼が、トビアスとなっています。

古井訳は、どうでしょうか。


天使のうちでも最も輝かしきラファエルが簡素な戸口に、旅人の姿にすこし身をやつして、もはや恐るべき姿ではなしに、若者が若者をしげしげと眺めやるふうに立った。


古井訳は、括弧の中から「若者が若者に」という一行を取り出して、セミコロンの前の文の中に入れて訳しています。Hinaussah、眺めやるという動詞を、若者を若者が眺めやるというふうに理解をしたのでしょう。

どちらの訳も、上にわたしが疑問に思ったことに拘泥した訳なのではないかと思います。

その結果、手塚訳は、眺めやる彼、erを、トビアスとし、古井訳は、「若者が若者に」の「若者が」が、他方を眺めやると解釈したのだと思います。

何故リルケは、このように曖昧な文を括弧の中に置いたのでしょうか。この文は曖昧なのでしょうか。そうではなく、実はその意味は明瞭に曖昧なのではないでしょうか。わたしの考えは次のようなものです。この括弧も含めて、この一文を解釈する上で、er、彼が、の彼が誰なのかについては、論理的には、次の5つの場合があり得ると思います。


(1) トビアス
(2) 旅の若者の姿に身をやつした天使(実際には天使とはひとことも言ってはいないのですが)
(3) 「若者が若者に」の若者のいづれか
(4) トビアスの父親
(5) 詩の作者であるリルケ自身


(1) から(3)の場合については、詩中に出てくる人ですから、説明はいいと思います。

(4)の場合があり得るのは、トビアスの父親がふたりの道行きを、neugierig、ノイギーリッヒ、興味津々と見やることが、このトビアスの神話的なエピソードの中に話の要素として入っている場合であり、且つこの詩の作者と読者が、それをともに知っていて、一種の常識として共有している場合です。

リルケの当時のドイツ語圏では、そのような常識が共有されていたのでしょうか。もし仮にそうだとしても、時代が新しくなってゆくと、そのようなエピソードを必要とする意識も変わり、そうすると、この詩のこの箇所は理解されなくなるのではないでしょうか。リルケが心血注いで書いた悲歌に、時代という時間によって左右されるような言葉を書くとは思えません。また、詩の中にも名前が出てこないということから、この可能性はないと思います。

(5)はどうでしょうか。わたしは、充分あり得るのではないかと思います。勿論リルケは、一意的にこれがわたしだというふうに姿を詩中に現しているわけではありません。しかし、明瞭に曖昧に姿をみせているのではないでしょうか。天使の姿になって、戸口に立って。

更に、しかし、何故リルケは、敢てそのようなことをしたのでしょうか。

上で考察したように、リルケがこのような名詞的な表現をするときには、必ず若さ、青春、性愛が関係していました。リルケは、青春というものを、その性愛、青春のエネルギーとともに、永遠に変わらぬものとして、一幅の絵、ひとつの静止画像のように、詩の中におきたかったのだと思います。このような場合は、他の詩でも、いつもこのような表現形式を好んで使ったのではないでしょうか。

「天使と死者を語る前に」(2009621日)で、リルケが、Fruehe、フリューエという言葉が好きで、悲歌の中で愛用、多用しているということを述べました。そこで述べたように、リルケは、人生の早い時期に、きっと子供時代に、そうして従ってそのまま、若者としてある青春時代に、自分自身では、それらの時期を喪失した人間だと考えていたのだと思います。悲歌1番最後の連では、「早い時期、人生の早い時期(Fruehe)、揺籃期を動かされ、遠ざけられた人間、奪われた人間たち」と、若くして死せる若者をよんでいます。それが若くして死んでしまった人間であるとは限らないことについては、そこで論じた通りです。

(リルケは、このFruehe、フリューエという、この自分で概念化した言葉が好きなために、Fruehling、フリューリング、春、-場合によってはまさに青春-という言葉も好きで、それで悲歌の中によく出てくるのです。春は確かに早くくるものの原義です。従い、悲歌5番第6連にあるような、春夏秋冬を列挙するためだけには、Fruehling、フリューリングは使わずに、Lenz、レンツという春の別名を敢て使っているほどなのです。)

わたしは、この、Juengling dem Juengling、若者は若者に、という言葉の並列に、リルケの、自分自身にとってはあらかじめ喪われた、若さへの強い憧憬の念、強いあこがれを覚えます。そうして、その若さというものの姿、危険な旅路にこれからつこうという二人の姿を、その旅路の安寧を祈るとともに、そのような気持ちから、動詞を捨象して時間を排し、若さの姿を活き活きとそのまま動くことなく、永遠に言葉で表現したかったのだと思います。そのために、ここでは、説明的な括弧を使っているのです。

さて、そうであればこそ、neugierig、ノイギーリッヒ、興味津々という副詞の意味が明らかになるのではないでしょうか。トビアスは興味津々と外を見やるでしょうか。天使は興味津々と外を見やるでしょうか。誰が、一番ふさわしく、興味津々と、好奇心をもってみるのでしょうか。上述のことから、興味津々の思いで見るのは、実は、リルケ自身ではないでしょうか。そうして、また、天使が恐ろしい存在であると知っていることからなお、neugierig、ノイギーリッヒ、興味津々と、その旅の行方はいかならむ、と。

そうであればこそ、er、彼が、の彼が、トビアスであろうと天使であろうと、若者たちのいづれかであろうと(このふたりのうちのひとりは天使)、いづれでもよいのではないでしょうか。わかものふたりの像が典型としていつまでも、そのひとたちの前に、戸口に立って外を見やると、時間を越えて、あるならば。