2009年11月29日日曜日

オルフェウスへのソネット(I)(第2部)

I

ATMEN, du unsichtbares Gedicht!
Immerfort um das eigne
Sein rein eingetauschter Weltraum. Gegengewicht,
in dem ich mich rhythmisch ereigne.

Einzige Welle, deren
allmähliches Meer ich bin;
sparsamstes du von allen möglichen Meeren, —
Raumgewinn.

Wieviele von diesen Stellen der Räume waren schon
innen in mir. Manche Winde
sind wie mein Sohn.

Erkennst du mich, Luft, du, voll noch einst meiniger Orte?
Du, einmal glatte Rinde,
Rundung und Blatt meiner Worte.

【散文訳】

呼吸をせよ、お前、見えない詩よ。

いつも持続的に、独自のものを求めて、それと交換して息をするのだ。

その純粋な交換された世界空間。私が、韻律を以ってその中で生起する、

カウンターバランス。

唯一の波、その次第に波する海が、私である、そのような波。

お前は、あらゆる可能な海という海から、空間を獲得するために節約をし、空間を獲得したのだ。

数ある空間のこれらの場所のどれだけ多くの場所が、既に、私の内部にあった(存在した)ことか。幾多の風は、わが息子のように、ある(存在している)。

お前は、私を認識するのか、お前、空気よ、まだ嘗(かつ)ての、私の数ある場所で一杯の私を。お前、嘗てはすべらかだった、私の言葉の樹皮よ、私の言葉の円み、円熟と木の葉よ。

【解釈】

最初の一行に続く、2行目と3行目のつながりが、多分原文のテキストがそうなっているのだろうと思うけれども、少しドイツ語の正書法としておかしい。2行目の最後に文の終結を意味する点、句点がついていない。それから、正書法でゆくと「das Eigne」とEが大文字になると思われるのに、それがそうなっていない。

しかし、そうなっていると考えて、上のように訳しました。

呼吸をすることをリルケは、ここで歌ったように考えている。呼吸することは、何かとの交換であり、そのものが交換されて、呼吸するものの内部に入ってくるという考えです。この場合、その何かとは、ひとつの空間です。その空間が、私の内部に空間として存在する。リルケは、この空間の中で、リズミカルに、韻律を以って、詩を書き、歌うのだといっています。この空間は、カウンターバランスだと言っていますので、交換されて外へ出た、それまで内にあったものとバランスしているのだという考えです。交換されて外へ出るものは、呼吸の気、呼気なのだと思います。

悲歌8番の第3連に次の言葉があります。

Hier ist alles Abstand,
und dort wars Atem.

ここでは、すべてが距離だ、

そして、あそこには呼吸があった。

(あるいは、あそこでは、すべてが呼吸だった。)

この言葉から理解すると、呼吸とは親密な関係をつくっている行為だということがわかります。隣あっているものほど遠いということは、リルケが、悲歌とソネットのあちこちで歌っている通りですが、呼吸によって外のものと中のものを交換して、そとから独自のもの、独自の空間を内部に呼吸して入れるということは、距離をなくし、本質的に親密な関係を得ることなのです。

そばにいるひとと呼吸を交換すると親しくなる、距離がなくなるのに、わたしたちはそれをしていないのでしょうか。隣のひと、最もそばにいる人と呼吸を通じて何かを交換するというイメージは、こうして理解してみると、随分と生々しく、そのひとの呼気までも感じるように思います。これは、リルケの現実感覚なのでしょう。あるいは、現実感覚を得る考え方なのでしょう。これが恋人通しであれば、どうでしょうか。恋人同士は、お互いに呼吸を交換して親密になり、真の意思疎通をしているのでしょうか。悲歌では、それでも足りないと詩人は言っていましたが。これは、また別に稿を改めて論じなければなりません。悲歌を論じた最後に言いましたように、これは悲歌の登場人物関係論になるからです(「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009年8月15日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)。しかし、そのためのヒントを、わたしたちは、ここで掴んだようです。

また、同じ悲歌7番第8連に、呼吸ということから、次の言葉があります。ここにも、ソネットの第1部に何度も出てきた、ruehmen、リューメン、褒め称えるという言葉が使われています。詩人の仕事は、事物を、物事を荘厳することなのだとリルケは考えていたのだと思います。この言葉をここまでも熱心に概念化すると、日本語でいう荘厳するという概念と変わらないのではないかと思います。今までのソネットで褒め称えるとか、讃嘆すると訳してきた箇所も、荘厳すると訳し変えてもよいかも知れません。

mein Atem
reicht für die Rühmung nicht aus. So haben wir dem noch
nicht die Räume versäumt, diese gewährenden, diese
unseren Räume.

【散文訳】

わたしの呼吸は、褒め称えるためには、充分ではない。だからといって、わたしたちは、

呼吸に対して、まだ空間を疎かにしているわけではない。これらの与え、授ける空間を、これらの私達の数々の空間を。

この箇所は、前の連を受けて、天使に対して、人間の文明の偉業を述べて、人間の偉大を天使に肯(うべな)うように、求めるところなのですが、ここで、やはり呼吸が出てくるのです。そのような文明の偉業を、数々の高い列柱、スフィンクスといった人類の偉業を褒め称えるには、まだ内部の空間が足りないといっているのだということが、これでわかります。

上の引用のあとには、シャルトルの大聖堂だとか音楽のことが歌われていて、これらが私達を(わたしたちの境界を)踏み越えて行くと歌われているのは、ソネットと同じ主題、主調が、ここに流れているからでしょう。上で連想したように、呼吸を通じて中に入ってくる空間(空間の交換)と身近な呼吸ということから、愛する女性のことが、その次に、歌われています。これも興味深いことですが、後日の登場人物関係論に場所を譲りましょう。

さて、交換された世界空間を我が身のうちに収めて、オルフェウスは、その中でリズミカルに歌を歌い、竪琴を弾き、音楽を奏でる。第2連を読むと、リズムということ、韻律ということから、オルフェウスは、自らを海の波、それも唯一の波に譬えています。お前と呼びかけられているのは、第1連と同じ、目に見えない詩です。詩が生きていて、いや悲歌で見たように、正確に言えば、詩という空間が生きていて、やはりこうなると詩も呼吸をするのでしょう、可能な、あり得るすべての海という海から、節約をして空間を獲得するといっています。

3連で、「数ある空間のこれらの場所のどれだけ多くの場所」とオルフェウスは歌っていますが、空間も、場所も、リルケの類義語です。このリルケの表現が奇妙だと思われる方がいるかも知れませんが、これがリルケの世界です。リルケの空間論の一般論については、「リルケの空間論(一般論)」(2009718日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/07/blog-post_3081.html)で論じましたので、興味のある方は、ご覧戴けると、うれしく存じます。

何か、リルケは、この第2部の最初のソネットでは、自分の詩論の元へともう一度立ち戻ったような感じがあります。

風は、空気、空間、呼吸の類義語ですから、これもリルケの世界にはなじみの言葉です。風はわが息子のようだと歌っている。息子のようにいとおしみ、息子は成長するからなのでしょう。空間との関係もまた同様なのだと考えることができます。

最後の連は、空気に呼びかけていますが、これは、前の連の風からの連想です。あるいは、この空気を、第1連の、見えない詩の言い換えと理解することもできます。この最後の連の第1行の解釈には、論理的には、次のふたつがあります。

1.「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」を、「私を」に掛ける解釈

2.「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」を、「空気」に掛ける解釈

このふたつです。

しかし形式ではなく、その意味を考えると、前者の解釈になると思います。「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」私を、お前、空気は、認識しているか?という解釈です。

リルケは、珍しいことに、ここで認識という言葉を使っています。悲歌では2度、最初は悲歌3番第1連第3行に、次に悲歌7番第5連最後の行に。

空気は、かつては滑らかな樹皮だった。何だか宮沢賢治の春と修羅の序文の詩を連想します。リルケも同じ感覚を持っているのでしょう。他のところでも、この感覚を、リルケは歌っています。しかし、上で空間との関係で見てきたように、リルケはリルケの感じ方と考え方があって、このように書くには独自の首尾一貫性があります。空気、すなわち空間は、かつてはすべらかな、オルフェウスの言葉の樹皮であり、その円みであり(これに円熟という意味もリルケは掛けているとも思います)、またその葉っぱである。

樹皮も、円みも、葉っぱも、いづれも「わたしの言葉の」が掛かっていると解釈することができるので、そう解釈すると、この「わたしの言葉の」ということから、言葉で歌を歌いながら変身を続けるオルフェウスのこころが伝わって来るようです。

これは、リルケの詩心でもあるのでしょう。リルケにとっては、言葉もまた空間であるからです。もっと正確に言えば、リルケにとっては、言葉の概念もまた空間であるからです。

オルフェウスへのソネット(XXVI)

XXVI

Du aber, Göttlicher, du, bis zuletzt noch Ertöner,
da ihn der Schwarm der verschmähten Mänaden befiel,
hast ihr Geschrei übertönt mit Ordnung, du Schöner,
aus den Zerstörenden stieg dein erbauendes Spiel.

Keine war da, daß sie Haupt dir und Leier zerstör.
Wie sie auch rangen und rasten, und alle die scharfen
Steine, die sie nach deinem Herzen warfen,
wurden zu Sanftem an dir und begabt mit Gehör.

Schließlich zerschlugen sie dich, von der Rache gehetzt,
während dein Klang noch in Löwen und Felsen verweilte
und in den Bäumen und Vögeln. Dort singst du noch jetzt.

O du verlorener Gott! Du unendliche Spur!
Nur weil dich reißend zuletzt die Feindschaft verteilte,
sind wir die Hörenden jetzt und ein Mund der Natur.

【散文訳】

お前、しかし、神々しき者、お前、最後まで依然として音を響かす者よ、

拒絶されたバッカスの巫女の群れと熱狂が、お前を襲撃したので、

巫女たちの叫び声は、秩序を以って、耳を聾するばかりに聞こえた、お前、美しき者よ、

破壊する者たちの中から、お前の慰め建立する演奏が、立ち昇った。

お前の頭(こうべ)と竪琴を破壊することのできるバッカスの巫女は誰もいなかった。

巫女たちが、どんなに激しく戦い、怒り狂って暴れ廻ったか、そして、お前の心臓に投げつけた石が、お前のところに来ると柔らかなものになり、そうして、聴覚が授けられた。

ついに、巫女たちはお前を叩き壊してしまった、復讐心に駆られて、その間、お前の響きは、獅子の中、巌の中に、まだ留まっていたし、木々や鳥たちの中にも、鳴り響いていた。そこで、お前はまだ今も歌っている。

ああ、お前、喪われた神よ。お前、果てしない痕跡よ。

ついには敵意がお前を引き裂いて分割したという、ただそれだけの理由で、わたしたちは、今や聴く者であり、そして自然の口であるのだ。

【解釈】

オルフェウスが殺される場面を歌ったソネット。第1部の最後のソネットです。第2部は、死んだ後のオルフェウスが登場します。

さて、「巫女たちの叫び声は、秩序を以って、耳を聾するばかりに聞こえた」の「秩序を以って」というのは、殺されるのがオルフェウスだから。オルフェウスは、このようなときにあっても、その本性から美しい秩序を生み出す。

神的な若者が、自らの死を犠牲にして、その無私の行為から、全くあらたな世界の生命となるという主題、主調は、悲歌と同じ(特に1番の最後の連)であり、オルフェウスへのソネットでも同じです。これは、すでにこれまで論じて来た通りです。

「お前の頭(こうべ)と竪琴を破壊することのできるバッカスの巫女は誰もいなかった。」とあるので、オルフェウスの首と竪琴は、破壊されずに、残ったのでしょう。残酷な形象でもありますが、またそれゆえの美的な感覚がないとは言えません。

このソネットを読んで、呼びかける言葉に、わたしはリルケの感情が相当入っているように感じます。恰もオルフェウスがリルケ自身であるかのように感じます。そうだとすると、

リルケは詩人で、読者たるわたしたちは、「聴く者であり、自然の口」だという関係になるでしょう。

口ということから、わたしは、第2部XVの泉の口を歌ったソネットを連想しますが、それは、オルフェウスの死後のソネットの展開となるのでしょう。

第2部では、どのような展開のソネットが待っているのでしょうか。

2009年11月28日土曜日

オルフェウスへのソネット(XXV)

XXV

Dich aber will ich nun, Dich, die ich kannte
wie eine Blume, von der ich den Namen nicht weiß,
noch ein Mal erinnern und ihnen zeigen, Entwandte,
schöne Gespielin des unüberwindlichen Schrei's.

Tänzerin erst, die plötzlich, den Körper voll Zögern,
anhielt, als goß man ihr Jungsein in Erz;
trauernd und lauschend —. Da, von den hohen Vermögern
fiel ihr Musik in das veränderte Herz.

Nah war die Krankheit. Schon von den Schatten bemächtigt,
drängte verdunkelt das Blut, doch, wie flüchtig verdächtigt,
trieb es in seinen natürlichen Frühling hervor.

Wieder und wieder, von Dunkel und Sturz unterbrochen,
glänzte es irdisch. Bis es nach schrecklichem Pochen
trat in das trostlos offene Tor.

【散文訳】

お前に、しかし、わたしは、今こうして、お前に、わたしが知った、名前を知らない花のようなお前に、もう一度だけ、思い出させて、そうして、彼らに示してやりたい、盗まれた者、克服できない、克服とは無関係の叫びの美しい遊び友達よ。

まづ最初に踊り子、突然、全身を震わせている体を、恰もその若いという存在を鉱石の中に注ぎ込むかの如くに、そのままの状態で止めている踊り子。嘆き悲しみながら、聞き耳を立てながら。ほら、そこで、高い、高貴な能力のあるものたちから、彼女の音楽が、その変えられた心臓の中へと落ちた。

病気がそばにいたのだ。既に影によって領されていて、暗くなって、血が、押し寄せたが、しかし、束の間疑わしく思われたかのように、血は、その自然の春の中へと表に押し進んで出てきたのだ。

何度も何度も、闇と墜落によって中断されながら、その血は、地上で輝いた。驚愕の心音の後、その血が、慰め無く開かれた門の中へと歩み入るまで。

【解釈】

リルケ自身の註釈によれば、このソネットは、Weraという女性、若くして亡くなった、友人の娘、若い踊り子に捧げられています。

リルケは、若い女性をいつも花に譬える。そうして、例外なく、その心理上の原因によって、名詞句をつくる。女性や花に、重層的に、そういう意味では花びらのように、花そのもののように、従属文を幾つも掛けて、動詞の無い、名詞句を構成するのだ。この顕著な傾向は、第2部のソネットで、女性と花を歌ったソネットにも、もっと見ることができる。

冒頭の「お前に」に、関係文がかかり、比喩である花という言葉にまた、関係文がかかっている。リルケは、そうしないと、女性と花について書くこと、歌うことができないのだ。

それが、何故なのかについては、「リルケの青春と謎の一行」(2009年7月18日)(http://shibunraku.blogspot.com/2009/07/blog-post_18.html)で、悲歌でも同様の現象が典型的に、意図的に現れているので、そこで論じましたので、ご興味のある方は、お読み戴けると、うれしく存じます。

「お前に」という言葉が重くなっていて、その谷間に一人称が埋もれてしまいそうな感じがします。性愛を意識すると、リルケは、止めどなく我を喪うのだろう。そうして、文を書くことができなくなる。

第2連の最初の行も、踊り子という名詞だけで、それに関係文が掛かっているという、同じ構造をとっています。

第2連のErz、エルツ、鉱石は、豊かな、しかし沈黙と一緒に出てきたのではないか。そこから何か生産的な、しかし静かなものが生まれるものとして。今そう思う箇所を見つけることができないので、この段落は備忘に留まる。

第2連の「その変えられた心臓」とは、普通の状態ではない心臓のことなのでしょう。

第3連を読むと、一時病状は恢復に向かったように見えたことがあったのでしょう。しかし、やはりいけなかった。

オルフェウスへのソネット(XXIV)

XXIV

SOLLEN wir unsere uralte Freundschaft, die großen
niemals werbenden Götter, weil sie der harte
Stahl, den wir streng erzogen, nicht kennt, verstoßen
oder sie plötzlich suchen auf einer Karte?

Diese gewaltigen Freunde, die uns die Toten
nehmen, rühren nirgends an unsere Räder.
Unsere Gastmähler haben wir weit —, unsere Bäder,
fortgerückt, und ihre uns lang schon zu langsamen Boten

überholen wir immer. Einsamer nun auf einander
ganz angewiesen, ohne einander zu kennen,
führen wir nicht mehr die Pfade als schöne Mäander,

sondern als Grade. Nur noch in Dampfkesseln brennen
die einstigen Feuer und heben die Hämmer, die immer
größern. Wir aber nehmen an Kraft ab, wie Schwimmer.

【散文訳】

偉大なる、決して求めることのない神々よ、わたしたちは、わたしたちの太古からの友情を、わたしたちが厳しく育てた鉄鋼がその友情を知らないからという理由で、斥(しりぞ)けてよいものでしょうか、それとも、わたしたちは、その友情を、突然に、何の脈絡もなく、地図の上に探せばよいものなのでしょうか。

わたしたちから死者たちを奪い取る、この権力ある、強力なる友人たちは、わたしたちの運命の車輪には、どこにも触れないのです。わたしたちの饗宴を、わたしたちは遥かなところで開きます。わたしたちの沐浴もまた、わたしたちは、先へと押しやられて、遥かなところで沐浴をします。そして、われわれの友人の、わたしたちにとっては既にゆっくりとし過ぎている使いの使者たちを、わたしたちは、いつも追い越すのです。こうして、お互いを知らないのに、より孤独に、お互いにまったく頼り切って、わたしたちは、もはや美しいつづら折りの道を行くのではなく、

階級、位階の道を行くのです。かろうじて、ボイラーには、昔の、また将来の火が燃えているし、いつも大きくするハンマーは、引き上げ、起こしている。わたしたちは、しかし、スイマー、泳ぐ者のように、段々と力を失って行く。

【解釈】

19世紀末、20世紀初頭の現代文明と、人間が太古から大切にしてきた神々との友情の関係を、最初の連で問うている。20世紀にも神々との関係はあるべきだし、あると、リルケは言っている。

2連目で、その神々との関係を歌っている。

2連目の「美しいつづら折りの道」と訳したところは、小アジアのメアンダーというな名前の、そのような様子をした河の名前が挙げられていて、リルケのいう神々も、キリスト教徒の世界からみれば、異教的であると言えましょう。詩人の想像力の世界です。

神々の使者たちよりも、わたしたちの方が急いでいて、いつも追い抜いていると言っている。それが現代の社会のわたしたちだといっているのでしょう。そうして、神々の使者たちよりも先にいってしまっていて、人間同士を頼りにする以外にはなくなり、さらに、社会の階級にとらわれてしまって、リルケが思い描いているような、自由な社会と人間の関係ではなくなってしまっている。神々の使者たちは、遅く、まだ、わたしたちのその時間、その場所に到達していないのです。そうやって、生きていかねばならない。わたしたちの生活は、それほど急(せ)わしない。

ここは、第1部XIの騎士ふたりのソネットと関係があることでしょう。騎士たちも、修業のために同じ道を旅しているのに、そのこころが離れ離れであるか、その危険があるのでした。そうして、どこかの城で、日本流にいうならば、草鞋を脱ぐたびに、饗宴の場所で差別され、区別されて、namenlos、ナーメンロース、無名に、ふたりは、なるのでした。食卓は社会の秩序の象徴なのです。リルケは、この無名であることに意義を認めていますので、それは、人間が過酷な現実に堪える姿と理解することができるでしょう。

人間の人智を超えたものとの関係を考えることなく、ただ与えられた階級の形式の力を頼りに、その分だけ一層孤独になって、物理的な距離としては寄り合って、何かをなしていると思っている現代人たちの姿。

第3連の火は、人間が求める根源の火であるかどうか。わたしたちは、力を失うのですから、わたしたちとは無関係の力、わたしたちを益することのない、あるいは逆の力だといっているのでしょう。

オルフェウスへのソネット(XXIII)

XXIII

O ERST dann, wenn der Flug
nicht mehr um seinetwillen
wird in die Himmelstillen
steigen, sich selber genug,

um in lichten Profilen,
als das Gerät, das gelang,
Liebling der Winde zu spielen,
sicher, schwenkend und schlank,

erst, wenn ein reines Wohin
wachsender Apparate
Knabenstolz überwiegt,

wird, überstürzt von Gewinn,
jener den Fernen Genahte
sein, was er einsam erfliegt.

このソネットは、前のソネットの速度と飛行の試みから、飛行機が歌われている。飛行機も詩になるのだ。

【散文訳】

飛行というものが、もはや自分のためではなく、天の静けさの中へと

昇って行くのであれば、そうして、それが、明るい横顔を様々にみせながら、

風の好きな遊びをすることに成功した器具として、しっかりと、揺れながら、

みめかたちよく遊ぶためであるならば、そうなって、ああ、初めて、

成長する器具たちのひとつの純粋な方向、彼方へ行くことが、少年の名誉心を凌駕するならば、そのとき初めて、

そうやって得るものに驚いて慌てて、遠い距離に近いあの者は、自分が孤独に飛行して到達して得るものになる。

【解釈】

少年の名誉心を凌駕する、とは、少年が飛行機に魅了される様を言っているのでしょう。我を忘れて、飛行に見入ってしまい、魅入られる少年。

「遠い距離に近い」というリルケの発想は、いつもの言葉。既に何度も論じてきた通り、一番そばにいるものほど遠いところにいるというのがリルケの詩想でした。それを克服するために何をしなければならないか。オルフェウスの変身は、そのためでもありました。

「遠い距離に近いあの者」とは、オルフェウスととっても良いし、それ以外の、ここで歌われている心性のひとなら誰でもと理解してよいのではないでしょうか。

オルフェウスへのソネット(XXII)

XXII

Wir sind die Treibenden.
Aber den Schritt der Zeit,
nehmt ihn als Kleinigkeit
im immer Bleibenden.

Alles das Eilende
wird schon vorüber sein;
denn das Verweilende
erst weiht uns ein.

Knaben, o werft den Mut
nicht in die Schnelligkeit,
nicht in den Flugversuch.

Alles ist ausgeruht:
Dunkel und Helligkeit,
Blume und Buch.

今度は、前のソネットとは打って変わって、言ってみれば、大人の世界。リルケの連想は反転する。

【散文訳】

わたしたちは、何かを追い立てる者、急(せ)き立てる者だ。

しかし、時間の前進を、小さい取るに足らぬこととして

いつも留まっているものの中で捉えなさい。

すべて急ぐものは、必ず既に過ぎ去ったものとなる。

何故ならば、留まるものは、まづ最初にわたしたちを

祓い清め、神聖にするからだ。

少年たちよ、ああ、勇気を

速度の中に、空を飛ぶ試みの中に

投げ入れてはならない

すべては、休息しているのだ。すなわち、

闇と明るさ

華と本

【解釈】

悲歌5番の冒頭の第1行に見るような、何々するものという言い方をして、わたしたちを定義した、これが冒頭の第1行。

近代文明は、リルケの嘆いた方向へとますます進展してきた。交通機関も発達し、わたしたちは超音速の飛行機を飛ばしてしまって、世の中はますます忙しくなり、急きたてられて、また急きたてている人間たちよ。

しかし、宇宙は、もともと、そのバランス、均衡を考えれば、休息しているものなのだ。

闇と明るさ

といったように対照的に。

華と本

といったように、ネスト構造、入籠(いれこ)構造で、安定して。

華の最たるものを、リルケは薔薇の花に見ていたことは、既に悲歌でも見た通りです。その薔薇がどのような構造を象徴しているとリルケは見たか、それは、リルケの空間論で論じたところでした。興味ある方は、次のURLアドレスへ。ご覧いただけるとうれしく思います。

http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html

オルフェウスへのソネット(XXI)

XXI

FRÜHLING ist wiedergekommen. Die Erde
ist wie ein Kind, das Gedichte weiß;
viele, o viele.... Für die Beschwerde
langen Lernens bekommt sie den Preis.

Streng war ihr Lehrer. Wir mochten das Weiße
an dem Barte des alten Manns.
Nun, wie das Grüne, das Blaue heiße,
dürfen wir fragen: sie kanns, sie kanns!

Erde, die frei hat, du glückliche, spiele
nun mit den Kindern. Wir wollen dich fangen,
fröhliche Erde. Dem Frohsten gelingts.

O, was der Lehrer sie lehrte, das Viele,
und was gedruckt steht in Wurzeln und langen
schwierigen Stämmen: sie singts, sie singts !

前のソネットが、ロシアでの思い出だったので、ロシアということから、その厳寒の冬、そうして、歓喜の春を想起したのでしょうか。

【散文訳】

春がまたやって来た。大地は、

色々な詩を知っている子供のようだ。それというのも、

こんなにたくさん、ああ、こんなにたくさんの詩を知っているのだ….

長い間学んだことの、その労苦に対して、大地はご褒美を貰う。

大地の先生は厳しかった。わたしたちは、老人の髭(ひげ)にある

白いものが好きだった。

さて、こうしたわけで、今や、わたしたちは、緑のものの名前を、青いものの名前を

質問することができる(ゆるされる)。すなわち、大地は質問ができる、

大地は質問ができるよ。

自由を得た大地よ、お前、幸せな者よ、さて冬も過ぎたのだから、

子供たちと遊べよ。わたしたちは、お前を捕まえたいよ、歓びの大地よ。

最も歓ぶ者に、それがうまく行くよ。

ああ、あの先生が大地に教えたもの、すなわち、数多きもの、そして

根っこの中と、長い難しい幹の中に、捺染(なつせん)されてあるものを、

大地は、それを歌う、大地はそれを歌うよ。

【解釈】

春のよろこびを歌ったソネット。春と子供。これから大きくなる最初の季節ということで、似ているのでしょう。

長い冬が終わって、先生である白い髭の老人のもとでの修業も終わりを告げる。長い冬は厳しかった、先生は、厳しく寒かった。しかし、今や春である。

リルケは教えることと学ぶことに関心があたっと見える。それは、第1部ソネットVIII第3連第2行に学ぶことが、第2部ソネットXIV第2連第3行に教えることが出てくるので、そうと察せられる。前者は、泉の妖精(末娘)の話し。後者は、先生としてでてくる。もっとも、後者の先生は、これもやはり厳しい先生で、リルケは、先生というものにそのようなイメージを持っているのだと察せられる。

春と詩と子供。詩は、様々な色のものを歌うということが暗に言われている。最後の連を読むと、どうやら、先生、冬の教えるものも、数多くのものであるようだ。春はそれを開花させる。

長い冬に耐えて来た、木の根っこや幹の中にある色柄をも、大地は歌う。地上に出ている幹ばかりではなく、地下にあるものをも歌うことで、既に最後の連では、また死、すなわち冬を暗示しているのか。

しかし、全体の調子は、とても明るい。文字通りに、子供のような歓びの気持ちになるソネットだ。

リルケは、春が好きだなあと思われる。悲歌に歌われた春にも、そう思った。

オルフェウスへのソネット(XX)

XX

DIR aber, Herr, o was weih ich dir, sag,
der das Ohr den Geschöpfen gelehrt? —
Mein Erinnern an einen Frühlingstag,
seinen Abend, in Rußland —, ein Pferd...

Herüber vom Dorf kam der Schimmel allein,
an der vorderen Fessel den Pflock,
um die Nacht auf den Wiesen allein zu sein;
wie schlug seiner Mähne Gelock

an den Hals im Takte des Übermuts,
bei dem grob gehemmten Galopp.
Wie sprangen die Quellen des Rossebluts!

Der fühlte die Weiten, und ob!
Der sang und der hörte —, dein Sagenkreis
war in ihm geschlossen. Sein Bild: ich weih's.

前のソネット全体の主題を受けて、しかし、といって、このソネットは始まる。呼びかける相手は、神。前のソネットの最後の2行を直接には受けているのでしょう。

【散文訳】

しかし、お前、神よ、ああ、わたしはお前の御許(みもと)で言祝(ことほ)ぎ、浄(きよ)める、そう、被造物に耳を教えたお前よ。ある春の日の、わたしの思い出、その夕べ、ロシアで、1頭の馬が….

村からこちらへと、その白馬が、1頭だけ、やってきた。

体の前にある枷(かせ)の木杭に身を打ちつけながら

その夜を草原でひとりでいるために。

どんなに、その鬣(たてがみ)の縮ぢれた髪が、酷(ひど)く阻(はば)まれて疾駆しながらも、それに負けずに、奔放不羈の拍子をとって、首を打っていたか。どんなに馬の血の数々の源が、跳ねていたことか。

その馬は、遥かな距離を感じていた、勿論、そうだ。

馬は、歌い、そして、耳傾けた ― お前の伝説の環は、

この馬の中で閉じていたのだ。この馬の像、それをわたしは

言祝ぎ、浄(きよ)める。

【解釈】

リルケがロシアを訪れたときの、思い出を歌ったものだろう。

身につけた枷を前にしながら、猛々しく走る白馬の様子を見て、リルケは、このようなことを思ったのだ。この馬の姿、像は、果てしない距離を思う人間やその他の生物の姿のようだ。

オルフェウスの歌と竪琴は、そのような生物のこころを慰め、従わしめる。

最初の「お前」は神だが、最後の「お前」は、「伝説の環」とあるので、オルフェウスだと思う。

こうしてみると、話者は、リルケ自身が顔を出したと読むこともできる。

2009年11月22日日曜日

オルフェウスへのソネット(XIX)

XIX

WANDELT sich rasch auch die Welt
wie Wolkengestalten,
alles Vollendete fällt
heim zum Uralten.

Über dem Wandel und Gang,
weiter und freier,
währt noch dein Vor-Gesang,
Gott mit der Leier.

Nicht sind die Leiden erkannt,
nicht ist die Liebe gelernt,
und was im Tod uns entfernt,

ist nicht entschleiert.
Einzig das Lied überm Land
heiligt und feiert.

【散文訳】

世界は素早く変化する

雲の姿のように

すべて完成したものは

ふるさとへ、太古へと落ちる

逍遥と歩みについては

もっと遥かに、そしてもっと自由に

まだ、お前の序の歌が続いているよ、

竪琴を抱いた神よ。

苦しみは、ひとに認識されないし、

愛は、学ばれないものだし、

そして、私たちを死の中で遠ざけるものは、

そのヴェールをとって本当の姿をあらわされることはないのだ。

国、土地の上にある歌だけが、唯一、荘厳し、そして祝うのだ。

【解釈】

まだ、序の歌が続いているという「まだ」とは、オルフェウスが引き裂かれて殺されたあともなお、まだという意味だ。序の歌と何故リルケは歌ったのだろうか。それは、まだまだ、その先の本歌が歌われるまで、その持続を言いたいからだろう。

1連のfallen、ファレン、落ちるという動詞は、リルケの美しい言葉だ。太古とは訳したが、そうして言葉としては確かにそうだが、しかし、時系列で遡っての太古という意味ではない。その前にふるさとへとあるように、原初の状態を言っているのだと思う。

完成したものはすべて、原初の状態へ落ちるとは、その循環を言っていると解釈することができる。循環と言う言葉を、リルケは、ひとことも使ってはいないけれども。これもリルケのヴィジョンのひとつの性格を示していると思う。

オルフェウスの死後も、こうしてオルフェウスの歌声は絶えることなく、響いている。

オルフェウスへのソネット(XVIII)

XVIII

HÖRST du das Neue, Herr,
dröhnen und beben?
Kommen Verkündiger,
die es erheben.

Zwar ist kein Hören heil
in dem Durchtobtsein,
doch der Maschinenteil
will jetzt gelobt sein.

Sieh, die Maschine:
wie sie sich wälzt und rächt
und uns entstellt und schwächt.

Hat sie aus uns auch Kraft,
sie, ohne Leidenschaft,
treibe und diene.

【散文訳】

主よ、聞こえますか、新奇のものが

鳴り響き、振動している音が。

それを高く掲げる告知者たちがやって来ます。

荒れ狂い、暴れま廻られた状態に置かれる中では、いくら聞いても、

完全ではなく、無傷ではなく、健全ではないのだが、

しかし、機械の部分は、今や、褒められたいと思っているのだ。

ごらんなさい、機械を。

どのように機械が雪崩を打って進み、そして復讐して、

そして、わたしたちを不具にして、そして衰弱させるかを。

機械が、わたしたちの中からも力を奪うならば、

機械という奴は、情熱もないくせに、駆り立て、奉仕する(役に立つ)のだろう。

【解釈】

機械文明への批判のソネットだ。

なによりも、騒音を問題としている。リルケの主人公、オルフェウスは、聴覚の世界の住人だからだ。また、その声と演奏を聴くものたちも。

このソネットは、現代でも、そのまま生きている。

リルケは、詩を書いていて、このとき、その場所で、騒音を聞いていた筈はないと思う。静かな小さな村にいたのではないか。パリにいたときの、過去の思い出から引用したのだろうか。

一人でいても、世界のことを考えていたということなのでしょう。

オルフェウスへのソネット(XVII)

XVII

Zu unterst der Alte, verworrn,
all der Erbauten
Wurzel, verborgener Born,
den sie nie schauten.

Sturmhelm und Jägerhorn,
Spruch von Ergrauten,
Männer im Bruderzorn,
Frauen wie Lauten...

Drängender Zweig an Zweig,
nirgends ein freier....
Einer! O steig... o steig...

Aber sie brechen noch.
Dieser erst oben doch
biegt sich zur Leier.

【散文訳】

一番下のところには、老人がいる、惑乱して、途方に暮れて

それから、栽培して収穫された者たちすべての根、

その者たちの決してみたことのない隠れた泉

突撃のための兜と、狩猟の角笛、

髪が白くなった者たちの箴言、

兄弟の間で起こる怒りの中にいる男達、

ラウテという(マンドリンに似た弦楽器)のような女達….

押し迫る枝また枝

どこにも自由な者はいない….

ひとりだけ、そういう者がいる、おお、昇って行く、昇って行く….

しかし、それらのものは、まだ砕けている。

その男は、やっと、なんとか上に昇って、

竪琴の響きに合わせて身を撓(たわ)めている。

【解釈】

このソネットは、言葉の数も少なく、表現も淡々としている。一寸、調子に変化がある。

実は、その次のソネットXVIIIも、同じ趣きがある。この調子は、更にその次のソネットXIXまで続いている。

さて、このソネットは、上に訳したように、それをそのまま受け取る以外にはないと思う。

後半をみると、やはりひとりの男が上昇して、成長していく様が歌われている。これは、オルフェスだろう。オルフェウスが、高いところで、竪琴を弾きながら、その音色に合わせて、身を曲げ、撓めている。

その後半に対して、最初の連は、地下の世界を歌っている。地下の世界は、死者の住む世界であったが、老人は、その近しい仲間だということだろうか。何故、途方に暮れているのかは、わからない。この老人はだれだろう。

中の連では、天と地の間の、この地上の情景を歌っている。

最後の連の第1行の「それらのもの」が何を指すのか、はっきりしない。第1連と第2連にあげられたものたちと考えることは、できる。しかし、それらがbrechen、砕けるとは、どういうことなのかという問いは残る。垂直に成長せずに、途中で折れてしまうということなのか、そのように理解することはできる。

オルフェウスへのソネット(XVI)(2)

このソネットには、リルケ自身による註釈があります。

それは、次のようなものです:

このソネットは、一匹の犬に向けられたものです。「わたしの主人の手」というところに、オルフェウスへの関係が出来ていて、オルフェウスは、今度は、詩人(リルケ)の主人というわけです。詩人は、この手を誘って、その手も、詩人の限りない関与と献身のためにその犬を祝福するのですが、犬は、ほとんどエサウ(モーゼ27、ヤコブ1を読んでください)のように、自分自身には帰属しない相続というこころの中では、自分の毛皮を実際ただ身に纏っただけなのです。すなわち、全く人間的なものに、苦難と幸福を以って預かるということなのです。

リルケの冒頭いっている「わたしの主人の手」というところに、読んでいて異質なものを感じた。何故ならば、わたしのという所有代名詞が、ドイツ語では斜字体になっているからです。

この冒頭の一文を読むと、リルケは、ソネットXIVに出てくる主人、Herr、ヘアという言葉と同様に、掛け言葉をして遊んでいることがわかります。

このソネットXVIでは、わたしは、主人のほかには、神にかけました。

この註釈を読むと、リルケは犬が本当に好きなんだなと思います。


また、悲歌8番は、動物のことで始まります。そこにある通り、動物は開かれた存在だからなのでしょう。人間との対照で、そう歌われている。犬も動物ですから、やはり開かれていることでしょう。

2009年11月21日土曜日

オルフェウスへのソネット(XVI)

XVI

Du, mein Freund, bist einsam, weil....
Wir machen mit Worten und Fingerzeigen
uns allmählich die Welt zu eigen,
vielleicht ihren schwächsten, gefährlichsten Teil.

Wer zeigt mit Fingern auf einen Geruch? —
Doch von den Kräften, die uns bedrohten,
fühlst du viele... Du kennst die Toten,
und du erschrickst vor dem Zauberspruch.

Sieh, nun heißt es zusammen ertragen
Stückwerk und Teile, als sei es das Ganze.
Dir helfen, wird schwer sein. Vor allem: pflanze

mich nicht in dein Herz. Ich wüchse zu schnell.
Doch meines Herrn Hand will ich führen und sagen:
Hier. Das ist Esau in seinem Fell.

このソネットは、死んだオルフェウスの声が歌っている。話者が、死者としてのオルフェウスになっている。

【散文訳】

お前、我が友よ、お前は孤独だ、何故ならば…..

わたしたちは、少しづつ、言葉と指の仕草で、世界を自分たちの

ものにし過ぎるのだ。ひよっとしたら、世界の一番弱く、危険な

部分、部位を、そうやって、自分のものにし過ぎるのだ。

だれが指を使って、臭いのことを示すだろうか(指し示すそんなひとはいない)。

しかし、わたしたちを脅かす(複数の)力のうち、そうではない(複数の)力を

お前は感ずる….. お前は、死者たちを知っている、そうして、魔法の呪文の力に

驚いて息を呑むのだ。

見よ、こういうわけで、寄せ集めたものと部分ばかりであっても、恰もそれが全体であるかの如くに、それらを一緒に堪えることを意味することになるのだ。お前を助けること、力を貸すことは、重たいことになるだろう。特に、なによりも、わたしをお前のこころの中へと植えないでくれ。そんなことをすれば、わたしは、余りに速く育ってしまうだろうから。

しかし、わたしの主人(神)の手を引いて、わたしはこういいたいのだ。ご覧ください、これです、これが、自分自身の所有になる毛皮の中にいるエサウなのです、と。

【解釈】

このソネットの話者は、いつもの話者ではなく、オルフェウス、死んだオルフェウスだと思う。そのオルフェウスが、お前と呼びかけている相手は、第1行でわかる通り、孤独な人間だ。

リルケは、このソネットで初めて、einsam、アインザーム、孤独であるという言葉を、ここで使っている。リルケは、この言葉を、ソネットの中では、全部で4回使っている。これは、その最初の孤独。これから、わたしもこの言葉を使って解釈をすることができる。

散文は、人間と社会と直面するのに、詩はそうではない。詩は世界にいきなり直面する。わたしは、若いときに、あるドイツ人に、お前はこれからどうするのだと問われて、わたしはこれから世の中に出てゆくのだと答えたときに、die Welt、ヴェルト、世界の中へといって、笑われたことがある。今ならば、die Gesellschaft、ゲゼルシャフト、社会の中へといって、笑われることもなかっただろう。

しかし、リルケにも、同様に、die Gesellschaft、ディ・ゲゼルシャフトではなく、ディ・ヴェルトが問題なのだ。この言葉で、人間、社会、宇宙の全てを考えるのだ。

さて、世界の最も弱く、危険な部分、危険な部位とは、一体なんであろうか。これは、今までのソネットを読み、また悲歌を読んだ経験を併せて考えると、傍に、物理的に近い親しい距離に、そのひとがいるだけで、その人間とコミュニケーションが出来ている、意思疎通が立派にできているという考えが、一番脆弱で、危険な部分だといっているのだと思う。リルケは、そうではないと考えている。近いものほど遠いと何度も歌っているから。

1部のソネットIVの第1連に歌われている風のように、分かれても絶えずひとつになっている、一体になっている、そのような風や息や空間では、わたしたち人間は、ありません。また第1部ソネットXIに出てくるふたりの騎士たちのように、同じ道を歩んでいても、一緒になることは、むつかしい。勿論星座となって、ひとつのFigur、フィグア、姿に、すなわちenity、エンティティ、実体、存在になったときには、別ですけれども。

あるいは、悲歌4番の冒頭に出てくる鳥たちの編隊の箇所。人間たちとは違い、いつも一体になって空間を飛ぶ鳥たち。人間は、そうではない。と、歌われている。数え上げると幾つもあることでしょう。

そのようなことが第1連で歌われて、次の第2連は、一体なにを言っているのでしょうか。

指で指し示してというのは、第1連にある指で、お互いのコミュニケーションをとる手段として表情を持つ指とその使い方のことを言っています。そうして、指し示すのが、臭いなのです。これが、リルケの特色あるところだと思います。ここを読んで、わたしは悲歌2番第3連の次の箇所を思い出しました。それは、天使の特徴を列挙した第2連の後に続く、次の、最初の行です。

Denn wir, wo wir fühlen, verflüchtigen; ach wir
atmen uns aus und dahin; von Holzglut zu Holzglut
geben wir schwächern Geruch. Da sagt uns wohl einer:

何故ならば、わたしたちは、感じるところでは、発散し、揮発するからだ。ああ、わたしたちは、わたしたちを呼吸して吐きだし、彼方へ行ってしまう。熾(お)き火から熾き火へと、息を吹きかけて火をおこす度に、わたしたちは、段々と弱い臭いを放つ。そこで、あるひとがきっと、わたしたちにこう言うのだ。

2部ソネットXIVの第2連最初の一行に、

Alles will schweben.

すべては、宙に浮かびたいと思っている。

という一行があります。このソネットの第2連で歌われている話者の思いは、リルケが物に対して思っていることを実感を以って歌ったのだと思いますが、そのことは、そのソネットで論ずるとして、リルケがこのような感じ、思っていたということは、その通りなのだと思います。

上に引いた悲歌からの引用にある通りにリルケは考えていたと理解する以外にはありません。どんなに奇妙に見えても、これがリルケの思想なのです。普通ならば、人間は段々と歳をとって死んでいくと散文的に言うところは、決してそうは言わないのです。

今読んでいるソネットで、指を指して示す臭いという臭いは、このような不思議な臭いだと思います。だれも、そんな臭いを指で指し示してはくれません。だれが指を使って、臭いのことを示すだろうか、という疑問文は、従い、反語的な疑問文だと思います。自分たちの力を奪ってゆく、そのような力の結果である、弱ってゆく臭いだとは、だれも思わない。

だから、しかし、と続けて、色々な力があるが、それはわたしたちを脅かすだけではないのだと歌われています。そうではない力がたくさんあって、その力のひとつが、死者たちの持つ力なのだというのです。死者は、この連を読むと、魔法や魔術を使う力を持っているのでしょう。孤独な者は、それに驚いて息を呑みます。

何故孤独な者が驚くのでしょうか。それは、分裂していたもの、分かれていたものがひとつになるからです。

1部ソネットIII,の第1連を思い出してください。そこでは、普通の人間は、竪琴の弦の間を通って向こう側へは行けないと歌われています。神的な存在であるオルフェウスだけは、分裂せず、分かれることなく、ソネットIVの第1連の風と同じように、いつもどんな場合でもひとつになっていられる。人間の感覚は、二つに分裂していると、ソネットIIIでは、歌われている由縁です。

Sein Sinn ist Zwiespalt.

その男(オルフェウスが歌を教えている当の相手の男)の感覚は、分裂している。

この第1部ソネットIIIの第1連、同じ部のソネットVI2連と第3連、同じ部のソネットXXIX3連第2行、第2部ソネットX第3連第1行に、この魔法のことが出てきます。それぞれの魔法については、そのソネットに行ったときに考えることにいたしましょう。

さて、こういうわけで、第3連に歌われているように、普段は、わたしたち人間は、いつも部分的な仕事をしているわけですが、それがそうではなく、死者たちの魔法の力によって、わたしたちは、恰も全体であるかのように、こころを一つにして、一緒に部分的な仕事に堪えることができているというわけなのです。

そうして、死者たちの力を借りることはよいが、わたし、オルフェウスの力を借りようとして、オルフェウスを、孤独な人間の、そのお前のこころに植えてはならないといっております。このとき、話者、すなわちオルフェウスは、自らを一本の樹木に譬えています。これは第1部のソネットIから既に露な主題であり、ソネット全体を通じて現れる主調です。

地下にいる死者たち、また自分自身の死、それから根を生やし、垂直して成長、果実を実らせる樹木。果実の含む死と生。既に論じた通りです。

孤独な人間のこころの中では、樹木は急速に、速すぎるほどに成長してしまうのです。このようなことになってしまうので、そうはしてくれるなというのでしょう。

お前を助けること、お前に力を貸すことは、重いことになるという重さということも、今までのソネットを読んできて含蓄のあるところです。第1部ソネットIVの第3連に重力のことが、同じ部のソネットXIVの第3連に果実が「重たい奴隷の作品」として歌われている通りです。

孤独な人間を助けることは、重たい。重たいというドイツ語、schwer、シュヴェアは、気が重いという意味なので、ここは掛け言葉になっているのです。助けようという気持ちはあるのだが、気が進まぬ、いや力を貸さないわけには行かないのだが、しかし、俺の身を孤独者のこころの中へは移植しないでくれ、という気持ちなのでしょう。

孤独なる者のこころの中では、余りに速すぎる成長を遂げるとは、それだけ、オルフェウスもまた孤独に親しく、いわば、孤独なる者とこころが合いすぎるからだということを言っているのでしょう。

樹木を植えるという発想は、第1部ソネットIV4連第1行にも出てきます。ここでも、このソネットの主題のひとつが重力だから当然ではあるのですが、子供として植えた樹木も時間が経つと重過ぎるようになると、重さとの関係で歌われています。

さて、しかし、それほど急速に孤独者の胸の内で成長するオルフェウスだとして、しかし、そうではなく、こうだと言うために、これが私自身だというために、話者は、ヘブライの聖書に登場するエサウという人物を指し示すことで、このソネットを終えています。

これが、そうです、これがエサウという者であって、自分自身の所有する毛皮、本来生まれてきたときに所有していたその毛の中にいる自分自身が、エサウのように、わたしであるのだとオルフェウスは歌っているのだと思います。それ以外には何も所有していない者。オルフェウスの場合、それは何になるでしょうか。歌を歌うこと、竪琴をひくこと、そのために変身すること、そのために無私であること、苦しみに堪えるということ、ということなのでしょう。そういうこと以外には、何も所有していない者、オルフェウス。

エサウは、本来は、父親の遺産を継ぐべき双子の兄弟の兄、長兄、家長の資格を有するものであったのですが、自分の不注意から長子の地位をうっかり弟に、少量の食物と交換に、譲ってしまった、そのエサウを示すことで、無所有ということと同時に、オルフェウスの高い、無限の、限りない地位というものも示しているのだと思います。

リルケは、一対、一組、Paar、パールということに深い意味を見ていますから(悲歌5番がそうでした。それから第2部ソネットIXの第4連も。それ以外にも)、そのことも、この神話的な人物を登場させた理由になっていると思います。最後には、この兄弟は和解をし、釣り合い、均衡、バランスを、世界の中で保つことができたようです。