2009年11月3日火曜日

オルフェウスへのソネット(XII)

XII

HEIL dem Geist, der uns verbinden mag;
denn wir leben wahrhaft in Figuren.
Und mit kleinen Schritten gehn die Uhren
neben unserm eigentlichen Tag.

Ohne unsern wahren Platz zu kennen,
handeln wir aus wirklichem Bezug.
Die Antennen fühlen die Antennen,
und die leere Ferne trug...

Reine Spannung. O Musik der Kräfte!
Ist nicht durch die läßlichen Geschäfte
jede Störung von dir abgelenkt?

Selbst wenn sich der Bauer sorgt und handelt,
wo die Saat in Sommer sich verwandelt,
reicht er niemals hin. Die Erde schenkt.

このソネットは、前のソネットを受けて、結びつくこと、結びつけることがから始まっています。それから、前のソネットの最後の連で「(ふたりの)姿」と訳したこの姿、Figur、フィグーアが続けて引かれている。それから、tragen、トラーゲン、担うという言葉も。

詩人は概念を結びつけて、新たな形象を創造する。そうして、時代を批判もするのだ。

【散文訳】

精神において快癒せよ。精神は、わたしたちを結びつける。

なぜならば、わたしたちは、真に、(結ばれて初めて形をなす)姿として生きているからだ。

だから、時計は、小さな歩みとともに、わたしたちの本来の日(とは別に、そ)の傍を、進むのだ。

わたしたちの真の場所を知ることなく、わたしたちは、実際の現実の関係の中から外へと、その関係の理由によって(約束事に従って規則正しく)行なっている(行動している)。アンテナが、アンテナを感じ、そして、空虚な遠い距離が、担っていた。

純粋な緊張、張り渡されていること。おお、諸々の力からなる音楽よ。

だらしのないビジネス、実業を通じて生まれるどの障害も、お前が舵をとって、

道をそらして、別の方へと向けているのか?

たとえ農民が心配し、世話をして、そうして(約束事に従って規則正しく)行うとしても、

播かれた種が、夏に変身するところでは、農民は決して充分ではないのだ。大地が贈りものをするのである。

【解釈】

前のソネットでは、騎士という星座の、点と線とを結んでできる姿を、Figur、フィグーアと、そう呼んだのですが、ここでもその幾何学的な不変の形が、同じ名詞のもとに思われています。星座は、点と線を結んでできる、時間によって変化しないentity、実存、存在であることを、ここでは言っています。精神は、そのような形で、わたしたちを結びつける。

そういっているのです。リルケ流にいえば、そうして、ひとつの、あるいは幾つもの、星座を創造するのでしょう。

これは、人間の認識の能力だとわたしは考えますが、しかし、リルケは決して認識という言葉を高次の言葉として使いません。すべてを、既にある空間の集合と考えているからです。これは、悲歌で論じたところです。

精神にあれば、わたしたちは快癒することができるとは、いいことばです。

リルケの生きた時代は、トーマス・マンの生きた時代で、ふたりは同じ生年ですから、近代の、いや19世紀後半から20世紀前半にかけての現代の機械文明の勃興を目の当たりにした世代です。トーマス・マンのエッセイの中に、それらに対する嫌悪感も含めた感想の述べられていることがあったのを、こうして思い出します。リルケも、ここでは時代の批判をしています。国家の名の下に、中産階級、ビジネスマンが巨大な資本をつかい、首都やその他の大きな都市に人間を膨大に集め、教育訓練を施し、産業を起こし、富を生み出して、分配する、そのような近代の社会に対する批判です。

アンテナという言葉は、当時具体的に何を意味していたのかは解りませんが、今ならば小さな家庭にでもあるアンテナを思いますが、当時のことですから、エッフェル塔のような巨大な塔ではないかとも思いますが、どうでしょうか。あるいは、商業的なアンテナが、やはり、そのほかにも都市にはたくさんあったように、この連からは読みとることができます。そうして、遠いところと通信ができる。無線や電話で確かに通信ができたことでしょう。しかし、それは、「空虚な遠い距離が、担っていた」のだと話者は歌っています。

距離はいくら遠くても、真の結びつき、真の紐帯はないとういことでしょう。

それでは、真の紐帯とは何か、それはどこにあるかというと、第3連の冒頭にあるように、純粋な張り渡しにあるのです。張り渡すと訳したspannung、シュパヌングは、明らかにアンテナの連想連語です。こうして詩をつないでいる。さて、その純粋な緊張であるのが、音楽なのであって、何故ならば音楽は諸々の力の結集したものだからだというのです。

音楽の力が、上のような放恣な産業のあり方から生まれる障害、悪いことを、そのまま結果にいたらせることなく、道をそらして、脇へと誘導し、害のないようにしているのかというのです。

最後の連は、農民の行いは、第2連でのわたしたちの行いと同じ言葉、handeln、ハンデルンが使われており、都市の人間の行いと、農民の行いが対比されて歌われています。しかし、農民といえども、その力だけでは不足で、大地の恵みに預かっているのだということが歌われています。

0 件のコメント: