IX
NUR wer die Leier schon hob
auch unter Schatten,
darf das unendliche Lob
ahnend erstatten.
Nur wer mit Toten vom Mohn
aß, von dem ihren,
wird nicht den leisesten Ton
wieder verlieren.
Mag auch die Spieglung im Teich
oft uns verschwimmen:
Wisse das Bild.
Erst in dem Doppelbereich
werden die Stimmen
ewig und mild.
前のソネットの冒頭の「~のみ」という強い言葉を受けて、このソネットIXも始まる。連想は、続き、賞賛ということから類似の言葉が、また歓喜が知るということから同様に知るという言葉が、使われている。リルケは、それまでのソネットを繰り返し読み返したに違いない。それは、そうだと思う。
何か、詩人の詩作、創造の過程に一緒に参画しているような気持ちがする。結局、詩人は、数少ない言葉で、コンテクストを創造しているのだ。コンテクストとは、連想の立体的な網目。さて、今回のコンテクストは、何か。
【散文訳】
影の下にあっても、竪琴を既に掲げたものだけが
無限の賞賛を、予感しながら、返すことをゆるされる。
死者と一緒に、ケシの花を食べたもの、死者のケシの花を食べたものだけが
かすかな音をも、再び、決して失うことはない。
たとえ、池の中の反映が、しばしば私達を朦朧とさせるとしても、
像というものを知りなさい、オルフェウスよ
二重の領域の中において初めて、声は、永遠に、そして柔らかくなるのだ。
【解釈】
このソネットは、話者がオルフェウスに説いているというソネット。説いているところのものは、歌をうたう者、竪琴を弾く者としての、心構えというところだろう。
第1連は、そのようなものが、だれか相手から何かを受け取った代わりに、賞賛を返すととることができる。それは、何を受け取るのか。竪琴をひいてくれというお願いの代わりなのだろうか。その代わりの賞賛というのも、変なような気がする。何かの技芸を、例えば歌を歌うところをみせられて、竪琴を高く掲げる者が、無限の賞賛を返すといっているのだろうか。
予感しながらとあるが、これも何を予感するかは書かれていない。その者が自分で無限の賞賛を返すことを予感しているというのだろうか。そう読むことはできる。
第2連で、ケシの花を死者と一緒に食べるとは、何を言っているのだろう。このようにすれば、微細な音も表現できるし、聞こえることができると話者は、言っている。
こうして考えてくると、影の中で竪琴を掲げたり、死者と一緒にケシの花を食べたりすることは、普通の尋常な行為ではないということは、わかる。
池に映るわたしたちの像は、水がゆれると、一緒に揺らぐけれども、たとえそうなったとしても、像の何たるかを知りなさいと歌っている。
声も、像と同じなのだ。ふたつの領域、ものと影があって初めて、声も永遠で、柔和になるのだ。声も何かに反映し、また反映するものがあり、そうして初めて永遠になるといっている。永遠のという言葉と同列に置かれているので、柔和な、柔らかなという言葉は同じ価値を持っていると理解することができる。オルフェウスの声は、柔らかい、何かの像なのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿