2009年11月3日火曜日

オルフェウスへのソネット(XIII)

XIII

VOLLER Apfel, Birne und Banane,
Stachelbeere... Alles dieses spricht
Tod und Leben in den Mund... Ich ahne...
Lest es einem Kind vom Angesicht,
wenn es sie erschmeckt. Dies kommt von weit.
Wird euch langsam namenlos im Munde?
Wo sonst Worte waren, fließen Funde,
aus dem Fruchtfleisch überrascht befreit.
Wagt zu sagen, was ihr Apfel nennt.
Diese Süße, die sich erst verdichtet,
um, im Schmecken leise aufgerichtet,
klar zu werden, wach und transparent,
doppeldeutig, sonnig, erdig, hiesig — :
O Erfahrung, Fühlung, Freude —, riesig!

前のソネットとの関係では、namenlos、ナーメンロース、無名にという言葉が連らなって、第2連に引用されている。

【散文訳】
林檎、梨、それからバナナに、すぐりの実で一杯これらすべての果物は話しをするのだ、そうして、話しをして、口の中に死と生を入れるわたしは予感するものがあるもし子供がこれらの果物を味わい尽くすときには、いつも、それ(生死を入れること)を、子供の顔から読み取りなさい。この味は、遠いところからやって来る。

お前たちだって、口の中で、次第に無名になっているのがわかるだろう?以前には、他に言葉がなかったところに、今は、掘り出したもの、発掘したものが流れている、果肉の中かから外へと驚いて解放されて。

お前たちの(食べている)林檎が何を呼んで、名づけているかを思い切って言ってみなさい。まづ濃縮しているこの甘さ、味わう中に幽(かす)かに真直ぐ立っていて、清澄になるために、覚めていて、そして透明で、二重の意味があって、太陽が燦燦と照っていて、大地のものであって、ここにあるものであって。ああ、経験よ、感じることよ、悦びよ-----巨大なるものよ!

【解釈】
訳してしまうと、他に解釈は要らないように思われるが、それでも言葉を紡いでみよう。
子供と大人。呼びかけられているのは、大人だ。そうして、生と死が、果物の味にあるといっている。散文的にいうと、そうなる。果物という生の頂点にあるものを喰らうという人間の行為を、このように歌った。

口の中で、果物は、無名になる。無名になるとは、生と死を味わい尽くすことだ。子供のように。

そう話者は、その話者を創造しているリルケは、言っている。

清澄にと訳したドイツ語は、klar、クラールで、今まであちこちで既に出てきた言葉です。Rein、ライン、純粋な、純粋にという言葉と置き換えてみて、文意を味わってください。

こうしてみると、リルケは禁欲的ではあるが、感覚を否定しているわけではないのだ。確かに花を歌うときの、その花弁、はなびらを、umという前置詞、その周りに、それを重ねてという意味の前置詞を使って歌うときのリルケはの言葉は、美しく、さらに、エロティックである。この話しは、またそのソネットに行ったときに。

2 件のコメント:

Aki さんのコメント...

すごい!1日に4編のソネットの解釈、おそれいりました。なんと充実した文化の日でしょう。
あんまり多くて、読みきれません。後でぽちぽちと後追いしながら、書いてゆきます。

この果物の詩は、かつてこれによく似た詩を書いたことがあります。そのあたりを書いてみたいと思います。

果物、少女、生と死、美しく甘い水の詩のようです。

タクランケ さんのコメント...

何故か、朝早くから、大体1ソネット1時間15分位づつで、できてしまったのです。段々、リルケのソネットになれてきたのでしょうか。

確かに、実に充実した一日でした。

どうぞ、ぼちぼちと。わたしも、ぼちぼちと書いていきます。でも、どうにかこうにか、10のソネットを超えると、全数のソネットもできそうな気がしています。