2009年11月8日日曜日

オルフェウスへのソネット(XIV)

XIV

WIR gehen um mit Blume, Weinblatt, Frucht.
Sie sprechen nicht die Sprache nur des Jahres.
Aus Dunkel steigt ein buntes Offenbares
und hat vielleicht den Glanz der Eifersucht

der Toten an sich, die die Erde stärken.
Was wissen wir von ihrem Teil an dem?
Es ist seit lange ihre Art, den Lehm
mit ihrem freien Marke zu durchmärken.

Nun fragt sich nur: tun sie es gern?...
Drängt diese Frucht, ein Werk von schweren Sklaven,
geballt zu uns empor, zu ihren Herrn?

Sind sie die Herrn, die bei den Wurzeln schlafen,
und gönnen uns aus ihren Überflüssen
dies Zwischending aus stummer Kraft und Küssen?

前のソネットが、果実のソネットなので、それに続いて、葡萄の葉や、やはり果実が続いて歌われる。それから、前のソネットで、果実の味が口腔の中でdoppeldeutig、ドッペルドイティッヒ、(死と生の)二重の意味が掛けられているということからも、最後の連のZwischending、ツヴィッシェンディング、中間にあるものという言葉が関係づけられています。勿論、死と生ということから、死者も出てくる。

【散文訳】

わたしたちは、花、葡萄の葉、果実と交流する。

これらのものは、一年だけの言葉、単年度の言葉では話さない。

暗闇の中から、多彩な、明きらかなもの、公然たるものが、上がって出てきて、そして、

それには、ひょっとしたら、大地を強くする死者たち自身の嫉妬の輝きが、あるかも知れない。

その多彩な、開かれているものの、死者たちの分、どれだけ死者たちがそれに関与しているかということについて、わたしたちは、何を知っているというのだろう。ずっと前から、長い間、粘土に自分たちの自由な標章、印章をはっきりと刻印することが、死者たちの流儀、やり方である。

さて、こういうわけで、自分自身に問うでみるがいい。死者たちは、その刻印することを、好き好んでしているのだろうか?と。この果実、すなわち、重たい奴隷の作品は、丸くなってわたしたちの方へと高く投げられて来て、つまり、死者たちの(または、奴隷たちのと訳せる)主人たちへと、迫っているのだろうか?

死者たちというのは、根のところで眠っている男たち(または、主人たちと訳せる)なのだろうか、そうして、わたしたちに、その剰余の中から、物言わぬ力と、数々の接吻から生まれたこの中間物を恵んでくれるのだろうか?

【解釈】

1連の第2行のこころは、花や、葡萄の葉や果実は、その歳1年で終わりになるのではなく、毎年繰り返して話をすると歌われている。

果実が、死から生まれ、その中に死を含むとリルケが考えていたことは、既に見てきた通りです。この「多彩な、明きらかなもの、公然たるもの」とは、果物のことを言っているのだと思う。それゆえ、暗闇の中から外へと、そこから生まれて、昇ってくると歌われている。既に、これも前回のブログで書いた通り、リルケの垂直志向、垂直感覚というものがあって(これは悲歌5番にはっきり論理的に出ている)、死からまた死であるがゆえに生まれ、育まれた樹木が高く伸長して、そこに枝が張り、そうしてそこに果実がつくということを前提に、リルケは詩を書いているので、その「多彩な、明きらかなもの、公然たるもの」も、昇ってくる、steigen、シュタイゲンと書いているのだ。これで、第1部ソネットIの意味は、一層深まると思われる。オルフェウスは、身を引き裂かれて殺されるのだから。

同じ死ということから、この果実には、死者が関係していないのだろうかと詩人は考え、続けて歌う。本当は無関係であるので、それゆえ、ひょっとしたら、死者たちはその果実に嫉妬するのではないだろうかと。なぜならば、死者たちは、大地を強よくするものたちだからだ。

ここにも、粘土が出てきて、死者たちが粘土に刻印を押すことを言っている。第2部のソネットXXIVを読むと、その第1連第1行にも粘土が出てくる。これは、手が製作する壺のための粘土、それから、そうやって出来た壺に油や水が満たされるので、そのようにして(実際に家々も城壁も粘土を焼いて作るのではないだろうか)都市が生まれ、繁栄を象徴しての粘土という言葉が使われている。(死、粘土、手)は、リルケの場合、連想のセット、数ある連想一式のひとつです。

奇妙な言い方だが、死者たちも生きているということは、悲歌の世界と同じである。ソネットの世界も生と死が別なのではないリルケの世界なのだ。

さて、果実は、「重たい奴隷の作品」と言い換えられているが、これは何を言っているのだろうか。連想がローマ時代に遡行して、当時の果樹園の様子を思い描いたのではないかとわたしは想像します。確かに奴隷が仕事をして、果実を取り入れたのかも知れない。しかし、「重たい奴隷」とは何でしょうか。上の散文訳に、( )を使って解釈の二重性を示したように、この奴隷とは、死者たちのことではないでしょうか。最後の連を読むと、死者たちは、植物や樹木の根元に眠っている様子です。それゆえに、「重たい奴隷」と歌われているのでしょう。(重たいこと、重さの意味については、既に第1部ソネットIVで歌われている通りです。)そうして、奴隷の主人たちとは、この果実を放り投げられる当の私たちということになります。

同じ主人たちということば、ドイツ語で、Herrn、へルンという言葉の連想と、この言葉の持つもうひとつの意味、男たちという意味から、最後の連は、死者たちは、男たちなのだろうか、と始まります。それとも、死者たち自身が、前の連で、果物の登ってくる当の主人たちなのでしょうか。そのような意味の掛け合わされた含みを、最後の連の最初の一行はもっているように思います。このことは、第1連の「ひょっとしたら、大地を強くする死者たち自身の嫉妬の輝きが、あるかも知れない。」の「ひょっとしたら」に呼応していると思います。

さて、主人であるかもしれない死者たちは、根っこのところに眠っている。そうして、自分たちの剰余、収穫の余りを、わたしたち人間に恵んでくれる。主人であれば、goennen、ゲネン、恵むという言葉も、その通りです。

この収穫とは、もちろん果実のことで、これは、死者であることから「物言わぬ力」からなり、同時に、慈しまれて育てられることから「数々の接吻」から生まれた中間物といわれるのでしょう。中間物とは、もちろん、果実のことで、果実とは、第1部ソネットVIIIで書いた通り、死と生の混合、死と生の文字通り中間にあるからです。

さて、最後にもう一度言いたいですが、リルケの思想(ここまで来ると、思想といってよいと思います)の、この大地の底には、死があり、死者が棲んでいる、そうして、そこから生の種子、または種子の生が芽生える、そうして垂直の樹木になり、枝が生え、枝になり、果実が実る、さらに果実が大地に落ち、大地に戻って、大地の肥料になる。この繰り返しを、実感として創造したことは、素晴らしいことだと思います。これを、ヴィジョン、visionと呼ばずして、なんと呼びましょうか。思えば、悲歌の1番、2番の天使たちも、その循環は、全く比較を絶したヴィジョン、visionの世界でした。詩人は、ヴィジョンの創造者であると、わたしは思います。そのような詩人こそ、詩人の名に値するのではないでしょうか。

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