2009年11月21日土曜日

オルフェウスへのソネット(XVI)

XVI

Du, mein Freund, bist einsam, weil....
Wir machen mit Worten und Fingerzeigen
uns allmählich die Welt zu eigen,
vielleicht ihren schwächsten, gefährlichsten Teil.

Wer zeigt mit Fingern auf einen Geruch? —
Doch von den Kräften, die uns bedrohten,
fühlst du viele... Du kennst die Toten,
und du erschrickst vor dem Zauberspruch.

Sieh, nun heißt es zusammen ertragen
Stückwerk und Teile, als sei es das Ganze.
Dir helfen, wird schwer sein. Vor allem: pflanze

mich nicht in dein Herz. Ich wüchse zu schnell.
Doch meines Herrn Hand will ich führen und sagen:
Hier. Das ist Esau in seinem Fell.

このソネットは、死んだオルフェウスの声が歌っている。話者が、死者としてのオルフェウスになっている。

【散文訳】

お前、我が友よ、お前は孤独だ、何故ならば…..

わたしたちは、少しづつ、言葉と指の仕草で、世界を自分たちの

ものにし過ぎるのだ。ひよっとしたら、世界の一番弱く、危険な

部分、部位を、そうやって、自分のものにし過ぎるのだ。

だれが指を使って、臭いのことを示すだろうか(指し示すそんなひとはいない)。

しかし、わたしたちを脅かす(複数の)力のうち、そうではない(複数の)力を

お前は感ずる….. お前は、死者たちを知っている、そうして、魔法の呪文の力に

驚いて息を呑むのだ。

見よ、こういうわけで、寄せ集めたものと部分ばかりであっても、恰もそれが全体であるかの如くに、それらを一緒に堪えることを意味することになるのだ。お前を助けること、力を貸すことは、重たいことになるだろう。特に、なによりも、わたしをお前のこころの中へと植えないでくれ。そんなことをすれば、わたしは、余りに速く育ってしまうだろうから。

しかし、わたしの主人(神)の手を引いて、わたしはこういいたいのだ。ご覧ください、これです、これが、自分自身の所有になる毛皮の中にいるエサウなのです、と。

【解釈】

このソネットの話者は、いつもの話者ではなく、オルフェウス、死んだオルフェウスだと思う。そのオルフェウスが、お前と呼びかけている相手は、第1行でわかる通り、孤独な人間だ。

リルケは、このソネットで初めて、einsam、アインザーム、孤独であるという言葉を、ここで使っている。リルケは、この言葉を、ソネットの中では、全部で4回使っている。これは、その最初の孤独。これから、わたしもこの言葉を使って解釈をすることができる。

散文は、人間と社会と直面するのに、詩はそうではない。詩は世界にいきなり直面する。わたしは、若いときに、あるドイツ人に、お前はこれからどうするのだと問われて、わたしはこれから世の中に出てゆくのだと答えたときに、die Welt、ヴェルト、世界の中へといって、笑われたことがある。今ならば、die Gesellschaft、ゲゼルシャフト、社会の中へといって、笑われることもなかっただろう。

しかし、リルケにも、同様に、die Gesellschaft、ディ・ゲゼルシャフトではなく、ディ・ヴェルトが問題なのだ。この言葉で、人間、社会、宇宙の全てを考えるのだ。

さて、世界の最も弱く、危険な部分、危険な部位とは、一体なんであろうか。これは、今までのソネットを読み、また悲歌を読んだ経験を併せて考えると、傍に、物理的に近い親しい距離に、そのひとがいるだけで、その人間とコミュニケーションが出来ている、意思疎通が立派にできているという考えが、一番脆弱で、危険な部分だといっているのだと思う。リルケは、そうではないと考えている。近いものほど遠いと何度も歌っているから。

1部のソネットIVの第1連に歌われている風のように、分かれても絶えずひとつになっている、一体になっている、そのような風や息や空間では、わたしたち人間は、ありません。また第1部ソネットXIに出てくるふたりの騎士たちのように、同じ道を歩んでいても、一緒になることは、むつかしい。勿論星座となって、ひとつのFigur、フィグア、姿に、すなわちenity、エンティティ、実体、存在になったときには、別ですけれども。

あるいは、悲歌4番の冒頭に出てくる鳥たちの編隊の箇所。人間たちとは違い、いつも一体になって空間を飛ぶ鳥たち。人間は、そうではない。と、歌われている。数え上げると幾つもあることでしょう。

そのようなことが第1連で歌われて、次の第2連は、一体なにを言っているのでしょうか。

指で指し示してというのは、第1連にある指で、お互いのコミュニケーションをとる手段として表情を持つ指とその使い方のことを言っています。そうして、指し示すのが、臭いなのです。これが、リルケの特色あるところだと思います。ここを読んで、わたしは悲歌2番第3連の次の箇所を思い出しました。それは、天使の特徴を列挙した第2連の後に続く、次の、最初の行です。

Denn wir, wo wir fühlen, verflüchtigen; ach wir
atmen uns aus und dahin; von Holzglut zu Holzglut
geben wir schwächern Geruch. Da sagt uns wohl einer:

何故ならば、わたしたちは、感じるところでは、発散し、揮発するからだ。ああ、わたしたちは、わたしたちを呼吸して吐きだし、彼方へ行ってしまう。熾(お)き火から熾き火へと、息を吹きかけて火をおこす度に、わたしたちは、段々と弱い臭いを放つ。そこで、あるひとがきっと、わたしたちにこう言うのだ。

2部ソネットXIVの第2連最初の一行に、

Alles will schweben.

すべては、宙に浮かびたいと思っている。

という一行があります。このソネットの第2連で歌われている話者の思いは、リルケが物に対して思っていることを実感を以って歌ったのだと思いますが、そのことは、そのソネットで論ずるとして、リルケがこのような感じ、思っていたということは、その通りなのだと思います。

上に引いた悲歌からの引用にある通りにリルケは考えていたと理解する以外にはありません。どんなに奇妙に見えても、これがリルケの思想なのです。普通ならば、人間は段々と歳をとって死んでいくと散文的に言うところは、決してそうは言わないのです。

今読んでいるソネットで、指を指して示す臭いという臭いは、このような不思議な臭いだと思います。だれも、そんな臭いを指で指し示してはくれません。だれが指を使って、臭いのことを示すだろうか、という疑問文は、従い、反語的な疑問文だと思います。自分たちの力を奪ってゆく、そのような力の結果である、弱ってゆく臭いだとは、だれも思わない。

だから、しかし、と続けて、色々な力があるが、それはわたしたちを脅かすだけではないのだと歌われています。そうではない力がたくさんあって、その力のひとつが、死者たちの持つ力なのだというのです。死者は、この連を読むと、魔法や魔術を使う力を持っているのでしょう。孤独な者は、それに驚いて息を呑みます。

何故孤独な者が驚くのでしょうか。それは、分裂していたもの、分かれていたものがひとつになるからです。

1部ソネットIII,の第1連を思い出してください。そこでは、普通の人間は、竪琴の弦の間を通って向こう側へは行けないと歌われています。神的な存在であるオルフェウスだけは、分裂せず、分かれることなく、ソネットIVの第1連の風と同じように、いつもどんな場合でもひとつになっていられる。人間の感覚は、二つに分裂していると、ソネットIIIでは、歌われている由縁です。

Sein Sinn ist Zwiespalt.

その男(オルフェウスが歌を教えている当の相手の男)の感覚は、分裂している。

この第1部ソネットIIIの第1連、同じ部のソネットVI2連と第3連、同じ部のソネットXXIX3連第2行、第2部ソネットX第3連第1行に、この魔法のことが出てきます。それぞれの魔法については、そのソネットに行ったときに考えることにいたしましょう。

さて、こういうわけで、第3連に歌われているように、普段は、わたしたち人間は、いつも部分的な仕事をしているわけですが、それがそうではなく、死者たちの魔法の力によって、わたしたちは、恰も全体であるかのように、こころを一つにして、一緒に部分的な仕事に堪えることができているというわけなのです。

そうして、死者たちの力を借りることはよいが、わたし、オルフェウスの力を借りようとして、オルフェウスを、孤独な人間の、そのお前のこころに植えてはならないといっております。このとき、話者、すなわちオルフェウスは、自らを一本の樹木に譬えています。これは第1部のソネットIから既に露な主題であり、ソネット全体を通じて現れる主調です。

地下にいる死者たち、また自分自身の死、それから根を生やし、垂直して成長、果実を実らせる樹木。果実の含む死と生。既に論じた通りです。

孤独な人間のこころの中では、樹木は急速に、速すぎるほどに成長してしまうのです。このようなことになってしまうので、そうはしてくれるなというのでしょう。

お前を助けること、お前に力を貸すことは、重いことになるという重さということも、今までのソネットを読んできて含蓄のあるところです。第1部ソネットIVの第3連に重力のことが、同じ部のソネットXIVの第3連に果実が「重たい奴隷の作品」として歌われている通りです。

孤独な人間を助けることは、重たい。重たいというドイツ語、schwer、シュヴェアは、気が重いという意味なので、ここは掛け言葉になっているのです。助けようという気持ちはあるのだが、気が進まぬ、いや力を貸さないわけには行かないのだが、しかし、俺の身を孤独者のこころの中へは移植しないでくれ、という気持ちなのでしょう。

孤独なる者のこころの中では、余りに速すぎる成長を遂げるとは、それだけ、オルフェウスもまた孤独に親しく、いわば、孤独なる者とこころが合いすぎるからだということを言っているのでしょう。

樹木を植えるという発想は、第1部ソネットIV4連第1行にも出てきます。ここでも、このソネットの主題のひとつが重力だから当然ではあるのですが、子供として植えた樹木も時間が経つと重過ぎるようになると、重さとの関係で歌われています。

さて、しかし、それほど急速に孤独者の胸の内で成長するオルフェウスだとして、しかし、そうではなく、こうだと言うために、これが私自身だというために、話者は、ヘブライの聖書に登場するエサウという人物を指し示すことで、このソネットを終えています。

これが、そうです、これがエサウという者であって、自分自身の所有する毛皮、本来生まれてきたときに所有していたその毛の中にいる自分自身が、エサウのように、わたしであるのだとオルフェウスは歌っているのだと思います。それ以外には何も所有していない者。オルフェウスの場合、それは何になるでしょうか。歌を歌うこと、竪琴をひくこと、そのために変身すること、そのために無私であること、苦しみに堪えるということ、ということなのでしょう。そういうこと以外には、何も所有していない者、オルフェウス。

エサウは、本来は、父親の遺産を継ぐべき双子の兄弟の兄、長兄、家長の資格を有するものであったのですが、自分の不注意から長子の地位をうっかり弟に、少量の食物と交換に、譲ってしまった、そのエサウを示すことで、無所有ということと同時に、オルフェウスの高い、無限の、限りない地位というものも示しているのだと思います。

リルケは、一対、一組、Paar、パールということに深い意味を見ていますから(悲歌5番がそうでした。それから第2部ソネットIXの第4連も。それ以外にも)、そのことも、この神話的な人物を登場させた理由になっていると思います。最後には、この兄弟は和解をし、釣り合い、均衡、バランスを、世界の中で保つことができたようです。

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