リルケの空間論(一般論の部)
リルケの悲歌の一番抽象的な見取り図、概観図を描きたいと思います。それが、リルケの空間論です。
もう、のっけから、結論から参ります。このようなことを思ってください。
リルケの悲歌の世界は、(もの、空間、場所)、これら3つの言葉とその概念で理解することができます。これらは、相互に交換概念です。そう思ってください。その抽象度が余りに高いので、(Ding, Raum, Stelle)、(ディング、ラウム、シュテレ)という、ドイツ語の言葉と概念に、そのまま、ほとんど、1対1で対応しています。
わたしたち日本人の世界に、相撲というものがあります。そこに土俵というものがあって、それは、土と四柱で(実際に国技館では、この四柱は取り払われていますが、しかし、本来ならば、そのように)構成されている空間があります。(そう、想像して下さい。)今、こうして書いていても、思わず使ってしまったように、ものと空間が、土俵という場所には関係があるのです。
まづ、場所という言葉で考えてみましょう。春場所、夏場所、秋場所、冬場所という場所があって、季節とともに、巡業の場所が巡って来るでしょう。実際には、名古屋場所とか、福岡場所というのかも知れませんけれども。
土俵と四柱からなる土俵があって、これは場所です。その場所には、お相撲さんや、行司や、呼び出しが、出たり入ったりします。それは、時間という季節の循環とは無縁に、いつも、そうなっている、そうである場所です。場所は、季節、時間とは無関係です。
その場所は、また同じ構成からなる空間と呼ぶことができます。その空間に、そのようなひとたちが出入りしていると考えることができます。そうしたならば、それはまた、場所というもの、空間というものであるとも、いうことができると、考えることができるでしょう。
ここまでは、どうでしょうか。そうであるならば、土俵というものの中と外を、お相撲さんや、行司や、呼び出しや、懸賞が、出たり入ったりすることができるのではないでしょうか。いかがでしょうか。
場所は、変わらない。しかし、その上で、その空間の中で、時間が過ぎてゆく。
さて、今、ひとが出入りするという空間ひとつの話をしましたが、これが、もうひとつ同じ空間があって、それがその空間に出入りすると考えたらどうでしょうか。あるいは、その空間の中に入ってしまう、逆にその空間が、もうひとつの空間の中に入ってしまう。そのようなところを想像してください。
それが、ものとものの関係、空間と空間の関係、場所と場所の関係なのです。あるいは、これらの互い同士の関係。
わたしたちは、相撲という丁度格好な文化を持っておりますから、このように説明すれば、リルケの空間をそのままに説明することができるのです。これが、リルケの空間です。
(ほかの文化圏、言語圏のひとたちは、一体どうやってこれを理解するのだろうか。)
それでは、実際に読むときはどうなるのかといえば、もしあなたが、原文であれ翻訳であれ、悲歌を読んでいて、どうもこの意味が解らないと思ったならば、その言葉、名詞の後に、「という空間」と挿入して読めばよいのです。そうして、もし「という空間」で、理解がうまく行かなければ、「という場所」と言い換えてみるのです。それでも駄目なら、「というもの」と言ってみるのです。これが、わたしの、悲歌を理解するための、一番抽象的で簡便なるアドヴァイスです。
さて、さらに論を一歩進めると「天使論」(2009年7月4日)で述べたように、リルケの空間は、少なくとも一つの時間を含んでいます。リルケのひとつの空間には、最低でも一つの時間が存在しています。
空間の中に時間が存在するのでしょうか。はたまた、時間の中にゆるぎなく変わらぬ、時間とは無縁の空間が存在するのでしょうか。素人目には、後者の答えは否。それでは、前者の答えは、どうでしょうか。そもそも、時間とは何で、空間とは何なのでしょうか。
この議論は、哲学的にも、数学的にも、物理学的にも、専門家の議論があるでしょう。その歴史に触れることも、それぞれの理論を理解して、比較し、構造的にその本質を論ずることは、わたしの能力を遥かに超えたことです。
わたしが言語の立場から言えることは、唯一つ、リルケが概念化したこの(もの、空間、場所)という概念、今これら3つのうち、空間という言葉で他のふたつを代表させていうと、その空間、Raum、ラオムとは、ドイツ語で空間、広がり、延長等々を表す最上位概念であることから、これ以上言いようのないことをリルケは、この空間、Raum、ラオムという言葉で言い表したかったということなのです。これ以上の言葉がないので、リルケも、これ以上、ドイツ語でいいようがない。
この空間、Raum、ラウムが、最低ひとつの時間を含むのであれば、その空間は、英語ではdimensionという言葉で呼ばれているのです。日本語で次元と訳され、使われている言葉です。このブログで、次元という言葉を今まで使ったことがありましたが、実は、わたしは、リルケの言うこの意味と同じ意味で使用してきたのです。
リルケはドイツ語圏の詩人ですから、英語をドイツ語の詩の中に入れるわけには参りません。それに、詩は科学そのものではない。おのづと異なります。詩は、連想の藝術です。
それに、dimensionは、数学や物理の用語ではないだろうか。
リルケは、空間、Raum、ラウムという概念を独自に概念化して、dimension、次元という概念と同じ概念に至り、これを創造したのです。
リルケの次元の数は、リルケの認識の及んだ限りにおいて、その数だけ階層化して、存在しているのです。
さて、以上が、リルケの空間論の一般論の部です。
リルケの空間論の個別論の部、あるいは詳細論は、悲歌2番第3連を論ずることで、次回、展開することといたしましょう。
追記:あと、悲歌を読んでいて明らかにしなければならないのは、登場人物達の関係である。
登場人物には、天使、(わたし、わたしたち)、若い死者たち、愛するものたち、活き活きとしているものたち(悲歌1番、悲歌2番)がいる。
天使と(わたし、わたしたち)の関係は既に「天使と使者を語る前に」(2009年6月21日)で説明をしました。若い死者たちと(わたし、わたしたち)の関係も、そこで説明をしました。
後は、若い死者たちと活き活きとしているものたち(悲歌1番で)、愛するものたちと、天使・(わたし、わたしたち)・若い死者たちの関係を説明することになります。
それから、もうひとつ、英雄(悲歌1番、6番、)と若い死者たちの関係、類似性を論ずることも必要です。
これらを論じながら、リルケのその形象、表象を、悲歌10篇のあちこちを参照して、考えて参りましょう。
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