2009年11月5日木曜日

17_オルフェウスへのソネット(XIII)-2(思ったこと)

XIII

VOLLER Apfel, Birne und Banane,
Stachelbeere... Alles dieses spricht
Tod und Leben in den Mund... Ich ahne...
Lest es einem Kind vom Angesicht,

wenn es sie erschmeckt. Dies kommt von weit.
Wird euch langsam namenlos im Munde?
Wo sonst Worte waren, fließen Funde,
aus dem Fruchtfleisch überrascht befreit.

Wagt zu sagen, was ihr Apfel nennt.
Diese Süße, die sich erst verdichtet,
um, im Schmecken leise aufgerichtet,

klar zu werden, wach und transparent,
doppeldeutig, sonnig, erdig, hiesig — :
O Erfahrung, Fühlung, Freude —, riesig!

【思ったこと】

前のソネットとの関係では、namenlos、ナーメンロース、無名にという言葉が連らなって、第2連に引用されている。またそのソネットに行ったときに。

と上のように書いたのだが、今日移動書斎で、第2部のソネットXXを読んで、思うことがあったので、忘れないように、ここに、この日に書いておこうと思った。

それは、子供のことである。

ソネットXXでは、次のような連がある。第1連です。

ZWISCHEN den Sternen, wie weit; und doch, um wievieles noch weiter,
was man am Hiesigen lernt.
Einer, zum Beispiel, ein Kind... und ein Nächster, ein Zweiter —,
o wie unfaßlich entfernt.

【散文訳】

星星の間の距離、なんという遠い。しかし、ひとがここにあるものから学ぶことは、どれほど、もっと遥かなことであることだろうか。

あるひとりの者、例えば、ある子供が直ぐ隣にいる者が、ふたり目の者がー

ああ、なんととらえどころ無く離れていることか。

ここでわたしが連想し、思い出したのが、第1部のソネットXIの第1連でした。ここでは、

SIEH den Himmel. Heißt kein Sternbild «Reiter»?
Denn dies ist uns seltsam eingeprägt:
dieser Stolz aus Erde. Und ein Zweiter,
der ihn treibt und hält und den er trägt.

【散文訳】

天を見よ。星座に「騎士」という名前の星座はないのだろうか。

何故なら、この星座は、わたしたちに刻印されること、そうして、

こころに残ることが、稀だからだ。

この、大地から生まれた名誉のこころよ。そして、二人目の騎士

この名誉心を(乗る馬のように)駆け、そして維持し、飼い、名誉心が逆に

この騎士を担う、そのような騎士がいる。

この引用に下線を付したところを見ればわかるように、リルケは、第2番目の、直ぐ隣にいる者を、とても遠い者だと感じ、考えているのです。リルケにとって、子供は、そういう者であったのだと思います。大人と、ことさらというわけではありませんが、対比されて、極く身近にいる、それゆえにまた、遠い者、子供。それは、何故でしょうか。

(上のソネットXIの引用の大地から生まれるStolz、シュトルツ、名誉心という言葉から、わたしはまた第2部のソネットXXIVの冒険者たち(Wager、ヴァーガー)と、そこに使われているtrotzdem、トロッツデーム、にもかかわらず、という副詞のことに、とても触れて話しをしたいと思っているのですが、それは次回といたします。ここに備忘のように書いておきます。)

なぜ、こんなことを書くかというと、これらは皆、namenlos、ナーメンロース、無名の、無名にという言葉と関係があるからなのです。

1部のソネットXIでは、ふたりの騎士は、食卓と楽しみによって、無名なものとして、分かれさせられるのでした。食卓と歓待の楽しみが何を意味するかは、それはそれとして、ここでは、やはり一緒にいるふたりの騎士が、同道しているにもかかわらず、そうして、s近くとも遠く離れているその姿、ひととしての有り様が無名であるといっているのです。それは、たとえ、食卓と歓待のよろこびによって分かたれているものだとしても、です。

この無名の、無名にという言葉を、前回読んだソネットXIIIでは、果物たちが口のなかで無名になると使って、歌っています。その味わいを味わうことができるのは、子供なのです。果物たちは、死と生命とのことを話し、口の中にその話しをします。子供だけが、その味わいを知っている。その味は、遠いところから来るということを知っている。リルケは、子供は死に親しい、それであって、こころが平安だと歌っているように、わたしには見えます。そのような子供の姿。

少々、話しが飛ぶようですが、

Ein Zweiter – Kind – Sterne – Ferne:ふたり目の(隣の)ひとー子供―星辰―遥かな距離

これらの言葉は、リルケの世界では、連語、連想語なのです。

さて、ここから、もうひとつ言いたいことがあります。それは、何故リルケは、オルフェウスを歌ったのかということです。オルフェウスについての連想連語です。s

リルケは、オルフェウスという神的な若者が、引き裂かれて殺されるから、このソネットの主人公にしたということなのです。これは、悲歌1番の最後の連において、リノスという若者の死を歌ったのと同じ主題です。悲歌とソネットの通奏低音です。いや、低音ばかりではなく、ソネットにおいては、高くも歌われる主題です。

オルフェウスの身が引き裂かれ、殺されて、第1部の最後のソネットXXVIは終わります。そこまでが、第1部。その後が第2部で、殺された後のオルフェウスが登場してきます。第2部の最初のソネットでは、それまで話者としてオルフェウスを呼んでいた話者が、オルフェウス自身の声になっている、すなわち話者がオルフェウスになっています。その後も、これが持続されるわけではありませんが、それでも、これが第1部と第2部の大きな違いです。第1部と第2部は、前者はオルフェウスの死まで、後者はその後のオルフェウスということになります。このように部立てをリルケは考えたのでしょう。

さて、何故リルケは、身を裂かれ殺されるオルフェウスを主人公にしたのでしょうか。何故リルケは、このような若者に強く惹かれるのでしょか(これは、別の視点からは、いわば青春を喪った若者に強く惹かれるのでしょうかと問うてもよいのですが、これはまた別の機会の論といたします)。

それは、身を引き裂かれ、殺されるのが、詩人の運命だからだとリルケが考えていたからです。オルフェウスのことは、我が身のことである。これは、詩人の姿だとリルケはいっているのだと思います。

そうして、大地の肥料になる。この肥料は何を育てるのか。垂直に伸長する樹木を育てるのだと思います。(このリルケの動く垂直感覚は、悲歌5番での曲芸師の均衡感覚、バランス感覚、宇宙に対する一対の平衡感覚として歌われておりました。これについても、悲歌5番との関係で稿を改めて論じたいと思います。)それゆえ、第1部ソネット1番の第1行は、樹木、高く聳える樹木のことから歌われるのでしょう。

そうして、垂直に伸びる樹木は、果実を実らせる。それは、このように、おのづから、死から生まれたもの、生と死、いやリルケの語順は正しい、死と生から生まれたものだ。

Alles dieses spricht
Tod und Leben in den Mund

こういった果実すべてが、死と生との話を、口の中へとする。

リルケは、このように想像していたのではないでしょうか。それがわかったと思ったのは、第2部のソネット最後のXXIXを読んだときでした。ここには、交差した道にある魔法の力という言葉も出てきて、第1部のソネットIIIの第1連の同じ言葉の謎も、これを合わせて考えると解けるのではないかと思っています。

リルケがこのように人間の典型としての詩人の死と生を考えていたことは、循環的な思想だとわたしは思います。思えば、既に悲歌1番、2番に出てくる天使がそうでした。この天使は、天上と地上の間を循環しておりました。(地上にあっては無数の鏡になっている。)これが、リルケの思想の核心にある感覚、体系的な感覚ではないでしょうか。詩人は、体系的に感じる。と、わたしは思った次第です。論理ではなく、感じる、しかし、体系的に。それゆえに概念化した数々の詩人自身の言葉であるのだと思います。

後日、またこのページに戻ってくることがあることでしょう。

0 件のコメント: