2009年11月15日日曜日

オルフェウスへのソネット(XV)

XV

WARTET..., das schmeckt... Schon ists auf der Flucht.
....Wenig Musik nur, ein Stampfen, ein Summen —
Mädchen, ihr warmen, Mädchen, ihr stummen,
tanzt den Geschmack der erfahrenen Frucht!

Tanzt die Orange. Wer kann sie vergessen,
wie sie, ertrinkend in sich, sich wehrt
wider ihr Süßsein. Ihr habt sie besessen.
Sie hat sich köstlich zu euch bekehrt.

Tanzt die Orange. Die wärmere Landschaft,
werft sie aus euch, daß die reife erstrahle
in Lüften der Heimat! Erglühte, enthüllt

Düfte um Düfte. Schafft die Verwandtschaft
mit der reinen, sich weigernden Schale,
mit dem Saft, der die Glückliche füllt!

前のソネットが、樹木になる果実に焦点を当てた詩であったので、そのことから、引き続き、果実を味わう第1行から、このソネットは始まる。口の中の感触。それから話者は外へ出る。外へ出ること、これは詩人の仕事だ。

このソネットで、話者が呼びかけている相手は、2人称複数の親しい間柄の相手たちである。この呼称の形式は、悲歌にも共通している。これは、リルケの詩作の深奥に触れている形式なのだと思う。その深さをどこまで測ることができるか。

【散文訳】

待て、お前たち、美味いなあ、おいしい。と、思ったらもう、その味は逃げてしまっている。

音楽もひどく少ないじゃないか。足を踏み鳴らす音、ぶんぶん言う音、

娘たちよ、お前たち暖かいものたちよ、娘たちよ、お前たち黙っているものたちよ、

踊れ、経験した果実の味を踊るのだ。

蜜柑を踊れ。誰が、蜜柑の味を忘れることがあろうか、どのように蜜柑が自らの中に溺れ、その味を味わい尽くして死に、そうして同時に、蜜柑の甘く存在しているということに抵抗して我が身を護るかを、だれが忘れることがあろうか。(だれも忘れることはないのだ。)

お前たちは、蜜柑を所有した。蜜柑は、美味に、類稀れな味を以って、お前たち(娘たち)に回心したのだ。

蜜柑を踊れ。もっと暖かい景色、それをお前たちの中から放り出せ、そうすれば、熟した蜜柑が、ふるさとの空気の中で、輝きを放つだろう、そのように。光かがやくもの、蜜柑よ、芳香を、ひとつまたひとつと剥(む)かれて、露わになってゆく。お前たち、娘よ、純粋な、自らを拒む皮と、親しい、類縁の関係を創造せよ、幸福なるもの、すなわち蜜柑を満たす汁液との親しい関係を創造せよ。

【解釈】

2VIIのソネットが、リルケ自らそう註釈しているように、Weraという若い娘の死に捧げられたソネットなのであるが、このソネットに関係して、このソネットも若いダンサー、踊り子が思われているのだと思う。それも、複数形なので、Weraのことは思われていても、そうであるよりは、もっと広く女性の性の段階のうちの、青春にある女性を思って、リルケはこのソネットを書いている。

娘が、暖かいものだという言い方は、第2部ソネットVIIの第3連の第3行にも出てくる言い方で、リルケは、若い女性に、暖かさを感じたのだ。このときのリルケ、このソネットを書いているリルケは50代のはじめという年齢です。なにか、このようなことを思ってみて、このソネットを読むことができるというのも、わたしの年齢がリルケを超えているからなのだと思う。これは、幸せの一種ではないだろうか。

さて、上の散文訳にすべて訳出してしまったので、このソネットについていうことは、多くないのですが、それでも敢ていうとすれば、次のようなことでしょうか。

1.娘たちは、言葉を発せず、ただただ踊っているのだろう。

2.蜜柑を踊れという文は、詩人のつくる文なのだと思う。それは、ひとをハッとさせます。同じ手法を、リルケは、第1部のソネットIIの第3連の第1行で、

Sie schlief die Welt.

(奇跡的な)娘は、世界を眠った。

というように使われています。

奇跡的にと今形容した言葉は、わたしの意訳で、なぜならリルケは、この娘を、“fast ein Maedchen“、ほとんど娘である、そのような娘といっているからです。これは非常に微妙な表現です。娘であって、娘ではないということです。何度もソネット全体を読み返すうちに、そのように、またその意味するところを、理解するようになりました。これが何を意味するのか、リルケは何を娘、若い女性に思っているのかは、第2部ソネットVIIで、解釈することにいたしましょう。

ここでは、リルケの性愛に対する典型的な表現形式が露わになっています。このことは、リルケの詩を理解する上で重要ではないかと思います。詩人に非礼のないように、このことは、そこで論じたいと思います。

3.「光かがやくもの、蜜柑よ、芳香を、ひとつまたひとつと剥(む)かれて、露わになってゆく。」という原文の第3連のこの言葉は、第2部のソネットVIにも、同じ文法的な形式で表現されているものに一致しています。

ドイツ語では、ひとつまたひとつと訳したところは、um、ウム、という前置詞で表わされているのですが。この前置詞の意味を総動員して、このum、ウムは、ここでも実にエロティックです。それは、女性が露わにされることに通じている。第2部のソネットVIは、それが同じように出ています。同じようにという意味は、やはり、着物を脱いで行く表現になっていて、それがそのまま「着物の回避と拒否」であるという表現、露わになることについての、あらわになるもの(花、果実、果実の味)が、同時にそれを否定する身振りを心底からするという表現の中に、リルケのエロスが現れているからです。これは、具体的な経験や体験を抽象化したリルケの表現なのだと思います。

最後の一行は、そのことを、同様に、このソネットの中で示していると思います。

次のソネットは、オルフェウスの生の声が聞こえてくる。そのようなソネットです。既にオルフェウスは八つ裂きにされ、死者となっている。そのオルフェウスが歌うのです。

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