X
EUCH, die ihr nie mein Gefühl verließt,
grüß ich, antikische Sarkophage,
die das fröhliche Wasser römischer Tage
als ein wandelndes Lied durchfließt.
Oder jene so offenen, wie das Aug
eines frohen erwachenden Hirten,
— innen voll Stille und Bienensaug —
denen entzückte Falter entschwirrten;
alle, die man dem Zweifel entreißt,
grüß ich, die wiedergeöffneten Munde,
die schon wußten, was schweigen heißt.
Wissen wirs, Freunde, wissen wirs nicht?
Beides bildet die zögernde Stunde
in dem menschlichen Angesicht.
前のソネットの主調の構成要素、死者たち、それから二つの領域(二重の領域)から連想して、このソネットでも、死のことと、二重の領域である時間と空間の関係が歌われます。
また、このソネットXには、第2連についてのリルケの自註があります。
【散文訳】
お前たちよ、わたしの感情を決して去らなかったものたち、
古代の石棺、ローマ時代の日々のよろこびの水が
逍遥する歌として流れ通る石棺よ、
わたしはお前たちに挨拶をする
あるいは、うれしく思い、目覚めている羊飼いの眼のように
かくも開いている石棺に挨拶をするー羊飼いの眼の内側は
静けさと蜂の眼で一杯だー その眼から、魅了された蝶たちが
渦を巻いて飛び立って行った
疑いから奪い取るすべてのものに、すなわち、沈黙とは何を意味するかを
既に知った再び開かれた唇に、わたしは挨拶する
わたしたちがそれを知っているか、友よ、わたしたちがそれを知らないか
両方が相俟って、人間の顔の中に、躊躇する時間を形成するのだ。
【解釈】
古代の、ローマ時代の石棺に呼びかける話者。ローマの石棺と同じものとして、第2連では、「うれしく思い、見張っている羊飼いの眼のようにかくも開いている石棺」にも挨拶をしています。
この第2連について詩人の自註があり、この石棺のある墓は、マルテの手記でも書いた、Arlesの傍のAllyscamps墓地のことを思って書いたとあります。参照すると、このソネットの理解が深まることと思います。
死んでいても、眼を開けていて(蜂のように)、死ぬことのない、生きているものたち、すなわち沈黙や静けさを知るものたちへの呼びかけではないでしょうか。
第3連で呼びかけられている唇は、沈黙とは何かを既に知った、疑うことのない唇。この既に、schon、ショーンと同じ既にが、第2部ソネットVIIIの第2連にも出てきます。
そこでは、ガラスの割れる音の中で既に自らを砕く、そのようなグラスとして歌われ、この副詞が使われています。何かが起こる前に、時間の中でではなく、それとは無関係に既に起こっているという、既に、です。確かに、既に知っていたと書いてある原文の動詞は過去形なのですが、既に過去に知ったことだとしても、その知り方が、このような既にだと思われるのです。
この唇も、Allyscamps墓地の石棺のように、また羊飼いの眼のように開かれている唇です。Offen、オッフェン、開かれているというところに眼目があるのだと思います。
何が生で何が死か、何が現在の現実で、何が不変であるか、わたしたちはその答えを知っているのか、それとも知らないのか、友よ、友のあなたがたよ、と話者は呼びかけている。
この両方のこと、そういったことを知っているということと知らないということの両方が、人間の顔の空間の中に、躊躇する時間を形成する。
人間の顔というと、悲歌では空間をそのまま意味しておりましたので、この最後の文も、その通りだということになるでしょう。空間の中に時間があるのです。悲歌で論じた通りです。友よと呼ばれたわたしたちは、疑いを持っているので、その時間も躊躇した時間と呼ばれるのでしょう。
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