2009年7月18日土曜日

リルケの青春と謎の一行


リルケの青春と謎の一行

さて、悲歌2番第3連に行く前に、同じ悲歌第1連の次の句、主文となるべき言葉の集まりに動詞を欠いているので、文というよりは句というべきだと思うが、ここでは敢えて文ということにすると、その文が一体何を言っているのかを手短に考えたい。その文とは、次のようなものである。その下に逐語訳をつける。

(Jüngling dem Jüngling, wie   er  neugierig  hinaussah)
(若者が 若者に、    の通りに 彼が 興味津々と 外を眺めやった)

この両側にある括弧部分も含めて、この文は、一体何を言っているのだろうか。全体を俯瞰すると、この括弧の文は、その前の、

Da der Strahlendsten einer stand an der einfachen Haustuer,
zur Reise ein wenig verkleidet und schon nicht mehr furchtbar;

最も輝ける者のうちのひとりが、簡素な家の戸口に立っていた、旅の姿に身をやつして、従いもはやそれ以上恐ろしくはない姿になって。

という部分からの流れの中にあって、セミコロンを間に置いて、この括弧の文が置かれている。セミコロンでは、文意は連続しているので、セミコロンの前の文の意味を受け継いで、セミコロンを介して、この括弧も含めた文があるのだ。

まづ、この括弧は、何を意味しているのだろうか。悲歌全体で、この括弧を使った箇所は、上の箇所を含めて、全部で8箇所ある。その共通した使い方を見てみると、それが、芝居の脚本に書かれるト書きと一種似た役割を果たしていることがわかる。つまり、リルケとまでは言わないが、詩中の一人称が、その括弧の前の箇所について、説明的にものいうのだ。

そう考えた上で、括弧の中の文を考えることにしよう。

上の日本語の逐語部分を集めて日本語にすると、次のようになる。


彼が、興味津々と外を眺めやった通りに、若者が若者に。


この「若者が若者に」式の表現が、悲歌の中には、類似の表現をしている箇所が幾つかあります。類似の箇所を参照して、それが詩の中でどのような位置を占めているのか、考えて見ましょう。

次のような箇所が、悲歌6番第5連にあります。


O Mütter der Helden, o Ursprung
reißender Ströme! Ihr Schluchten, in die sich
hoch von dem Herzrand, klagend,
schon die Mädchen gestürzt, künftig die Opfer dem Sohn.

おお、英雄たちの母親たちよ、おお、引き裂き、もぎ取るほどに
烈しい流れの源流よ。お前たちの谷、峡谷よ、その中に心の縁の高みから、
嘆きながら、既に娘たちが落ちて行った、その谷間よ。娘たちは将来息子の犠牲に
なる。


ここは、若い娘たちと若者との間の関係を歌った箇所で、谷間とは、勿論女性の秘所を指しているわけですから、少しエロティックな箇所だと思いますが、そちらの方にはこれ以上筆を伸ばさずに、後でその箇所を読むときに論ずるとして、その最後の一行だけに着目すると、


Die Opfer dem Sohn
犠牲者たちが  息子に


とあります。

これは、文の流れから言って、これは、娘たちが、母親たちの息子である若き英雄に対して犠牲になるという意味であることがわかります。このようにわかるのは、ふたつの名詞がそれぞれ異なるからです。

もうひとつ、類似の、動詞のない、主格と与格とでできている表現を悲歌7番第1連から引用します。


deinem erkuehnten Gefuehl die ergluehte Gefuehlin
お前の大胆になった(男の)感情に、熱くなった(女の)感情が


この直前の文は引きませんが、この一句で充分明らかなように、ここでも性愛が歌われています。また、この句のすぐ後の連では、春が歌われています。

また、さらに、同じ悲歌7番第43行目から4行目にかけて、


oder dem Abfall Offene


という表現がありますが、これに上で見つけた規則を適用して訳すると、その意味は、


一言で言えば、頽落、堕落に対して、こころも体もひらいている娘たち


という意味になるでしょう。

こうしてみてくると、リルケは、男女の性愛を歌うときに、好んで、あるいは意図して、このような、動詞を省略をしたというべきか、あるいは時間という因子を含む動詞を捨象して、名詞だけで表現をしていることがわかります。

これに対して、上の「若者が若者に」は、双方が同じ言葉であるために、少し話しが複雑になっています。悲歌2番第1連のこの詩のなりゆきからいって、この二人の若者が、同性愛者であるということではありませんので(精神論的にリルケがそうであったということを論じることはできると思いますが)、これは、そうすると、リルケという詩人は、男女を問わず、若さ、青春について、それがどのような姿をとるかを問わず、それを歌うときには、悲歌では、主格と与格で表したということが言えるでしょう。

こうして考えてくると、


(Jüngling dem Jüngling, wie   er  neugierig  hinaussah)
(彼が、興味津々と外を眺めやった通りに、若者が若者に)


この括弧の持つ意味から言って、これは前の文意を受けていることから、この流れでこの一文を読むと、まづ、er、彼がとは、戸口に旅支度に身をやつした天使のひとりであるということになります。

(しかし、実は、リルケは天使という言葉は使っておりません。最も輝かしいものたちのひとりが、といっているだけなのです。天使という言葉は、Erzengel、大天使という総合的な名前で以って、「若者が若者に」の後に出てくるという順序になっています。何故リルケは、このような書き方をしたのでしょうか。これは、リルケの天使論の続きとなりますので、次回以降の稿で論じたいと思っています。)

さて、そうすると、戸口に天使が立ち、そこから外を眺めやっているところを想像しましょう。そうして、その見やる通りに従い、その向こうには、ふたりの若者の姿、旅行く姿が見える。ということになるのではないでしょうか。しかし、この二人の若者のうち、もう一人は、実は天使自身に他ならないのであれば、それはおかしなことではないでしょうか。

天使が戸口に立って、自分と一緒に旅するトビアスと行くところを眺めやるとは。

一寸寄り道をして、手塚訳、古井訳では、ここをどう訳しているかを覗いてみることにしましょう。

手塚訳は、こうなっています。


(好奇の眼でトビアスが見やったもの、それは青年に向き合う青年の姿であったのだ。)


Er、彼が、トビアスとなっています。

古井訳は、どうでしょうか。


天使のうちでも最も輝かしきラファエルが簡素な戸口に、旅人の姿にすこし身をやつして、もはや恐るべき姿ではなしに、若者が若者をしげしげと眺めやるふうに立った。


古井訳は、括弧の中から「若者が若者に」という一行を取り出して、セミコロンの前の文の中に入れて訳しています。Hinaussah、眺めやるという動詞を、若者を若者が眺めやるというふうに理解をしたのでしょう。

どちらの訳も、上にわたしが疑問に思ったことに拘泥した訳なのではないかと思います。

その結果、手塚訳は、眺めやる彼、erを、トビアスとし、古井訳は、「若者が若者に」の「若者が」が、他方を眺めやると解釈したのだと思います。

何故リルケは、このように曖昧な文を括弧の中に置いたのでしょうか。この文は曖昧なのでしょうか。そうではなく、実はその意味は明瞭に曖昧なのではないでしょうか。わたしの考えは次のようなものです。この括弧も含めて、この一文を解釈する上で、er、彼が、の彼が誰なのかについては、論理的には、次の5つの場合があり得ると思います。


(1) トビアス
(2) 旅の若者の姿に身をやつした天使(実際には天使とはひとことも言ってはいないのですが)
(3) 「若者が若者に」の若者のいづれか
(4) トビアスの父親
(5) 詩の作者であるリルケ自身


(1) から(3)の場合については、詩中に出てくる人ですから、説明はいいと思います。

(4)の場合があり得るのは、トビアスの父親がふたりの道行きを、neugierig、ノイギーリッヒ、興味津々と見やることが、このトビアスの神話的なエピソードの中に話の要素として入っている場合であり、且つこの詩の作者と読者が、それをともに知っていて、一種の常識として共有している場合です。

リルケの当時のドイツ語圏では、そのような常識が共有されていたのでしょうか。もし仮にそうだとしても、時代が新しくなってゆくと、そのようなエピソードを必要とする意識も変わり、そうすると、この詩のこの箇所は理解されなくなるのではないでしょうか。リルケが心血注いで書いた悲歌に、時代という時間によって左右されるような言葉を書くとは思えません。また、詩の中にも名前が出てこないということから、この可能性はないと思います。

(5)はどうでしょうか。わたしは、充分あり得るのではないかと思います。勿論リルケは、一意的にこれがわたしだというふうに姿を詩中に現しているわけではありません。しかし、明瞭に曖昧に姿をみせているのではないでしょうか。天使の姿になって、戸口に立って。

更に、しかし、何故リルケは、敢てそのようなことをしたのでしょうか。

上で考察したように、リルケがこのような名詞的な表現をするときには、必ず若さ、青春、性愛が関係していました。リルケは、青春というものを、その性愛、青春のエネルギーとともに、永遠に変わらぬものとして、一幅の絵、ひとつの静止画像のように、詩の中におきたかったのだと思います。このような場合は、他の詩でも、いつもこのような表現形式を好んで使ったのではないでしょうか。

「天使と死者を語る前に」(2009621日)で、リルケが、Fruehe、フリューエという言葉が好きで、悲歌の中で愛用、多用しているということを述べました。そこで述べたように、リルケは、人生の早い時期に、きっと子供時代に、そうして従ってそのまま、若者としてある青春時代に、自分自身では、それらの時期を喪失した人間だと考えていたのだと思います。悲歌1番最後の連では、「早い時期、人生の早い時期(Fruehe)、揺籃期を動かされ、遠ざけられた人間、奪われた人間たち」と、若くして死せる若者をよんでいます。それが若くして死んでしまった人間であるとは限らないことについては、そこで論じた通りです。

(リルケは、このFruehe、フリューエという、この自分で概念化した言葉が好きなために、Fruehling、フリューリング、春、-場合によってはまさに青春-という言葉も好きで、それで悲歌の中によく出てくるのです。春は確かに早くくるものの原義です。従い、悲歌5番第6連にあるような、春夏秋冬を列挙するためだけには、Fruehling、フリューリングは使わずに、Lenz、レンツという春の別名を敢て使っているほどなのです。)

わたしは、この、Juengling dem Juengling、若者は若者に、という言葉の並列に、リルケの、自分自身にとってはあらかじめ喪われた、若さへの強い憧憬の念、強いあこがれを覚えます。そうして、その若さというものの姿、危険な旅路にこれからつこうという二人の姿を、その旅路の安寧を祈るとともに、そのような気持ちから、動詞を捨象して時間を排し、若さの姿を活き活きとそのまま動くことなく、永遠に言葉で表現したかったのだと思います。そのために、ここでは、説明的な括弧を使っているのです。

さて、そうであればこそ、neugierig、ノイギーリッヒ、興味津々という副詞の意味が明らかになるのではないでしょうか。トビアスは興味津々と外を見やるでしょうか。天使は興味津々と外を見やるでしょうか。誰が、一番ふさわしく、興味津々と、好奇心をもってみるのでしょうか。上述のことから、興味津々の思いで見るのは、実は、リルケ自身ではないでしょうか。そうして、また、天使が恐ろしい存在であると知っていることからなお、neugierig、ノイギーリッヒ、興味津々と、その旅の行方はいかならむ、と。

そうであればこそ、er、彼が、の彼が、トビアスであろうと天使であろうと、若者たちのいづれかであろうと(このふたりのうちのひとりは天使)、いづれでもよいのではないでしょうか。わかものふたりの像が典型としていつまでも、そのひとたちの前に、戸口に立って外を見やると、時間を越えて、あるならば。

1 件のコメント:

LadyArt さんのコメント...

Liebe Miu,
jetzt verstehe ich nur noch Japanisch - also gar nichts - aber ich spüre etwas, durch die wenigen "deutschen Säze" merke ich, dass es sich hier wohl um einen klassischen japanischen Text dreht, ein langes Epos...

...wie schade, dass uns das Verstehen von Sprachen nicht einfach gegeben ist, wie das Atmen und die Fähigkeit zu lächeln...

Deine Gabriele