XXII
Wir sind die Treibenden.
Aber den Schritt der Zeit,
nehmt ihn als Kleinigkeit
im immer Bleibenden.
Alles das Eilende
wird schon vorüber sein;
denn das Verweilende
erst weiht uns ein.
Knaben, o werft den Mut
nicht in die Schnelligkeit,
nicht in den Flugversuch.
Alles ist ausgeruht:
Dunkel und Helligkeit,
Blume und Buch.
今度は、前のソネットとは打って変わって、言ってみれば、大人の世界。リルケの連想は反転する。
【散文訳】
わたしたちは、何かを追い立てる者、急(せ)き立てる者だ。
しかし、時間の前進を、小さい取るに足らぬこととして
いつも留まっているものの中で捉えなさい。
すべて急ぐものは、必ず既に過ぎ去ったものとなる。
何故ならば、留まるものは、まづ最初にわたしたちを
祓い清め、神聖にするからだ。
少年たちよ、ああ、勇気を
速度の中に、空を飛ぶ試みの中に
投げ入れてはならない
すべては、休息しているのだ。すなわち、
闇と明るさ
華と本
【解釈】
悲歌5番の冒頭の第1行に見るような、何々するものという言い方をして、わたしたちを定義した、これが冒頭の第1行。
近代文明は、リルケの嘆いた方向へとますます進展してきた。交通機関も発達し、わたしたちは超音速の飛行機を飛ばしてしまって、世の中はますます忙しくなり、急きたてられて、また急きたてている人間たちよ。
しかし、宇宙は、もともと、そのバランス、均衡を考えれば、休息しているものなのだ。
闇と明るさ
といったように対照的に。
華と本
といったように、ネスト構造、入籠(いれこ)構造で、安定して。
華の最たるものを、リルケは薔薇の花に見ていたことは、既に悲歌でも見た通りです。その薔薇がどのような構造を象徴しているとリルケは見たか、それは、リルケの空間論で論じたところでした。興味ある方は、次のURLアドレスへ。ご覧いただけるとうれしく思います。
http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html
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