I
ATMEN, du unsichtbares Gedicht!
Immerfort um das eigne
Sein rein eingetauschter Weltraum. Gegengewicht,
in dem ich mich rhythmisch ereigne.
Einzige Welle, deren
allmähliches Meer ich bin;
sparsamstes du von allen möglichen Meeren, —
Raumgewinn.
Wieviele von diesen Stellen der Räume waren schon
innen in mir. Manche Winde
sind wie mein Sohn.
Erkennst du mich, Luft, du, voll noch einst meiniger Orte?
Du, einmal glatte Rinde,
Rundung und Blatt meiner Worte.
【散文訳】
呼吸をせよ、お前、見えない詩よ。
いつも持続的に、独自のものを求めて、それと交換して息をするのだ。
その純粋な交換された世界空間。私が、韻律を以ってその中で生起する、
カウンターバランス。
唯一の波、その次第に波する海が、私である、そのような波。
お前は、あらゆる可能な海という海から、空間を獲得するために節約をし、空間を獲得したのだ。
数ある空間のこれらの場所のどれだけ多くの場所が、既に、私の内部にあった(存在した)ことか。幾多の風は、わが息子のように、ある(存在している)。
お前は、私を認識するのか、お前、空気よ、まだ嘗(かつ)ての、私の数ある場所で一杯の私を。お前、嘗てはすべらかだった、私の言葉の樹皮よ、私の言葉の円み、円熟と木の葉よ。
【解釈】
最初の一行に続く、2行目と3行目のつながりが、多分原文のテキストがそうなっているのだろうと思うけれども、少しドイツ語の正書法としておかしい。2行目の最後に文の終結を意味する点、句点がついていない。それから、正書法でゆくと「das Eigne」とEが大文字になると思われるのに、それがそうなっていない。
しかし、そうなっていると考えて、上のように訳しました。
呼吸をすることをリルケは、ここで歌ったように考えている。呼吸することは、何かとの交換であり、そのものが交換されて、呼吸するものの内部に入ってくるという考えです。この場合、その何かとは、ひとつの空間です。その空間が、私の内部に空間として存在する。リルケは、この空間の中で、リズミカルに、韻律を以って、詩を書き、歌うのだといっています。この空間は、カウンターバランスだと言っていますので、交換されて外へ出た、それまで内にあったものとバランスしているのだという考えです。交換されて外へ出るものは、呼吸の気、呼気なのだと思います。
悲歌8番の第3連に次の言葉があります。
Hier ist alles Abstand,
und dort wars Atem.
ここでは、すべてが距離だ、
そして、あそこには呼吸があった。
(あるいは、あそこでは、すべてが呼吸だった。)
この言葉から理解すると、呼吸とは親密な関係をつくっている行為だということがわかります。隣あっているものほど遠いということは、リルケが、悲歌とソネットのあちこちで歌っている通りですが、呼吸によって外のものと中のものを交換して、そとから独自のもの、独自の空間を内部に呼吸して入れるということは、距離をなくし、本質的に親密な関係を得ることなのです。
そばにいるひとと呼吸を交換すると親しくなる、距離がなくなるのに、わたしたちはそれをしていないのでしょうか。隣のひと、最もそばにいる人と呼吸を通じて何かを交換するというイメージは、こうして理解してみると、随分と生々しく、そのひとの呼気までも感じるように思います。これは、リルケの現実感覚なのでしょう。あるいは、現実感覚を得る考え方なのでしょう。これが恋人通しであれば、どうでしょうか。恋人同士は、お互いに呼吸を交換して親密になり、真の意思疎通をしているのでしょうか。悲歌では、それでも足りないと詩人は言っていましたが。これは、また別に稿を改めて論じなければなりません。悲歌を論じた最後に言いましたように、これは悲歌の登場人物関係論になるからです(「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009年8月15日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)。しかし、そのためのヒントを、わたしたちは、ここで掴んだようです。
また、同じ悲歌7番第8連に、呼吸ということから、次の言葉があります。ここにも、ソネットの第1部に何度も出てきた、ruehmen、リューメン、褒め称えるという言葉が使われています。詩人の仕事は、事物を、物事を荘厳することなのだとリルケは考えていたのだと思います。この言葉をここまでも熱心に概念化すると、日本語でいう荘厳するという概念と変わらないのではないかと思います。今までのソネットで褒め称えるとか、讃嘆すると訳してきた箇所も、荘厳すると訳し変えてもよいかも知れません。
mein Atem
reicht für die Rühmung nicht aus. So haben wir dem noch
nicht die Räume versäumt, diese gewährenden, diese
unseren Räume.
【散文訳】
わたしの呼吸は、褒め称えるためには、充分ではない。だからといって、わたしたちは、
呼吸に対して、まだ空間を疎かにしているわけではない。これらの与え、授ける空間を、これらの私達の数々の空間を。
この箇所は、前の連を受けて、天使に対して、人間の文明の偉業を述べて、人間の偉大を天使に肯(うべな)うように、求めるところなのですが、ここで、やはり呼吸が出てくるのです。そのような文明の偉業を、数々の高い列柱、スフィンクスといった人類の偉業を褒め称えるには、まだ内部の空間が足りないといっているのだということが、これでわかります。
上の引用のあとには、シャルトルの大聖堂だとか音楽のことが歌われていて、これらが私達を(わたしたちの境界を)踏み越えて行くと歌われているのは、ソネットと同じ主題、主調が、ここに流れているからでしょう。上で連想したように、呼吸を通じて中に入ってくる空間(空間の交換)と身近な呼吸ということから、愛する女性のことが、その次に、歌われています。これも興味深いことですが、後日の登場人物関係論に場所を譲りましょう。
さて、交換された世界空間を我が身のうちに収めて、オルフェウスは、その中でリズミカルに歌を歌い、竪琴を弾き、音楽を奏でる。第2連を読むと、リズムということ、韻律ということから、オルフェウスは、自らを海の波、それも唯一の波に譬えています。お前と呼びかけられているのは、第1連と同じ、目に見えない詩です。詩が生きていて、いや悲歌で見たように、正確に言えば、詩という空間が生きていて、やはりこうなると詩も呼吸をするのでしょう、可能な、あり得るすべての海という海から、節約をして空間を獲得するといっています。
第3連で、「数ある空間のこれらの場所のどれだけ多くの場所」とオルフェウスは歌っていますが、空間も、場所も、リルケの類義語です。このリルケの表現が奇妙だと思われる方がいるかも知れませんが、これがリルケの世界です。リルケの空間論の一般論については、「リルケの空間論(一般論)」(2009年7月18日:http://shibunraku.blogspot.com/2009/07/blog-post_3081.html)で論じましたので、興味のある方は、ご覧戴けると、うれしく存じます。
何か、リルケは、この第2部の最初のソネットでは、自分の詩論の元へともう一度立ち戻ったような感じがあります。
風は、空気、空間、呼吸の類義語ですから、これもリルケの世界にはなじみの言葉です。風はわが息子のようだと歌っている。息子のようにいとおしみ、息子は成長するからなのでしょう。空間との関係もまた同様なのだと考えることができます。
最後の連は、空気に呼びかけていますが、これは、前の連の風からの連想です。あるいは、この空気を、第1連の、見えない詩の言い換えと理解することもできます。この最後の連の第1行の解釈には、論理的には、次のふたつがあります。
1.「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」を、「私を」に掛ける解釈
2.「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」を、「空気」に掛ける解釈
このふたつです。
しかし形式ではなく、その意味を考えると、前者の解釈になると思います。「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」私を、お前、空気は、認識しているか?という解釈です。
リルケは、珍しいことに、ここで認識という言葉を使っています。悲歌では2度、最初は悲歌3番第1連第3行に、次に悲歌7番第5連最後の行に。
空気は、かつては滑らかな樹皮だった。何だか宮沢賢治の春と修羅の序文の詩を連想します。リルケも同じ感覚を持っているのでしょう。他のところでも、この感覚を、リルケは歌っています。しかし、上で空間との関係で見てきたように、リルケはリルケの感じ方と考え方があって、このように書くには独自の首尾一貫性があります。空気、すなわち空間は、かつてはすべらかな、オルフェウスの言葉の樹皮であり、その円みであり(これに円熟という意味もリルケは掛けているとも思います)、またその葉っぱである。
樹皮も、円みも、葉っぱも、いづれも「わたしの言葉の」が掛かっていると解釈することができるので、そう解釈すると、この「わたしの言葉の」ということから、言葉で歌を歌いながら変身を続けるオルフェウスのこころが伝わって来るようです。
これは、リルケの詩心でもあるのでしょう。リルケにとっては、言葉もまた空間であるからです。もっと正確に言えば、リルケにとっては、言葉の概念もまた空間であるからです。