2009年10月31日土曜日

オルフェウスへのソネット(VIII)

VIII

NUR im Raum der Rühmung darf die Klage
gehn, die Nymphe des geweinten Quells,
wachend über unserm Niederschlage,
daß er klar sei an demselben Fels,

der die Tore trägt und die Altäre. —
Sieh, um ihre stillen Schultern früht
das Gefühl, daß sie die jüngste wäre
unter den Geschwistern im Gemüt.

Jubel weiß, und Sehnsucht ist geständig,
nur die Klage lernt noch; mädchenhändig
zählt sie nächtelang das alte Schlimme.

Aber plötzlich, schräg und ungeübt,
hält sie doch ein Sternbild unsrer Stimme
in den Himmel, den ihr Hauch nicht trübt.

前回読んだソネットVIIでよくわからなかった、

腐敗の王たちの墓穴の中では、賞賛することが嘘であるといって

オルフェウスを責め、罰することはないし、また

神々から一つの影が落ちて来るからという理由で、

オルフェウスを罰することはないのだ。

という連の、腐敗の王の墓穴でなぜオルフェウスは責められないのかというところですが、ソネットVIIを読むと、オルフェウスは、賞賛する者として歌われていて、その象徴として成熟した果実を鉢に抱いている姿として歌われています。

生きているもの、生命あるものは、この世では腐敗しますから、そのような王たちのところに行って、そうして死者でもある(生命のない)王たちのところへ行って、豊かな果物を持ち、その素晴らしさを歌っても、オルフェウスの場合には、決して、そんなことを歌っていても、いづれは生あるものは腐敗するだといって呵責されないといっているのだと思います。このように読みたいと思います。それが、オルフェウスの竪琴と歌声のなす音楽の力、聴力に訴える力なのでしょう。

またこうして考えてみますと、同様によくわからなかった、最後の連、

オルフェウスは、死者たちの戸口の中に、

もっとずっと中に入っていって、賞賛に値する果実を盛った鉢を

手に持っている、留まる使者のひとりなのである。

という連も、成熟した果実とは反対の世界にいる死者たちの中に、上に述べた腐敗の王たちの中でも非難されないということと同じ理由で、臆することなく入っていけるオルフェウスの姿を歌ったものと解釈することができると思います。もっとも、死者たちという言葉は、リルケの場合には注意が必要で、生の反対の存在とはいえ、オルフェウスのように「留まる使者」には、極近しい存在だということは留意しておく必要があると思います。

さて、ソネットVIIIに参りましょう。このソネットVIIIでも、さらに、引き続き、前のソネットの賞賛という主調を受けて、賞賛の空間という言葉から始まります。

【散文訳】

賞賛することという空間の中でのみ、悲嘆は行くことが

ゆるされる。悲嘆とは、涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフであり、

わたしたちの落下が、門を担い、祭壇を担っている同じ岩のところで、

清澄であると思って(清澄であることを)見張っているのだ。

見てごらん、ニンフの静かな両肩の周りには、こころの中に住む姉妹のなかでは

自分が一番年下で若いと思っている感情が、早々と萌(きざ)している。

歓喜は知っているし、憧憬は告白するが、しかし、悲嘆だけがまだ学ぶのだ。

悲嘆は、夜通し、古い、昔の悪いものを、娘の手で数えている。

しかし、突然、斜めに(まっすぐではなく)、そして未熟に(手際よくなく)、

悲嘆は、その息が曇らせることのない天の中へと、わたしたちの声の星座を掲げて保つのだ。

【解釈】

まづ、賞賛すること、ということを空間だとするリルケは、いつものリルケです。この詩人にとって、言葉の意味とは、ひとつの空間に他ならないのです。悲歌の世界を読み、慣れると、この出だしは、すんなりと入ってきて、驚くことはありません。

そうして、リルケが空間といったならば、既に今までソネットIIIとソネットIVで見てきたように、Hauch、ハオホ、息と関係があるのでした。そのように、まさしく、このソネットのさいごの一行に、Hauch、ハオホ、息が出てきます。

さて、最初の連で、悲嘆が出てきます。この悲嘆は、「涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフ」と言い換えられています。これは、泉、源泉があって、それが泣かれるという言い方なのですが、泉が泣かれるとは、誰かが泣いた涙が泉の水となって、そこから流れ出るような、そのような泉、源泉という意味です。その泉の精が、悲嘆と呼ばれているのです。そのような泉であり、泉の精であれば、そのニンフの名前は、悲嘆の名にふさわしいということになるでしょう。

そうして、このニンフは、「わたしたちの落下」を見張っているのです。わたしたちは、泉から、泣かれた水として激しく落下する水の流れなのです。(Niederschlagという言葉の意味からして、わたしたちは望んで落ちているのではありません。)そうして、泉の精は何を見張っているかというと、わたしたちの落下が、同じ岩のところで、清澄であること、清らかであることを見張っているというのです。時間の中で流れるわたしたちの生の一瞬一瞬がklar、クラール、清らかであることを見張っているのです。

岩が不易を意味することは、既に悲歌2番の最後の連で、言葉は別ですが同じ岩(Gestein、ゲシュタイン)として歌われ、流行であるStrom、シュトローム、流れと対比させて歌われていたことを思い出しましょう。詩人という人間は、必ず概念化をしますので、仮に時間の中でバラバラに詩を書いているように見えていても、言葉を立体的に使って作品を構築するものですから、詩人は無意識にでも、そうする者なのですが、リルケの場合は、明らかに意識的にそうしています。しかも、悲歌とソネットは同じ時期を重ねて詩作されている。

また、klar、クラール、清らかなという形容詞は、ソネットIの動物たちの棲む森の形容詞でもありましたし、ソネットIIで、乙女の姿を形容する副詞として出てきたことを思い出しましょう。これは、rein、ライン、純粋なという言葉と相当程度意味の重なる言葉として出てきているように思います。Rein、ライン、純粋なという言葉も、リルケ好みの言葉でした。

さて、そうして、その、流れの清澄度を測る定点である動かぬ岩は、門(複数)と祭壇を担っていると歌われています。前者の門、ドイツ語では、Tor、トア(英語のドアです)といいますが、これを見て反射的にわたしが連想するのは、町の門です。ドイツの町は城壁に囲まれていて、中世の姿をしていますが、東西南北に門、城門がある。後者の祭壇は、寺院を連想させます。このように考えると、これらふたつの言葉は、世俗の社会と、神聖な世界のふたつを指し、いづれをも、この不易の岩が担っていると解釈することができます。さて、次の、

見てごらん、ニンフの静かな両肩の周りには、こころの中に住む姉妹のなかでは

自分が一番年下で若いと思っている感情が、早々と萌(きざ)している。

というこの行は、何を歌っているのでしょうか。

これは、次の連との比較で読むと、歳が若くて、年下で、何もものごとを知らないという嘆きの(悲嘆の)感情だということがわかります。この泉の精は、そう思って、嘆いているわけです。

しかし、話者は、ただこの泉の精を嘆かせているだけではありません。Fruehen、早くに萌すという動詞を使って、その本質的な重要性を表わしています。Frueh、フリュー、早くにという言葉は、リルケ好みの言葉であって、宇宙の創世の初期、ものごとの叢生の初期、人間の子供のころという初期を、初期という初期をリルケがどんなに大切に思っていたかは、悲歌を通して歌われていた通りです。実は、fruehen、フリューエン、早く萌すという動詞は、ドイツ語にはなく、これはリルケの造語です。

ですから、このまだ未熟だという泉の精の感情、こころは、決して消極的なものではなく、深い意味のあることなのです。こう考えてみると、リルケが、「ニンフの静かな両肩の周りには」と歌ったところで、still、シュティル、静かなという形容詞にも、この語を選んだ必然的な理由が伺われます。沈黙は、今まで読んだソネットの中でも、何か大切なものが生まれてくる場所でしたし、前のソネットVIIでも、石の沈黙から、賞賛者としてのオルフェウスは生まれて来るのでした。ですから、このように、賞賛の空間では、沈黙に類する言葉が出てくるのでしょう。

しかし、何故、肩なのでしょうか。これは、前の行に、岩が門と祭壇を担うとあるからでしょう。泉の精は、まだその足りなさゆえに、門と祭壇を担うようにはできないのです。あるいは、それの相当する、泉の精としての仕事を担うことができないのです。

さて、次の第3連では、泉の精、すなわち悲嘆は、姉妹のなかで一番未熟な年少者ゆえに、まだ学ぶものとして歌われています。これは、この詩行の通りの理解でよいのではないかと思います。ただ、悲嘆といい(同じ悲嘆という擬人化された名前は、悲歌10番にもでてきます)、歓喜と憧憬といい、リルケは、よくこのような擬人法を使用します。しかし、わたしは、これは単なる修辞的な擬人法ではないと思っています。これは、もっと中世的な、言葉に対する考えと姿勢から生まれてくるものではないかと思っています。このことと、リルケが空間ということとは密接な関係があると思います。それは、ひとことでいうと、自分の言葉の体系を極めつくした者だけが辿り着く、概念化の極地だということです。

悲歌に限らず、リルケが何故天使に惹かれ、天使の歌を多く歌っているのかは、興味のあるところです。

さて、最後の連ですが、「斜めに(まっすぐではなく)、そして未熟に(手際よくなく)」というのは、この泉の精が、まだ一番若く、そういう意味では未熟だということを表わしているのだと思います。慣れていないのです。しかし、オルフェウスの賞賛の空間では、このような振る舞いも、このソネットの冒頭にあるように、ゆるされてあるのです。

そのようにあるものであれば、泉の精の吐く息は、それが息、空気、空間であることから言って既に、天を曇らせることはないことでしょうし、そのような天の中へと、「わたしたちの声の星座を掲げて保つ」ことができるのでしょう。

また、「突然に」とは、ploetzlich、プレッツリッヒとは、悲歌の中でも特別な意味を持つ副詞でした。このリルケ好みの言葉については、悲歌の「天使論」200974)で、空間との関係で論じましたので、それをご覧ください。ここでも、ploetzlich、プレッツリッヒ、突然に、このような一種の奇跡は、時間とは無関係に現れるのです。

わたしたちがオルフェウスに歌を教わるのか、またはオルフェウスの歌声を聞いて何かを悟るのかは、それぞれの場合があるでしょうが、いづれにせよ、そうやって発声せられた「わたしたちの声」が、天の星座となるほどの力を、この泉の精のあり方は、持っていると詩人は歌っているのだと思います。これは、オルフェウスに匹敵する、オルフェウスの力に均衡する力です。(こう考えてくると、「悲嘆は、夜通し、古い、昔の悪いものを、娘の手で数えている。」とは、この泉の精が、未熟で苦労をしている刻苦勉励の姿だと理解することができます。)

こうしてみると、悲歌10番の悲嘆も、このような理解の仕方から、もう一度読むことは、意味のあることではないかと思います。何故、悲嘆の一族であり、それはかつては栄耀栄華を極めたが、没落しているのかという問いに答えてみるということになります。この問いに答えることで、悲歌10番の意味も、わかるかも知れません。

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