三島由紀夫の十代の詩を読み解く24:詩論としての『絹と明察』(7):余話:何故日本の経営者には風雅(みやび)が無いのか?
1。何故日本人の経営者には風雅が欠かけてゐるか
三島由紀夫が『絹と明察』の第1章を「駒沢善次郎の風雅」題し、その最初に此の創業者である事業者の風雅を書いて小説を始めるのは理由のあることでありませう。
これは、1964年、三島由紀夫39歳のときに、この作家は、その問題を見抜いてゐたといふことを示してゐます。即ち、最初から、先の敗戦の後に日本にはゐない経営者を、知つてゐて、主人公に仕立てたといふことになります。
勿論、日本の戦後の経済の興隆に従ひ、金にあかせて、個人の金ではなく、会社の金で美術品を購入する経営者はゐたでせう。しかし、わたしが此処で風雅といつてゐるのは、詩のこころがあるかどうかといふことなのです。これは、三島由紀夫が『文化防衛論』や『日本文学小史』て論じた詩のこころのことです。今この詳細には、後日を期して、立ち入りません。
しかし、日本の国にとつての第一の「断絃の時」、即ち明治の時代には、やはり創業型の事業家には、詩文のこころ、即ち風雅があつた。さうして、昭和の初期まで、それは続いてゐた。
益田鈍翁、松永耳庵、原三渓の名を挙げれば、説明は無用でありませう。松永安左衛門は、1971年、昭和46年に没してをりますから、この時までは、日本の経営者にも風雅が生きてゐたといふことができます。
電力の鬼と呼ばれた此の茶人が、三島由紀夫の自決の年の一年後に没してゐるといふことは、やはり歴史が、わたしたち日本人に、否応なく、語りかけて来るものがあります。
さて、現実の世界のことは、さうだとして、虚構の世界では、通俗的に見える駒沢善次郎の風雅と、それに批判的な岡野の好む詩のこころとは、一体どれだけの隔たりがあるでせうか。
日本人の散文詩、即ち1917年(大正6年)32歳で、第一詩集『月に吠える』を自費出版して萩原朔太郎の打ち立てた口語自由詩の世界の詩人たちを知つてをり、また社会の中で、実業の世界で、創業者である複数の経営者たちを間近に見たわたしの眼には、この二人の相反は、全く敗戦後の第二の「断絃の時」から21世紀の今に至るまでも尚、日本の国での、風雅と商業的な人間との相反そのものであると思はれます。
しかし、わたしの経験によれば、イギリスやドイツでは、さうでは全くない。人間の商業的経済的な活動の根底に風雅が生きてをります。イギリスとドイツがさうであれば、フランスもまた、さうではないかと思はれる。ヨーロッパの主要な3国であるイギリスとドイツとフランスがさうであれば、その他のヨーロッパの諸国もさうではないかと思はれる。
何故ならば、これらの諸国のそれぞれの歴史は連綿と続いてゐて、絶えることなく、首尾一貫してゐるからです。
何故ならば、これらの諸国のそれぞれの歴史は連綿と続いてゐて、絶えることなく、首尾一貫してゐるからです。
わたしが高級車を製造するドイツの有名な製造会社の日本の子会社に職を奉じてゐたときの話です。
2011年3月11日に、三陸沖を震源とした大地震と大津波が起こりました。さうして、4月の末から5月の初旬にかかる連続的な休日を前にして、その前日に、当時の社長職の、営業一筋のイギリス人の経営者は、一体どのやうな言葉を、社内のメーリング・システムを使つて、社員に送つたか。
イギリスの桂冠詩人、テニスンのUlyssisの詩を引用して、落胆し、苦しみながら毎日会社のために働く勤勉なる日本人たちへの慰労と感謝と、古代ギリシャの神話の世界の英雄、ユリシーズのやうに、航海の船が荒海で難破をして、戦友を喪い、船も壊れて、波打ち際に打ち上げられ、しかしそれでも尚、不撓不屈の精神を以つて立ち上がる、その神々しい英雄の姿を歌ふ自国イギリスの詩人の詩を以つて、さあ、日本人よ立ち上がれと呼びかけ、日本人と日本の国の再生復活を願ふ言葉としたのです。わたしは、感動しました。
そのメッセージは、最初に3月11日の大災害で被災した人たちへの運命と苦しみに対する心配の言葉で始まり、今回の悲劇から得た教訓は「人生は脆く、寿命を延ばすより、生きている間に如何に充実した時間を過ごすかに重点をおくべき」といふことであるといひ、バランスのとれた人生が大切であるから、会社として社員にお願ひしたいのは家族、友人と共にそしてご自身のために時間を費やしてもらひたいということ、休暇もそのように取り計らつたとふこと、さうして、この数週間、社員が果敢に困難に立ち向かつたことに今一度感謝の言葉を述べ、「日本および日本人の勇気と人間味あふれる国民性に触れることができ」、自分にとつては「精神的に高揚感を覚えることができた貴重な体験」(a spiritually uplifting experience to witness the courage and humanity evident in this nation and its people)となつたといふことを述べてから、今後は、社員と日本が示した勇敢な姿勢を励みに将来に目を向けて行かう、そのために、ここに19世紀イギリスの詩人アルフレッド・テニスンの詩を紹介しますと言つて、「疲弊し、傷ついた旅人たちとその精神を表わした「ユリシーズ」という詩の最後の部分」を引用するのです。
「今の我々にかつて天と地を行き来した力強さはない
時代と運命により弱くなれど
英雄的な心は今も等しく抱き、
意志は強い
戦い、求め、
決して屈服しない!」
“Though we be not now of that strength that in days of old Moved earth and heaven,
That which we are, we are:
One temper of heroic hearts, made weak by time and fate,
But strong in will:To strive, to seek to find
And not to yield”
さうして、この引用の後に続けて、このユリシーズの姿は毎日目にする今の日本国民の精神に大変近いと思ふと言ひ、この精神は、「今後も大切にして育むべきもので、残酷なまでの運命に直面した時に拠り所となる心構えです。」と言ひ、今回社員と経験を共にし、その精神に触れ、活気あふれる日本への復興に貢献できることは、私にとって誇りであり、栄誉に感じてゐると続けて、社員の休日が平穏で、くつろぎをもたらし、楽しい日々でありますようにと願ふ言葉で結んでをります。
今読んでも素晴らしい文章であり、言葉の力です。
また、このイギリス人の経営者の引用したテニスンの詩を読むと、詩人の能力とは、平時にあって難事を想像する能力、即ちこれがそのまま詩人の譬喩(ひゆ)の能力であると、これも改めて思わざるを得ません。
震災時の日本人のただ情緒的に反応するだけではない、さうではない理性のある人間の言葉であると思ひます。
大震災の後、今、この引用の詩を読むと誠に感慨深いものがあります。
これを思ひ見ますと、自国の民族の詩人の詩を引用するという行為に、詩の社会的な、重要な役割があると、改めて思います。
ヨーロッパでの詩人の地位は、勿論社会的に高い地位なのであり、尊敬されるべき藝術の仕事の一つなのです。
日本の詩人の書く詩が、社会にそのように大切に遇せられてゐるだろうか?さうでないとしたら、それは何故であらうか?
今回の大震災で、多くの日本の詩人が発言もし、詩も発表したやうですが、国が危機のとき、ひとが、個人が、難事に直面したときに、果たして引用に足る詩を書いたのかどうかといふことは、このやうに考えて来ると、それは、日本人の書く詩に対する、ひとつの試金石、ひとつの評価尺度になると、わたしは思ひます。
かうしてみると、日本の詩のありかたも、経済社会のありかたも、お互ひに非常に偏つてゐるやうに思はれる。
2。仕事の中の詩
ドイツ人の社会に接してみて驚くのは、このゲルマン民族のビジネスマン、ビジネスウーマンたちは、自分の職業人としての節目節目に自国の詩人の詩を引用して関係各位に挨拶をするということです。勿論、100人が100人ではないにせよ。
これは、礼儀でもあり、習慣でもあり、社会に生きて教養のある人間の文化なのでせう。さう思ふ以外にはありません。
三島由紀夫が『文化防衛論』で、日本人の教養を論じてゐたことを思ひ出さずにはゐられない。その評言は、日本の敗戦後の軽佻浮薄の欠陥を正確に言ひ当ててゐます。
わたしの経験では、ドイツ人のみならず、一度も面識のない、しかし日常メールで仕事の上でやりとりをしてゐたインド人も同じように詩を引用して、自分の人生と自分の其の時のこころの在り方の文脈にあつた詩を選び、世界中の同僚に発信をして、その職場を離れていつたことを思ひ出します。
ドイツ人の同僚が、職場を離れて配属の変わるときに、2008年2月29日18:45にドイツからメールで寄越した送別の詩をごらんください。仕事の中の詩、ビジネスの中に生きてゐる詩といふことができませう。
当時のわたしのメモ書きを引用します。それは、
「この年の1月にドイツのワークショップであつた女性から、招待状といふ件名のメールがドイツ語で届いたので、見てみると、配属が3月1日付けで変はり、新しい職場は北ドイツのブレーメンで、これまでの国際的な部門から国内部門に転属するといふことで、その心境を、ドイツ語の詩をひとつそのまま引用して、文章の締めくくりとしていたメールであつた。
日本語の世界を顧みて、こんな事件が起こることは、決してあるまいと思つた次第。しかし、かう書いてみて、俳句や川柳ならば、十分あり得るとも思つた。それは、わたしの、この詩に対する返歌ともいうべき反応にも、かうして今思ふと、現はてゐる。原語を掲げ、訳してみる。
Die Ameisen
In Hamburg lebten zwei Ameisen,
Die wollten nach Australien reisen.
Bei Altona auf der Chaussee
Da taten ihnen die Beine weh,
Und da verzichteten sie weise
Denn auf den letzten Teil der Reise.
So will man oft und kann doch nicht
Und leistet dann recht gern Verzicht.
( 1912, Joachim Ringelnatz)
二匹の蟻
二匹の蟻がハンブルグに住んでゐた。
オーストラリアに行つてみようと思つた。
街道を行くと、アルトーナのあたりで
脚が痛くなつたので、賢明なことに、
そこで旅の最後の旅程を諦めた。
このやうに、同様に、よく、さうしたいと思つても、
しかし、どつこい、さうはできないで、やつとこどつこい、
諦めを成就するといふのが、ひとの常。
ハンブルグといふのは、ハンザ同盟の大きな有名な港で、そこからオーストラリアへ行くには、ドイツからみると一番チャンスの多い、最高の土地であるのに、世間知らずの小さな蟻2匹は、(この2匹という言い方にも、既に意味が有ると思う。つまり、仲の良い友達、内輪の世間知らずの関係と行ったような意味が)、内国の街道を渡って、多分このアルトーナとは、内陸にある町なのだろう、それも有名ではない。これは、ドイツ人が読んだら、多分吹き出すのではないかと思はれる、道中の描写なのだ。街道と、わたしは訳したが、Chauseeといふのは、整備され、両側に高い木々の聳え立つ、国家が手を入れた立派な道路。Chauseeとは、ドイツ語ではなく、フランス語。きっと、フランス人に倣つてつくつた交通網なのだらう。
自分が北ドイツのハンブルグ方面にゆき、ブレーメンに行き着いた、ハンブルグに行きたいと思つて出発したのに、途中で頓挫して、ここが新しい仕事場だといふときに感じた、今の自分の気持ちを、この詩に託して、世界中の同僚に発信したのだらう。つまり、ハンブルグといふ素晴らしい国際的な職場に自分はゐたのに、内国の職場に転じてみて、初めて、その良さがわかつたといふ、そのやうな気持ちも託してゐるに違ひない。」
わたしは、この詩のお返しに、松尾芭蕉の『奥の細道』の有名な最初の句、行く春や鳥啼き魚の目は泪、この一句を少し解説し、日本語のままの詩とともに、ドイツ語に訳して、お返しとした。
こういう餞(はなむけ)の言葉は、詩ではなく、俳句だということが、面白く思はれる。
日本の詩人達は、商売の世界に詩があるということを、真剣に考へたこと、想像したことがあるだらうか。
もちろん、このやうな詩を掲げる女性と、その会社のドイツ人達の文学的な教養の高さといふものは、間違ひなくあるにしても。
3。ドイツの日常生活にある詩
以下、ドイツで直かに見聞した詩の話を致します。これも、興味深い。詩文が日常に生きるには、如何に歴史と伝統の継続が、三島由紀夫ならば「再帰性、全体性、自主性」が不可欠であり、大切かといふことを教へてくれる、国立市の図書館の月報に掲載された私の体験記です。
「ドイツとのご縁は、わたくしが学生のときに第2外国語にドイツ語を選んだときから始まります。もう35年も前の話になります。それ以来仕事の都合でドイツへ行くこともあり、あちこちの町を訪ねることもあつて、さういつた町のひとつハイデルベルクは何度も訪れました。そのそばを流れるネッカー河とともに、さうしてまたその美しい中世の町でドイツ人の友、ハインツの知遇を得たことからも、既にわたくしの人生の一部となつてゐます。
さて、ドイツを旅したときの見聞もまじえて書いてみます。わたしがこの3年程公民館主催の詩のワークショップに参加して、詩について考へてきましたので、シュツットガルトという町を旅したときの詩のお話をひとつ当時のメモのまま引用してみたいと思ひます。それは、今は昔、二〇〇七年十月二十七日のこと。
シュツットガルトの旧市街Alte Kanzelei(アルテ・カンツェライ)というレストランにて食事をする。ドイツ人二人に、同行の日本人の女性、計4名。食事をしてゐると、3人の若者がやってきた。いづれも大きな、ツバの広い黒い帽子をかむり、後ろの尻の辺りに、肩から下げたずた袋とでもいふやうな袋を2つ3つぶらさげてゐる。
ひとりはベルリンから、ふたりはハンブルクから、三人目はどこの町であつたか、いづれも修業中の大工の徒弟である。中世以来の慣はしではあるが、後でこの話をハインツにしたら、これは全く今では珍しい、稀なことといふことであつたから、いい経験をしたものだと思ふ。
ベルリンから来た若者が、突如として声をあげ、客に向かつて、道中の懐が寂しくなつたので、喜捨を御願いしたいといふ。これは、ドイツ語でabgebrannt(アプ・ゲブラント)といふのを耳にした。これは、すつからかんの一文無しになつたといふ意味。
すばらしかつたことは、この若者は右手に杖を持ち、口上のリズムに合はせて、床を突いて音をたて、喜捨を乞ふ言葉が、そのまま一篇の即興の詩になつていたといふことだ。あるいは、即興ではなく、伝統的な様式であつたのかも知れない。
客のテーブルを回つて喜捨をうけ、私達のテーブルに来たので、同行のドイツ人とのやりとりを聞いてゐると、3年と1日の修業期間で、その間自分の故郷の町の15キロメートル四方から、いわばところ払ひで、入ることができない掟なのださうだ。3人は偶然に、旅の途次、この町であつたのださうである。
ドイツの中世の風情を彷彿とさせる、ここにも詩が生きている一幕であつた。
と、わたしは書いてゐますが、このやうな場合だけではなく、普通に地下鉄に乗つてゐても、その車両に、丁度広告を張るような窓の上のところに、ドイツ人の詩人の詩が掲示されてゐるのです。ハインリッヒ・ハイネやヘルマン・ヘッセの詩が掲示されてゐます。詩が日常生活にある。
日本語の詩もそのやうでありたいと思ひます。
さて、ハイネの詩集に「歌の本」という詩集があります。これは、わたしたちに知られたローレライといふ詩の収められた素晴らしい詩集です。ご興味のある方は、岩波文庫にありますので、お読みいただけたらと思ひます。
書店から、ドイツ文学の棚が消滅していく昨今、少しでもドイツの詩に接してくださる方がいればと思つてゐます。」
ハイネは、十代の三島由紀夫がドイツ語で引き写したほどに好きな詩人でした。
また、この三島由紀夫十代詩論で、論ずることになりませう。
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